はてなキーワード: 礼拝とは
アメリカ人の文書なのであれば日本人を問い詰めても仕方がないのでは?
今のアメリカ政府の人々はきっとイラン人のことを犬畜生とか書いていると思いますが
アイデンティティを持っていないから対アメリカ戦で大量の死者を出しその直後に属国としてアメリカのケツを舐めるのだと思います。
どこかの「誇りのあるペルシャ人」は毎日モスクで礼拝してるみたいです。
生活の全てをムハンマドの尻の穴に舌を突っ込むことで成り立たせている人々が
論理的な補完ということを御存知でしょうか。
もし私がその立場なら素直に「イラン在住のイラン人」と書きます。
まあ後付けの嘘ですよね。
「それは違うんだ」「事情が有るんだ」ということです。
恐ろしい相手には少しの勇敢さも見せないのに
恐ろしくない相手を誹謗する時にだけ勇者のように振る舞う玉無しのことです。
人間の値打ちは国に依存しないというのが私の考えですがあなたは違うみたいです。
イラン人にインフレの心配をされる国は地球上にごく限られていると思います。
また一つあなたの嘘が見つかりました。
無軌道な核開発のせいでイランは利益を吹っ飛ばしてしまいましたね
え?自分達が迷惑をかけたのに逆にそれらの国々を恨むということですか?
色んな言い掛かりの付け方がありますね。
私が何を言っても一切言い返してくれないようなのですが
そこは心の傷が深いということでしょうか?
言い返せなくて悔しいから触れたくもないということ?
ピート・ヘグセス(Pete Hegseth、アメリカ国防長官)が、2026年4月15日頃にペンタゴン(国防総省)で開催した礼拝(祈りのサービス)で、パルプ・フィクションの引用をしたとして話題になっています。
何が起きたか
ヘグセスは、イランでの戦闘捜索救難(CSAR)任務で downed aviator(墜落したパイロット)を救出した「Sandy 1」ミッションを称える文脈で、祈りをリードしました。彼はこれを「CSAR 25:17」と呼び、エゼキエル書25章17節を反映したものだと説明した上で、以下のような祈りを読み上げました(ほぼそのまま):
「The path of the downed aviator is beset on all sides by the iniquities of the selfish and the tyranny of evil men. Blessed is he who, in the name of camaraderie and duty, shepherds the lost through the valley of darkness, for he is truly his brother’s keeper and the finder of lost children. And I will strike down upon thee with great vengeance and furious anger those who attempt to capture and destroy my brother. And you will know my call sign is Sandy 1 when I lay my vengeance upon thee. And amen.」
これは、クエンティン・タランティーノ監督の映画『パルプ・フィクション』(1994年)で、サミュエル・L・ジャクソン演じるジュールズ・ウィンフィールドが、銃を構えて相手を撃つ直前に語る有名なモノローグに極めて近い(ほぼword-for-word)です。
「The path of the righteous man is beset on all sides by the inequities of the selfish and the tyranny of evil men. Blessed is he who, in the name of charity and good will, shepherds the weak through the valley of darkness, for he is truly his brother's keeper and the finder of lost children. And I will strike down upon thee with great vengeance and furious anger those who attempt to poison and destroy my brothers. And you will know my name is the Lord when I lay my vengeance upon thee.」
