はてなキーワード: ムックとは
わくわくさん「ガチャピン、ムック!dorawiiにジェットストリームアタックを仕掛けるぞ!」
表題のとおりです。
事の発端は、12月12日に飯田一史さんは記事「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか(抄)」 https://ichiiida.theletter.jp/posts/0aa160a0-d70f-11f0-aa07-8582de6095b5 (以下、飯田の批判)において、三宅香帆さんの著作『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1212-b/ (以下、三宅本)の誤りを指摘したことでした。
これに対し、翌日の13日に三宅香帆さんは記事「「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか」はどこが間違っているのか」https://note.com/nyake/n/na2d317b47bc5 (以下、三宅反論)を投稿し、飯田の批判に対する反論を試みました。
このエントリでは、両者の主張に対する見通しを良くすることを目的に、飯田批判と三宅反論の論点を整理したのち、それぞれの問題点を指摘していきます。
まとめたのは人文系の話には疎い人間のですので、誤りも多いかと思いますので、まあ話半分で読んでもらえればと思います。
なお、飯田批判は、飯田一史さんの新著『この時代に本を売るにはどうすればいいのか』(星海社新書)https://ji-sedai.jp/book/publication/konojidaini.html からの抜粋であることを念の為補足しておきます。
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📰 0. 三行要約(問題点)
・飯田批判は、特に「三宅本は(出版流通における)「書籍」と「雑誌」を分けていないからダメだ」という主張に相当問題があると思う。
・三宅反論は、そもそも「反論」できてない。言い換えると、飯田の論理展開をあまり追えておらず、誤読を基に論理を展開するため実のある話があまりない。
・三宅反論は、三宅本の議論の前提に基づく問題を、あたかも飯田のデータ処理の問題にすり替えていて、個人的にあまり心象が良くない。
以下、飯田批判と三宅反論についてより詳細に検討していきます。
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飯田の批判の主張とその根拠、主張を正当化する論証について整理を行います。
理屈が明晰な箇所もある一方、煙に巻くような箇所もあって、議論を追うのはすこし大変だったような印象です。
・直接的には指摘ではないものには「◯」
また、論拠を準備していない主張には大括弧[]で囲っておきます。
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(「・働き始める前から読書量は減り、働き始めた後も日本人の読書量は減らない」の節)
◎主張1-1. 三宅本は、労働により読書量が減少することを前提にする。
しかし、これは誤りであり, 読書量は労働が始まってから変化してはいない。
<主張1-1の論証>
根拠1-1-1および1-1-2は, 読書量の低下は, 労働が始まる前の現象で、それ以降では起きていないということを示す。
これは、三宅本の前提を棄却するデータであり、ゆえに主張1-1が示される。
<論証おわり>
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◯主張1-2. 書籍における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白ではない。
<主張1-2の論証>
*根拠1-2-2. データ: 紙の書籍の推定販売金額と月の平均読書冊数
根拠1-2-1, 1-2-2, 1-2-3のいずれも、書籍に関しては、「買う」の増減から「読む」の増減を帰結することやその逆を主張することは難しいことを表している。
<論証おわり>
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◯主張2-1. 雑誌における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白である。
<主張2-1の論証>
*根拠2-1-1. データ: 紙の雑誌の推定販売金額と月の平均読書冊数
根拠2-1-1は、雑誌に関しては、「買う」と「読む」の間に相関があることを示している。
<論証おわり>
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◎主張2-2. 三宅本では、書籍と雑誌の区別ができていない。
<主張2-2の論証>
根拠2-2-1は、三宅本において雑誌と書籍を区別できていないことを示している。
<論証おわり>
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[◎仮設2-3. 三宅本は、「読書離れ」を論ずる際には雑誌と書籍を区別するべきである。]
(これは明示的に飯田批判にあらわれていないが、以下の主張2-4の論証において機能する暗黙の前提である、と私は思う。)
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◎主張2-4 三宅本は、『読書世論調査』における「読書時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張する。しかし、これは不適切である。
<主張2-4の論証>
*根拠2-4-1. 「読書時間」は「書籍+雑誌との接触時間」である。主張2-1から、雑誌の接触時間は減少傾向であると推察されるので、
「読書時間」の減少は(書籍ではなく)雑誌との接触時間の減少と解釈するのが自然である。
*根拠2-4-2. そもそも「読書時間」もそれほど減っていない。
*根拠2-4-3. 『読書世論調査』の総括では, 読書率はあまり変化がない.
