この記事を読む前に、こちらの記事をまず参照されたし。
以前から、イザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」を、批判する時に必ず持ち出されるのが、浅見定雄氏の「にせユダヤ人と日本人 (朝日文庫)」↓でした。
にせユダヤ人と日本人 (1983年) (1983/12) 浅見 定雄 商品詳細を見る |
私はあいにく未読であるので、浅見氏の主張が正しいかどうか今まで判断することは出来ませんでした。
ただ、アンチ山本七平から必ずと言っていいほどこの本を突きつけられたので、「へぇ~、ベンダサンの主張にも間違いがあったのか。でも、自分は、彼の日本人論の部分を評価しているだけだから、たとえ彼がユダヤ人の規定解釈で間違っていたとしても、それで以って彼の主張を否定しようとは思わないな」…程度に考えておりました。
ところで、この本から必ずといっていいほど引き合いに出される批判が、イエス・キリストが活躍していた時代のユダヤにあったサンヘドリン(国会兼最高裁判所のようなもの)の規定「全員一致の議決(もしくは判決)は無効とする」とのベンダサンの記述なんですね。
最近よくコメントを入れてくれるApeman氏もご自分のブログ「Apes! Not Monkeys! 本館」上で、ベンダサンのサンヘドリンの規定解釈が間違っていると批判しています。
(詳細は、本人のブログ↓の下記リンクを参照されたし。)
・コピペされ続ける間違い
このApeman氏の記事を見て、このサンヘドリンの規定を巡る解釈について、浅見氏の主張というものが初めてわかったので、今日はベンダサンと浅見氏の解釈を検証して見たいと思います。
まず、浅見氏の批判の対象となった、ベンダサンの記述部分を引用してみましょう。
(~前略)
サンヘドリンというのはイエス時代のユダヤの国会兼最高裁判所のようなもので、七十人で構成されていた。
当時の法律は、いわばモーセ以来の律法が厳として存在し、問題はその解釈と適用だったから、厳密な意味では立法権はないが、新解釈には「立法」といえる面もあった。
またこの解釈と判例に基づいて判決を下したのだから最高裁判所でもあった。
イエスに死刑の判決を下したのはこのサンヘドリンである。
この判決に(新約聖書の記述が歴史的事実なら)少々問題がある。
いや少々どころではない。実に大きな誤判をやっているのである。
というのは、サンヘドリンには明確な規定があった。
すなわち「全員一致の議決(もしくは判決)は無効とする」と。
とすると、新約聖書の記述では、イエスヘの死刑の判決は全員一致だったと記されているから、当然、無効である。
この場合どう処置するかには二説あって、一つは「全員一致」は偏見に基づくのだから免訴、もう一つは興奮によるのだから一昼夜おいてから再審すべし、としている。
だがイエスの場合、このいずれをも無視して刑が執行されている。
律法の番人を自任していたサンヘドリンにしてはいささか解せぬことだが、これは私の考えではおそらくキリスト教発生時の創作だろうと思う。
というのは当時のキリスト教徒はもちろんその殆どすべてがユダヤ人であったから、彼らは、イエスの処刑は違法だと言いたかったのであろう。
事実彼らはイエスをモーセ、エリヤ、ダビデの正当の後継者と信じ、救いの主と信じていたから、違法に処刑されたと考えるのが当然であったろう。
しかし、それが、時も所も異る日本に来ると、日本人キリスト教徒のように「一人の反対もなかったということは、いかに人間が完全に罪に染まっているかを如実に示している」といった見方にかわってしまう。
(後略~)
【引用元:「日本人とユダヤ人」/六 全員一致の審決は無効/P100~】
上記引用のベンダサンの主張を箇条書きにしてみると次のとおりになるかと。
・サンヘドリンには「全員一致の議決は無効」という規定があった。
・この規定に触れた場合の処置は、次の二通りと解釈されている。
(1)「全員一致」は偏見に基づくのだから「免訴」にする。
(2)「全員一致」は興奮による「誤判」である可能性が高いから、一昼夜おいてから「再審」する。
・イエスの処刑は、(新約聖書の記述が正しければ)この規定に違反する。
・しかし、新約聖書の記述は、イエスの処刑を違法だと主張したい後世の人間による創作だろう。
ここで一つ注意しておきたいのが、ベンダサンの主張は、イエス・キリストの処刑(すなわち死刑の判決)を「前提」に展開されていることです。
それを踏まえて、いよいよApeman氏のブログ記事から、彼と浅見氏の記述を引用していきましょう。
まず浅見氏は『日本人とユダヤ人』の当該箇所のネタ元が『イエス時代の日常生活』(ダニエル・ロプス、山本書店!)の「もしサンヘドリンが全員一致で有罪の宣告をしたときは、判決は『繰り越しとなった』」という箇所であると推定する。
そのうえで、タルムード第4章第1節に次のような規定があることを指摘している。
死刑罪でない裁判(直訳すれば「財産の裁判」)はその日のうちに完了してよい。
しかし死刑罪の裁判は、無罪の時にはその日のうちに完了してよいが、有罪のときにはその翌日に(する)。
(『にせユダヤ人と日本人』、69ページ)
このテキストを解釈してみましょう。
タルムード第4章第1節の前段の部分「死刑罪でない裁判(直訳すれば「財産の裁判」)はその日のうちに完了してよい。」ですが、これはつまり、
・財産の裁判なら、全員一致でも決議は「有効」とする。
という解釈をすることができるでしょう。要するに、仮に全員一致で「誤判」であっても、その「誤判」を無効にする必要はない、といったところでしょうか。
続いて、後段の部分「しかし死刑罪の裁判は、無罪の時にはその日のうちに完了してよいが、有罪のときにはその翌日に(する)。」の解釈ですが、これは、次のように解釈されると思います。すなわち、
死刑の裁判が全員一致で「有罪」であったなら、「翌日に裁判をやり直す」。
浅見氏の記述を見ると、どうやら彼の解釈も同じと見て間違いないと思います。
それではここで、ベンダサンの「日本人とユダヤ人」の記述に戻ってみましょう。
この場合どう処置するかには二説あって、一つは「全員一致」は偏見に基づくのだから免訴、もう一つは興奮によるのだから一昼夜おいてから再審すべし
ということは、ベンダサン説のうちの一つは、「翌日に決議をやり直す」という解釈そのものです。
つまり、サンヘドリンの規定が、翌日の再審を意味するとすれば、(ベンダサンの解釈は)なんら矛盾するものではない、ということになります。
さて、それでは浅見氏は一体「ベンダサン説のどこがいけない」と主張しているのでしょうか?
