第13章 国際収支って、なんだろう? ⑨
◇ 国際収支天井の時代 = いま日本は1兆2000億ドル以上の外貨準備を持っています。ですから外貨の不足を心配するようなことは、まったくありません。でも戦争直後の日本は工場や会社の多くが焼けてしまい、食べ物にもこと欠く時代でした。輸出などはとてもできる状態ではありません。このため外貨準備も、ほとんど持てませんでした。
たとえば戦争が終った4年後、1949年(昭和24年)末の外貨準備はたったの2億2600万ドルでした。それから輸出も少しずつ増えましたが、国際収支はずっと赤字ぎみ。アメリカの援助に頼ったり、IMF(国際通貨基金)から借金をしたり、苦しい時期が続いたのです。
国内の景気がよくなると、工業製品を作るための原料や材料、また食料の輸入が増えて、国際収支はすぐに赤字になってしまいます。すると外貨準備を減らさないために、景気を悪くするような引き締め政策をとらなければなりませんでした。つまり日本経済は、低い国際収支の天井(てんじょう)に何回も頭をぶつけていたのです。
国際収支の天井がなくなったのは、68年(昭和43年)のことでした。この間、64年には東京オリンピックが開かれるなど、日本経済は急速に復興しています。輸出も大幅に伸び始め、68年末の外貨準備高は29億ドルに達しました。終戦から68年までの23年間は、外貨準備の不足に悩まされた「国際収支天井の時代」だと言うことができるでしょう。
(続きは来週日曜日)
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◇ 国際収支天井の時代 = いま日本は1兆2000億ドル以上の外貨準備を持っています。ですから外貨の不足を心配するようなことは、まったくありません。でも戦争直後の日本は工場や会社の多くが焼けてしまい、食べ物にもこと欠く時代でした。輸出などはとてもできる状態ではありません。このため外貨準備も、ほとんど持てませんでした。
たとえば戦争が終った4年後、1949年(昭和24年)末の外貨準備はたったの2億2600万ドルでした。それから輸出も少しずつ増えましたが、国際収支はずっと赤字ぎみ。アメリカの援助に頼ったり、IMF(国際通貨基金)から借金をしたり、苦しい時期が続いたのです。
国内の景気がよくなると、工業製品を作るための原料や材料、また食料の輸入が増えて、国際収支はすぐに赤字になってしまいます。すると外貨準備を減らさないために、景気を悪くするような引き締め政策をとらなければなりませんでした。つまり日本経済は、低い国際収支の天井(てんじょう)に何回も頭をぶつけていたのです。
国際収支の天井がなくなったのは、68年(昭和43年)のことでした。この間、64年には東京オリンピックが開かれるなど、日本経済は急速に復興しています。輸出も大幅に伸び始め、68年末の外貨準備高は29億ドルに達しました。終戦から68年までの23年間は、外貨準備の不足に悩まされた「国際収支天井の時代」だと言うことができるでしょう。
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