はてなキーワード: ファーザーとは
本当に暇な時にでも、こんな人間がいるんだな程度に読んでほしい。
私は人よりも本を読む方だと自負している。
私の周りの人が特別読まないだけで、もしかしたら普通ぐらいかもしれないけど。
人よりも本を読むと言っているけど、じゃあ実際どれぐらいの本を読むのか。
気になったので集計してみた。
2024年3月〜2025年2月の期間で28,121,947文字を読んでいた。
文庫本が1冊あたり10万〜12万文字だとすると、年間で230〜280冊ぐらいの本を読んでいるらしい。
思ったよりも読んでいて正直驚いた。
そんな私の読書の遍歴を辿る。
記憶だけを頼りに、スマホでポチポチと書くから間違っていることもあるかもしれない。
そこはご容赦いただきたい。
小学一年生の頃だったか、父が買っていたグラップラー刃牙を読んだ記憶が色濃く残っている。
ガイアの隊が熊を倒して食べているシーンが、どうしてか印象に残っていた。
今思えば小学一年生が読む漫画ではない。周りの友達はコロコロコミックを読んでいたし、話が合わなくて友達ができなかった。
歳を重ねても、私はブックオフに入り浸っては漫画を読む生活をしていた。
ダレン・シャンという分厚い本だった。
同じぐらいの分厚さで言えばハリーポッターと同じぐらいの本。
家にハリーポッターがあっても読まなかった私に、どうしてそれを買い与えたのかは分からない。
もしかしたら安かったのかもしれない。
作者の名前とタイトルが同じであることに興味を惹かれたのもあって、せっかくだから読んでみるかと、私はとりあえずページを捲った。
どハマりした。
これはもうないぐらいに、どハマりした。
本にハマった私は、意味もなく図書委員に属する様になっていた。小学校高学年から中学3年間ずっと図書委員だった。
ただ、ダレン・シャンのイメージが強すぎて、他にどんな本を読んでいたのかが思い出せない。
ダレン・シャンを読んでから、私は本を読む人間になっていた。まぁ、同じぐらい漫画も読んでいたが。
さておき、そんな私が中学に進学した頃、あるジャンルと出会う。
ライトノベルだ。
中学2年生か3年生の頃だったと思う。
クラスで「バカとテストと召喚獣」というライトノベルが流行っていた。
ライトノベルというものを知らなかった私は、小説なのに漫画の様なカラーページや、挿絵があることに驚いたのを覚えている。
興味が湧き、友人に借りて読んでみた。
どハマりした。
それはもう、どハマりした。
灼眼のシャナ、緋弾のアリア、キノの旅、僕は友達が少ないなどを読んだ記憶がある。
どうしてか、私が通っていた中学ではライトノベルが流行っていた。
私が属する学年の7割〜8割がオタクだった。
カーストトップの人間がオタクというイレギュラーが起きていた。
文化祭ではハレ晴レユカイ、もってけ!セーラーふくを踊り、女子はけいおん!の歌を歌う。
そんな学校だった。
「王様ゲーム」「落ちこぼれの操炎者」「できそこないの救世主」「最強の名をもう一度」「サバンナゲーム」「ワールドエンド」振り返るとキリがないが、様々な小説を読んだ。
大変失礼な話ではあるが、今振り返ると、稚拙な物も多かった気がする。
だがしかし、当時の私には無料で小説が読めるというのは衝撃だった。
また小説の連載を追うというのも新鮮だった。
おそらく、この頃の経験がネット小説を読む習慣を作り上げたのだと思う。
高校に進学し、ガラケーからiPhoneに変えた頃になると、モバゲー小説から卒業していた。
そう、小説家になろうで読むようになっていた。
「異世界迷宮で奴隷ハーレムを」「無職転生」「この世界がゲームだと俺だけが知っている」「詰みかけ転生領主の改革」
色々な作品を読んだ記憶がある。なんなら今でも小説家になろうで読んでいる。
また高校になると2chのSSスレも読み漁るようになる。エヴァンゲルの二次創作、俺ガイルの二次創作、とらドラ!の二次創作など、様々なSSを読んだ。
げんふうけい、そう、三秋縋先生だ。
だったりが最初だった気がする。
結構な作品が削除され読めなくなってしまったが、本当に素敵な作品が多かった。
