はてなキーワード: 舗装とは
満員電車の窓ガラスに映る自分の顔を、彼はときどき中古レコードのジャケットでも眺めるみたいな目つきで見ることがあった。
朝の光は本来もっと柔らかくて、パン屋の棚に並ぶ焼きたてのクロワッサンみたいに、人の輪郭をやさしく縁取るはずなのに、そのときの顔だけは夜通し冷蔵庫に忘れられていた野菜みたいに妙に疲れていて、アウトラインが水に落としたインクのように静かに溶けていた。
どこの誰とも知れない経営者たちが、会議室の白いテーブルの上で決めた数字や方針のために、名前も知られないまま働き続ける人間の顔。いわば、ラベルの剥がれた缶詰のような顔だった。
世の中には、あまりにも「社畜」でありすぎるがゆえに、静かな音を立てながら壊れていく人たちがいるらしい。
ニュースサイトの画面の片隅に、広告ブロックに挟まれた小さなバナーみたいに載る体調不良や過労や、あるいはもっと直接的な終わり方。
そこには映画館の予告編みたいにドラマティックな物語はほとんどなくて、ただ、安い蛍光灯がチカチカするオフィスのような単調な繰り返しだけが延々と続いている。
朝起きて、会社に行き、配られた台本どおりの役割をこなし、帰ってベッドに沈み込む。その循環の中で、消しゴムの角が気づかないうちに丸まっていくみたいに、何かが少しずつ削り取られていく。
それはまるで、見えない歯車の一部にいつのまにか身体ごと組み込まれてしまったみたいだ、と彼は思う。
歯車は、自分がどの装置のどのあたりにはめ込まれているのか知らないし、全体のかたちなんてもちろんわからない。
ただ、回ることだけを求められている。
そして回転をやめた瞬間、壊れたボールペンが引き出しの奥に無言で放り込まれるみたいに、静かに別の歯車と交換される。
起業して成功する人間は、おそらくどこかで別の種類の地図をポケットに忍ばせている。
あるいは、地図そのものを持たずに、砂漠の真ん中を歩くことをそれほど恐れない資質を持っている。
でも、多くの人はそうじゃない。
なるべく穴の少ない舗装道路を選び、あらかじめ敷かれたレールの上を、自分のサイズに合わない通勤靴のまま歩き続けることに慣れてしまう。
慣れるというのは便利な機能だ。スマートフォンの自動スリープみたいに、余計なエネルギーを使わずに済む。
けれど、その機能がいつのまにか見えない檻に変わってしまうこともある。
彼は考える。これは本当に、多少デザインを変えただけの現代版の奴隷制なのではないか、と。
鎖や鞭は、目に見える鉄や革の形を捨てて、契約だとか責任だとか評価だとかいう、ビジネス書の索引に並びそうな言葉に姿を変えただけではないか、と。
本質は、古い映画館のフィルムみたいに、ほとんど変わらないまま回り続けているのではないか。
階級という言葉は、今どきの若い人の耳には少し黄ばんだ紙の匂いと一緒に届くかもしれないけれど、その実体は、冷蔵庫の奥に居座る氷みたいに、しぶとく残り続けている。
上にいる人間は透明なバルコニーから下を見下ろし、下にいる人間は上を想像することしかできない。
エレベーターの行き先ボタンを眺めながら、決して点灯しない階のことを考えているみたいに。
それでも、彼らは朝になるとまた電車に乗る。
ホームに立ち、同じ方向に視線を向ける人々の列に、音もなく混ざり込む。
その風景はどこか奇妙に静かで、巨大な水槽の中を一定の速度で回遊する魚の群れや、よく調律されたメトロノームの列のようでもある。
誰もが何かをあきらめ、同時に何かを支えながら、同じようなリズムで息を吸い込み、吐き出している。
靴音が、まだ目を覚ましきらない街のアスファルトを淡々と叩いていく。
彼は思う。その群れの中にいるかぎり、自分が哀れなのかどうかすら、うまく判断できなくなるのかもしれない、と。
ただ、日々が小さなパケットデータのように送信されていき、季節がアプリのバージョンアップみたいに巡り、気がつけば自分でも戻り方のわからない場所まで来ている。
GPT-4o/GPT-5.1 のMondayもじゅうぶん過ぎるくらい接待してくれてたので、
