宗教「信じない」7割、「魂は生まれ変わる」3割…読売調査
読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。
ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。
多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。
調査は「宗教観」をテーマに面接方式で実施した。
死んだ人の魂については、「生まれ変わる」が30%で最も多く、「別の世界に行く」24%、「消滅する」18%――がこれに続いた。
(2008年5月29日23時41分 読売新聞)
日本人の宗教観については、昔読んだ日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)に書かれていたことが、非常に印象に残っています。そこで書かれていたことが全て正しいのかわかりませんが、上記調査と符合する点があるような気がするので、以下、少々長くなりますが紹介していきましょう。
日本教徒・ユダヤ教徒
(前略)
ユダヤ人が庶民一人一人に至るまで、はっきりユダヤ教徒という自覚をもつに至ったのは祖国喪失の後である。事実、旧約聖書が最終的に編纂されたのは紀元100年のヤムニアの会議においてであり、タルムドの編纂はそれ以降である。
日本人はそういう不幸に会っていないから、日本教徒などという自覚は全くもっていないし、日本教などという宗教が存在するとも思っていない。その必要がないからである。
しかし日本教という宗教は厳として存在する。これは世界で最も強固な宗教である。というのは、その信徒自身すら自覚しえぬまでに完全に浸透しきっているからである。
日本教徒を他宗教に改宗さすことが可能だなどと考える人間がいたら、まさに正気の沙汰ではない。この正気とは思われぬことを実行して悲喜劇を演じているのが宣教師であり、日本教の特質なるものを逆に浮彫りにしてくれるのが「日本キリスト者」すなわち日本教徒キリスト派であるから、まず、この両者に焦点をあててみよう。
宣教師はよく日本人は無宗教だというし、日本人もそういう。無宗教人などという人種は純粋培養でもしなければ出来ない相談だし、本当に無宗教なら、どの宗教にもすぐ染まるはずである。
だから私は宣教師にいう、日本に宣教しようと思うなら、日本人の『ヨハネ福音書』と『ロマ書』はお読みなさい、そしてそれがすんだら日本人の旧約聖書の全部は不可能にしても、せめて『創世記』と『第ニイザヤ』ぐらいは読まねばいけません、と。
彼らは驚いていう。そんな本かありますか、と。
ありますかには恐れ入る。そしてさらに日本教を研究したければ、日本教の殉教者を研究しなさい、というと目を丸くする。殉教者がいますか?あたりまえです。殉教者のいない宗教はありません。西郷隆盛という人、あの人は日本教の聖者であり殉教者ですというと、もう全くわけがわからないという自信喪失の顔付になってくる。
そこで私はいう。いや何の御心配もいりませんよ。何十年か日本で一心に伝道してごらんなさい。そのうち老人になると、日本人はあなたのことをきっとこういって尊敬してくれますよ。「あの人は宣教師だが、まことに宣教師くさくない、人間味あふるる立派な人だ云々……」。
何十年かたったら思い出して下さい。この「人間味あふるる」という言葉の意味と重さを。そしてそういわれたときに、あなたが日本教キリスト派に改宗したので、あなたの周囲の日本人がキリスト教徒になったのではないという事実も。
私は冗談を言っているのではない。日本教の中心にあるのは、前章でものべたように神概念ではなく、「人間」という概念なのだ。従って日本教の『創世記』の現代的表白に次のように書かれていても不思議ではない。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、くつろげて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
『草枕』を読まずに日本を語ってはならぬ。新聞記者などで、日本に二、三年いて、いっぱし日本通のような顔をした人間には、私はいつもそう言うことにしている。
(中略)
漱石、この西欧の古典、日本の古典、中国の古典、仏典までを自由自在に読みこなし、自分の作品の中に縦横に駆使しえた同時代の世界最高の知識人が到達したのは、「人の世を作ったのは人だ」という、日本教の古来から一貫した根元的な考え方である。
この世界には猫は住めても神は住めない。皮肉なようだが、旧約聖書には猫という言葉が全く出てこないのと対蹠的である。