家庭教師のお兄さんと女子生徒の話も好きだった。もしかしたら内容は違うかもしれないけど。
その2人のキャラで好きなやり取りがあった。
女性生徒が「気持ちも荷物も受け取られた私はどうすれば良いんですか」と返す。
みたいなやり取りだった気がする。
その会話のやり取りが、とても好きだった。
他にも人生とは何かを問われた時だかのやり取りがあった。
男性が答える。
足を片方出す。バランスが悪くなり、もう片方の足を前に出す。そしたらまたバランスが悪くなり逆の足を前に出す。すると足はどんどん前に進んでいく。そんなもんだ。
という様なニュアンスだった気がする。
いかんせん、十数年前の記憶を掘り起こしているだけだから、かなり曖昧だ。
しかし、げんふうけいさんが書くSSよりも刺さる作品には出会えなかった。
そうして、高校3年間の青春は、少しのモバゲー小説と小説家になろう、2chのSSで幕を閉じた。
大学に進学すると、ある変化が起きる。
それなりに話す様になった人が、本が好きだと、伊坂幸太郎が好きだと言っていたことがきっかけだった。
仲良くなりたかった私はその足で本屋に向かい、伊坂幸太郎さんの「オー!ファーザー」を買って帰り、その日中に読み終えた。
面白くて、デビュー作の「オーデュボンの祈り」を買って読んだ。
どハマりした。
過去類を見ないほどにどハマりした。
バイトをして、当時出ていた伊坂幸太郎さんの小説を全て買って読んだ。
それ以降私は文庫本を読む様になった。
もちろん、げんふけいさんが三秋縋さんとしてデビューしたら、「スターティングオーヴァー」「三日間の幸福」も買った。
小説家になろうを読む頻度は下がったが、それでもネット小説は読み続けていた。
寝る前にベッドで読めるというのは強かった。
無職転生が完結した時は言葉にできない充実感が心を満たした。あの満足感は連載当初から完結まで追い続けたからこそ得られたものなのだろうか。
そう、住野よるさんのデビュー作「君の膵臓をたべたい」である。
当時は夜野やすみさんという名義ではあったが、あの作品に出会った時の衝撃は凄かった。
小説家になろうにこんなハイクオリティの文芸小説があるのかと驚いた。
少しすると、書籍化するとのことで削除されてしまったが、発売日に新宿の紀伊國屋に行き、買ったのを今でも覚えている。
この頃からまたネット小説を読むようになった。ランキングを漁って、たくさん読んで、良い作品を見つけた時は言いようのない気持ちになった。
サービス開始が2016年2月29日だったから、ほぼ古参かもしれない。
当時はまだ作品が少なくて、結局使っていたのは小説家になろうだったけど。
このぐらいの頃に、所謂なろう系小説よりも文芸寄りの作品をネットでも好んで読むようになった。
探してみると良質な作品が沢山あって、ひたすら読み漁った。大学卒業する頃には230作品ぐらいを読み終えていた。
今思い出したけど、無職転生が書籍化する時の広告で印象に残っているのがあった。
リゼロと無職転生を並べて『覇者か問題児か』って煽りの広告があったと思うんだけど、あれどこだったっけ。
作品じゃなくて、ランキングとか作者のTwitterとかでその煽り使ってるのが、本当に詳しい人なんだなって思えて、なんとなく好きで、たまに思い出す。
詳しいこと知ってる人がいたら教えてください。
証券会社の営業は、私が想像するよりも忙しく、本を読む余裕がなくなった。
今まで本の文字を追っていた目は、日経新聞の文字を追う様になっていた。
ネット小説を読むために使っていたスマホは、金融機関が出すレポートを読むために使われる様になっていた。
2年も経つとある程度仕事のやり方が分かるようになり、読書や漫画、アニメ鑑賞に時間が割けるようになった。
小説家になろうで読んでいた作品がどんどんアニメ化されていたことに驚いたのもこの時だった。
久々に本屋に行けば、小説家になろうの作品がたくさん出版されていた。
知らないうちに伊坂幸太郎さんの新作は何冊も出ていた。三秋縋さんの新作も、住野よるさんの新作も出ていた。
あんなに好きだったのに、全く知らなかった。
毎日情報を追い、時代の最先端に自分がいると思っていた。なのに、いつの間にか、時代に残されていた。
