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本好きはリアル書店で本を買うべきか?
まあ、本好きの人なら、「リアル書店で買うべきだ」って胸を張って言うんだろうけど。
便利で手軽な電子書籍やネットショッピングの時代に、わざわざリアル書店に行くのは、どうなのよ?確かに、紙の本には独特の匂いとか、ページをめくる感触とか、いろいろ情緒的な要素があるってのは認めるよ。でも、それってただの懐古主義じゃない?
「いや、リアル書店の雰囲気がいいんだ」「本との偶然の出会いが大事だ」とか、ロマンチストたちが言いそうだけど、現実を見ろよ。リアル書店での品揃えは限られてるし、欲しい本がないこともある。その点、ネットなら何でもすぐ手に入るし、サンプルやレビューも見放題。時間も節約できるから積読も減らせる。そんな時代に、わざわざ足を運んでまでリアル書店で買う必要があるのか?って疑問は、どうしても湧いてくるよね。
「でも、リアル書店がなくなったら文化が廃れる」とか言う声もあるだろう。それはわかるよ。文化的な拠点として書店が機能しているのは事実だし、独特の空間を提供している場所もある。でも、文化の保存ってのは、個々の本好きが肩に背負うべき義務じゃないんじゃない?書店が潰れたら困るなら、経営者がもっと工夫しろって話だろ。なぜ消費者が罪悪感を抱えながら「リアル書店で買うべきだ」って思わなきゃいけないのか。
結局、本好きがどこで本を買おうと、その本を大切に読むことが大事であって、リアル書店で買うかどうかなんて、ただの手段の違いでしかない。
コロンブスのアメリカ大陸500周年を記念した映画は1992年当時、すくなくとも2本公開されている。
1本は、元増田が書いてるリドリー・スコット監督の『1492 コロンブス』。(原題 “1492: Conquest of Paradise)”)
もう1本はジョン・グレン監督の『コロンブス』(原題 “Christopher Columbus: The Discovery”)。
ジョン・グレン監督というのは馴染みのない名前かもしれないが、1980年代から90年代の007シリーズを手掛けている人。
自分は見たのは前者(以下『1492』と略記)だけだが、後者(以下『コロンブス』)についてもいろいろ悪い意味で話題になってたよなあと思い出したので、wikipediaの英語版その他を手がかりに書いていく。正確性は必ずしも保証しない。
元増田は『1492』を“盛大にコケた”と評してたが、もっと目も当てられないコケ方というか、製作時点からトラブル続きだったのは後者の方。興行成績も『1492』のほうがよほどマシだったはず。
『コロンブス』は米・英・スペイン合作の、アメリカ大陸到達500周年記念大作として、スーパーマン・シリーズでも有名なサルキンド親子のプロデュースで動き出した企画だった。
実はリドスコ、こっちの監督としてオファーされていたのだが蹴ったあげく、ライバル作品である『1942』を監督を受けてしまう。
こっちのプロデューサーは当時は若手のフランス人で、脚本はその人の奥さんが書いてるのだが、たしか脚本に惚れ込んだとかいう話だった記憶が、うっすらあるような、ないような。
これが訴訟沙汰になってリドスコは訴えられてしまい『コロンブス』サイドによればリドスコ側が脚本のアイデアを盗んだとかなんとか。
脚本は似てないってことで損害賠償は認められなかったようだが、リドスコ版の原題が“Conquest of Paradise”となっていてコロンブスのコの字もないのは、そういう大人の事情が働いていたようだ。
『コロンブス』は大作にふさわしく、原案と脚本にマリオ・プーゾ(あのゴッド・ファーザーの)、キャストにはマーロン・ブランドも名を連ね、リドスコに蹴られた監督のオファーをまず受けたのは、イタリア出身のギリシャ人監督ジョージ・P・コスマトス。
っていわれても知らねえよってのが普通の反応だが、『カサンドラ・クロス』『ランボー怒りの脱出』『コブラ』等々の作品は知ってる人もそこそこいるか。
