読んでいる本というのは、こちら↓
日本人と組織 (角川oneテーマ21) (2007/06) 山本 七平 商品詳細を見る |
この本は、題名どおり日本人の組織論なわけですが、結構抽象的なところも多く、すぐには理解できないところも多々あるので読みこなすのに苦戦しているのですが……。
ただ、この中で非常に面白いと思ったのが、「契約」について説明している箇所でした。
そこのところをご紹介していきたいと思います。
引用前にちょこっと解説しておきますが、彼の説明によると、契約とはそもそも対等な「相互関係」であって、組織の「上下関係」を縛るものではなかったそうです。
それがなぜ変化していったのか?
彼は次のように「神」と「奴隷」をキーワードにして説明しています。では引用を開始します。
■第二章 契約の「上下関係」
(~前略)
契約とは元来は、対等の二者の間で結ばれるもので、組織の上下関係を律する概念ではなかった。
ここまでは、世界どこの国も同じであり、日本も例外ではない。
したがって、西欧キリスト教社会だけを契約社会と呼ぶのはおかしい。
(~中略~)
日本においても、対等の相互契約という概念は、大体、室町時代にすでに定着しており、契約という概念が日本にないなどとはいえない。
だが、組織という点において問題となるのは、この対等の相互契約でなく、組織を構成する基となっている上下契約である。
この上下契約という、われわれにとっては実際には少々奇妙な考え方は、原理的にいえば「神との契約」という考え方の中にすでにあるわけだが、これが本当に定着して民衆の生活をも律するようになったのが、いつごろからかはよくわからないが、史料に残っているという点では、はるか後代の、大体ローマ時代であろう。
次にその中の顕著な二例をあげる。
一つは奴隷解放契約であり、もう一つはキリスト教式の宣誓と殉教の問題である。
■神、主人、奴隷の三角形
当時の社会の史上的かつ一般的なタテの従属関係は主人と奴隷である。
奴隷というのは鞭で追い立てれば働くものか、といえば、いずれの時代であれ、そうはいかない。
奴隷の生産性は実に低く、ローマの外征が行きづまって奴隷〔購入価格〕が高騰するとともにローマ経済はインフレから破綻に向かうわけだが、この時代になると、奴隷への「経済的刺激」による生産性の向上という考え方がローマ人にも出てくる。当然であろう。
そして、比較的早くから経済的刺激体制に入っていたのが、学問奴隷と技能奴隷であった。
この両者は確かに、鞭で能率を向上さすわけにはいかない。
そして当時のローマでは、こういう”高級”奴隷は、いわば”派出婦会主人”のような所有主が所有して、それぞれ必要な場所に、要求に応じて派遣し、その賃金がそっくり所有主のふところに入っているわけである。
単純肉体労働ならいざしらず、高度の知識や技能・技術をもつこういう奴隷は、どうしても経済的刺激を与えざるを得なくなる。
そして生低水準の向上とともにローマ経済は、こういう奴隷が能率をあげてくれないと成り立たなくなる。
しかし、生産性をあげさすため、衣食住を保証した上で経済的刺激を与えるぐらいなら、まず、奴隷購入資金を回収した上で本人を解放し、解放奴隷たる自由人と一種の雇用契約を結んで稼がせた方が楽であるし、雇用主の収入もよい、同時に、当時は奴隷への警察的取締りは所有主の義務であるから、この義務を免ぜられるのも楽である。
そのため、最初の皇帝アウグストゥスのときには奴隷の解放が一種の流行になり、これが治安上の問題になるため、彼は数回、奴隷解放禁止令を出している。
けれど奴隷の側から見れば、ここに一つの問題が生ずる。
奴隷は”人間ではなく家畜である”から、人間たる所有主と奴隷の間で契約を結ぶことは不可能なわけである。
たとえば主人が、「お前の得てきた賃金の半分を、お前のためにつみたててやる。そして、それがお前を購入した金額に等しくなったら解放してやる」と奴隷と契約しても、この契約には効力はない。
奴隷がそのつもりで一心不乱に働き、主人が「購入した金額に等しい」金額をすでにつみたてたころ、「こりゃいい奴隷ですぜ」といって彼を最高値で他人に売りとばし、積立金を自分のふところに入れてしまっても、奴隷は一言の文句もいえない――彼は家畜なのだから――。
だが、こう危惧されて常に疑心暗鬼であっては、生産性はあがらない。
それでは主人がこまる。
この少々面倒な問題の解決に乗り出して来たのが、実は神様なのである。