根拠2-4-1, 2-4-3から、 「読書時間」の減少は書籍との接触時間の減少を導くのは難しい。
[仮設2-3]から, 「読書離れ」は特に書籍の読書時間減少を意味すると解釈するべきであり、
また, 根拠2-4-2の存在は、特に読書時間の減少が生じていないことを示唆する。
<論証おわり>
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◎主張3-1. 三宅本は、日本人が現在も長時間労働であることを前提にしている。
しかし、労働時間を「全産業平均」の観点で見たとき、この前提は不適当である。
<主張3-1の論証>
*根拠3-1-1. 厚生労働省「わが国の過去50年間(1973年~2023年)の労働時間の推移についての考察」
<論証おわり>
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◎主張3-2. 三宅本は、次の(i), (ii), (iii), (iv)を主張する:
(ii) 自己啓発(労働による自己実現)のための読書(=「情報」摂取型、「ノイズを除去する」「〈社会〉を遠ざける」)時間が増加した.
(iii)代わりに、人文書や小説などのための読書(=「アンコントローラブル」な「ノイズ」や「他者の文脈」を含む)時間が減少した
(iv) 読書離れと自己啓発書の伸びはまるで反比例のグラフを描く
<主張3-2の論証>
*根拠3-2-2. グラフを書くだけの定量的な根拠はない(提示されていない)
根拠3-2-1から、労働者の 「自己研鑽」 = 「学習・自己啓発・訓練(学業以外)」の時間は減少している。
これは(ii)を否定する。
主張1-1および(ii)より(iii)は成り立たない。((iii)が成り立つためには(ii)が成り立つ必要があるため。)
根拠3-2-2は、(iv)を否定する。(少なくとも、(iv)の主張を肯定するだけの理由はない。)
<論証おわり>
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◎主張3-3. 三宅本では、自己啓発書市場の拡大から自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きいかのように解釈する。
言い換えれば、次の(1),(2)を主張する:
(2)(1)が正しいのであれば、「自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きい」は正しい。
<主張3-3の論証>
根拠3-3-1は、「年間ベストセラーにおける自己啓発書の冊数割合は増大している」ことを主張する。
しかし, 根拠3-3-2は 自己啓発本の市場は小説市場よりはるかに小さいということを意味する。
これは、(1)が正しいのに「自己啓発書のほうが~」が間違っているので、(2)は正しくない。
<論証おわり>
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[◎主張3-4, 三宅本は, 上の(1), (2)が成立するとしていたことが原因で、(i)から(ii)および(iii)を導いた]
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以下で、飯田批判を読んでいたときに、個人的に気になった点を列挙します。
●飯田主張2-4について:「書籍」と「雑誌」の区別は本質的か?
主張2-4の背後には「書籍と雑誌は分別するべきである」という暗黙の前提(仮設2-3)があるように思う。
三宅本の「読書」から「雑誌」を除外することは本当に妥当かを考えたい。
といっても自分は出版業界の人間ではないので正しい理解かは怪しいのだが、調べた範囲のことをまとめておく。
(間違ったこと言ってたらごめんなさい)
「書籍」「雑誌」の辞書的な定義はたとえば布川ほか編『出版事典』(出版ニュース社)のp.217およびp.167にある。
ざっくりまとめると「書籍」と「雑誌」の違いは一定の編集方針の下で定期的に刊行されているかどうかという部分のようである。
これは、1985年のユネスコの出版統計上の「図書」と「新聞及び定期刊行物」の違いともおおむね合致しているように見える。
("図書、新聞及び定期刊行物の出版及び配布についての統計の国際的な標準化に関する改正勧告". 文部科学省. https://www.mext.go.jp/unesco/009/1387396.htm)
より実際的な取り扱いは, "既存の雑誌が「創刊」とは、これ如何に". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20070111/
によれば、
そもそも本というのは「書籍」と「雑誌」に大別されますが、出版業界では「雑誌コード」が付されたものを厳密に「雑誌」と区分しているのです。
一見雑誌のように見える本も、このコードがなければ「雑誌」ではなく「書籍」ということになります。
ということらしい。(しかし、これはあくまでコラムの中の記述でありカチッとした話ではないことに注意)
「書籍」と「雑誌」の実際上の取り扱いの違いは、「雑誌コード」の有無、つまり流通上の取り扱いの違いから生まれてくるという。