ヘグセス版では、軍事的な文脈に合わせて一部単語を調整(例: "righteous man" → "downed aviator"、 "charity and good will" → "camaraderie and duty"、 "poison and destroy" → "capture and destroy"、最後に "Sandy 1" を入れて)していますが、全体の構造と多くのフレーズが映画そのものです。
元ネタの背景
本物の聖書(エゼキエル25:17):実際の聖書には似たような終わり部分(「大いなる復讐を彼らの上に下し、激しい怒りをもって罰する…」)しかなく、前半の長々とした部分(道の beset on all sides など)は聖書には存在しません。タランティーノとロジャー・アヴァリーが映画のために創作・改変したフィクションです。
ndtv.com
映画ではジュールズが「聖書の一節」と称してこれを引用し、後にその意味を自分なりに解釈するシーンが印象的です。
反応
この件はすぐにSNSやメディアで拡散され、「偽の聖書引用」「パルプ・フィクションを本物の聖書だと思って読んだ?」と驚きや嘲笑の声が上がっています。一部では「意図的かミスか」との議論もありますが、ヘグセス本人は映画由来だと認識していなかった可能性が高いと指摘されています。ペンタゴンでのキリスト教礼拝シリーズの一環として行われたもので、軍事・宗教・ポップカルチャーが混ざった珍妙な出来事として話題です。
要するに、ヘグセスは軍の英雄的なrescue missionを祝福するつもりで祈りを読み上げましたが、それが映画の暴力的な名シーン由来の「偽聖書」だった、というオチです。タランティーノファンにはニヤリとするネタですね。
動画は各種ニュースサイトやX(旧Twitter)で視聴可能なので、気になる方は「Pete Hegseth Pulp Fiction prayer」で検索してみてください。
https://www.k-doumei.or.jp/news/
このリンク先のページは、一般社団法人キリスト教学校教育同盟(通称:キリスト教学校教育同盟、略称:教盟 / k-doumei) が2026年3月2日に公開した記事です。
• 内容:2025年12月~2026年1月に実施した加盟校アンケートの結果まとめ。
◦ 回答校数:55校59件(小学校7件、中高35件、大学16件、学園1件)
◦ テーマ:戦後80年を意識した「平和教育(戦争と平和)」に関する実践状況
◦ 質問例:2025年度に平和教育に関わる礼拝・授業・活動を行ったか、どのような内容か、課題は何か、など。
記事本文では学校名をほとんど伏せていますが、以下の傾向と一部言及からわかる学校群です:
• 中高一貫校中心に平和学習を積極的に実施(沖縄修学旅行、広島・長崎学習、礼拝での平和メッセージ、ワークショップなど)。
• 戦後80年を意識した取り組みが多く、「構造的平和」「人権」「いのちの尊さ」をキーワードにしている回答が目立つ。
• 課題として「教師の熱の低下」「思想の偏りへの懸念」「客観的視点の難しさ」などが挙げられている(一部回答)。
• 共愛学園前橋国際大学附属中学校・高等学校(群馬県)
これらの学校は、キリスト教学校教育同盟のネットワークを通じて日本基督教団の牧師や社会派関係者を講師・協力者として招くケースが多く、沖縄や広島を中心とした現場体験型の平和学習を採用しています。
この特集は、辺野古事故の直後に「平和教育の実践」を積極的に発信する内容となっており、イデオロギー的な平和教育(反戦・人権・構造的抑圧への気づき重視)を守り・広めようとする姿勢が強いです。学校名を伏せている点も、外部批判を意識した対応に見えます。同志社国際高校(別途強い関与)と並んで、これらの学校群がキリスト教学校教育同盟を通じて平和学習を推進している実態がわかります。
以下は、日本基督教団(UCCJ)の人物(主に牧師や関係者)が関与・協力した平和学習プログラムを採用している主な学校・団体を、公開情報・報道に基づいて挙げたものです(2026年3月時点)。関与の形は、講師派遣、プログラム企画協力、海上視察案内、開会礼拝でのメッセージなど多岐にわたります。
