前回、残飯司令等の内容まで説明がありました。今回はそうした立場に置かれた将校がどのような精神状態に陥っていたか。そして、将校の下に属する下士官の立場とはいったいどのようなものだったのか。山本七平の説明をご覧ください。
だが「こんな安月給で忠節なんぞつくせるか」とは絶対にいえない。
それを口にすれば、「軍人」そのものの否定になってしまう。
従って、二・二六の将校などに「問題は月給でしょ。あなた方の本当の不満は自分たちの地位と責任に対する社会の報酬があまりに低いということでしょ」などといえば、そう解釈する人間を逆に軽蔑し、今でも軽蔑するであろう。
しかし結局はそうだったのだが、それが「自分たちをこんな状態にしておく社会が悪い、陛下の股肱、国家の柱石に残飯をあさらせるような社会はマチガットル、そんな社会は絶対に改造せにゃ軍は崩壊する、日本が滅びる」という考え方になっていくのである。
これは自己を基準にして社会を否定することだから、社会への絶対的な否定へとエスカレートし、ついには自分たち以外のものは「何もかもイカン」となる。
自由主義はイカン、共産主義は許せんはもちろんのこと、政府もイカン、警察もイカン、大学もイカン、娯楽もイカン、英語もイカン、装身具もイカン、パーマネントもイカン、贅沢は敵だとなり、さらに海軍はイカン――贅沢だ、敬礼が厳正でない、にまで至り、ついには、国民は全部盲目なのだ、おれたちが指導し、覚醒させなきゃだめだという考え方になっていく。
いわゆる昭和維新の歌の「めしいたる民、世におどる」という言葉は、彼らの感情を実によく表わしている。
これはまた岡本公三が「週刊文春」の記者に語った以下の言葉と実によく似ている。
――他のセクトはどうか。「みんなダメだ」――PFLPの理論は正しいと思ったのか。「PFLPは我々と連帯している。だから正しいのだ」――つまり、君たちと連帯していない組織はダメということか。「その通りだ」
これはまさに当時の軍人の生き写しである。
一般社会の人間は全部めくらだ、そう考えない限り、彼らは社会の自分たちへの仕打ちを許せない。
しかしそれは結局、社会のすべての価値判断を拒否してこれと断絶し、軍隊内だけの自己評価と、互いの間だけで通用する相互評価の中だけで生きていくことになる。
だがこの評価は日本の社会にも世界にも通用しない。
触れればすぐにくずれてしまう。
そこでさらに断絶はひどくなり、ついには自分の集団内だけで通用する特別の言葉を使い、それによって社会とも世界とも一切の接触を断っていく。これは当然の帰結であった。
しかし、その彼らよりさらに不安定な位置にいる人びとがいた。
下士官である。
最低のサラリーマンとはいえ、将校は、一つの「職業人」としての社会的地位はもっていた。
しかし、将校の社会的地位の急激な低下を皺よせされた下士官は、その社会的地位に関する限り、もう絶望的で救いがたい状態であった。
社会は彼らを「職業人」とすら認めなかった。
日本という学歴社会およびそこから生み出されたインテリは、口では何といおうと、実際には労働者や農民を蔑視している。
彼らが口にし尊重する「労働者・農民」は、一種の集合名詞乃至は抽象名詞にすぎない。
これは昔もおなじで、当時の新聞や御用評論家がいかに「軍」や「軍人」をもちあげようと、それは「軍」「軍人」という一種の集合名詞・抽象名詞に拝脆しているのであって、この軍という膨大な組織の最末端に現実に存在する最下級の「職業軍人」すなわち下士官は、現実には、徹底的に無視され嫌悪され差別され軽蔑されていた。
これがいかに彼らを異常な心理状態にしたか!