日本では、「書籍」はISBNコードを持ち、「雑誌」はISSNコードや雑誌コードを持っている。
その中間にあたるムック本では、ISBNコードだけでなく雑誌コードも付随しているようなものは「雑誌」の対象とするようである。
("「雑誌」の定義と出版統計". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20060911/)
ともかく、「書籍」と「雑誌」を分けるのは明らかに内容やジャンルではない。定期的に刊行するかどうかであったり、それを根拠に雑誌コードが付いているかどうかだったりである。
コミック誌を除外したとしても、『anan』のようなファッション誌もあれば『文學界』や『オール読物』のような文芸誌も、また『Nature』や『ナショナルジオグラフィック』のような理工系の雑誌もまとめて「雑誌」にカテゴライズされる。
さらに言えばサイエンス社の『SGCライブラリ』シリーズの書物は, それぞれ内容的に全く独立しており実質的に単行本ではあるのだが、『SGCライブラリ151』までは『数理科学』の臨時別冊という扱いだったのでそのカテゴリは「雑誌」になっている。(なお『SGCライブラリ152』以降は「書籍」である)
一方、書肆侃侃房の『文学ムック たべるのがおそい』は確かにムック本ではあるが、雑誌コードを取得しておらず取り扱いは「書籍」であった。
このように「書籍」と「雑誌」の区分はそもそも出版流通上の区分であり内容面での区分ではないばかりか、その区分が出版物の実情と必ずしも合致しているわけでもない。
この区分はかなり表面的、形式的なものであると見るべきだろう。
・以上を踏まえて、飯田の批判、つまり「書籍」や「雑誌」という出版流通における区分の不徹底でもって三宅本を批判したことの妥当性ついて吟味してみよう。
それは、「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)という批判である。
そして、なぜ飯田が「不適切である」と主張するかといえば、「書籍」と「雑誌」は分けて考えるべき(仮設2-3)だからと考えているからであり、
特に三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍の読書量(≒読書時間)の低下」を採用するほうがより妥当である、という飯田が信念を持っているからである。
ここで注意したいのは、主張1-2, 2-1は「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)の根拠ではない。
飯田はその直前に「「書籍の読書量と出版売上」の相関は弱い(主張1-2)一方で、「雑誌の読書冊数と出版売上」が正の相関関係にある(主張2-1)という事実を指摘してはいるものの、飯田はこれらを「読書量を測定するにあたって「書籍」と「雑誌」を区別するべきである」(仮設2-3)の根拠にはしていない。主張2-4は仮設2-3からは出てくるものの、主張1-2, 2-1には立脚していない。三宅反論で大いに誤読したのは、主張1-2, 2-1があたかも主張2-4の根拠になっているかのような書きぶり、配置の魔術ゆえであろう。
ともかく、飯田の批判の妥当性を吟味する際はこの信念「三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍の読書量(≒読書時間)の低下」を採用すべきである」という部分に注目すればよい。
三宅本で対象としている「読書」は、大方「人文書や小説などのような(「ノイズ」や「他者の文脈」を含む)書物を読む行為」と解釈するのが妥当だろう。
したがって「読書離れ」は「人文書や小説などの書物を読む頻度が減ったり、そのために費やす時間が減少している」ということだろう。たとえば理工書や技術書、ファッション誌、ゴシップ誌などを読むことは端から三宅本の「読書」に含まれていないと見るべきである。
転じて言えば、たとえば「雑誌」であっても文芸誌を読む場合は「読書」に含まれるべきだろうし、「書籍」であっても理工書を読むことは「読書」に含まれない(と三宅本では考えている)かもしれない。
要するに、「読書」といったときに、読まれるべき書物を分類できていないと批判するならば、むしろそのジャンル(文芸・歴史書・哲学書・理工書・サブカル・ゴシップ・ファッションなど)の違いに着目するべきなのであり、出版流通における「書籍」「雑誌」という区分は、少なくとも直接的には重要でないだろう。もしこれが重要なのであれば、それは驚くべきことなので、別でこれを論証すべきである。
もちろん、おそらく「雑誌」の出版売上の中でファッションやゴシップが支配的で文芸誌や理工系雑誌は影が薄いだろうから、その意味で「書籍」「雑誌」の区分で売上を観測することがジャンルの傾向をよく記述するとは言えるかもしれない。言い換えれば、「ジャンルによる読書量の違い」を捉えるにあたって「出版流通における Permalink | 記事への反応(0) | 20:21
大学時代から、プログラミングとか、電子回路とか、金属加工とか、凄い人が周囲にいっぱいいたけど、
自分は何者にもなれなかったけど、最近の中国とか見てると、二足歩行ロボット楽しそうすぎるし、
