前回、日本人は、個人の責任の追及を避ける傾向があるとのイザヤ・ベンダサン(山本七平)の説を紹介しましたが、今回はなぜそうなってしまうのか?
彼は、日本人の教育「私の責任=責任解除」が原因ではないかと説明をしています。それは一体どういうものなのか、長くなりますが彼の記述を引用していきましょう。
従って、子供が物心がつきますとすぐ、「私の責任=責任解除」という教育が、殆ど無意識のうちに徹底的に行なわれます。
日本人のうち、子供のときに「(私の責任です)ゴメンナサイ(またはスミマセン)と言ってあやまりなさい。
そうすれば(そのことの責任は追及せず、無条件で)ユルシテあげます」と言われなかった者は一人もおらず、いわばこの考え方は、「子供のとき尻から叩き込まれている」のです。
もし子供が、その行為に対して、むしろそれに相当する処罰を受けた方が良いと思って「ゴメンナサイ」とも「スミマセン」とも言わなければ、この「ゴメンナサイ」とも「スミマセン」とも言わないことに対して、「強情な奴だ、ゴメンナサイといえ」といって、ゴメンナサイというまで処罰がつづけられることはありますが、この処罰はあくまでも「ゴメンナサイ」と言わないことに対してであって、そのもととなった行為に対して処罰が下されているのではないのです。
従って、欧米の家庭で当然に行なわれている不当な行為に対する「体罰」は日本では皆無に近く、これが子供を甘やかすと誤解されますが、これは誤りで処罰の対象が違うだけです。
小学校でも同様の教育をうけます。
数年前ある事件が新聞に報道されたことがあります。
これはある小学校で小事件があり、教師がそれを追及したところ、「私の責任です」といって一生徒が名乗り出ました。ところが教師がいきなりその生徒を殴打したところ、それが原因でその生徒が死亡した事件です。
教師の行為はもちろん異常であり、あらゆる非難をうけ、法の裁きをうけるのは当然ですが、その時の関係者が揃って口にした非難は「自分の責任だと言った人間を処罰するとは何事だ」ということであっても、「(責任を認めたのだから)処罰は当然だが、そういう処罰をするとは何事だ」ではないのです。
従ってこの処罰が何の事故を起さなくても、この教師は、当然のこととして非難されます。
中学校・高校・大学へと進んでも、また家庭でも一般社会でも、以上の教育は徹底しておりますので、そういう学生が西欧へ留学しますと、時には、驚くべき事件を起すことがあります。
五、六年前ですが、西ドイツの新聞に、ある日本人留学生が大学図書館の本のあるぺージを切ってとったため、窃盗罪で起訴され、懲役刑を課された、という記事が載っていました。
私は、日本の新聞もこの事件を報道し、この事件の背後にある、日本と西欧の根本的な考え方の差を追及してくれたら、むしろこういった小事件の方が大事件の報道よりも日本人に大きな示唆を与えるのではないかと考えましたし、今もそう考えておりますが、私の知る限りでは、ついに、日本の新聞には報道されなかったようです。
窃盗そのものは、もちろんどこの国にもあり、別に珍しくありません。
ただ珍しいことは、日本では、図書館の本を切りとって法廷に立たされた学生は一人もいない、ということなのです。
もちろん西ドイツにもいないと思います。
しかしドイツ人の場合は、一ページを窃取してそのため残る生涯を棒にふるような、常識では考えられない行為をする人間がいないからいないのですが、日本ではそうでなく、こういう行為をした人間を法廷に立たせることが不可能なので、いないのです。
というのは現に日本の図書館には、あるページを切り取られた本が、いくらでもあるからです。
では、もしその窃盗の現場を教授なり司書なりに発見されたらどうなるか。
その場合は、「ゴメンナサイ」「スミマセン」と謝罪すれば、この行為は不問に付されます。
ただもし「ゴメンナサイ」「スミマセン」とあやまらなければ、この「あやまらない」ことに対しては、徹底的な追及がなされます。
しかし、もしこの際、その教授なり司書なりが、謝罪してもしなくても、窃盗は窃盗だから、その行為は当然法にふれると考えて、謝罪させた上でその生徒を警察に引き渡したなら、今度は逆にその教授もしくは司書が非難され、おそらく「教育者の資格なし」と断定され、免職になるかも知れません。
日本教の世界では、これが当然とされることは、今までのところを読み返して下されば、ほぼ理解していただけると思います。
そしてこの留学生の「不幸」は、彼が、ドイツ人も日本教徒だと思い込んでいたことが原因でした。
しかしドイツならずとも、日本教以外の世界では、この論理が通用しないことは説明の必要はないと思います。
第一、図書館の本は教授や司書の私有物でありませんから、窃盗を不問に付する権限は彼らにないはずで、もしそんなことをすれば、公有財産の盗奪に加担し、犯行を隠蔽したことになり、管理者としての責任を全うしなかった者として、それこそ「責任」を追及され、非難されることは明らかです。
