憤慨するくらいなら見なけりゃいいじゃん、と言われそうだが、私の場合は、憤慨するのが一種の愉しみと言うか、それへの反論を考えるのが道楽みたいになっているんですね。
そんな私の左翼ヲチ心を刺激してやまないのが、今までも何度か取り上げたことのある「村野瀬玲奈の秘書課広報室」。
最近、彼女のブログでは、まるで私やネットウヨを挑発するかの如く(笑)、日の丸・君が代「強制」問題や愛国心について取り上げていて、コメント欄では左右入り乱れて大いに盛り上がっているようです。
私もコメントしたいのはやまやまなのですが、いかんせん、彼女から出入り禁止処分を食らった身の上ですので、自重して自分のブログに改めて感想や反論でも以下書いていくことにします。
村野瀬さんや、それに賛同する人たちのコメント読んでいると、兎にも角にも「強制」はイカン、この強制を許していけばいずれ自由がなくなる!自由民主主義の危機だ!ということになるようですね。
ということは、この問題のポイントは、二つあると思う。
その1)都教委の指導&処分は「強制」に当たるか否か?
その2)当事者にとっては「強制」でも、その「強制」が妥当か否か?
それでは、この二つについて、考えていきましょう。
村野瀬さんらに言わせれば、当然「強制」とみなすわけですが、その左翼の判断は果たして、社会的通念に照らして妥当かどうか?
そもそも、この問題教師は、児童生徒への指導をするよう「命令」されたことを、「強制」と受け止めてしまっているわけです。そして命令違反に対して下された「処分」も「強制」だと非難するわけですね。
もちろん、「強制」と感じるか感じないかはその人の主観次第であるとは思う。
しかし、そのことと、「強制」であるかどうか?また、「強制」だとしてもその処分が妥当かどうか?はまったくの別問題。
どうも問題教師や彼女ら左翼は、「自分の(強制だという)判断」=「まごうことなき事実」と勘違いしているのではないんでしょうか?
世間一般で受け止められている事実とは、「強制」と呼べるような代物ではなく「業務命令&業務命令違反に対する処分」に過ぎないと思う。
それはこの問題を巡る社会の反応を見てもらえば、問題教師と彼女ら支持者以外には納得してもらえるのではないだろうか。
実際、ネットやマスコミなど世論の動向は、概ね彼らの主張に対し非常に冷めているのが実情。
ということは、やっぱり世間から見て、彼女らの判断は妥当でないのだろうね。
それでは、なぜ、彼女らは支持されないのか?
私なりに考えてみると、次の理由が思い浮かぶ。
1)左翼の(強制だという)判断を認めてしまうと、余りに自由の行使範囲が広すぎ、恣意的な権利行使が横行し、社会生活を営む上で害があると感じているから。
2)都教委が問題教師に対して下した処分が、社会的・一般的に見て許容範囲内であると受け止められているから。
3)問題教師が、公務員という公僕でありながら行政の命令に従わないことへの反感があるから。
(公務員という身分保障に守られながら、そうした活動を行える余裕をかましていることへの反感もある)
4)「内心の自由を守る」など自らの行為を勝手に規定し、被害者ぶっていることが、第三者には余りにも大げさに見え、シラケてしまい共感を呼ばないから。
こんなところだろうか。
大体、数分の間我慢して業務を果たせば済む問題なのに、それすら出来ない人間が、いくら「強制だ、内心の自由の侵害だ!」と訴えようが、世間の同情を引けるわけ無いでしょう。
どうしても”死ぬほど”嫌なら式場で業務の遂行を拒否するのではなく、事前に自分の信念を表明し業務を欠席すると言うやり方だってあるでしょうに。反対を表明する手段だって、ネットを使うなり街頭に出て訴えるなり幾らでも他の方法はあるじゃないですか。
どうして、式の運営を”あえて”邪魔をするような抗議方法を選ぶのか?自分の信条と業務命令との折り合いをつけることは幾らでも出来そうなものだが…。彼ら問題教師には、そうした工夫も考え付かないのかなあ。
イカンイカン、私の愚痴は脇においといて…と、
世間が自分の思うとおりに、反応してくれない。
そのことぐらいは、彼女らにも少しは感じ取れるらしい。
そのせいだろうと思うのですが…。その主張に過激な言葉が並んじゃってます。
国旗国歌を強制する精神性があるという点で日本は中国、北朝鮮と似ていることになりますね
「国旗国歌の強制」とは、「精神内面への強姦」ではないでしょうか?
似非被害者ほど大げさなことをいいますが、上記の記述などまさに当てはまりますね。
北朝鮮と似ている…、だって?
精神的強姦ではないでしょうか…、ですって?
モノは言いようですが、余りにも物事の比較や引用が、乱暴でお粗末すぎるのではないかと。
気に入らないことを強制されたら、すべて「精神的強姦」と言えば世の中、済むでしょうか?
義務を果たさなくてもOKなのでしょうか?
全くこういうところも、被害妄想と言うか、幼稚な精神構造をお持ちというか、世間知らずでわがままな困ったチャンと言うか…。
前にも「当たり屋」と評させてもらいましたが、やっぱり行動様式がよく似ているなぁと思わざるを得ないのですが…。そう思いませんか?
世の中には、こういう人間がいても何ら不思議ではありませんが、こうした人間の主張を甘やかして認めてしまったら、さぞかしモラルは崩壊し、ギスギスして世知辛い世の中になるでしょう。
それどころか、仮に人権擁護法案が成立したら、こうした連中に「精神的強姦」という理由で訴えられるとんでもない世の中になってしまうかも知れませんネ。
そんな予想はさておき、彼女ら左翼の主張を見ていると、次のような考えが背景にあると思います。
・強制は、いかなる場合でも悪であること。
・個人の自由と権利は、他の何者にも優先して保障されるべきと考えていること。
・国を個人と対立するものと規定し、否定すべき存在と考えていること。
わがままな行動を認めない”程度”の強制は許されるべきだと思うし、個人の自由と権利は、それを維持する社会の安定があって初めて行使できるものです。
それに、国という枠組みがあってこそ、個人が生活できている現実もある。
彼女らは、そうしたプラスの面が全く目に入らないのか、全く評価の対象としないのか?
私にはわかりませんねぇ。自分たちもその恩恵をこうむっているはずなのに…。
これらを否定したら、我々の社会はたぶん崩壊します。常識やモラルは通用しなくなり、全て法律でがんじがらめに規定しないと暮らせない窮屈な社会になってしまうでしょう。
自由や権利も大事だけど、濫用はいけません。
結局のところ、過ぎたるは及ばざるが如し、ということですね。何事も大事なのはバランスということでしょうか。
ま、そんなことが彼女らにわかっていたら、ああいう主張はそもそもしないと思うけど…。わかっちゃいるけど、言わずにはいられませんねぇ。
この問題については、まだ思っていることがありますが、この続きは次回にしておきます。
今日はこの辺でお終い。ではまた。
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