下士官を象徴する「軍曹」という言葉は、軍隊内ですらウラでは一種の蔑称であった。
「モモクリ三年カキ八年、低能軍曹は十三年」であって、彼らはあらゆる劣等感にさいなまれつづけていた。
集合体としても個人としても、同じように扱われれば、すなわち「軍」も「下士官」も同じように扱われるのならば、たとえ低く扱われても、それはそれなりの安定がある。
戦後の自衛隊はそういう状態に安定しているのかも知れない。
しかし「軍」という名で極端に賞揚され、「下士官」という名で極端におとしめられる――これをやられると、どんな人間でもある程度は精神が異常になってくる。
私は当時の軍人の精神状態は、下士官に一番はっきりと露呈していたと思う。
そしてその精神状態は、結局は、下級将校も同じなのである。
「社会が悪い」といえる点があるなら、この点であろう。
集団へのリップサービスでは最高の敬意を払い、その個々の構成員は、一個の社会人としてすら認めないほど蔑視し、最低の報酬しか払わず、最低の待遇しかしない。
これが一番ひどい扱いだと私は思う。
最低の待遇しかしないなら、最高の敬意などは、むしろ払わねばよいのである。
だが、一般社会には、彼らを蔑視しているという意識さえなかったのである。またそれによって、彼らが(そしてまた将校も)屈辱的な社会的地位の低下と徒らなる賞揚に異常な精神状態になっていようなどとは、だれも夢にも考えなかった。
それは戦後に書かれた、横暴で無知な下士官の描写によく表われている。
そのほとんどの場合、書いている本人が、自分が内心どれだけ下士官を蔑視していたかを忘れている――というより、今でも全然そのことが念頭にないのである。
日本のインテリ特有の一種の鈍感さであろう。
下士官は、このことをいわば肌で知っており、この点では異常なほど敏感――というより一種の対「社会アレルギー」という状態になっていた。
従って、お世辞はもちろんのこと、好意にすら耐えられず、自分に向っての何気ない微笑すら容赦できなかった。
「バカヤローッ、軍隊には愛嬌はイラネーンダ、ナレナレしいよ、コノヤロー」
彼らは、本心から自分に好意をもち、本心から自分という人間を対等に扱ってくれる人がいるなどとは、絶対に信じなかった。
そして軍隊内だけでしか通用しない自己評価と相互評価だけで生きていた。
そしてその評価のうらづけは、現実には将校の位置である。
彼らは内心では将校を軽蔑しつつも、これを半神のように扱うよう兵に要求した。これも、将校より下士官が嫌われた一因であろう。
そしてそれがかもし出す一種の雰囲気、たえずイライラしたような緊張感は、全軍隊を一種異様な精神状態にしていった。
一般社会から実際には無視される。
すると今度は、彼らが一般の社会人を人間と認めなくなる。
これが面白いことに、新聞などで報ぜられる大学騒動のときの先進的な助手や大学院生の言葉と非常に似た感じになってくる。
岡本公三の長兄のことが雑誌に出ていたが、相手のほおをてのひらで軽くヒタヒタと叩くというその姿は、あのころの最も冷酷な下士官を髣髴とさせる。
また、「ガスが爆発すると人は死にます、機動隊とは限りません。しゃーないやないすか、そんなもの」という滝田修の言葉は、内容だけでなく、表現まで下士官そっくりである。
結局これは、社会の彼らへの扱いの裏返しである。「軍」で賞揚され「下士官」で蔑視される。
すると「お国のため」と「お国」を賞揚して、そのお国を構成する国民の一人一人は人間とは扱わない。
同じように、「人民のため」と「人民」は賞揚しながら、その人民を構成する個々の人間は「そんなもの」になってしまう。
(~次回に続く)
【引用元:私の中の日本軍(上)/残飯司令と増飼将校/P60~】
上記の説明で当時の軍人の異常な精神状態が、ある程度つかめたのではないでしょうか。
集団だともてはやすのに、その集団に属する個々の人間には蔑視で応える。
そして社会は、そのような扱いを受けた人間がどのようになってしまうのか全くの無関心。
そうした背景が生まれる一因に、インテリ・知識人特有の無神経さが関わっているという指摘にはハッとしました。これは今でも通用することじゃないか…と。
社会から疎外されたと感じる人間を生み出さないためにも、これら山本七平の指摘を改めて考えてみる必要があるような気がしてなりません。
それはさておき、次回はそういう異常な精神状態に陥った者がどのような行動を引き起こすか、そのことについて山本七平の記述を紹介していく予定です。お楽しみに。
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