気付けば無職転生が累計ランキング1位じゃなくなっていた。グルメ系、ほのぼの系の作品が流行っていた。追放系の作品が流行っていた。悪役令嬢系が流行っていた。
この時ぐらいに人生初の恋人ができて、小説を読む時間はそんなに取れなくて、ネット小説は合間に読めたけど、一般文芸作品は読めなかった。
それでもまた小説の世界に入ることができたのは、なんとなく嬉しかった。
大体この頃ぐらいから、二次創作作品にもハマるようになって、ハーメルンというサイトで小説を読むようになった。
恋人と見たアニメで面白いのがあれば、それの二次創作小説を読んだりとかね。
ヒロアカとか呪術廻戦とか、ワンピースとかハンターハンターとか王道なものから、ヒカルの碁とかポケモンなどの二次創作も色々と読んだ。
一次創作にはない楽しさがあって、昔読んだ2chのSSを思い出した。
コロナを機にアニメ作品が世間に浸透していった。それ以前からその傾向はあった気がするけど、コロナの影響は大きいらしかった。
アニメなんて興味なさそうな上司が、鬼滅の刃を見たって聞いた時は正直驚いた。株価と数字にしか興味がないと思っていたから。
コロナの次の年、異動することになった。
環境が変わるのは嫌いじゃなかった。元々親が転勤族で転校を繰り返していた影響もあるのかもしれない。環境が変わる時はワクワクの方が強かった。
結論から言ってしまうと、異動先はあまり良くなかった。筆頭セールスと課長の2人と馬が合わなかったのか、とりあえず相性が良くなかった。どれだけ数字を上げても、数字をやっていない人よりも詰められるようになった。
小説を読んでいる時だけ、現実を忘れられて心を保つことができた。
それはいきなりのことだった。いや、いきなりでもないのかもしれない。2時間ぐらい立ちっぱなしで謎の説教を聞かされた次の日だったと思う。
小説を読んでも内容が頭に入らないようになった。
いつもなら頭に浮かび上がる情景が、シーンが、何も浮かんでこない。
そんなことが起きるようになった。
仕事を頑張ろうと意気込んでいた時だ。
車で営業先に行っている途中に、なぜか涙が勝手に出るようになった。
何もしていないのに、通勤電車に乗るだけで動悸が激しくなった。
適応障害と診断された。
正直、どうしてそうなったのか今でも分からない。
いつの間にかそうなっていた。
何をすれば良いのか分からず、とりあえずいつものように本を読んでみた。
やっぱり何も理解できないままページだけが進んでいく。目が滑ってしまい何も分からない。
それが一番の苦痛だった。
この時のことはあまり覚えてない。
だけど、2〜3ヶ月もすると、ちゃんと小説を読めるようになった。
それに気付いたのは、オーデュボンの祈りを読み返すようになってからだった。
読めなくてもとりあえず読み続けていて、いつの間にか読めるようになっていた。
元々そっちの方が適性が高かったらしく、次の部署では大変仕事がやりやすく、評価も高いものが得られた。
ここ数年は二次創作とオリジナル作品を半々ぐらいの割合で読むようになった。
今もハーメルンと小説家になろうをメインに小説を読み続けている。
だいぶ話が逸れてしまったが、読書遍歴としてはこれで良いのだろうか。
良くはないよな。
現時点だと小説家になろう、カクヨム、ハーメルンで累計1200作品を読み終えた。
連載が続いているもの、エラッタになってしまったものもあるが、それのタイトル全てを載せるのは現実的ではないと諦める。
書いてみて思うが、散文にも程がある。
どうやら私には文章を書く才能はないらしい。
これだけ本を読んでも文章力は身につかないようだ。
やはり、書き続けないといけないな。
タイトルの通りです。
日本では、
「トランプの狙いはコレコレではないか」などと議論されていることもあると思うけれど、トランプははっきり法治を覆そうとしている、と左右を問わずまともなアメリカメディア(Fox、News Max、ブライトバードなどを除く)ではみなされている。
政権担当者には、1984も真っ青な、「ニュースピーク」、「ダブルシンク」が求められているところであり、もしトランプ政権にまともな精神状態の共和党員がいたのであれば、病んでしまうのではないか。
