それはさておき、今日は、産経新聞が運営するizaのコラムに、なかなか考えさせる記事があったので以下引用します。
■【コラム・断】世間って?
妙な言い方になるけど、僕は「世間」というものが好きではない。
正確に言えば、自分の意見を「世間」で包むというか、「世間」をバックにして言葉を発する仕方が好きではない。「それは世間が許さない」「俺だけじゃなく、皆が駄目と言うに決まってる」。こういう風な発言が、嫌いである。
近頃、世間とか世論とか、そういう人間の集合の声が強くなっているように思う。テレビ局などへの苦情は増え、昔に比べると、バラエティー番組も過激さがなくなり、無茶ができなくなった。不倫報道があったキャスターにも、視聴者には本来なんの関係もない話なのに、「世間」は厳しかった。
槍玉(やりだま)にあげる対象(主に個人)を進んで探す人が、増えている印象を受ける。一番批判「しやすい」のは、言うまでもなく犯罪者だ。
重大事件を起こした犯人の親のコメントが、最近気になる。
「腹を切れ」というのもあった。
犯罪加害者の血縁に対する「世間」の攻撃は凄(すさ)まじいから、対「世間」にはそのようなコメントでいいかもしれない。
だが、絶縁などせず、できれば見捨てないでいただきたい。子供を批判し、被害者に謝罪し続けながら、子供が死刑になるにしろならないにしろ、できれば最後まで近くにいていただきたい。色々な立場があっていい。
世間が一斉に「死刑」「死刑」と叫ぶ社会は一見「正義」だが、僕はそこに不気味さを感じる。「世間」の声が強くなればなるほど、そこから外れてしまった人の行為が、反作用のように過激さを増すように感じる。
(作家 中村文則)
【引用元:iza】
「世間体」
根拠とか何もないのだが、比較的日本人というのはこの「世間体」というものを、非常に気にして生きているのではないのでしょうか。そうなってしまうのは、日本という社会が、同質性・均質性度が高いせいもあるからではないかと。
(そうは言っても、昔に比べると、世間体を気にしなくなった人も多くなったような気もしなくもない。給食費の滞納とか増えているとかいうニュースを聞くに付け、そう思ってしまう。ただ、これは都会など人間関係が希薄になり、人の目を気にしなくて済む状況がもたらしただけなのかも知れないが…)
上記のコラム子が指摘している『自分の意見を「世間」で包むというか、「世間」をバックにして言葉を発する仕方が好きではない。』という点は、私もそういう気がなきにしもあらずであるだけにハッとさせられた。
確かに、他者を批判するのに、これは容易で効き目のあるやり方だろう。
それが、マイノリティの意見を封殺しがちなのは否定できないような気がする。
世間体を気にしていたら起こるはずのない出来事が増えたのも事実で、これを批判したり批難することは必要だろうと思う一方、批難する際、批難の根拠を「世間ではこうだから」とかいう理由で論ずることはマズイのではないかとも思う。
結局のところ、批判するときには、「世間」というものを使わず、「自分はこう思うから…」といった自分をベースして批判する姿勢を持つというのが大切なんじゃないだろうか。そういう姿勢をとることが、相手を一個の人格と認めることにもなるのではないだろうか。
しかしながら、このことは、我々の社会ではあまり認識されていないような気がする。
実際、この手のやり方は、ネットでもマスコミでもよく見かけるし。
このことについて、もっと問題意識を持つ必要があるように思えてなりません。
そこで、このコラムを読んで、ふと思い出したのが、次の山本七平の記述。これも「世間」がキーワードでした。
■組織と自殺
自殺の原因や動機はさまざまであろう。
また実際には他殺に等しい、強要された自殺もあるであろう。
多くの場合、自殺の真因は不明だが、その中で最もわかりにくいものは、この両者の中間にある自殺、いわば本当に自分の意志なのか、実際は他人の意志であったのか不明の場合の自殺である。
自殺は本人の責任だから、その死に対してだれも責任を負う必要はない。
では強要された自殺はどうなるのか。それは他殺ではないのか。
戦場にもさまざまな自殺はあった――もっとも自決と呼ばれていたが。
その中には明らかに強要された自殺、言い変えれば強要した人間の他殺、自殺に仮託した純然たる殺人もあった。
ノモンハンでも多くの将校は自殺した―離れた天幕につれて行かれ、拳銃を与えられて、人びとは去る。最後まで抵抗した人もいたそうである。
そしてその殆どは、無謀な作戦計画と放言参謀の支離滅裂な”私物命令”のため、あらゆる苦難を現場で背負わされた責任者であった。
その苦難の果てに、彼らは、強要されて死んだ。
そして彼らを殺した殺人者「気迫演技」の優等生(註…辻政信を指すと思われる)たちは、何の責任も問われず戦後にも生き、その「演技」によって民衆の喝采をはくしつづけた。
こういう例、「自決という名の明確な他殺」で、糾弾されざる殺人者の名が明らかな例も、決して少なくない。
しかし、自己の置かれた位置が、必ずここに至ることを予見し、その屈辱の死を恐怖して、その前に自殺してしまった場合もある。
これが自殺・他殺の中間、本人の意志か他人の意志かが不明な場合である。
結末が明確な場合、多くの者は、「屈辱プラス死」よりも単純な死、名目的名誉が残っている死を選び、自己の死屍への鞭と遺族への世の糾弾だけは避けようとした。
こういう場合、今ではもっぱら帝国陸軍の非情と非人間性が非難されている。
しかし人びとが忘れたのか、覚えていても故意にロにしないのか私は知らないが、もう一つの恐ろしいものがあった。
それは世間といわれる対象であった。
軍が家族を追及することは絶対にない。
では、母一人・子一人の母子家庭、その母親でさえ、兵営に面会に来たときわが子に次のように言ったのはなぜか。
「お母さんがかわいそうだと思ったら、逃亡だけは絶対に、しておくれでないよ」――彼女が恐れたのは帝国陸軍ではなく、世間という名の民間人であった。
その「後ろ指」なるものは、軍より冷酷だった。――少なくとも、正面から指ささぬので「指した人間」が不明だという点で。
こういう場合、本人を死まで追い込んで行ったものが、果たして帝国陸軍なのか世間なのかといえば判定はむずかしい。
それらは現在、新聞等で「組織の重圧に耐えかねて……」とか「組織内の人間関係に悩んで……」とか定義されているケースと似て、複合するさまざまな個人的・社会的・組織的原因に分けて解明することが、不可能と思われる場合である。
さらにこれに、戦場という異様な環境が加わる。肉体的に疲労の極に達すれば、人は、単に「動くのはもういやだ」という理由だけで自殺しうる。
また精神的疲労の極に達すれば、その一切から逃れたいという欲望だけで、自らの命を断ちうる。
また自殺のように見えて、実は、一杯の水、一服のタバコ、一片の青空に自分の命をかける場合もある。
そういう状態にあって、精神的・肉体的疲労の果てに、いま自分が歩いている道の先にあるものが確実に「屈辱の死」なら、人は疲労を押して、わざわざ、その「屈辱の座」まで歩きつづけようとはしない。
殺されるとわかっていながら、そこまで歩いて行く場合も確かにある。
だが、少なくとも自己の手に拳銃がある場合は、歩いてそこにつくまでの時間を、その場にすわっているのが普通である。
(~後略)
【引用元:一下級将校の見た帝国陸軍/組織と自殺/P227~】
戦前も戦後も、「世間」というのは変っていないのだなと思いますね。ほんとに。
「世間」は人を殺しうるほどの力がある。というのを、この山本七平の記述を読むと、痛感します。
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