Apeman氏が引用した浅見氏の記述と思われる部分を引用して見ましょう。
死刑罪でない裁判では、全員が(被告の)有罪を主張しても無罪を主張してもよい。
しかし死刑罪の裁判では、無罪の主張は全員がしてもよいが、有罪の主張は全員でしてはならない。
(『にせユダヤ人と日本人』、71ページ)
上記の浅見氏の主張を、Apeman氏は次のように補足説明しています。
要するに死刑が科されない罪についての裁判は「全員一致」の判決でかまわないし、死刑罪の場合でも「無罪」判決は「全員一致」でかまわない。
死刑を宣告する場合にのみ「全員一致」の判決は回避されることになるが、それは「全員一致は無効だから」ではなく、(浅見氏の解説によれば)「被告人の生死にかかわる場合には必ずだれか弁護をする側に廻るよう義務づけるため」である。
このApeman氏の前段の解釈は、そのとおりだろうと私も思います。
問題になるとすれば、後段の解釈。
「全員一致は無効だから」ではなく、(浅見氏の解説によれば)「被告人の生死にかかわる場合には必ずだれか弁護をする側に廻るよう義務づけるため」である。
特に、「だれか弁護をする側に廻るように義務づけるため」という解釈は、一体元の規定のどこをどう読めば、そんな解釈が出てくるのでしょうか。
百歩譲って、そういう解釈が出来るとしても、それはベンダサンのいう「偏見」や「興奮に基づく誤判」への対処法であって、一つの手段に過ぎません。
仮に浅見氏の解釈が正しいとしても、結局、「誤判」を避ける為の措置であることは、変わりありません。違うとすれば、その結論に至る過程が違うだけです。
両者の解釈の違いを、簡潔にまとめてみました。
【ベンダサン説】
・「(死刑判決における)全員一致」の判決は「誤判」の恐れがあるから「無効」にして、翌日「再審」する。
【浅見説】
・「死刑判決」の場合「有罪ならその日のうちに完了してはならない」と規定があるから、「弁護」を義務付けるべく「再審」する。
果たして、両者の結論に違いがあるのでしょうか?結論に至る過程の解釈が違うだけではないでしょうか?
しかしながら、実際、浅見氏は、ベンダサン説を批判しています。
それでは浅見氏が、ベンダサン説を批判する根拠とは一体何なのでしょう。
それは、「財産の裁判」と「死刑の裁判」とで、処置が異なるという点だと思われます。
Apeman氏は次のように述べています。
つまり判決が「繰り越し」となるのは全員一致かどうかによるのではなく、死刑判決であるかどうかによる、ということ。
要するに、浅見氏(Apeman氏)の解釈をまとめると次のとおりになるかと。
・「全員一致」だから、「繰り越し(翌日に再審)」になるのではない。「死刑判決」だから、「繰り越し(翌日に再審)」になるのだ。
↓
・なぜなら「財産判決」の場合は繰り越さないと規定されている。
↓
・だから、ベンダサン説の「全員一致→無効」というのは誤りである。
しかし、よくよく考えてみるとこれは、単にベンダサン説を「誤読して」批判しているにすぎません。
そもそも「日本人とユダヤ人」の該当箇所を読み直してみればわかることですが、ベンダサンはサンヘドリンの規定を持ち出すにあたって、イエスの”死刑”判決を例に引いているんですね。
つまり、「死刑の判決」のケースを当然の「前提」として話を展開しており、「財産の判決」のケースについては全く言及していません。
ですから、当然、ベンダサン説における「全員一致の判決」というのは、すなわち「死刑の判決」のことと見なすべきです。
この関係をわかりやすく図示してみると次↓のようになると思います。
単に順番どおりに、説明していないから「間違いだ」といっているに過ぎないのがわかりますね。
結論になりますが、浅見氏やApeman氏の批判というのは、ベンダサンの意図を(故意か偶然かわかりませんが)一切無視しており、誤って解釈するという「誤読に基づく」批判であるといっても差し支えないのではないでしょうか。
しかし、アンチ山本七平の論拠の内容を知ることが出来たのは私にとっても収穫でした。
なぜならば、「ベンダサンの主張がウソだ」と高言しているアンチ山本七平の連中の「批判の粗雑さ」を改めて確認することができたわけですから。
そういう意味では、とりあえずはApeman氏に感謝しなければならないんでしょうね。
ただApeman氏による浅見氏の引用が、正確かどうかという問題もあるので、やはり一度原典にあたる必要はあるとは思いますが…。
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