ありとあらゆるところで、トランプ政権の無茶苦茶ぶりがあふれ出しているが、ここでは、デュープロセスなしでの国外追放についてのみに絞ってお伝えする。
一事が万事この調子なので、アメリカ在住のMAGAでない人には正気を保つのは難しい。
トランプは敵性外国人法Alien Enemies Act of 1798 の発動を宣言した。この法律は1798年に制定されたもので、外国から侵攻を受けた場合、宣戦布告を受けた場合に発動できることになっている。もともとはフランスとの戦争に備えたもの。戦時中に日本に対して発動されたが、その後の批判は誰もが知るところ(ダニエル・イノウエなど)。ただし、日本を対象にした場合は、まだ額面上の法律の要件は満たしていた。
トランプ政権は、強制送還(deportation)と言ってはいるが、別にエルサルバドル人ばかりではないので、強制送還という言葉は適切ではない。棄民とか追放(Exileとか)という言葉を使うべきだが、一番近いのはユダヤ人の強制収容(Concentration Camp)であろう。よってここでは追放で統一する。敵性外国人法は裁判手続きなしに、国外追放や身体拘束を可能にする法律ではあるが、宣戦布告を受けた場合、発した場合に限られると解されてきた。トランプはテロリストはアメリカに侵攻(Invade)していると主張しているので、適用できるのだ、と主張しているが、宣戦布告の権限は議会にあり、大統領にはないため、一般的に言えば、敵性外国人法が発動する権限は大統領にはない。
3月15日に拘束された一部の人たちの家族等から、「拘束の合法性」について疑義があるため、ワシントンの連邦地裁に差し止めの依頼がなされ、ワシントンの連邦地裁はこれを認め、国外追放を差し止めるように命令した。ICE(アメリカ移民・関税執行局)はじめトランプ政権は、追放の実施前に口頭でこの命令を受け取ったが、これを無視し、そのまま追放を実施したことが確認されている。いわく「文書での命令ではなかった」からだ。その後、文書でも命令も当然届いたが、その際はもう飛行機は出発していたため、引き返せない、との主張に変遷した。
もっとも大きな話題になっているのは、キルマー・アブレゴ・ガルシアだろう。「どうせ不法移民だろう」と思う向きもあると思うので少しだけ背景を書いておく。ほかにも、ゲイのメイキャップ、サッカー選手(レアルの入れ墨をしていた)、16歳の、ICE当局ですら、ギャングメンバーと思っていなかった子ら、幾人もこいつは違うでしょう、というのがいるが割愛する。
キルマーはエルサルバドル生まれ。母親のビジネスの関係で、MS13と対立するギャングから兄の生命を脅かされたため、家族はまず兄を、次いで2011年16歳のキルマーをアメリカに不法に入国させた。アメリカでは、入国の経緯にかかわらず、亡命申請(Asylum Claim)ができる。アクティブな亡命申請は通常入国後1年以内に行わねばならず、ディフェンシブな亡命申請は、「強制送還手続の中で」行うことができる。キルマーは、2019年3月まで、亡命申請を行っておらず、求職活動をしている際に逮捕され、「シカゴブルズのキャップをかぶっているため、MS13のメンバーである」との嫌疑をかけられた。その後の移民裁判の中で、MS13のメンバーとは認められないとされ、2019年6月に米国市民と結婚し、その直後に亡命申請をした。アクティブな亡命申請は期限切れのため、認められなかったが、移民裁判所は、キルマーに退去の保留を認め、キルマーは合法的にアメリカに滞在できるようになった。その後メリーランド州で鉄工として働きながら3人の子供を妻と暮らしていたが、3月12日、自閉症の5歳の子を連れているときに、ICEに拘束された(子供は10分以内に迎えに来ないと、児童養護施設に送る、と妻に連絡がきたとのこと)。キルマーには犯罪歴はなく、滞在は合法的なステータスであり、移民裁判所は、生命の脅威から保護するために、退去の保留を認めていたため、ICEの権限で、このステータスを変更することはできない(ICEは移民裁判において、控訴しなかったため)。キルマーの妻、ジェニファーは、即座に移民裁判所に、ステータスの確認を求め、移民裁判所は、国外退去の差し止めを命じたが、無視した。3月24日、ジェニファーと子供たちは、米国政府を訴え、帰国を実現するよう求めた。
