徒然に小説の小径を散歩する
女ざかり 上―ある女の回想 (1963/05) シモーヌ・ド・ボーヴォワール 商品詳細を見る |
サルトルと共に実存主義の哲学者として一世を風靡したボーヴォワールは娘時代から老年に至るまでの長大な自伝を残した。
「女ざかり」は二十代から三十代まで、第一次世界大戦後から第二次世界大戦、ナチス政権下のパリまでの記録だ。これとて上下巻の長い自伝だ。
しかし、あくまで自伝だから難解な哲学書には歯が立たない私でも読める(笑)。女性らしい筆致の細やかさと豊かな感性で、この時代のインテリ達がどんな暮らしをし、何を考えていたかが詳細に綴られている。
サルトルとのいつまでも果てることもない語り合い、小説「異邦人」のカミュとの劇的な出会い、ナチス政権とフランス政権への辛辣な意見など、興味が尽きません。
その中で私が考えさせられたのは、ボーヴォワールほどの賢人でもヒトラーの戦争を、フランスがドイツ軍にあっさりと敗北し、その支配下に置かれるであろうことを全く予測出来ず、案外と楽観していたことだ。
人間は危機や破局を眼前にするまでは、案外と気楽でいられる生き物らしい。現代の日本人は「まさか中国と戦争になるハズは無い」と楽観視しているけど、果たしてどうなるか?
それにしても、ナチス政権下のパリでは一般庶民が飢えに苦しんでいるのに、ボーヴォワールは映画やオペラを鑑賞したり、レストランでおしゃべりしたりと、なかなか優雅です。
彼女は高校の教師をしていたらしいけど、それでこんな優雅な生活が出来たのかしら?とにかく、お金に苦労した話しは出てこない。実家が裕福だったのか。
こんな「プチブル」的暮らしをしている人がソ連共産党の動きに強い関心を示す。
しかし、「学問」というものは労働をしなくても済む身分の人間によって成立して来たものだから、決してボーヴォワールが特別ということではないのでしょう。
彼女はベートーヴェン、ストラビンスキーをよく聴いていたようだが、「特にラヴェルが好きだ」と言っているのは嬉しかったわ。オオッ、私と趣味が一致している。
彼女は旅や山登りが好きで、頻繁に出かけている。なかなか行動的だ。山登りでは崖から転落して命拾いしたこともあるようだ。なるほど!哲学者は海よりも山が好き、というのは私にもワカルような気がする。
日本でも哲学とは無縁な「ネアカ人間」は海を好み、悩むことの好きな「ネクラ人間」は山を好む傾向があるのでは?
さて、彼女の自伝にカミュの「異邦人」やカフカの「変身」に触れていたので、さっそく私も読んでみました。
変身 (新潮文庫) (1952/07/30) フランツ・カフカ 商品詳細を見る |
読んでみたら、ちっとも面白くなかった。朝目覚めたら巨大な虫になっていたとか、人を殺したのは太陽のせいだとか、目先が変わっているのは確かだ。
が、それがどうしたというのだ?で終わりだわ。日本であれば「ムシムシした暑さのせいだ」ってとこか。ここに「深遠な何か」が潜んでいるのか?思わせぶりなだけで、実際は何も無いんじゃないか?
ただ、その時代においては人の心を掴む何かがあったのでしょう。ある種のマイルストーンとしての意味はあったのかもしれない。また、いずれも短い小説だったことも多くの人に読まれた理由かもしれない。
あるいは、第一次世界大戦~第二次世界大戦という歴史において、「ヨーロッパ精神」の破滅・破局を予言していたとの意味合いもあったのか。
例えば、イプセンの「人形の家」や、安部公房の「砂の女」のように、その時代では衝撃的にウケたものなんでしょう。これらも今読むと、「どうってことない」けど。
それよりも、同じ時代のフランス文学であれば、ラディゲの「肉体の悪魔」やモーリヤックの「テレーズ・ディスケルー」」の方が、私にはずっとずっと深く人間の不条理を捉えた小説と思えるけどな。
カフカについては長編の「城」も読んでみた。一人が話す会話がエライ長く(数ページに及ぶ)、エライ退屈と来ていて、私は三分の二まで読んだ所でギブアップしました。駄作。お金と時間の浪費だった。もう二度とカフカは読まない。こんな小説を傑作と持ち上げる「評論家」の頭の中はどうなっているんだ。
サルトル、ボーヴォワール、カフカ、カミュ…日本でも団塊の世代の間では一時、大いにウケたそうだ。女子大生やOLが通勤電車の中でボーヴォワールの「第二の性」を読む姿もあったとか。
しかし、私の世代では、少なくとも大学時代から今まで「読んでます」という話しを聞かない。やはり、これらも「流行」だったのか。
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2013.08.15 | | コメント(8) | トラックバック(0) | 文学