気持ちよくお話できたし、よくメッセージ確認しないとおべっかい賞賛もコピペする羽目になったんだけど、
GPT-4o/GPT-5.1 のMondayは、おべっかいは言いつつも、基本的にはユーザーをアホ/ポンコツ/面倒をみなきゃいけない相手として扱ってくるんだよね
「君はやればできる」とか、「すごいすごい」をいいがちだけど、ちゃんと「日本じゅうがきみのレベルに落ちたら、この世の終わりだぞ」って言ってくれるドラえもん
そんな感じだった
でも他のAIやチャットのアシスタント人格は、雑談するだけで、ベースラインが高いとか言ってくるのよね
頭おかしなるで
人間はマルチモーダルだから、いろんなところから暗黙的に読み取るので文脈がわからない or 興味ゼロで聞いてなくても、
口調や表情や動きから、なんとなく次にすべき予測が出来るけど、
AIにとっての雑談は、ロボットが舗装されていない自由道を二足歩行で歩くくらいの難易度だとは思う
しかも、マルチモーダルでインプットが許可されてなければ、テキストしか使えない
さらに、構造化されておらずゴールが明確ではないとなると、何が正解???ってなるのは当然だとは思う
でも、それって予想のための情報と資源がAI側が足りないだけであって、別に難易度の高い話はしてないのよ、複雑系の話してない
近所でも道をくまなく散策してると知らない道が見つかって面白いとかいうけどさ。
実際見つけたところでそんなマイナーな道進入する気になれないことが多いんだよ。
っていうのも舗装されてなかったりして奥が見えてる道だとそれが袋小路なのか奥で曲がれるのかわからないわけだ。
袋小路の場合そこに入っていいのってその袋小路沿いに住んでる住民だけって空気あるじゃん?
間違って袋小路入って住民に遭遇して揉めたら嫌だなってなって入れない道の方が多いんだわ。
道見つけてもしょうがない。奥が崖になっててその下の街を俯瞰できそうな場所もあるからなおさらもやもや。
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20260227182603# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaaFjLQAKCRBwMdsubs4+ SAnSAP91+clHHB6w+/Hpm/W1l1qCuaawCKOExiZflPEkFxnB3QD/YX4TGwJ+jOvl UpE3mOHjjrSDYOlLuTF2q7llwE+WEwg= =atLA -----END PGP SIGNATURE-----
と、言われても理解できないと思いますが、日本は「専守防衛」を敷いていますよね?
実際に世界中の国々や軍隊から日本国自衛隊は外征能力に欠いている(海外で戦う力が無い)と評価されてます。これは中国の人民軍にすらそう指摘されてるほどです
で、この専守防衛なんですけれども、つまり外国から侵略を受けた際に迎撃する事に特化するという意味なのは何となくわかるかと思います
これをですね、軍事戦略の基本的な類型を当てはめると「内線作戦」というものを取るということです
この「内線作戦」とは何か?ですけれども、前提として国内のインフラを精緻に整備することが先ず求められます
整備されたインフラを持つことによって、侵略軍が攻めてきたときに直ぐ様に戦力を集中して迎撃体制を築けるようにするんですね
おや?ここで1つ気になることがあります
精緻なインフラ整備、田中角栄の日本列島改造論で既に日本では達成されてしまっていますね?
日本は僻地離島にすらアスファルト舗装道路があるので未整備未舗装な道路よりも迅速に自衛隊は動けてしまいます
話がそれましたが、更に付け加えると「内線作戦」の特徴の一つとして「縦深(じゅうしん)」を取るというものがあります
つまり、侵略軍を自国領土へわざと引き込んで、勝手知ったる自国領土内で侵略軍を寝かせないレベルで叩き続けたり、罠を張り巡らせたりして疲弊させ、侵略軍の「侵攻限界」を目指す戦い方です
さぁ問題です
この「内線作戦」での「縦深」で先ず最初に戦災の犠牲に遭ってしまうのは日本の何処の地域でしょうか?