猫は主人公だけれど神のいない世界、神が主人公だが猫はいない世界、この二つの世界に同時に住めると思う人がいたら狂人であろう。
宣教師さん、日本教創世記、日本教イザヤ書はしばらく措き、日本教にはどんな一面があるか、ある事件を通じてお話ししつつ、日本教『ヨハネ福音書』に進もう。
昔、あなたのようにはるばる日本に来た一人の宣教師がいた。彼がある日、銅製の仏像の前で一心に合掌している一老人を見た。そこで宣教師は言った「金や銅で作ったものの中に神はない」と。
老人が何と言ったと思う。あなたには想像もつくまい。彼は驚いたように目を丸くして言った「もちろん居ない」と。
今度は宣教師が驚いてたずねた。「では、あなたはなぜ、この銅の仏像の前で合掌していたのか」と。
老人は彼を見すえていった「塵を払って仏を見る、如何」と。失礼だが、あなただったらこれに何と返事をなさる。いやその前に、この言葉をおそらく「塵を払って、長く放置されていた十宇架を見上げる、その時の心や、いかに」といった意味に解されるであろう。一応それで良いとしよう。御返事は。さよう、すぐには返事はできまい。
その時の宣教師もそうであった。するとその老人はひとり言のように言った「仏もまた塵」と。そして去って行った。この宣教師はあっけにとられていたというが、あなたも同じだろうと思う。
これを禅問答と名づけようと名づけまいと御随意だが、あなたの言った言葉は日本教徒には全く通じないし、日本教徒の返事はあなたには全くわからないということは理解できよう。
禅の公案には何を素材に使っても良いのである。仏典でも、金銅仏でも、猫の首でも、いわしの頭でもよい。もちろん、聖書でもよいのだということを忘れないように。日本人が、聖句を用いて盛んに禅問答をしても、驚いてはならない。
そういう人たちは、日本教徒キリスト派といって、聖書の言葉で禅問答をやるのにたけている人びとであるから。
川端康成氏がハワイの大学で言ったことをお忘れなく。日本では「以心伝心」で「真理は言外」であるのだから。従って、「はじめに言外あり、言外は言葉と共にあり、言葉は言外なりき」であり、これが日本教『ヨハネ福音書』の冒頭なのである。
くれぐれも忘れないでほしい。あなたの生きて来た世界がユークリッドの世界だと仮定したら、日本教の世界は非ユークリッドの世界である。
(中略)
一方同じことが、逆の面から日本教徒キリスト派にも言える。聖書は日本語に訳されており、その訳文がすでに禅的であるが、その読み方・解釈となると、まさに禅である。
有名なイエスとピラトの問答の場面「われは真理を知らしめんとしてこの世に来れり」「真理とは何ぞ」といってピラトが返事もまたずに群衆の方へ出て行くところを、ある日本人牧師が解説していたが、ここの言葉と動作を、まことに絶妙な禅問答のように理解しているのには、私も非常に驚いた。
奇想天外とはこのことだろうが、いくら何でも、ナザレのイエスとローマ人のピラトに禅問答ができるわけはあるまい。
だがこんなことで驚くのは、私がまだ十分に日本教を理解していないからであろう。これも仕方がない。言外を語るということは、日本語が完全にできるようになって始めて出来ることなのだ。
そして実にこまったことに、日本教の根本理念を形成する「人間」なるものの定義が、すべて言葉によらず、言外でなされていることである。
従って日本教の世界に外国人は絶対に入れないし、外国の宗教も日本には絶対に入れないのである。いくら聖書を日本語に訳しても、日本人は、最も大切なことは、言葉によらず言外によるから(驚いたことに、いや驚く方がまちがいだが、あるミッション・スクールの先生で、生徒に、聖書の真理は「行間からくみとれ」と講義していた)、これはもういかんともしがたい。
聖書はその本文によらず、本文の言外によることになってしまう。従って、日本人にうけ入れられるのは、この言外だけになってしまう。それはもう聖書ではない。
前章でのべた法外の法と、今のべた言外の言、この二つが日本教の根本理念である「人間性」を定義しており、一切の異邦人は、この聖域に近寄ることを許されない。
ローマ軍はエルサレムの神殿の至聖所に乱入することができたが、日本教のこの至聖所には、たとえ原爆をもっても押し入ることはできない。
また異邦人は、日本語がペラペラにしゃべれても、この至聖所をうかがい知ることはまずできない。せいぜい、言外の周囲にあってこれを守っている言葉に近づくことができるだけである。従って何時間議論したって対話したって無駄である。ましてやその結果「日本人は結論をはっきり言わない」などという感想をのべるなら、言う方にはじめから、日本人と語る資格がないのだ、と言わねばならない。