この留学生はそれを知らなかった――ということは、教授・司書も自分をも律する第三者としての「法」があって、その法が自分たちを共に律しているとは夢にも思わずに、物心ついたとき以来「尻から叩き込まれた」教義に従って「スミマセン」と言ったのでしょう。
日本教の世界なら、これで「行為」は不問に付されます。
しかしドイツでは、これで、「罪状認否」において、本人が自ら罪状を承認したことになりますから、当然のこととして法に基づく所定の手続きがとられ、後はすべてが「法」によって自動的に進行しただけのことでしょう。
ただ以上のことで誤解してはならない点があるとすれば、これは多くの人が誤っているように、日本人の倫理的水準が西欧より低いということではない、ということです。
そうでなく、倫理の「基準」が違うのです。
西欧にはもちろん、西欧の倫理的基準に基づいて水準の高い人もいれば低い人もいます。
それと回じで、日本には、日本教の倫理的基準に基づいて水準の高い人も低い人もいるわけです。
これは当然のことなのですが、日本が西欧に接触して以来、相互にこの「基準」の差を「水準」の差と混同し、誤解し、それによって生じた混乱のため、現在では、論議不能なまでになっています。
従って前述のような例をとりあげればすぐに一方では、「日本人はドイツ人より倫理的水準が低い」と考え、他方はこれに反撥して「ドイツにだって、もっと倫理的水準の低い奴がいる」といった実例をあげての反論となって、常に何も明らかにならず、何の結論も出ないのです。
従ってここで、もう一度、これは「基準」の問題であって「水準」の問題でないことを申し上げておきます。
この点で私が常に問題を感じているのが、日本教徒キリスト派です。
前述の下獄した日本人留学生の場合を例にとりますと、彼を法廷に立たしたドイツ人の行き方を、彼らは「ユダヤ教的律法主義」と考え、「ゴメンナサイ」といえば、行為は不問に付するが、「ゴメンナサイ」といわなければ、そのいわないことを追及する日本人の行き方をキリスト教と考えることです。
すなわちこの場合、日本の教授や司書の役割をキリストが行なっている――ということは、キリストに、「ゴメンナサイ、私の責任です」といえば、一切の行為は不問に付される、と考えていることです。
彼らがそう考えるのは彼らの勝手で、別に異議を申立てようとは思いませんが、こまることは、それをキリスト教と考えて、勝手に、西欧でも、それが「基準」だと思い込んでしまうことです。
前述の大学生などは、あるいはそういう思い込みの犠牲者かも知れません。
そしてさらに恐ろしいことは、日本人は本心では「西欧」を世界と考えているので、これが世界に共通する普遍的な「基準」すなわち異論の許されない真理と信じ込んでしまっていることです。
この奇妙な関係は日本教徒の死刑廃止論にも表われています。
一言にしていえば、「私の責任です、といって罪を認めた者を処刑することは正しくない」というのが、日本教・死刑廃止論の論理です。
言うまでもなく、これは西欧の死刑廃止論とは全く別のものですが、この場合もその基本的な点を無視して同一視されてしまうのです。
【殺す側の論理/朝日新聞のゴメンナサイの章より引用】
相手を判断するときの判断基準の一つに、「相手の態度」というのがあると思いますが、日本人ってのは、外国人よりどうもその基準を重要視している気がします。
どんなに理屈が正しくても「態度」が伴わないと見向きもされませんし。ベンダサンもそのことを、上記の記述の中で言いたかったのかな…と私は考えています。でも、謝りさえすれば許されるというのは彼なりの極論だと思いますけどね。
>こまることは、それをキリスト教と考えて、勝手に、西欧でも、それが「基準」だと思い込んでしまうこと
>そしてさらに恐ろしいことは、日本人は本心では「西欧」を世界と考えているので、これが世界に共通する普遍的な「基準」すなわち異論の許されない真理と信じ込んでしまっていること
改めて再度引用しましたが、ここのところは、今回最もベンダサンが言いたかったことじゃないでしょうか?この思い込みが、誤解を招く元凶だと彼は指摘したかったのではないかな…。
また、死刑廃止の話も最後に出ていましたが、その理由は果たしてそれだけなのか?書いた当時はそうだったのか?それについては、ちょっと疑問ではありますね。
なにはともあれ、次回③では、いよいよベンダサンの鋭い筆の矛先が、本多勝一に向けられていきます。ではまた。
【関連記事】
◆「私の責任=責任解除」論①
◆「私の責任=責任解除」論③どうして日本は中国問題で失敗を繰り返すのか
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