• 内容: 開校以来(1980年代〜)の沖縄研修旅行「辺野古コース」の平和学習で、海上視察プログラムを長年協力。2023年頃から抗議船「不屈」「平和丸」を使用した海上からの基地見学を導入。金井牧師は研修初日の開会礼拝でメッセージを担当するなど、プログラム全体に深く関与。学校側は宗教ネットワークを通じた信頼関係で実質的に協力・委託的な形で採用していた。
• 内容: 研究所自体が平和学研究・平和教育の拠点。学校内や外部からの依頼で平和学習プログラムを提供・支援。金井牧師の肩書を使って全国カンパで抗議船「不屈」を購入した経緯もあり、学院の平和教育に深く結びついていた。
• 内容: 年次セミナー(「いのち・平和・人権」をテーマにした全国大会)で分科会や講演を実施。「オキナワと平和学習」などの分科会があり、教団牧師が講師や聖書研究を担当。参加校はキリスト教主義学校が多く、平和学習の教材共有・研修に活用。
• 平和学園(神奈川県など、キリスト教学校教育同盟とも連携)
• その他参加校の傾向:フェリス女学院、横浜共立学園、青山学院関係校などキリスト教主義学校多数(毎年セミナーで平和学習の実践を共有)。
• 内容: 教団の宣教協力学校向けに平和教育を含むキリスト教主義教育の推進。講演会や研修会を通じて平和学習の重要性を強調し、加盟校(中学・高校)でプログラム採用を支援。教団の社会委員会・平和関連委員会が背景にある。
• 共愛学園前橋国際大学附属校(群馬県前橋市、共愛学園中学校・高等学校)
• 新島学園(群馬県など、新島学園短期大学・中学校・高等学校)
• 関西学院関係校(兵庫県など、教団認可神学部とのつながりが強い)
• 内容: 沖縄・広島などの平和学習研修旅行で、教団牧師を講師やガイドとして招くケース。NCC(日本キリスト教協議会)教育部を通じた平和教育資料提供やセミナーも間接的に関与。
• 明治学院大学・明治学院高等学校(東京・横浜) 国際平和研究所(PRIME)などで辺野古や沖縄関連の平和学習・シンポジウムを実施。教団関係の牧師や研究者が関与。
• 明治学園(北九州市) 中学3年生の沖縄修学旅行で平和学習(ひめゆり平和祈念資料館など)を実施。日本基督教団のネットワークを通じた平和講話などが取り入れられるケースあり。
• 日本基督教団社会派の人物は、個人的・ネットワーク的な信頼関係(同志社教会・同じ教団つながり)を活かし、キリスト教主義学校の平和学習に深く関与する傾向が強いです。特に金井創牧師のケースは、牧師職+平和研究所+抗議船運航+学校プログラムという多重関与の典型でした。
これらの平和学習は「戦争の悲惨さ」「沖縄の実相」「構造的罪への気づき」を強調する内容が多く、教育基本法第14条(政治的中立)の観点から議論を呼んでいます。
日本ってこれからどうなるんやって話やけど、少子高齢化はもう止まらん流れやん?出生率もずっと低いままやし、労働力は減る一方。そこで現実的に出てくるのが移民の話やけど、その中でもイスラム系の人たちの存在は無視できんと思うんや。
世界的に見てイスラム圏の人口ってかなり多いし、しかも出生率も比較的高い地域が多い。日本人が1人か2人しか子ども産まん、なんなら独身が増えまくってる中で、複数人産む文化のあるコミュニティが増えれば、長期的には人口構成が変わっていく可能性は普通にある。もちろん「指数関数的に増える」とまでは断定できんけど、少なくとも相対的に比率が上がるのは十分あり得る話や。
ほな日本社会は何ができるんや?って話になるけど、いくつか現実的なポイントはあると思うで。
まず一つは食事環境やな。ハラール対応の食品ってまだまだ少ないし、外食でも選択肢が限られてる。スーパーやコンビニで普通にハラール食品が手に入る環境が整えば、生活のハードルはかなり下がるはずや。これは観光にもプラスになるし、経済的にもメリットあるやろ。
次に礼拝環境。イスラム教徒は1日に複数回礼拝する習慣があるから、公共施設や空港、大学、職場なんかに簡易的な礼拝スペースを用意するだけでもだいぶ違う。今も一部ではやってるけど、まだ限定的やな。
あと服装や文化への理解も重要や。ヒジャブとか見慣れてない人も多いけど、それを理由に不利益を受けるような状況は避けるべきやろ。これは単に寛容さの問題だけじゃなくて、労働力確保っていう現実的な目的にも関わってくる。