そもそも、プラレス三四郎とか、メダロットがやりたかったはずなのに、今の俺は何やってんだろう、みたいに愚痴ったら、
複雑な制御系とか、レベル高いのは難しいけど、意外と市販の基板の組み合わせとかでなんとなかるもんです、
箇条書きズラズラ、やってみたら意外とできるかもしれませんよ、みたいに言われて、
まあ、でも、なんとかならんかったんよね…😟
3Dプリンタで出力して、サーボ組み込んでロボットっぽいものまで作ったら、それでもう疲れちゃって…😟
大分日数が経って、忘れたぐらいに改めて自分が作ってたものの残骸を見て、あー、意外と良くできてたな、みたいに思ったりもしたんだけど…😟
そういえば、大学時代に、今みたいな便利環境のない時代でのマイクロマウスの本、
トラ技のムック本?みたいなの読んで、こういうのできたらなあ、みたいに思ったんだけど、
比較的最近で例えるなら、まずCPUをトランジスタで作って、そのCPUを使ったコンピュータを作って、
そのCPUで動作するOSを作って、そのOSで動作するプログラミング言語とかも作って、
みたいなのは、まずレイヤーごとに作れば、なんとかなるのかもしれない、
でも、その当時のトラ技の本とか、最近でもそういうことができる人いるけど、
低レイヤーから坦々と組み上げていくわけですよ、まるで一人でピラミッド建造するみたいな、
昔から今の自分まで、一貫して自分に足りないのは、その体力というか、胆力だと最近も思ってる
そこが圧倒的に足りない…😟
自分は浮気性なので、集中して何かやっても、なんかこれは線形とか比例して成長していけそうだな、
と思ったところで、ダレてしまったりして、要は、これってもう努力と結果が比例するだけなんだ、と思っちゃうと駄目…😟
それより、あー、これは努力では突破できない、これを最初に思い付いた奴はスゲーな!みたいなのが好き、
そういえば、ワナビーじゃなくてウォナビーズの出来の酷さは、キャラデザの園田健一先生もずっと根に持っていたんですね、
今更、なんかで見たけど、たしかにあれは酷かった…😟
なんの話だったっけ…😟
ツイッター(自称X)でどの世代がドンピシャだのなんだの話題になっている。
まず、平成女児という流行においてはどう見ても平成元年~10年頃生まれが主に幼少~小学生時代に流行ったものがリバイバルグッズとして販売されいる。
ただ平成女児という言葉そのものにおいては平成に女児だった人すべてが含まれる。
これらが対立すべきではないと思う。リバイバルのメインターゲットが違うだけなんだよね。
呼称が同じなのが悪い。というか売る側やメディアがネットの言葉そのまま使ったのが悪い。
平成女児といいつつ2010以降流行ったものはリバイバルしていない。
アイカツやプリパラはシリーズ物だからちょくちょく復活してるから別にリバイバルとは感じないし、
プリキュアもやたら初代(MH含)と5(gogo含)が推されているが、間のSSはスルーされがちだし。
つまりは売る人たちは売れればなんでもよくて、もともと売る予定だったものに勝手に平成女児と名付けてるだけだと思っている。
それはそれとして、この問題で「自分たちはなんだったのか、虚無の世代」という発言がちらほら見られた。
虚無なんてことはない。森ガールファッションがしまむらにめちゃくちゃ並んでたり、KERA系ファッションがアベイルにめちゃくちゃ並んでたじゃないか。蛍光色のプラスチック製鎖とかあっただろ。なあ!
きゃりーを筆頭に原宿系が市民権を得たり、ボカロや深夜アニメが市民権を得始めたり、進撃が流行ったり、いろいろあったはず。まぎれもなく平成だよ。
サン宝石だって平成女児っていわれてるけど、ほっぺちゃんに限っては君らの世代のものだろ。
まあ…それらがリバイバルされるのはいつになるかわからないけどさ。
ただやっぱりこういう人たちを見ていると、自分が時々考えている最近のコンテンツリバイバル推しすぎ問題がチラつく。
なかよしは顕著だった。セーラームーンを始めCCさくら、ぴっち、しゅごキャラ。
平成女児だった人たちを狙ったコンテンツを、今を生きる女児がメインターゲットのはずの本誌で続編だの周年付録だの。
別冊やムック本、なんならウェブコミックのみでやればいいのにと思ったよ。(その点りぼんはがんばってるね、すごいね。)
今の子供たちが25歳くらいになったとき、何をリバイバルする気なんだろう。今の子供たちが大人になったとき、「私たちの世代といえばこれだよね」って言えるものはあるのか。
余計なお世話、大きなお世話だと思う。でも、自分がいろんな新作コンテンツ、新作おもちゃがバカスカでてた時代に女児できたのは、そういう新しい時代を作ろうとする大人がいてくれたからだと思うから。
なかよし70周年の付録を見て、50周年のときに過去人気だった作品のポストカード!とかじゃなくて本当に良かったと思ってしまったから。
だって実際、武内直子先生のときめかが新連載で始まったとき、当時は「絵柄が古臭い」とか思っちゃったもん。
自分の周りのなかよし読者もときめかは読んでないって言ってる子がほとんどだった。(自分は読みはしていたけどやっぱり絵柄が気になっていた。)
大人になった今見るとかわいいと思うし、面白いとも思ったけど、短期で終わったのはそういうことでしょ。
簡単に儲かるからってウチらの財布ガン見すんな。新しいもの作って今の女児と新しい時代を作れ。もう令和7年だぞ。いつまで平成にすがっとんねん。