メリーランド地裁との裁判の中で、政府は、「ICEは裁判所の命令を認識していたが、行政手続き上のミス(Administrative Error)で送還を実施してしまった」と認めた。地裁判事は、遅くとも4月7日までに帰国に向けた「取り組みを促進し、実現させる」ように政府に命じた。政府は、「すでに身体管理権は、エルサルバドルに移譲されており、米国政府は干渉できない」旨の主張をし、4月5日にこの件について控訴裁判所に控訴した。
4月7日控訴裁判所は、地裁判断を支持し、政府の控訴を棄却した。判事は、政府が拘禁のために支払う他の「契約施設」と同様に、政府はエルサルバドルからアブレゴ・ガルシアを含む被拘禁者を確保し、移送する権限を持っていると指摘し、政府の主張を却下した。同日、政府は最高裁に緊急上訴(最高裁は共和党が多数派でトランプ政権に可能な限り寄り添おうとしている)。
4月10日最高裁判所は、全会一致で、「米国は、アブレゴ・ガルシアがエルサルバドルへの彼の移送を禁じる保留命令の対象となっており、したがってエルサルバドルへの移送は違法であったことを認める」と事実認定をし、「政府に対して、アブレゴ・ガルシアのエルサルバドルでの拘留からの釈放を『促進』し、彼がエルサルバドルに不適切に送られなかった場合と同様に彼の事件が処理されることを保証するよう要求する」と命じた。すこし難しいが、ワシントン連邦地裁に対する4月7日意見書を合わせた考えると、最高裁の主張はおおむね以下の通りと思われる。「敵性外国人法を適用するかどうか、という点ではなく、逮捕、身体拘束が不当である、という主張であるのであれば、それは裁判所が拘束の停止を求めることではなく、ハビアス・コーパス((ハビアス・コーパスとは: 拘束されている人が、その拘束が法律に適合しているかどうかを裁判所に審査してもらうための申立ての制度のこと。原義は、ラテン語で、身体を差し出せ。アメリカ合衆国憲法第1条第9節では、「反乱や国家の安全のため必要とされる場合を除き、ハビアス・コーパスの権利を停止してはならない」と定められている))の範疇として、異議申し立てを受けるべきものである、その場所は拘束された場所=メリーランドであるべきであり、エルサルバドルに不適切に送られていたとしても同様に処理する必要がある」と言っている。敵性外国人法の要件に踏み込まず、実現させる手段は外交であり、地裁の権限を超えており、適切ではないとして削除した。これはかなりトランプ政権に寄り添いつつ、ギリギリ、法的正当性を担保しようという苦しい命令ではある。とにかく、地裁に一部差し戻され、地裁判事は、促進の状況について、毎日情報をアップデートするように命じた。ちなみに、トランプ政権は数日目から、促進状況に変更はない、とだけつ、たえている。
当初トランプ政権は、「裁判所の命令には従うが、もはや米国はキルマーの身体管理権をもっていないのでどうしようもない」という主張をしており、最高裁の命令には従う、尊敬しているから、というような発言をした。(("If the Supreme Court said bring somebody back I would do that. I respect the Supreme Court." "Well, I'm not talking about the lower court. I have great respect for the Supreme Court."))4月11日ごろから、主張が変遷する。関税プランを立てたといわれるスティーブ・ミラーは、「アブレゴ・ガルシアは、MS13のメンバーであり、誤って送還されたわけではない。適切な場所にいるのだ。」というような主張をし、このような主張は「9-0で最高裁で支持された」と主張しだした。増田は当初何をいっているんだ、と思ったが、どうやら、実現せよ、との文言がないこと、追放自体がダメだ、と言っているわけではなく、追放した者にも、ハビアス・コーパスによって異議申し立ての権利があるという点のみを切り取っているらしいとなんとか理解できた。実際には9-0で負けているし、事実認定として、キルマーは保護されている、ため、移送は違法であったと認められている。