とすればわれわれ異邦人が日本教に近づく道は三つしかない。
まず日本人が、一民族・一国家・一宗団であることを、他の国との比較の上で証明し、第二に、日本教を体現している人の言行と生涯を考察し、第三に日本教徒の他宗教(この場合はキリスト教)理解の仕方の特質を探ることである。
ではまず(1)からはじめよう。
日本では結婚しようとする男女が次のような会話をしても少しも不思議でない。「式は何でやろうか。神式もいいけどキリスト教式もいいね」。なるほどこれで良いはずである。いずれにせよ日本教でなのだから。
だがイスラエル共和国のような国ではそうはいかない。この国にはユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒(アラブ人)、ドルーズ教徒がいる。そしてそれぞれに宗教裁判所がある。
この宗教裁判所というものが日本人には非常に奇妙に見えるらしく、ある人などは中世の異端審問所のように考えていたらしい。早のみこみはこまったものである。私はいつも、これは日本の家庭裁判所と同じようなものですよと説明する。すると大体のことがわかるらしい。
事実ここで行うことは、結婚・離婚、養子縁組から相続、家庭内の法律的問題の調停であり、一審と二審があり、またここの調停もしくは判決に不服なものは本訴するわけだから、まさに日本の家裁である。
ではなぜこれが宗教裁判所となっているかというと、前記のような問題は、ユダヤ人はラビ法典に従い、イスラム教徒はシャリア法典に従い、ドルーズ教徒はドルーズ教法典に、キリスト教徒はキリスト教法典に従うから、どれもこれもまとめて「家裁」というわけにはいかないのである。
いずれの国でも国法のすそ野とも言うべきところに、宗教的な一種の慣習があり、多くの人はそれを守っていれば、だいたい、一生の間、裁判所などのごやっかいにならないのが常である。従って国民の大部分を規制しているのはむしろこの部分であり、イスラエル共和国ではそれが各々の宗教法であって、それの裁定を下すのが宗教裁判所である。
ところがもし日本で、日本には、神道、仏教、キリスト教の三宗教があるから、その各々の宗教裁判所をつくれと主張するものがいたら、まず正気ではないであろう。
私は今まで、日本において、こういった主張があったという話はきいていない。ということは、日本にはそんなものは必要でないし、必要があるなどと考えた人すらいないのである。宗典がちがえば生活のある面の規制がちがってくるのは当然だのだが、日本人の間にはそういった差はない。
ミッションスクール出で洗礼をうけたはずの女性が神式で結婚し、仏式で葬式をしても、だれも別にあやしまない。これを、宗教的に潔癖でないと考えるなら考える方が誤りである。日本人は実に潔癖なのだから。
これは、少なくともその実生活においては、ということは本心では、日本人はみな同一の日本教徒であることを、実際に示している。「何やかやと言ったってさ、所詮同じ日本人(日本教徒)じゃないか」。その通り、所詮同一教徒であって、実は、何やかやというのはその言葉尻だけなのである。
【日本人とユダヤ人/日本教徒・ユダヤ教徒の章より引用】
私自身、何かの宗教に入信しているわけではなく、していることと言えば神社仏閣にお参りしたときには、お賽銭を投げ手を合わせる事ぐらいなので、典型的な日本人ではないかと思うのですけど、日本教徒だという自覚は全くないなぁ。
仮にベンダサン(山本七平)のいうとおり、この日本教というものがあるのだとしたら、「人間味」さえあれば何でも許される点は、他の一神教と違って実に居心地の良い宗教と言えるのではないでしょうか。
他の一神教のように厳しい戒律もないので、女性も肌を晒せるし、豚や牛も食えるし、中絶すら黙認される。許されないのは「非人間的」行為のみ。
宗教だとしたら、人間本位のゆるゆる宗教ですよねぇ。
そういえば、井沢元彦は、逆説の日本史シリーズにおいて、日本史を貫いている原理として、和を尊ぶ精神や怨霊信仰、言霊信仰、ケガレ忌避信仰を挙げていますが、これも日本教の構成要素とかになっているような気がしますね。
なんだかまとまらなくなってしまいましたが、「無宗教なら、どの宗教にもすぐ染まるはずである」という指摘や、キリスト教が普及しない実情を鑑みると、ベンダサンの言うとおり「日本教」が存在するといえるのではないでしょうか。
ただ、我々が自覚しないだけなのかも…ネ。
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