※今回の「合丼来来(あいどんらいき)伝・6」で話すことは、「合丼来来(あいどんらいき)伝・5」の裏側で起きていた出来事です。
「アフィリエイトブロガーのゆざいちょ」が「都条令改正反対運動に参加するゆざいちょ」となり、更に「Twitterスパマーゆざいちょ」へと進化していたのと同時期の話。
2008年頃から、「BabyLook Portal - おむつ情報サイトベビールックポータル」というニッチな性癖(オムツ・おもらし性癖)の人達の集まるサイトのチャットに、
元々そのチャットにいたメンバーから紹介される形で「合丼来来(あいどんらいき)」という名前の人物が出没するようになっていた。
最初にチャットに現れた頃こそ丁寧な口調と低姿勢な言葉遣いだった彼は、チャットに現れる様になってから1年と少しが過ぎた2010年頃には、
チャットで周囲の人が引いている事にも気付かず「都条令に賛成する奴は表現の自由の敵だ」のような政治的な発言もするようになっていた。
この「合丼来来(あいどんらいき)」という人物の正体が「ゆざいちょ」であることに気付いている者は、2010年まで一人も居なかった。
活動を開始した時期がmixi騒動の直後であることから、過去の素性を隠して活動するために、過去の活動範囲と重ならない範囲で別名義を名乗り始めたのだろうと推察される。
なお、備考として述べておくが、mixi時代にゆざいちょとリアル付き合いのあったグループはmixi騒動後、ゆざいちょと絶縁した(ゆざいちょを自分達のグループから追放した)と聞いている。
ここからは、ある人物(ベビールックポータルのメンバー)から受け取った時系列メモをそのまま書き写す。
これが、ベビールックポータルのメンバーの視点から見た、合丼来来の動き関連の流れだそうだ。
<注1>
ブログで書かれた作品紹介記事には、ブログの開設から年を経るほどに「紹介している作品を購入して読んでいれば間違えるはずのない間違い」が増えていき、
記事で紹介された商業作家の中に「訂正を求めたものの聞き入れてもらえなかった」と後に証言した作家もいる。
また、「紹介している作品を購入して読んでいれば間違えるはずのない間違い」が増えていくことから、
次第にベビールックポータルのメンバー内でも、本人がいないところで
「合丼来来は作品紹介記事を書くのに、サンプル部分や無料部分とサムネイルだけに目を通して記事を書いている」
という評価が出るようになる。
<注2>
編集長は、合丼来来には「書くペースは速いよね」と、「自分で書いた作品を自分で読み直して推敲する癖を付けて欲しい」をオブラートに何重にも包んで言っていた。
しかし、合丼来来は、それが何重ものオブラートに包まれた言葉だと気付かず「編集長から、書くのが早いと誉められた」と、
その裏にある意味を全く考えず称賛の言葉として受け取っていた。
掲載された小説を読み返していれば、本人が出した原稿と掲載されている内容が違う事に直ぐに気付けるぐらいに修正がされていたので、
読んだ上で「自分の小説のクオリティが商業レベルに達してないと気付いて落ち込む」か「勝手に修正されていることにキレる」かのどちらかの反応が
生じることを周囲(ベビールックポータルのメンバー)は期待し、どちらかの反応が生じた場合「編集長が半分近く修正している」という事実を明かして、
本人に自覚と向上心を植え付けたいという意図での「自分で書いたものを後から読み返した方が良いよ」だった。
こうした流れがある中で、「合丼来来(あいどんらいき)伝・5」で書いた通り「ゆざいちょ=合丼来来」という事実が判明し、
合丼来来は「ベビールックポータル」のメンバーから干される(距離を置かれる)ようになる。
つまりこういうことです。
僕らの頃はインターネットもなく、サブスクもなかったので、『エヴァ』からオタクになった若い世代は、『ガンダム』『イデオン』や、『王立』『トップ』といった文脈の中で作品を見る、ということが今よりずっと困難だった。— 前島賢(大樹連司):文学フリマ新刊委託中 (@MAEZIMAS) June 14, 2025
マジレスすると、エヴァ放送当時、たとえばテレビのガンダムシリーズはまだビデオ化されていませんので、レンタルビデオ店があっても見れません。https://t.co/59heghKrGn— 前島賢(大樹連司):文学フリマ新刊委託中 (@MAEZIMAS) June 14, 2025
こういうことって、若い世代に受け継がれないし当時を生きた人間でも「どうだったっけ?」となったり偽の記憶に上書きされたりするよな〜。仮面ライダーシリーズみたいな超メジャー作品でも、ある時期までレンタル店に置いてあるVHS、名エピソードの抜粋だったので全話視聴はかなり難しかった、とか。 https://t.co/uc7OcrMISQ— 四海鏡 a.k.a. ホンナタカヒロ (@shikaikilyou) June 14, 2025
Xで話題になってたこの話題(これ自体はシロクマ先生のデータベース消費論がツッコミを食らってることから派生した話題だったんだけど、そこは関係ないから省く)、これマジでそうなんだよ。
