今回は、なぜ日本人は礼儀を重視するのか?とか、日本人の組織とは何か?ということについて、山本七平と岸田秀が対論している箇所を以下引用して行きます。
■「なる」と「する」
山本 結局、神を持ったヨーロッパ人と持たなかった日本人の違いなんです。
旧約史というのは思想闘争史の面と、契約更改史の面とがあるんですよ。神との契約というのはいわば憲法ですが、これの改正みたいなもので、何回も更改するんです。
そう言うと「へえーッ」という人が多いけど、アブラハム契約とかシナイ契約とかシケム契約とかナタン契約とかに学者は分けますが、社会の変化に応じて神との契約を改訂するわけです。
だから旧約・新約という言葉が出てくるんですね。
キリスト教とは、そこまでは更改されてきた古い契約で、ここからが新しい契約だという意味で「新約(ニュー・テスタメント)」となるわけです。
日本の神話は自然生成説なので、自然に生まれたんだから、契約の相手はいない。
天然自然の秩序というものが、おのずからあるわけです。
さっき話の出た、自然の秩序と社会の秩序と内心の秩序の合致という発想ですね。
こういう発想をすると、困ったことに原則は自然であるということになっちゃう。
岸田 ええ。
山本 この自然とは何かというと、自然科学ではないんで、おのずからしかるべき状態になればいいんです。
だから必ず出てくる言葉が「花は紅、柳は緑」と。
おのずと「なる」のであって「する」のではない。
いまもって日本人の行動基準はそうでしょう、「こうします」とは言わない。「こうなりました」とか「それだとこうなります」と言う。
岸田 会議の結果、こうなりました、という。誰がしたのかはわからないわけですね。
山本 そうです。日本の会議はまさにそのために、誰がしたかわからない形にして、「こうなる」ためにあるわけでしょ。
「する」は作為であって、あいつは作為があって嫌な奴だということになる。
周囲との対応に応じてある結果になるという状態がもっともいいんです。
それがさらに具体論になってくると、「形」の重視ということになる。
石田梅巌が「形ハ直二心ナリト知ルベシ」と言い出すんですね。
虎が虎の如く行動するのは虎の形を持っているからだ、人間にとっても形は心なのであって、形を重んじよ、と。
これはまず、馬が草を食うごとく、ノミが血を吸うごとく、この形にきめられた行動原理では人は労働によって食を得るのが行動原理だということになり、最終的には社会秩序はすべてちゃんと型にはまっていなければいけない。
つまり礼儀の秩序ですね。組織じゃないんです。ですから挨拶から服装までうるさいんです。日本というのはそういう社会なんです。
岸田 なるほど。
山本 たとえばスプルーアンス海軍提督を下士官が平気でファーストネームで呼んだというわけですよね。
イスラエルの軍隊もそうなんですが、組織という意識がはっきりしているから、上官をたとえば「ヘイ・ジョー」と呼んでも、上官の訓示を寝っころがって聞いていてもなんでもない。
日本では「形は心」だから、形を崩した瞬間に心の秩序も崩壊してしまう。
教授に対して「てめェ」と言えば、それで大学はもうなくなってしまうわけです。
この、「形は心」みたいな行動原理が日本人にはあるんじゃないでしょうかね。
組織原理でないという意味では、軍人勅諭もそうです。
あれはまず忠節、次が礼儀でしてね。作戦要務令を読んでも、組織原理ははっきりしない。
「戦闘序列ハ戦時又ハ事変ニ際シ天皇ノ令スル作戦軍ノ編組ニシテ之二依り統率ノ関係ヲ律スルモノトス」に始まって、戦闘序列を組まなければならないわけですが、つまり方面軍の編成も師団の編成もぜんぶ勅令なんですよ。
こうなると前線の変化しつつある状況の中ではどうにも方法がなくなっちゃうわけです。
もちろん軍隊区分という便宜的方法はあるんですが、たとえば、半減した部隊を二つあわせてすぐ一個師団として機能さすようなことはできない。