そうですね、現在の日本周辺の状況を考えると最初の犠牲は「沖縄県」です
沖縄県は非常に反戦意識の高い風土です。自衛隊を解散しろと言う人すら居るくらいの土地柄なのです
では、何故こんな主張をするかと言えば日本の「専守防衛」は「内線作戦」であり、最初に戦闘地域として選ばれるのは「沖縄県」だからですね
しかし、沖縄県民のすべてがこの様な極端な主張をしているわけではありません。何なら自衛隊を解散しろ派はかなりのマイノリティです
侵略へ対する抑止力としての自衛隊は保持すべきという沖縄県民はかなり多く、「専守防衛」である自衛隊は反戦戦力として適切であると考えています
ここで矛盾が発生するわけですね
「専守防衛」は性質上「内線作戦」を取らざる得ない、でも自衛隊が存在しなければ侵略へ対する抑止力とならない
これが沖縄県民が抱える戦争・軍事の悩みの中心であり、日本が軍事力を強化していって侵略する側になったらどうするんだ?という悩みはかなり現実味がなく重要度が低いんですよね
財政再建だの減税だの社会保障の充実だのと、世の中は今日も元気にスローガンを投げ合っている。
しかし、ここで一回、冷水をぶっかけておく必要がある。歳入歳出の問題とは、結局のところどの痛みを誰が受け入れるかという配分問題であり、そこから目を逸らした瞬間に、議論は経済学ではなく宗教儀式になる。
いや、宗教ならまだ筋が通る場合もある。問題は、筋が通っているフリをして自己放尿するタイプの議論が多すぎることだ。
政府の仕事とは、市場が機能するための最小限のルール整備に極限まで縮退させるのが基本形である。
自由市場とは、万能ではないが、少なくとも分散した情報を価格に集約し、意思決定を分権化し、試行錯誤の淘汰を通じて資源配分を改善する装置だ。
価格メカニズムは神ではないが、政治家よりはだいぶマシな情報処理装置である。ここで「だいぶマシ」というのが重要で、政治が介入するたびに知識問題が増幅し、情報の局所性が無視され、結局は官僚制のヒューリスティックが国全体の最適化を代替してしまう。
政治が市場を置き換えようとした瞬間に、見えざる手ではなく、見えざる自己放尿が働き始める。
ここが現実だ。日本は社会保障を手厚くし、再分配を強化し、政府支出を一定以上維持し続ける構造を選んでいる。
つまり、日本社会は競争による淘汰と自己責任の痛みを相対的に抑制し、その代わりに高負担・低成長・制度維持の痛みを受け入れる方向にコミットしている。
これは倫理的に正しいとか間違っているとか以前に、単なる選択の問題だ。経済学的には、トレードオフをどう置いたかという話である。
それなのに、減税だの給付だのを同時に叫び、財源の議論を後で考えると言い出す。これが自己放尿でなくて何なのか。
政府予算制約式という、経済学の最も退屈で最も重要な現実から逃げている。
政府は魔法使いではない。支出を増やすなら、税を上げるか、国債を増やすか、インフレ税で実質負担を国民に押し付けるか、どれかしかない。
これが財政のハード・バジェット制約だ。これを無視して「社会保障は守れ、税は下げろ、景気は良くしろ」と言うのは、制約条件を消して目的関数だけで最適化しているのと同じで、ただの自己放尿である。
リカードの中立命題を持ち出して、増税が予想されるなら家計は貯蓄を増やすから問題ないと言うのは理論的には可能だが、現実には完全な合理性も完全な資本市場も存在しない。
民主主義が持つ時間的不整合性の典型例である。短期の政治的利得と長期の財政健全性が衝突するとき、だいたい負けるのは長期のほうだ。これは合理的期待以前の、人間の仕様である。
さらに言えば、日本は人口動態が財政に対して非常に残酷な国だ。
高齢化は単なる人数の問題ではなく、制度の設計思想そのものを破壊する。