しかしミラーを皮切りに、レヴィット報道官、ポンディ司法長官、ノーム国土安全保障長官、バンス副大統領などが、同様の主張をし始めたのをみて空恐ろしくなってきた。彼らの中では、ダブルシンクがすみ、キルマーはMS13のメンバーであり、強制送還は適切、この主張は最高裁でも認められた、と整理されてきたのだ。
レヴィットは証拠を求められても、「あいつらはテロリストで、私はその証拠を今朝見た、トランプは米国民を守った」、「まるでファーザーオブザイヤーのような扱いをしているが、アブレゴ・ガルシアは、MS13のメンバーでテロリストだ」というようなことしか言わず、しまいには「もう質問はないみたいだね」と言って会見を打ち切る、などの行動をとるようになった。
バンスは「アブレゴ・ガルシアはテロリストとして有罪判決を受けた」と虚偽を堂々と述べた。
ポンディは「これがアブレゴ・ガルシアに関する証拠です」といって、誤って「犯罪歴なし」、と書かれた資料をアップロードし、失笑を買ったのち、最初の移民裁判で、シカゴブルズのキャップを被った、明らかなラテン系ギャングである、という、別件の汚職で逮捕された警察官の主張が書かれた調書を公開した。
トランプは「以前最高裁の命令には従う、と言っていたのに、なぜアブレゴ・ガルシアのような例で帰国させようとしないのか」という質問をしたCNNに対して「なぜおまえらは、「テロリストを国外へ追放して、素晴らしいことになった」と言わないのだ。だからおまえらの放送は誰も見ていないんだ」と記者をあざけった。またFoxのインタビューの中で、「最高裁は9-0で強制送還の件は支持し、我々は(精神的)勝利したんだ、ニュース番組を見ていると知らないと思うけど」というような発言をしていた。
トランプはエルサルバドルのブケレ大統領と面談した際、カメラが回っていると気づかず、「次はホームグロウンの番だ。建物が足りないな、あと5つぐらいはつくってほしい」と述べている。また、「重大な犯罪者であれば、エルサルバドルに米国人を送ることは大賛成だ」とも述べている。対テロの大統領補佐官である、セバスティアン・ゴルカは、「誰であれ、キルマー・アブレゴ・ガルシアを擁護しようとするものは、テロリストであり、訴追される」と述べた。
民主党の上院議員、ヴァン・ホレンがキルマーに面会でき、キルマーの件単独では、ひょっとしたら解決が見えるかもしれないが、正直、トランプ政権の終わり方は、日本人が想像しているよりはるか遠くまで行っていることは知っておいてほしい。
コロンブスのアメリカ大陸500周年を記念した映画は1992年当時、すくなくとも2本公開されている。
1本は、元増田が書いてるリドリー・スコット監督の『1492 コロンブス』。(原題 “1492: Conquest of Paradise)”)
もう1本はジョン・グレン監督の『コロンブス』(原題 “Christopher Columbus: The Discovery”)。
ジョン・グレン監督というのは馴染みのない名前かもしれないが、1980年代から90年代の007シリーズを手掛けている人。
自分は見たのは前者(以下『1492』と略記)だけだが、後者(以下『コロンブス』)についてもいろいろ悪い意味で話題になってたよなあと思い出したので、wikipediaの英語版その他を手がかりに書いていく。正確性は必ずしも保証しない。
元増田は『1492』を“盛大にコケた”と評してたが、もっと目も当てられないコケ方というか、製作時点からトラブル続きだったのは後者の方。興行成績も『1492』のほうがよほどマシだったはず。
『コロンブス』は米・英・スペイン合作の、アメリカ大陸到達500周年記念大作として、スーパーマン・シリーズでも有名なサルキンド親子のプロデュースで動き出した企画だった。