いまでこそSNSを開くと毎日毎日毎日毎日毎日毎日ガンダムの話をしている人たちがいるが、ある時期までは1stガンダムって「昔のアニメ」だったんだ。これは現在では忘れられがちな視点だ。要は仮面ライダーにおける初代と同じような扱い。前島賢は1982年生まれらしいけれど、増田は1983年生まれなので、だいたい同年代だ。幼少期はSDガンダムが最盛期であり、増田もまたSDから入ってリアルガンダムを見るようになり、さらに遅れて90年代終盤にようやく1stガンダムをちゃんと見た。
その流れがどこで変わったか(1stガンダムが“蘇った”か)というのはいくつかあって、やはり「ガンプラ」と「ゲーム」が大きかったと思う。あと他にも「エヴァブーム」(正確にはエヴァブームのあとのメディアにおける1stガンダムの扱い)、「ガンダム20周年」、「ガンダムエース」、「ネット世論」とかもあるんだけど。
ガンプラは現在でこそ1/144でも1/100でもRX-78がいくつもリリースされて、「もういいよ!他の機体出してよ!」と言いたくなるくらいだが、90年代はそうではなかった。90年前後はリアルガンダムの売上はSDガンダムの半分以下だった( https://torja.ca/entame-zanmai1711/ )。ガンプラの新作ラインナップは現行の新作シリーズとSDガンダムで占められており、昔のアニメである1stガンダムの機体が商品化されるのは異例だった。HG(いわゆる旧HG。カトキハジメがイラスト描いてるやつ)でRX-78などがリリースされたことはあったが、再評価の起爆剤となったのは1995年発売のMGだ。今の技術で真剣にガンプラを作ったらどうなるかというコンセプトで制作されたMGは、高価格帯(今から考えると安い)ではあったものの、ガンプラブーム世代を再びガンプラに引き寄せて商業的成功をおさめた。1999年には1/144のHGUCシリーズも始まった。ちょうど2000年前後の数年間は現行作品キットのリリースが数的にも落ち着いていた時期であり、代わりに頻繁にリリースされるMGとHGUCの新作キットがガンプラの主力となっていた。昔の作品と近年の作品と現行の作品のキットが同じカタログに並ぶようになった。ガンプラのGジェネ化というかMS大全集化というか、そのように呼べるような傾向が進んだ。
そして、ゲーム。これが大きい。米津玄師もガンダムに触れたのはGジェネFからだと語っていたが、90年代においてコンシューマーゲームの存在感は無視できるものではない。
やはりゲームにおいても90年代前半にリリースされていたガンダムゲームの多くはSDガンダムと現行シリーズだった。しかし32ビットゲーム機の登場から流れが変わる。ボイスやアニメが再生できるプレイステーションやセガサターンでは、過去作を扱ったタイトルが頻繁にリリースされるようになっていく。昔のアニメは見たことがないけれどゲームを通して過去作を履修する世代が生まれる。三国志のゲームで武将を覚えたり、ウイイレで欧州のサッカー選手を覚えるのと同じだ。アニメは見たことがないのに何度も何度もドズルの名台詞を聞き、リアルタイム世代でもロクに名前を覚えていないようなフライマンタやTINコッドを覚える。
増田はプレイステーション発売直前のプロモーションビデオで、開発中の「機動戦士ガンダム」の映像を見て、「えっ、初代ガンダムのゲーム出るの!しかもポリゴン!まるで本物!」といたく感動した記憶があるのだが、今見ると ( https://youtu.be/Ajsls4wsaOI?si=t74InA4f8-UfdSYb&t=907 )なんとも言えない映像だな、、、
あとガンダム20周年ね。それに合わせて関連商品、関連ムックが数多く企画された。絶版状態だった「ガンダムセンチュリー」も復刻された。この時期になると1stはすっかり“蘇った”と言えるんじゃないかな。そのあとは新作グッズに最新作(SEEDなど)と1stが同格で選ばれることも珍しくなくなる。
ところで件のポストには「再放送があった」という意見がいくつか寄せられているけど、少なくとも90年代の関西では1994年ごろにMBS深夜にやっていたのしか記憶にないよ。1stTV版が再放送されまくっていてそれを浴びれたのって団塊ジュニアじゃないかな。
俺も元々は考察好きで、大学時代には考察に熱が入り友人と語り明かしたことも度々あった。
ムック系の類いを何冊も購入したり、同じ話を何度も繰り返し視聴しては細かい点に目を凝らして「今の演出の意図は○○じゃないか?」とか、あの発言の真意は○○だ!みたいな、考察に熱中していた。
これまでの流れを二転三転する展開、文脈を無視して進むストーリー。おや?と気づき始めたのは、実は破の頃からだったのかもしれない。
それはQになると確信に変わり、これまでの考察は全てが無に帰した。
細やかな演出や台詞の間、意味深な発言から自分がいくら考察しようとも、それらは制作者による鶴の一声で全てが覆されてしまうといった事実に。
これまでの流れを鑑みるに、ジークアクスにも同じ空気が流れている感は否めない。
俺たちがいくら考察しようとも、そこに突如として、何の前触れもなく新しい設定をどーんと登場させて、これまでの考察一切を無駄にする。
結局は作者の掌の上で踊らされているどころか、そもそも考察した対象自体にはなから意味はなかったのだ。
意味があるように見せつつ中身は空。
それが実際、本当に意味がある場合もあるが、しかしジークアクスにそこまでの意味があると信じていいのだろうか?