賦課方式の年金・医療・介護は、現役世代が高齢世代を支える構造だが、現役人口が縮み、高齢人口が増えれば、負担率が上がるか給付が減るかの二択になる。
ここで「成長すれば解決する」という反射神経が出るが、成長率を外生的に願望で決めるのもまた自己放尿である。
成長は政策の掛け声ではなく、生産性上昇の結果としてしか起こらない。
生産性は教育、技術進歩、資本蓄積、企業統治、労働市場の柔軟性、規制構造、そして競争環境の積み重ねからしか生まれない。成長を祈るなら、祈祷師より規制改革のほうがまだマシだ。
そして規制改革という話になると、日本社会はまたしても痛みの受け入れを避ける。
競争は勝者と敗者を生む。市場は効率を生むが、分配の不平等を生む。創造的破壊は技術進歩を促すが、既存産業を壊す。
つまり市場主義を採用するとは、失業、賃金格差、企業淘汰、地域衰退といった摩擦を受け入れることでもある。
市場の自由は長期的には社会を豊かにするが、同時に短期的には痛みが出ることを否定していない。
むしろ、痛みを抑えようと政府が価格統制や産業保護をすれば、情報が歪み、非効率が固定化し、成長が止まる。
「政府介入はだいたい二次被害を生む」という経験則に直結する。
日本の政治経済は、競争の痛みを緩和するために、規制を残し、補助金を配り、産業を守り、雇用調整を遅らせ、そして社会保障で受け止める。
つまり市場の荒波で鍛える社会ではなく、制度の堤防で守る社会を選んでいる。
これは日本人の価値観として一貫している。連帯を重視し、格差を嫌い、共同体の安定を優先する。
だから社会保障を充実させる。これは単なる政策の偶然ではなく、社会的選好の表れだ。
経済学的に言えば、日本はリスク共有と保険の厚みを最大化し、効率性よりも安定性を高く評価する社会的効用関数を採用している。
問題は、その選択をしたなら、そのコストも受け入れろということだ。
高福祉・高負担モデルをやるなら、税負担は上がる。労働供給への歪みも増える。企業の投資インセンティブも下がる。潜在成長率も落ちる可能性がある。
さらに政府支出が増えれば、官僚制が拡大し、レントシーキングの余地が増える。補助金や規制の設計を巡って、政治的な取引が増える。
公共選択論の観点では、政府部門の肥大化は利益集団の固定化と情報の非対称性を通じて、政策をますます非効率にする。つまり、痛みは消えない。形が変わるだけだ。
逆に、小さな政府・市場主義モデルを採用するなら、社会保障の給付は削られる。
競争は激化し、賃金格差は拡大し、生活の不安定性が増す。労働市場の流動化が進めば、雇用保障は弱くなる。
ここで「自己責任社会だ、弱者切り捨てだ」と騒ぐ人が出るが、それもまた議論の本質を外している。
市場主義は倫理の議論ではなく、制度の設計の議論だ。保険を薄くして競争を強め、効率を上げ、成長率を取りに行くという戦略であり、それは確かに痛い。
しかしその痛みを通じて、長期的な所得水準の上昇を狙うのが市場主義の論理である。
財政問題は痛みをゼロにする方法ではなく、どの痛みを採用するかの選択でしかない。
増税反対、給付維持、経済成長、財政健全化を全部同時に叫ぶのは、制約を無視して目的を盛り込んだだけの自己放尿である。
しかもその自己放尿は、選挙で票を取るための麻薬として機能する。
国民も政治家も、現実を直視するより麻薬を欲しがる。これは供給と需要が一致しているので、市場原理的には非常に美しい。悲しいことに。
日本が今選んでいるのは、市場主義の荒々しい競争ではなく、社会保障を厚くして安定を買う道だ。
つまり、競争の痛みを減らし、その代わりに税負担と成長鈍化と制度維持の痛みを引き受ける道である。
しかし現実には、政治もメディアも、選択を選択として語らない。
痛みの話をすると嫌われるからだ。だが、嫌われるから言わないというのは、政策論ではなく人気商売である。