実はリドスコ、こっちの監督としてオファーされていたのだが蹴ったあげく、ライバル作品である『1942』を監督を受けてしまう。
こっちのプロデューサーは当時は若手のフランス人で、脚本はその人の奥さんが書いてるのだが、たしか脚本に惚れ込んだとかいう話だった記憶が、うっすらあるような、ないような。
これが訴訟沙汰になってリドスコは訴えられてしまい『コロンブス』サイドによればリドスコ側が脚本のアイデアを盗んだとかなんとか。
脚本は似てないってことで損害賠償は認められなかったようだが、リドスコ版の原題が“Conquest of Paradise”となっていてコロンブスのコの字もないのは、そういう大人の事情が働いていたようだ。
『コロンブス』は大作にふさわしく、原案と脚本にマリオ・プーゾ(あのゴッド・ファーザーの)、キャストにはマーロン・ブランドも名を連ね、リドスコに蹴られた監督のオファーをまず受けたのは、イタリア出身のギリシャ人監督ジョージ・P・コスマトス。
っていわれても知らねえよってのが普通の反応だが、『カサンドラ・クロス』『ランボー怒りの脱出』『コブラ』等々の作品は知ってる人もそこそこいるか。
ところがこの人も、「創作上の相違」を理由に降板した上、製作サイドに訴訟を起こしており、あとを続くようにティモシー・ダルトン(4代目ジェームズ・ボンド)やイザベラ・ロッセリーニ(あのロッセリーニとイングリット・バーグマンの娘)も降板。
マーロン・ブランド(異端審問官役だったらしい)はクレジットの削除を要求したらしい。
詳細は不明だが、勝手に推測するに、“とにかく500周年に合せてデッカイ映画を!”が先走って、いろいろグチャグチャだったことがうかがえる。
映画自体は観てないから内容は知らないが、あらすじをみる限り、こちらはあくまで“アメリカ大陸到達まで”を描く娯楽大作だったようだ。
『1492』の方も見るには見たのだが記憶は曖昧だ。元増田同様、長くてつまんなかったというのは良く覚えてるけど。
ネットでいくつか感想や評のようなものを見かけたが、わりと人によって違う印象で、これはつまり、ダラダラ長い割に焦点の定まらない映画だったということかも。
ネットの情報を参考にしつつ自分の記憶とあわせて再構成してみると、
みたいな感じか。
で、当時たしか“なんだかコロさんがどういう人なのかも、監督がなにを言いたいのかよく分からん”と思った記憶がある。
山師なのか夢見がちなロマンチストなのか。結局は儲けたくて航海やってんのか。
いやまあ色んな面を持ってるのが人間だよねーで納得できる感じでもなかったと思う。
で、最後になんか取ってつけたように“人生にはロマンが必要だよね”みたいなこと言い出して、いや、これそういう映画だったっけ?みたいな。
コロンブスがきたせいで南米大変なことになっちゃったねー、それまで楽園みたいだったのに、ってのはかろうじて伝わったが。
もしかしたら当時、コロンブス像の転換というのが行われている最中で、それを反映していろいろ多面的な捉え方をしようとした脚本だったのかもしれないが、それが作品には投影されてなかったのだろう。多分。
まあ配信もされないってことは、もう歴史の闇に葬り去られていく映画なんだろうけど、あの年にコロンブス映画が失敗したことで、その後のエンタメのテーマとしてはとりあげにくくなったのかなぁ?という気はするな。
結論 コロンブスは鬼門なので安意にエンタメで扱わないほうが良い。
え?違う?
なぜあれほど駄目なのものが出来たのだろうか?
いや、「あれほど」と書いたが正直内容はさっぱり覚えていない。
とにかくストーリーがひどすぎる。
なんでスターウォーズみたいなスペースオペラに現代アメリカの問題点みたいなものを重ね合わせたのか?
夢やぶれて失意のうちに引きこもり中年男性ルーク・スカイウォーカー。
いや、別にそれはそれでもいいのかもしれないけれど、なんか料理の仕方が間違っている。
痛快な娯楽作品を求められているのに、なんで作りてもそれほど信じていないようなテーマを入れ込んだのか?
スターウォーズってそういう話ではないのにな。
あと主人公だよな。なんで、あんな縁もゆかりもない天涯孤独みたいなやつを主人公にしたのか?