ファーストガンダムが好きで、だからこそ期待して観ているし、久しぶりに考察もしたくなった。
しかし考察したところで次週に突然奇抜な設定が登場してそれが全ての説明になり、謎の答えはそれによって説明される。そんな可能性があるんじゃないかと疑ってしまう。
俺は未だに、鶴の一声を怖れている。
たとえばこれが「ワンピース、島のボーイ」なら多少は議論の余地がある。
たまたま見かけた子供がこれを尾田栄一郎公認だと思ってしまう可能性もゼロではないからだ。
世の中にはサンジとゾロが裸で仲良くしてる本をワンピースの公式ムックですぞと勘違いする子供や、「何が好き歌で自分を語れよ!」をルフィのセリフだと思い込んでいるゲーム開発者だっているのだから。
だが、「ワンボーイと島のピース」を「ワンピースのゲームだ!」と勘違いする奴は流石におらんやろ。
たとえばポケモン公式が「ポケットの中のボールに入っているモン」とかいう名前でゲームを出すか?「ピカピカの真っ最チュウ」という歌詞はあっても、作品タイトルにそれはせんやろ?
わかるか?
勘違いしようがないラインの向こう側でダンスってる奴に「おいおい。世の中の半分はIQ二桁。勘違いしちゃうかもだぜ?」は人の可能性を疑いすぎぁ
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暇空茜(@himasoraakane)さんは、NPOによる公金不正利用(いわゆる「公金チューチュースキーム」)や表現の自由を守るため、市民の代表として数多くの裁判に立ち向かっています。彼の活動は、多くの人々にとって希望の光であり、社会の透明性や公正さを求める闘いです。しかし、こうした闘いには資金が必要です。直接のカンパが難しい方でも、Amazonのアフィリエイトリンクを活用することで、間接的に暇空茜さんを応援することができます。この記事では、その方法をわかりやすく解説します。
Amazonアフィリエイト(Amazon Associates Program)は、ウェブサイトやSNSでAmazonの商品リンクを共有し、クリックを通じて購入された場合に紹介料を得られるプログラムです。この仕組みを利用して、暇空茜さんが指定するアフィリエイトリンク(例えば「A」というタグ付きのリンク)を共有することで、彼の活動資金をサポートできます。
お金がなくても参加可能:直接のカンパが難しい方でも、普段の情報発信にアフィリエイトリンクを追加するだけで応援できます。
簡単で手軽:Twitterやブログ、YouTubeなど、日常の投稿にリンクを貼るだけ。特別なスキルは不要です。
継続的な支援:リンク経由の購入が続く限り、少額でも積み重なり、暇空茜さんの活動資金になります。
暇空茜さんが自身のTwitter(@himasoraakane)やブログで公開しているアフィリエイトリンク(例:「?tag=kuuhakubura3-22」が含まれるタURL)を取得します。公式アカウントや関連投稿をチェックし、正しいリンクであることを確認してください。
Twitter:商品を紹介するツイート(例:本、ガジェット、日用品)に、暇空茜さんのアフィリエイトリンクを貼ります。
例:「この本、めっちゃ面白い!📚 購入はこちら→ [アフィリエイトリンク] #暇空茜応援」
ブログやYouTube:商品レビューやおすすめリストを作成し、リンクを埋め込みます。自然な形で商品を紹介することが重要です。
その他SNS:InstagramやFacebookでも、ストーリーや投稿でリンクを共有可能(プラットフォームのルールを確認)。
関連する商品を選ぶ
暇空茜さんの活動に関連する商品(例:法律書、社会問題に関する本、裁判関連の資料)や、フォロワーが興味を持ちそうなアイテムを選ぶと効果的です。関連性の高い商品はクリック率や購入率が上がります。暇空茜さんを応援する者同士、買いたいものをあえて暇空茜さんのアフィリエイトリンク経由で買うようにすれば効果絶大です。
暇空茜さんの闘いを支える意義
暇空茜さんは、公金の不正利用疑惑を追及し、表現の自由を守るために多大なリスクを背負っています。彼の裁判は、単なる個人の闘いではなく、市民一人ひとりの声が社会を変える可能性を示しています。アフィリエイトリンクを通じて得られる少額の紹介料も、積み重なれば裁判費用や情報発信の継続に役立ちます。あなたの発信が、暇空茜さんの活動を後押しする一歩になるのです。
さあ、始めよう!