そして西欧社会の非常に面白い特徴は、この「神」という概念が実は「法」「契約」という概念の極限として、人間社会の実務と深くかかわりあっており、単なる、宗教学の対象にはおさまり切らない点にあると言ってよい。
この方法は、奴隷による収入の一定部分を神殿に寄託してつみたてるのである。
今残っているのは火神アポロンの場合とユダヤ教徒の場合だが、まず前者を見るとこの寄附金が一定に達すると、アポロンがその奴隷を主人から買いとり、その買取り代金として積立金を旧主人にわたすわけで、ここでその奴隷は、「アポロン神の奴隷」となるわけである。
だがアポロンが彼を使役するわけにはいかないので、実際には解放されるわけであって、これがりベルテ(解放奴隷)、この言葉からリバティー(自由・解放)が生まれたわけである。
これが、元来は契約の対象にならない奴隷と契約を結ぶ方法で、上下契約の最も古いものの一つであろうと思われる。
そしてこの図式は、実際には主人・奴隷の上下相互契約でありながら、形では、主人と神との契約で、奴隷は主人から神に売られたという形式をとっているわけである。
この関係を図示するとA図のようになる。
面白いことに、こういった契約形式は今でも残っており、それは西欧の結婚式に表われている。
これについては前に記したことかあるが、結婚は実質には男女の対等の相互契約――いわば相互に誓い合う――形のはずであり、図示すればB図のような形になるはずである。
だが西欧の結婚式の宣誓文をよく読んでごらんになるとわかるが、夫婦は相互に契約はせず、神に向かって、定型化された文言を、各々、別々に断言するだけなのである。
その関係はC図のようになるであろう。
いわば一種のA型関係だが、両者が平等なのは、定型化された文言が平等だからであって、両者が平等な立場で契約を結んだからではない。
この関係を極端にまで推し進めると、確かに離婚ということはありえなくなる。というのは両者の相互契約ではないから、たとえ夫が失踪宣告をうけても、妻と神との関係は、それによって変化を生じないからである。
したがってこういう上下契約を神官立ち合いのもとに、奴隷所有主と神とが結んでくれれば、奴隷はその契約の履行を信ずることがでぎ、それが結婚の場合と同じように、結果においては、一種の相互契約となりうるからである。
したがって両者とも、ともに上下契約であるといいうる。
なお奴隷解放契約には、解放された以後の賃労働契約がふくまれている場合もあったらしい。
そして多くのそれは、旧主人の存命中に限られていた。
この契約はユダヤ教徒の中に見られるが、前と重複する部分が多いから省略しよう。
だが社会というものは、その底辺で以上のような変化を生じた場合、在来の上部構造がそのままでいることはできなくなる。したがってこの徐々なる変化は、ローマ最大の組織の軍隊にも及んで行く。
(以下略)
【引用元:日本人と組織/契約の「上下関係」と「相互関係」/P25~】
ちょっと難しい処があったかもしれませんが、いかがでしたか?
以下、私の雑感ですが…。
奴隷というものが、どのように解放されていったのかを全く知らなかったので、そこに「神」が介在していたのだという指摘は私にとって非常に刺激的でした。
また、西欧社会の「神」というのは、日本の「神」と違って「契約」という概念が付随しており、同じ「神」でありながら全くの別物だということを、改めて感じました。
考えてみれば、モーゼの十戒なんて「神」との契約ですもんね。
日本人が八百万の神様と契約を結ぶなんてことは思いもしなかったのとは、実に対照的です。
そして、
この「神」という概念が実は「法」「契約」という概念の極限として、人間社会の実務と深くかかわりあっており…
という箇所は、実に重要な指摘だと思いました。
日本人が法というものに対して「神」概念を感じることは余り無いのではないでしょうか?
この点は、西洋と日本の「法を捉える意識が全く異なっていること」を示唆していると思うのですが。
また、いままで何気なく身近で聞いていた結婚の誓いの形にも、「上下関係→相互関係」という形がはっきり現れているとは……。そんなこと全然考えもしませんでした。
日本の結婚の誓いというのは、相互に誓うというB図ですよね。誓い自体には日本の「神様」は関わらず、証人として立ち会うだけの存在といったところでしょうか。
こうした違いを認識することが出来て、非常に刺激的でした。
やっぱり山本七平って凄いですね。
FC2ブログランキングにコソーリと参加中!
「ポチっとな」プリーズ!