ところがこの人も、「創作上の相違」を理由に降板した上、製作サイドに訴訟を起こしており、あとを続くようにティモシー・ダルトン(4代目ジェームズ・ボンド)やイザベラ・ロッセリーニ(あのロッセリーニとイングリット・バーグマンの娘)も降板。
マーロン・ブランド(異端審問官役だったらしい)はクレジットの削除を要求したらしい。
詳細は不明だが、勝手に推測するに、“とにかく500周年に合せてデッカイ映画を!”が先走って、いろいろグチャグチャだったことがうかがえる。
映画自体は観てないから内容は知らないが、あらすじをみる限り、こちらはあくまで“アメリカ大陸到達まで”を描く娯楽大作だったようだ。
『1492』の方も見るには見たのだが記憶は曖昧だ。元増田同様、長くてつまんなかったというのは良く覚えてるけど。
ネットでいくつか感想や評のようなものを見かけたが、わりと人によって違う印象で、これはつまり、ダラダラ長い割に焦点の定まらない映画だったということかも。
ネットの情報を参考にしつつ自分の記憶とあわせて再構成してみると、
みたいな感じか。
で、当時たしか“なんだかコロさんがどういう人なのかも、監督がなにを言いたいのかよく分からん”と思った記憶がある。
山師なのか夢見がちなロマンチストなのか。結局は儲けたくて航海やってんのか。
いやまあ色んな面を持ってるのが人間だよねーで納得できる感じでもなかったと思う。
で、最後になんか取ってつけたように“人生にはロマンが必要だよね”みたいなこと言い出して、いや、これそういう映画だったっけ?みたいな。
コロンブスがきたせいで南米大変なことになっちゃったねー、それまで楽園みたいだったのに、ってのはかろうじて伝わったが。
もしかしたら当時、コロンブス像の転換というのが行われている最中で、それを反映していろいろ多面的な捉え方をしようとした脚本だったのかもしれないが、それが作品には投影されてなかったのだろう。多分。
まあ配信もされないってことは、もう歴史の闇に葬り去られていく映画なんだろうけど、あの年にコロンブス映画が失敗したことで、その後のエンタメのテーマとしてはとりあげにくくなったのかなぁ?という気はするな。
結論 コロンブスは鬼門なので安意にエンタメで扱わないほうが良い。
え?違う?
俺と親友の出会いは就職。新卒の時に面接で知り合って、入社式でも顔をあわせて、そのまま同じ支店になった。
それから、親友が異動になっても俺が転職してもちょくちょくラインしたり飲んだりする仲だ。
俺は勝手にこいつを親友と呼び、そして俺にとって親友と呼べる男はこいつだけだった。
結婚前は、親友も俺も遠距離恋愛をしていて、彼女の居住地が近かったので、一緒に長距離ドライブで彼女に会いに行ったりした。
俺はその頃、もう彼女と別れていたけど、目一杯親友の人生の門出を祝った。
親友は、あまりかしこくはないが、まじめで、要領が良くて、人当たりがよくて、どこか気品があって、それでいてなんだかミステリアスで、男女ともに人気があるタイプというか、なんだか華がある男だった。
でも同時に、どこか他人に心をひらくのが苦手で、他人に対していつも批判的で、本音のところで素直じゃなくて、人を慕ったり、こびたり、大事にしたりするのがヘタだった。
かまってほしいのに、かまってもらうのがヘタ。
愛されたいのに、愛することはできない。
第一印象がとてもいいぶん、親しくなればなるほど欠点が目立つタイプで、よくトラブルを起こしては「人間関係リセット」をやってしまうやつだと知ったのは、最近だった。
そんな男だったので、親友にとっても、親友と呼べる友人は俺だけだった。
コロナ禍でも釣りに行ったりしていた親友と、昨年の夏頃から連絡があきらかに薄くなっていった。
先月ひさしぶりに会うと、近況報告もそこそこに、奴はビジネスバッグから封筒を取り出した。その封筒には、筆文字で書かれた屋号のようなものと電話番号や住所が記されている。そこから降りた畳まれたA3よりすこし大きいくらいだろうかといった紙が出てきて、ビールと枝豆のとなりに広げられた。
「数年前に、一緒に担当だった●●さん、覚えてる?占い師がいたろ。いっしょに四柱推命を占ってもらった。」