今すぐ暇空茜さんの公式アカウント(@himasoraakane)をチェックし、アフィリエイトリンクを取得しましょう。Twitterで本やガジェットを紹介する際、ブログで商品レビューを書く際、ぜひリンクのURLの最後に「?tag=kuuhakubura3-22」をつけてみてください。あなたの小さなアクションが、大きな変化を生むかもしれません。一緒に暇空茜さんを応援し、公正な社会を目指しましょう!
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SNSだと定義や歴史から大上段に振りかぶって「悪役令嬢とは」談義したがるけど
『悪役令嬢みたいに断罪されそうだったけど、全力で愛されてます! 不幸な運命に「ざまぁ」しますわ!アンソロジーコミック』
というシリーズが、もう既に7巻ぐらいまで出てるんだけど、
最初からタイトル詐欺で悪役令嬢も断罪も「ざまぁ」もない話ばかり収録され続けていて、
ほとんど単なる恋愛ストーリーで、いちおう令嬢やナーロッパ近世ぽい舞台なのが多めだけども
場合により現代劇だったり貴族出てこなかったり、恋愛じゃなくほのぼのハートフルストーリーだったりと、もう本当に悪役令嬢要素皆無でも平気で載っている
そもそも、なんでこんな意味不明なタイトルなのかというと、悪役令嬢をタイトルにしたアンソロジーはどのレーベルも出しまくってて、
往年の雑誌文化を知ってる人はわかると思うけど、これ「ホラーコミック」と称してホラーが看板だけど載ってる人気マンガは言うほどホラーじゃなかったりする雑誌スタイルのムック的な手法で、「悪役令嬢コミック」という人気ジャンル専門雑誌の体裁で中身は自由にやってる感じなんだよね
こういうのでもタイトル詐欺にならないというか、シリーズ7巻まで続けられてるのが「悪役令嬢」という看板の強さと、それを選択して買ってる層の厚みを感じられてホント好きなんだけども、
これさ、現代はWEBコミックが主戦場だから既存の雑誌じゃなくて人気ジャンルとそのアンソロジーという形を経て、
結果的に、「悪役令嬢コミック」という枠を得ることで、少女マンガ作家と少女マンガジャンルが再集結してるカタチになってるのね
少女マンガはもうだめだーとか、今は24年組みたいな作家は少女マンガでは出てこないんだーとか言うわけだけど、
いや、それ言ったら、今のジャンプに「ハレンチ学園」も「はだしのゲン」も載らないし
男性向けだろうと殆どの雑誌は死に体ですからね。青年マンガあたりはとっくに滅んでると言って差し支えない
ほっといて、元から少女マンガの半分以上、都合のいいハーレムマンガが看板すからね
花ゆめは違う? LaLaの看板なんて、長く清水玲子の「輝夜姫」だったりしたじゃん?
あれなんか世界中のセレブ集めたハーレムマンガの極地みたいな話すよ。そういうのが大事なんすよ少女マンガは
実際そうなので
なぜララアはニュータイプの共感によってアムロの元へと走らなかったのか?
なおかつ
そのことに驚いた。
まず結論として
というのがその理由だ。
もしも、二人が男女の関係ではなかったら、
即座にアムロのもとへと走り、
発売されたムック本のなかで語っている内容だ。
そしてその理論はきちんと脚本化されていて物語の中で表現されている点も称賛に値する。
映画の中で
テレビ中継されるという場面がある。
例の
というシーンだ。
あそこで
「賢いなララアは」
とか乳繰り合っているのだが
ソファにふたり座りながらリラックスして酒を飲みながらテレビを見ている。
これ、二人やったあとですよ
というのを意味している。
それでいながら小学生が見ても
蛇足だが、
のちに逆襲のシャアなどでは
会話をしているシーンなどがあるが
と、これは元増田の疑問とは離れた話ではあるが若干解答の要素もあると思う。
結局、ララアはシャアを守るために死んでいったのだから、ララアが自分を見捨てたわけではないと誰よりもシャアは知っているだろう。