今回ご紹介するのは、日本人が刑罰をどのように捉えているのか、わかりやすく説明している箇所です。
(前回の続き)
山本 この前、阿部正路先生と幽霊と悪魔について対話をしたことがあるんですけれども、時代別にみるか、民族別にみるかしていきますとね、人間の空想力の範囲がわかるんですね。
人間は自由に空想できるようでいて、つまるところ決してそうではないんであって、電離層みたいなものが頭の中を囲んでいまして、そこから先へは出られないんです。
空想というのは現実の反射にすぎませんからね。
マルクスのような人間だって、未来を空想するときに、その空想の材料として使うものは、やっぱり十九世紀のヨーロッパだけですからね、そこから出て行くことはできない。
この空想の範囲を比較してみる方法があるとすると、同じような概念、たとえば竜とドラゴンについて、空想の仕方の違いをみるんです。
ヨーロッパ人は誇大妄想狂ですから、「ヨハネ黙示録」みたいに竜がどんどん大きくなっちゃう。宇宙の端から端まであって、しっぽを振ると星が落ちる、とこうなるわけです。
日本人はそういうものすごい空想はできなくて、猿沢の池で水を飲んで雲を呼んで天に昇った、それが限度なんですね。
ともかく、空想の産物には限界があって、キリスト教社会、とくに旧約時代の社会では、日本の幽霊みたいなものは絶対に空想できない。
同時に日本人はどんなに頑張ってもサタンというものは想像できないんですね。
でね、阿部先生によると、幽霊には立派なものが多いというんです。
「四谷怪談」を例にとって説明されるわけですが、お岩さんが伊右衛門に殺され、幽霊になって出てきて報復する。これで平衡関係が確立されるわけですね。
そのときの原則が、絶対に第三者に迷惑をかけないことなんです。
ほかの人間の前には出ず、危害も加えない。
しかも伊右衛門を殺したあと、嫌疑が他人にかからぬよう、血だらけの髪の毛を一本、幽霊がやったという証拠に残して去るんですね。こんな立派なものはないというんですよ。(笑)
さて、ではそういうケースが旧約聖書にあるかとなると、神話・伝説のいちばん古いものではカインとアベルということになる。カインがアベルを殺す、最初の殺人事件です。
で、アベルが幽霊になってカインを追いかけるかというと、そうならないんですね。
アベルの血はあくまでも神を呼ぶんです。絶対的な義に訴える。そして神が罪を定めてカインを追放するわけです。
つまり、日本の幽霊は、話し合いの行動原理と同じで、個人対個人で完結するのに対して、むこうでは神がいて三角関係になる。
岸田 幽霊にまでも人間関係が出てくる。
神と悪魔は一つの原理を表現しているわけですが、幽霊は原理の表現ではなく、個人的な恨みを表現している。幽霊が正義の立場に立っているわけではないですよね。
山本 ない。客観的な「義」ではないですから、事をおえたあとでお岩さんの霊は肩を落として悄然と去っていく。義を確立したという形じゃないんですよ。
岸田 日本人には神の義に訴えて怨念を晴らすというルートがないから、化けて出る以外に方法がない。つまり日本では、被害者に罰する権利があるんだな。
江戸時代でも殺人犯が、被害者の遺族に引き渡されて、役人の立会いのもとに遺族に殺されるか、そこまでいかなくても、処刑された犯人の死体に遺族がせめて短刀で一突きするという例がたくさんある。
法が裁くのではなくて、被害者に本来の権利があって、役人は被害者の代理人にすぎないんですよ。
山本 被害者に犯人を捕える力がないから、役人がなり代って捕えてやって、処罰するのは被害者だ。仇討ちと同じでね、仇討ちは日本の刑罰としてあったわけです。
■平手政秀の諌死
岸田 仇討ちは、親の怨みを子が継承するわけですね。継承する子を持たないときは、お岩みたいに幽霊になる。
日本の仇討ちと幽霊は一体のものですね。
つまり、日本人のけんかというのは、すべからく「怨みを晴らす」という形。だから戦争が長いんです。
山本 長いなあ。
岸田 目的を持った組織的な戦争と違ってね、子が継承すればいいんだから、これは長い。
ぼくがつくづく不思議に思ったのは、戦争中の「敵の心胆を寒からしめた」という表現ね。
得意そうに、戦果のひとつとしてそういうことを言うんですよ。
向こうの考え方からすれば、これがなぜ戦果なのか、わからないでしょう。
しかし、何人倒したとか何を奪ったということのほかに、心胆を寒からしめることが目的なんです。
特攻隊の思想にもこれがあったんだろうと思うんです。
実際の破壊効果よりも、日本人はこれほどまでしておまえたちを恨んでいるということを示すことに意味がある。
これは確かに日本人同士の争いなら、かなりの効果があるんですよ。
相手に効果的な直接攻撃をかけないで不満を表明するために自分を傷つける。すると相手にもその怨みの深さが通じるんです。
たとえば、城を包囲した秀吉軍に対して、城兵が次々と躍り出てきて、立派に切腹して見せたら、秀吉なら「おまえたちはそれほどまでして、このおれに城を渡したくないのか」と言って、軍を引きあげたかもしれませんよ。
特攻隊の生みの親、大西瀧治郎中将は、「それでアメリカに勝てるのか」と聞かれて、「勝てないまでも、ドロン・ゲームにすることはできる」と言っていたそうですが、アメリカがドロン・ゲームですましてくれるという期待があったんでしょうね。