それを聞いて思い出した。そういえばそんなことがあった。言われてみたら、その筆文字で書かれた屋号も、なんだか見覚えがある気がした。
「ほら、俺が33歳の年。運命的な出会いがありって。このときはお前と笑ったよな。俺指輪してたのに、占い師のくせに不注意だって。」
そう、親友は結婚していた。俺は結婚式にも出席したし、親友はずっと指輪をつけているタイプだった。真面目な男だ。遊んだりしない。
「いたんだよ。ほんとうに。運命の人が。」
そういう親友の目はとろけていて、なんだか別の人みたいだった。
その晩の親友は、今までの、人当たりがよさそうにふるまいつつどこか2面性があって、ドライだったり斜に構えたりするところが完全になくなり、素直で純情でロマンチストで、恋愛に夢中で他に何も見えないといったような、気持ち悪い生き物に見えて、とてもつらかった。
そう言えばかつて、「俺も結婚したいなあ」なんていうと、親友から「子供がほしいならいいとおもうけど、そうでないならしなくていいと思う」と言われたのを思い出した。
親友は早くに結婚し、その頃は結婚7年目とかだった。結婚7年目というのが、実際どういうものか俺はわからないが、親友のところに子供はいなかった。
つまり、親友はいわゆるDINKS的なものを目指していると勝手に思っていたので、つまり好きで子供が居ない夫婦関係でいると感じていたので、そのせりふに違和感を感じたものだった。
こちらから、本気やノリや茶化しや冷やかしでその話題を振っても流されるので、いつからか触れなくなった。
家を買ったことは知っていた。
だからそれなりに関係が良いのだと思っていたのだが、これよりあとになって、「家を買ったのは快適な家庭内別居のためだった」と知らされた。
親友の嫁さんと3人で会ったこともかつてあるし、俺はそれなりに嫁さんのことも知人であるつもりでいた。親友と嫁さんは、大学時代のサークルの先輩後輩で、甘い雰囲気というよりも、仲間としての連帯意識が強い夫婦関係に感じていた。
親友にとったら初めての彼女だったのが今の嫁さんで、そんな嫁さんがそんな関係だったもんだから、
自分を失うような恋は、初めてなのかもしれない。
ふつうは10代かそこらで済ませて、あとから青臭すぎて痛くて恥ずかしい思いでとして振り返ったり蓋をしたりするような恋は、親友にとって初めてだったのかもしれない。
まるで10代の少女のように占いなどを真に受けて、運命なんて言葉を甘く利用して。
「俺は離婚するつもりだ。不倫相手といっしょになりたい。お前は応援してくれるよな。結婚してなかったことにするつもりだから、学生時代の友人や、今の職場の人間とは関係を切る。転職もする。でもお前だけは応援してくれるよな」
それとも、そんなになるまで嫁さんとの不仲を抱え込んでしまって狂ってしまったのか。
俺はこいと親友で居続けたいのかな。
でも離婚って正しくないのかな。
離婚って間違ってんのか?
こいつは本当は子供が欲しかったのかな。嫁さんに拒まれていたんだろうか。それなら、乗り換えたい気持ちもわかる。
頼んでもいないのに親友が見せてきた今の"恋人"の写真が頭にこびりついて離れない。
どこにでも居そうな、特段ブサイクではないが決して美人ではない、無理やり褒めるなら、きれいというよりは可愛らしい女の子だった。
親友にとっては絶世の美少女らしい。その魔法が解ける日も怖いが、不倫相手は嫁さんといわゆる正反対の見た目をした女だったのも、また怖かった。
恋愛について悪い意味で理想主義のロマンチストになりがちな男性は、SEXしたいという気持ちとか、家族や仲間としていろんな意味で良い戦力、みたいな心を「好き」と切り離しがちだけども、それは罠でしょ。
ホモサピエンスのメスがいう「この人と一緒に居たいという気持ち」などというもんは、所詮は"安全なので"みたいな野性の感情に過ぎないよ。ホモサピエンスのオスが「この女に中出ししたい」と思ってるのと原理的には変わらん。
なんか現実から遊離した純粋な「好き」じゃないと本物じゃあない、とか考えがちだけど、そんなものはないから。