ドイツ軍は、モスクワの前面からベルリンまで撤退してきても、再編成しながらなお戦闘を続け、ベルリン攻囲戦でソビエト軍に十万の損害を与えている。
日本ではそんなことできなくて、徹底的に頑張るけれども、極限にきてパッと崩壊したらそれでおわり。
共同体が解体するようなものですから、それを集めたって組織にならない。
軍人勅諭にも組織という言葉が出てこないし、日本軍には組織がどういうものかということが、本当はわかっていなかったと思うんですよ。
岸田 人の和、人間関係で集団がまとまっているから、生き残りの兵士を集めて員数を揃えても、組織として戦力にならんのですね。
親身になって部下の面倒をよく見る中隊長と、この中隊長のためなら命を捨てる部下という、長いあいだかけてできあがった人間関係に支えられているわけだから、その支えがなくなると、どうしようもないんですね。
秩序は礼によって保たれているわけですね。
山本 礼であり、形ですね。日本人は子供をあんなに甘やかしてどうなるんだろうと外国人はいうけれど、大体十八歳くらいになると、みんな同じになっちゃうでしょう。
岸田 ちゃんと秩序に入ってしまう。
山本 やっぱり新井白石のいう「教えて治に至る」ですよ。基本的には日本の幼児教育というのは「あれしなさい」「これしなさい」でしょう。
岸田 ええ、ベクトルが「しなさい」という方向に向いている。
山本 ユダヤ人は絶対そうは言わないんです。こうしては「いけない」と言う。
旧約聖書のモーゼの十戒などをもとにして、六百十三ヵ条の法規(ハラハー)をつくり、十六世紀ごろに法律みたいに箇条書きにしてさらに細かく注解したものがあるんですよ。「シュルハン・アルフ」というんです。彼らの宗教法のもとになるものですが、これもほとんどが禁止規定ばっかりです。
ところが、日本は「しなさい」型たというと、むこうの教育学関係の先生が、それは大変新しい教育法だというんですね。
どうも「するな」ばかりの教育に対する反省が出てきているらしいんですね。そこで日本がとても立派に見えるらしい。(笑)
これは原則が違うにすぎないんだけど。
彼らの場合、これはいけない、と規定してゆくと、それ以外はなにをしてもいいということになりますね。だからどうしても論争が必要になっちゃう。
(~次回へ続く)
以下簡単に、雑感を述べておきます。
日本人の「組織」は、「礼儀の秩序」と「人の和」を以って成り立っている、という二人の指摘にはちょっと考えさせられました。
山本七平は、別著「日本人と組織 (角川oneテーマ21)」の中においても、「日本人の組織はマニュアル(例…定款・社規・社則等)を必要としない(註…存在はするけれども実質的にはそれが空文であり組織内の人間も熟知していないという意味)」と述べた上で、日本のマニュアルというものは、マニュアルではなく、実質「心がまえ集」に過ぎないと指摘しているわけですが、このことも関連がありそうに思えます。
単なる「心がまえ集」で組織が運営できてしまう背景には、「礼儀の秩序」や「人の和」があるからかも知れません。それで上手くいくときは問題はないのですしょうけど。
ただ、その「礼儀の秩序」「人の和」が崩壊した途端、「心がまえ集」しかもたない日本人には、どのように組織を立て直せば良いのかという具体的方法論を持っていないのかも。
持っているのは、自然生成的な「おのずとなる」という方法論だけなのかも知れないな。
だから、とにかく現状を壊せばよい…ということになってしまう。
妥当な例と言えるか疑問ですが…、
例えば最近の政治を巡る世論とかを見ていても、民主党に政権を任せたほうがいいと考える人が多いそうですが、とにかく現状を打破したほうがよい、そうすれば自然とよくなるだろう…的な考え方のような気がしてなりません。
「おのずとなる」で全てが上手くいくのなら、それはそれで結構なんですけどね。
まとまりがありませんが、今日はこの辺で。
次回またこの続きをやります。ではまた。
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