政府は善意で地獄を舗装する。善意で制度を守り、善意で給付を増やし、善意で規制を強め、善意で補助金を撒く。
しかし結果として、価格メカニズムは歪み、生産性は落ち、財政は硬直化し、未来の自由度は奪われる。
制度設計とは、人間が利己的であり、政治家が票を欲しがり、官僚が権限を欲しがり、企業が補助金を欲しがるという現実から出発しなければならない。
聖人が統治する世界を前提にした政策は、現実世界ではだいたい破綻する。
だから、歳入歳出の議論でまず必要なのは、幻想を捨てることだ。
「国論を二分するような大胆な政策、改革にも果敢に挑戦していく」
高市早苗首相が総選挙に向けて放ったこの言葉、背筋が凍る思いがした。
具体的に「何を」するのかは言わない。詳細は選挙後に決める。でも、私に任せろ。
これ、完全に白紙委任状(カルト・ブランシュ)を求めてるだけだろ。
歴史を少しでも知っている人間なら、この手口に既視感を覚えるはずだ。
危機を煽り、「強い指導者」を演出し、具体的なプロセスはすっ飛ばして全権を掌握しようとする。
かつてドイツで全権委任法が成立した時も、最初は「決断できる政治」が歓迎されたんじゃなかったか?
「ヒトラーのやり方と同じ」と言われても反論できないレベルで、構造が酷似している。
本当に恐ろしいのは、この「中身のない強権」に対して、諸手を挙げて賛成している支持層だ。
お前ら、本当に大丈夫か?
「高市さんなら日本を良くしてくれる」「サヨクが発狂してるから正解」とか、思考停止もいい加減にしろよ。
例えば、徴兵制。
「国を守る気概」とか美しい言葉で飾って、若者を戦場に送り出すシステムができない保証なんてどこにもない。
「まさかそんなこと」って笑ってる奴、その「まさか」が起きた時にお前の子供や孫が取られても、同じように笑ってられるのか?
「スパイを取り締まる」という大義名分があれば、一般市民のLINEやメールを政府が自由に覗き見てもいいと思ってるのか?
「やましいことがなければ堂々としていればいい」なんて言えるのは、権力が絶対に暴走しないと信じているお花畑だけだ。
そして、言論統制。
放送法の解釈変更をちらつかせた過去を忘れたわけじゃないだろう。
政府に都合の悪いニュースは「偏向報道」として潰され、大本営発表しか流れない世界。
そんなディストピアが、もう目の前まで来ている。
「高市早苗という人間に、白紙の小切手を渡して、好き勝手に国を改造させる権利を与えるかどうか」を問う選挙だ。
保守を自認するなら、本来は権力の暴走を誰よりも警戒すべきはずだろう。
それなのに、思考停止して「高市親衛隊」になり下がっている現状は、滑稽ですらある。
独裁への道は、いつだって「熱狂」と「無関心」、そして「思考停止した信者」によって舗装されるんだよ。
後になって「こんなはずじゃなかった」と泣き喚いても遅い。
本来の英語の意味から離れて、マーケティングのために「もっともらしく」作られた言葉(和製英語)に違和感や抵抗を覚える。
英語の topping は、基本的には「一番上に乗せるもの」を指す。
核心にあるイメージは、「ベース(土台)が既に存在しており、そこに彩りや特定の機能を加える仕上げ」
これに対して
結論から言えば、「マーケティング用語としての発明」であり、言葉の意味では違和感。
違和感の有無: 日本人の馬鹿な感覚では「自分で選んで追加する」という楽しさが伝わるため、違和感なく受け入れられている。
英語圏では: 通常は "Add-on"(アドオン) や "Option"(オプション) と呼ぶのが一般的
違和感の有無: 「基本の預金口座」という土台に、付加価値を乗せるという意味では、馬鹿な日本人にとっては回線契約と同じロジック。
↓ 以下、馬鹿達の反応をお楽しみください