教育面も見逃せん。日本語教育の充実はもちろんやけど、子どもたちが文化の違いで孤立せんように、学校側の対応も必要になる。例えば給食での配慮とか、宗教行事への理解とかやな。
言うまでもないけど、土葬の整備も全国的に進めないとあかんな。全都道府県で土葬できるようにすることがまずスタートラインや。
労働力不足とグローバル化の流れを考えたら、多様な背景を持つ人が増えるのはほぼ確実や。その中でイスラム教徒への対応を整えることは、「特定の宗教に配慮する」っていうより、「多様な人が暮らせる社会を作る」って話に近いんやと思う。
結局のところ、日本が選ぶべき道は排除でも同化強制でもなく、現実的な落としどころを探ることやろな。制度やインフラを少しずつ調整しつつ、お互いに歩み寄る。その積み重ねがないと、どのみち社会は回らんくなるで。
この世界が変化し続けること自体は否定しません。コヘレト(伝道の書)はまさにそれを語っています。
しかしその変化の背後に不変のものがあると強く主張します。それは神の意志と道徳です。
つまり、「すべてが流れゆく」だけではなく、「流れの中にも真理がある」という立場です。
次に、「正義への執着が苦しみを生む」という点について。
つまり、正義そのものは必要だが、怒りや自己正当化に飲み込まれた正義は危険だ、という見方です。
「心を観る」という実践については、ムサール(倫理修養)やヘシュボン・ハネフェシュ(魂の内省)と呼ばれるものが対応します。
自分の怒りや恐れに気づき、それを整えることは重要な霊的作業です。
ただし、その目的は「執着から離れること」よりも、神の道に自分を一致させることにあります。
「敵は固定されたものではない」という点も、興味深い共通点があります。
「エジプト人が溺れているとき、天使が歌おうとしたが、神は言われた。『我が被造物が溺れているのに、お前たちは歌うのか』」(メギラー10b)
つまり、敵であっても完全に非人間化してはならない。これはあなたの言う慈悲と非常に近いです。
あなたの提示した道は、「内なる平和」を最も深い行動としています。
内なる平和だけで、世界は正されるのか?いいえ、十分ではないです。
これ、生徒本人や保護者は左翼活動家の片棒活がされるって理解して参加してたのかな?
Xではそんな事知らされていないってポストが複数見られるけど。
知らされず参加して、荒天にも関わらず出航させられて結果殺されるなんて可哀想
https://christian-center.doshisha.ac.jp/files/kirib/news/CH_20120125_01.pdf
奨励者:※※※※(同志社国際中学校・高等学校教頭)
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
同志社国際中学校・高等学校の※※と申します。今朝は、高等学校で行っている平和教育―沖縄への研修旅行と毎朝の礼拝―を通して、何を生徒に伝えたいと考えているのか、そのことを皆さんと共有したいと思います。
同志社国際高等学校では、2年生の生徒が毎年3月に沖縄に研修旅行に行っています。観光旅行ではなく、平和学習を中心に据えた研修という位置づけです。私たちは開校以来一貫して沖縄への研修旅行を続けており、昨年の春が30回目の沖縄訪問でした。今でこそ沖縄への修学旅行や平和学習はポピュラーなものになっていますが、30年前には飛行機で沖縄に修学旅行に行くような学校はほとんど皆無であり、お手本にするものもなく、
私たちは、現地で平和活動をしている方々の助けを借り、
俺は増田。旧統一教会の祝福2世だった男だ。大学入学を期に実家を離れて世間を知り、やっぱなんか違うなと思って教会を離れた。両親は信仰があり、絡むといちいち面倒なのでLINEでのやり取りするぐらいで、疎遠にしていた。結婚して地方都市に住んでいる妹も教会を離れているが、用もないのに連絡をする仲ではない。不仲と言うほどでもないが、一般的に兄妹ってそんなもんだと思う。
少し前に父が亡くなったので、何年かぶりに帰省した。持病があるのに医者と喧嘩して病院に行くのをやめていたので当然の結果だった。死に際は人に迷惑をかけるような状況じゃなかったのが救いだった。
この記事を読んでいる人の中で、ひょっとすると統一教会の葬式に出る人がいるかも知れない?ので、思い出がてら書いておく。