しかし、こういうやり方が、アメリカ軍に通じると思ったのが間違いで、通じるわけがない。
新大陸に入植して以来のアメリカ人の仮借なき徹底した攻撃性を知らなさ過ぎました。
山本 斬り込み隊というのもそれですね。
岸田 昔でいえば切腹。最大の苦痛をともなう死に方をすることによって、誠意なり怨みなりを伝える。諌死ですね。日本文化のなかでは、周囲もこれを評価するわけです。
山本 相手も思いつめられていたことによって、自分の行動を変えていく。信長の御守役たった平手政秀が諫めの遺書を残して切腹すると、信長は人が変ったようになった。
本当がどうか知らないけど、そういう話は日本人にとってまことに納得しやすいんだな。
この、思いつめるという形は、現代でいうと、公害反対運動にも現れていますね。怨念であって、また、被害者が加害者を罰するという形態になる。
岸田 「怨」と書いた旗を立てる。日本の規範は人間関係ですから、他人に軽蔑されるとか恨まれるという以外にブレーキがない。
だから「怨」は相手の行動に対する最大のブレーキなんですね。
山本 公害で亡くなった人間の写真をプラカードに掲げるのも「怨」であって、きわめて効果が大きい。
岸田 だから、日本人同士はよくわかるんです。
しかし、これを外国との戦争に持ち込んでも、まったく意味をなさない。諌死せずに、あくまで生きて争う国ですからね、相手は。
(次回へ続く)
【引用元:日本人と「日本病」について/サタンと幽霊・平手政秀の諫死/P86~】
では私の雑感を少々。
今回引用した箇所は、死刑問題を考える際、非常に参考になると思います。
岸田秀が指摘したように、「日本人は神の義に訴えて怨念を晴らすというルートがない」→「被害者に罰する権利がある」という説明は至極納得できます。
あだ討ちしたいという被害者の怨念は洋の東西を問わないと思いますが、西欧ならそこで神が出てきて被害者になり代わり罰することができる。そして加害者自身も「汝殺す無かれ」という神の戒律に背いたという意識が、意識的であれ無意識的であれ存在し苦悩するかもしれない。
たとえ死刑にしなくても、いずれ神が憎っくき加害者を地獄に落としてくれると信じることも出来るし、死刑にしなければ被害者自らも「汝殺す無かれ」という教えに背くことも無い。
こう考えると、西欧で死刑廃止が受け入れられてきたのも納得できるのですが…。ちがうでしょうか?
それに対し、日本には被害者に代われるものが存在しない。
あるのは具体的な法律(刑法など)だけですが、この法律自体が(被害者に加害者を罰する権利があるという)伝統的な考え方と乖離しており、必ずしも被害者の思うとおりに事が運ぶとは限らない。
この点も、法というものに対して、いかがわしさを感じさせるゆえんかも知れません。
そして、「相手が嫌がるから殺さない」というだけの”歯止めの世界”では、加害者が地獄に落ちると確信できない。だから、相手が嫌がる応報刑としての「死刑」を日本人の多くは望むのではないでしょうか。
日本で死刑存置派がマジョリティであるのは、日本の社会が「神が介在しない人間関係」であるからなのでしょう。
死刑廃止派は、こうした事情を全く無視し、「国家による殺人はいけない」とか「世界の趨勢だから」とか「日本は人権後進国」だとか取ってつけたような理由で批難しています。
そもそも、人権思想というのは、西欧のキリスト教に基づいているはずです。
寄って立つ基盤が違う日本に、それをそのまま当てはめようとする試みが成功するはずがありません。
死刑廃止派のこうした指摘は、理解はされこそすれ、普通の日本人には心情的に、まったく受け入れられないでしょう。
西欧と日本ではこのように基盤が全く違うのに、そうした理由で受け入れを迫る”進歩的な”人たち。
これも、一種の「出羽の神」的行動ではないか…と思わざるを得ません。
それともう一つ、「心胆を寒からしめる」ということについて。
特攻隊の思想の背景にこれがあったというのは、非常に鋭い指摘だと思いました。
上記の引用の中で、岸田秀が「アメリカ人の仮借なき徹底した攻撃性」を指摘していますが、山本七平も「アメリカ人は手加減を知らない。中途半端に応対するとやられてしまう」とどこかの本で述べていたような気がします。
このような日本と外国との違いを理解せず、「話し合い」で解決しようなどと考える人が如何に多いことか…!第二次世界大戦であれだけやられたのに未だそのことが解らないのでしょうか?
こういうところも、反省力なきことの一例では?
今現在も、日本人同士なら通用することを、我々は外国人に対して行なっていないでしょうか?
それが「通用しない」ということを、考えもしないで。
そして「通用しない」とさとった段階で、一方的に「裏切られた」と受け止め、逆上する。
このパターンは、戦前戦後通じて変わっておらず、色んな形で繰り返され、摩擦や誤解を生む原因になり続けているとしか思えません。
我々が真に反省するとしたら、この点ではないか…とつくづく思います。
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