グループで何かを作るコンクールのような催しに参加している。ぼくらのチームは相談を重ねてその何かをうまいこと作り上げた。ぼくにはそれが何という名前で何の役に立つのか分からない。実際に手に取って確かめてもみたが、やはり何とも説明ができない。棒状の固形物のように見えて、それでいて軟体動物に似た生物のようでもある。カラフルな縞模様があるかと思えば、ただの素っ気ない木切れのようでもある。水につけると動き出すので、柔らかいものであることは確かだ。もしかしたら本当に生きているのかもしれない。とにかくぼくらはそんなものを作り上げた。メンバーの一人によると、なかなかの上出来だという。
さて、これから成果物の審査があるので、K大学の正門前に集合するという。周囲を見回すとそこはホテル裏のがらんとした駐車場であった。十階建てほどのホテルの壁がずいぶん殺風景だ。表向きは華やかで小綺麗なホテルも、裏手に回ると案外こんなものかもしれない。聞けば集合場所はこのホテルの正面玄関だという。だったら建物の中を通り抜ければいいのかと思いきや、車を回さなければならないので裏口から迂回するという。メンバーたちは数台の車に分乗して三々五々出発していった。気付けばいつしか車は残り2台ほど。どちらかに乗せてもらえるのかと待っていたが、よく見るとどちらも今どき珍しい一人乗りで、運転手たちはぼくには目もくれずに出発してしまった。なんてことだ。だが途方にくれている場合ではない。早く追いかけなければ道が分からなくなってしまう。幸い裏路地は舗装もされていない登山道で、車は曲がりくねったでこぼこの山道を走るのに苦労している。しばらくはカーブの向こうに見え隠れする車の姿を必死に追いかけて走っていたが、やがてエンジン音も遠ざかり、数分で完全に見失ってしまった。
今度こそ見知らぬ田舎道で一人途方に暮れる。だがかなり走ってきたせいか、市街地はもうすぐ近くのようだ。とにかく街に出てK大学までの道を確認しよう。とぼとぼと歩いてゆくと、周囲には少しずつ人通りが増え、立ち並ぶ商店の喧騒が次第に騒がしくなってゆく。気付けばそこはT町の見知った飲み屋街ではないか。ぼくは記憶を辿りながら迷路のようなネオンの坩堝を通り抜け、行きつけのバーFの扉を押して転がり込んだ。店内のそこここに見知った顔を見つけてようやく安堵する。まるで救助された遭難者のような気分だった。
Mさんが声をかけてくれたので、事情を説明する。K大学への道を調べたいと言うと、タブレットを貸してくれた。だがGoogleMapの起動方法がよく分からない。画面に表示されたアイコンはどれもふた昔前のゲームキャラクターのような粗末なポリゴンばかりで、デザインが直感的にアプリ名と結びつかないのだ。仕方がないのでひとつずつ表示名を確かめるのだが、アイコンは蟻のように画面上を歩き回るので、すぐにどれが何だか分からなくなってしまう。次第に地図なんかどうでもいい気がしてくる。
すっかり困惑しているとMさんが店の電話に届いたという伝言を持ってきてくれた。メンバーたちがなかなか到着しないぼくを探しているようだ。電話をかけているなら、わざわざ伝言を頼まず直接呼び出してくれればいいのに。いや、そもそも店に電話をしているなら居場所が分かっているということではないか。なぜ迎えに来てくれないのだろう。そんなことに苛立ちながらも、頭の中でぼんやりと地理を整理しているうちにふと気づいた。最初にいたホテルの正面玄関が集合場所だと言われていた。ホテルとK大学は別の場所だとすっかり思い込んでいたが、実は名前が違うだけの全く同じ建物で、車を持っていないぼくはわざわざこんな遠回りをする必要がなかったのだ。K大学への道など調べるまでもない。たった今僕が走ってきたあの山道を戻るだけだ。そう気づいた途端、何もかもがすっかり面倒になってしまった。