まず、服装がおかしい。男は黒スーツに白ネクタイ、女は白っぽいジャケットとスカートを着る。式場は教会の人ばかりだったのであまり気にならなかったが、火葬場で浮きまくって居心地が悪かった。
そして、葬式(統一教会では「聖和式」と言う)は肉体という殻を脱ぎ捨て霊界への新しい出発をするお祝いというていになっていて、万歳三唱がある。世間一般とかけ離れたことばかりする集団にも顔色ひとつ変えず親切に対応してくれた式場の人にはプロ意識の高さを感じた。
その他、家庭盟誓(やばい会社の社訓みたいな奴の統一教会バージョンだと思ってほしい。8番まであって長い)を唱えたり、聖歌(教会の歌。何かと歌う)を歌ったりした。毎週の礼拝ってこんな感じだった。
もう何年も教会に行っていないので結構忘れていたが、やっていたらなんとなく体が覚えていて、嫌なノスタルジーを感じた。
妹は式の間ずっと口をつぐんでいた。
親族は感染症を理由にほとんど参加しなかったが、教会の人が足を運んでくれてそれなりに人が集まった。自分や妹の顔を見ると皆にこやかに「久しぶりだね〜」と言った。
教会の人って基本的に親切で優しくて、家の隣に住んでいても良き隣人であるような人が多いのだが、時々地雷がある。
父も反ワクチン・反マスクだったが、他にもいそうな雰囲気だった。ある人に「増田くんもワクチン打ってしまったんでしょう…?」と言われた。(そう言った彼の職業は中学校の教師だったと記憶している)やっぱりカルトと陰謀論は親和性が高い。
また別の人に「お父さんは増田君の気持ちわかってたと思うよ…」っと慰めるように言われて何の話?となったりした。俺は「憎まれっ子世に憚る如く長生きするかと予想していたが、案外ポックリ逝ってくれて助かった」と言うのが本音だった。言える訳がないので「はぁ……そうですか……」曖昧に相槌を打った。
親切でちぐはぐで、柔らかくてグロテスク。言いようのない不快感があった。
父方の親戚で、一人の老紳士が通夜葬式の両日参列してくれた。もちろん、両親が教徒だと言うことは知っている。通夜の日、黒いネクタイを締めてきた彼は「明日は白いネクタイで来るね」と言った。色々思うところはあるだろうに、嫌な顔ひとつしなかった。なんて人間のできた人なんだと思った。こんな人を意味の分からない儀式に付き合わせて申し訳ないと思った。
市内に住んでいる父のきょうだいは出席しなかった。
後から聞いた話だが、葬式の時点で妹は妊娠していたらしい。「夫も子供も教会に関わらせたくない。必要ならできる限り経済的な支援はするが、それ以上は期待しないでほしい」と言われた。それでいいと思った。
教会には「氏族メシヤ」という考え方がある。教徒の親族に布教して家庭内の救世主になろう、という囲い込み戦略だ。しかし、実際は葬式に兄弟は来ず、子供達すら離れている。
[B! デマ] 「大阪のモスクで早朝4時に大音量」とSNSでデマ動画拡散、実際は海外の映像転載か…「事実に基づかず非難は悲しい」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.yomiuri.co.jp/national/20251223-GYT1T00364/
Karosu 海外でやられて、日本はやられないという話はないと考えたのでこれは注意喚起だろ
charun それだけ嫌われてる警戒されてるってことで。道端で礼拝とか、自国ではやらないらしいじゃん。
gewaa 単にフェイクを指摘しても本質的解決にならない。本当にそうなるかもしれないって不安は変わらないから。「日本人も10年後にはわれわれを理解する」と言いながらクルド人が大音量で音楽を流していた事実があったり。
納得できなきゃ坊主呼ばなきゃいいじゃん
あえて呼ぶって事は葬式にはなんらか宗教的な儀式が必要だと思ってるわけだよね?
ならばそれに見合う対価を支払うのは当然だよね?
ちらっとお経読むだけで何十万円が納得できない、と言う。
それっぽい袈裟ではなくスーツとかでいい?コスプレ袈裟でもいい?
違うんだよね?
でも対価は払いたくない?
は?アホなの?
仏教、お寺の文化インフラを維持するのにもコストがかかるのがわからない?
人がいて組織があれば金がかかる
なにフリーライドしようとしてんの?
日本以外の国では概ね所得の5%ー10%が宗教コストに費やされます。
教会とか信者はタダで礼拝できると思ってる?どっから維持費出るんだよボケ、神父牧師は霞食って行きてるとでも?
きっちり徴収されてるの、タダじゃねぇよ、当たり前だろ
創価学会だと葬式はタダなの。葬式のための個別のお布施は無い。
毎月きっちり10%差っ引かれてるんだからw
まず、両方の行為、親を支えることと、慈善を行うことはトーラーが強く奨励する善行です。
トーラーは「父と母を敬え」出エジプト記 20:12と命じています。
この「敬う」は、親に食べ物や衣服を与え、必要を支えることを含みます(キドゥシン 31b)。
ですから、収入を用いて親を支えるのは非常に重要なミツヴァです。
同時に、トーラーは「貧しい人を見捨ててはならない」 申命記 15:7–11とも命じています。
ラビたちは「世界は三つの柱によって立つ、トーラー、礼拝、そして慈善によって」(アヴォット 1:2)と教えています。
ラビ・ヨセフ・カロは『シュルハン・アルーフ, ヨレ・デア 251』でこう定めています:
「自分の父母を支えることは、他の貧者よりも優先する。」
つまり、親が経済的に必要としているなら、まずは親を支えるのがユダヤ的に正しい順序です。
しかし、もし親が十分に生活できているなら、その上でツェダカーに一部を分け与えるのがより完全な道です。
これがハラハーとムサールの両方に沿った行動です。
| 行為 | トーラー上の価値 | 優先順位 |
| 親を支える | 出20:12, 申5:16 | 最優先(必要があるなら) |
| 慈善を行う | 申15:7–11, 詩編112 | 親が十分であれば次に行う |
う~~~ん。現代ゾンビ映画指標で見たら悪い部類に入るかもしれないけど将来性に期待して51点。
原題は「Abadi Nan Jaya」でインドネシア語で永遠の栄光というような意味。
インドネシアの有名な愛国歌である「Indonesia Pusaka」の中の有名なフレーズでもあり、この楽曲は作中でも確か流れていたはず。
インドネシア映画の中である程度予算をかけて初めてつくられたゾンビ映画とのことで、過去のジャンル作品へのリスペクトが感じられきっちりゾンビ映画のツボは抑えながらも地域性が見られる点はなかなか興味深かった。
けっこう銃を撃つシーンがあるんだけど毎回ちゃんと当たると部位欠損していてGood。ここを手を抜く作品は信用できない。車で轢かれたゾンビの腸飛び出しもよき。ある程度リアリティのあるゴア表現が続き、"ちゃんと"ゾンビ映画しようという気概が感じられた。
今回のゾンビは目が完全に濁っていておそらく視力がない。なので音に反応する形になっている。
そんな中で警察署に立てこもった主人公たちが行き詰っているときに遠くから礼拝の声が聞こえ(インドネシアはイスラム教圏)ゾンビがそちらに向かって走り出し、これが神の救いか!と思ったら礼拝の声が消え悲鳴が聞こえるという皮肉な展開もよい。
また、急に大雨が降りだし聴覚を奪われたゾンビたちが立ちすくむ中脱出するシークエンス中に急に雨が止み再び追いかけられるという展開になるのだが、俺たちからすれば都合のいい雨やなと思うんだろうけど、現地の人からすれば「スコールあるある」みたいな緊張感がおそらくあるんだろうと思う。
こういう地域性を活かした展開はよかった。
ほかは、まぁ悪かったかな。
ホラー映画あるあるのバカで考え無しな登場人物たちが大集合してわっちゃわっちゃする。こいつらどうせ耳しか聞こえてないんだからずっと静か~~~に立てこもってればそのうちどっか行ったんちゃうんか?という疑念が絶えない。知り合いがゾンビになるんだけどいろいろあって殺さずにおいておいた結果、大ピンチになる。
わかったわかった、もうそれとっくに見たよ。という展開がほぼほぼを占めているので、それこそがゾンビ映画というのもわかるのだがどうしても得点は上がらないという形になってしまった。
今回の作品は田舎の漢方薬企業が作った新作漢方試作品が原因でゾンビ化するというジェネリックバイオハザードみたいな感じだったんだけど、これも漢方ビジネスが一般化していて民間療法が日本の1000倍は信じられていて一種の社会問題にもなっているインドネシアならではの切り口だなと。
最後の最後でその試作品が実は大都会にも送られていて……という続編を期待させるオチで終わるのもテンプレでよい。