クレイジーだよ。
いったいどこの誰かわからないんだぜ。
せっかく6作品もの物語の蓄積があるのにそれを全く生かさない。
例えば、ルーク・スカイウォーカーの娘、って設定にしただけで急激に視聴者の興味を惹きつけることが出来るだろ?
ある日、ルークがレイアとハン・ソロもとに僕の娘だ、といって赤ん坊を連れてきた。
それが主人公だ。
な?これだけで一気に物語が劇的になるじゃない。
しかし、暗黒面に落ちた兄。
そいつを助けたいがために、父ルーク・スカイウォーカーを探し求める。
で、第2部の終わりで真実がわかるわけだ。
実はルーク・スカイウォーカーは父ではなかった。
なんで、こんなふうにしなかったんだろう?不思議で仕方がない。
ケネディ家とロックフェラー家はピルグリム・ファーザーズの子孫ですか?
ケネディ家とロックフェラー家がピルグリム・ファーザーズの子孫であるかどうかについては、歴史的な記録に基づいて正確に回答することは困難です。しかしながら、両家族ともアメリカ合衆国の創設期において非常に重要な役割を果たし、アメリカ合衆国の歴史において大きな影響力を持っていることは事実です。
具体的には、ケネディ家はジョセフ・ケネディ・シニアを筆頭に、政治家や実業家としての成功を収め、アメリカ合衆国の歴史に多大な影響力を与えています。一方、ロックフェラー家はジョン・ロックフェラーを筆頭に、石油産業において巨大な財を築き、アメリカ合衆国の経済に大きな影響力を持っています。
一般的に言えることは、アメリカ合衆国の歴史において重要な役割を果たした家族は、多くが移民や早期入植者の子孫である可能性が高いということです。しかし、個々の家族のルーツや家系について正確な情報を得るためには、家族の系図や歴史的な資料を調査する必要があります。
最初に言っておくとこれはただの愚痴であり弱音だ。なんとか耐えるしかないのはわかってるし、社会変わるべしとも思わない。ただ吐き出したい。
当方30代後半。今年の6月に子供が産まれて、里帰り出産の妻が帰った後に2ヶ月の育休を取得。11月から復帰して仕事をしている。育休中はしんどくも子供とがっぷり四つで過ごせる充実感があったが、復帰後の毎日がまぁキツい。日々消耗して不安になる。
平日は平日でキツい。風呂と寝かしつけをするには定時退社を死守せねばならんし、そうなると仕事量や質も絞らざるを得ない。イクメン認知されてるので周りも気を遣ってくれるが、極端な割り切りもできずこれまで以上にせかせか仕事をしている。これまで20-30時間残業してたのに急に働き方を変えたもんだから、自分にも部署にも皺寄せがいっているように見える。ありがたいことに中心を担ってたプロジェクトから外してもらえたものの、それはそれで孤独感がある。そしてこれが、あと10年以上は少なくとも続く。
帰宅したらその後は仕事と変わらんぐらいゆとりがない。うちの子供は親がちかくにいないと叫ぶタイプみたいで、かつ身体発達も早くて転がってるので目が離せない。そのくせろくに昼寝もしないので妻が働いてる自分と変わらんぐらい疲弊してる。そんなこんなで寝かしつけてご飯食べて自由になるのが21時頃。夫婦の会話の時間をとったら後はもう寝るだけ。スプラをやる体力がもはやない。
土日は土日で休みでない。土日ぐらいは子供を見て欲しいとの妻の思いはわかるし、自分が妻の立場ならそう頼むと思う。仕事もしてるし土日ぐらい休ませて、なんてことは言えないし、それを言うぐらいなら子供を作るなとも思う。それはわかってるんだが、仕事の勉強もゲームも友人との遊びもできずに土日の終わりを迎えるのは辛い。今までできていた充電ができず、育児という長距離走のスタートをきったばかりなのにヘトヘトになってる。
子供は本当に可愛い。生活が一変して自分の時間がなくなり、これまでの小〜中程度の日々の満足感は手放すことになったけれど、瞬間最大風速で言えばこれまで得ることのなかった幸福感が今ここにある。産まれてきてくれたこと、産んでくれたことに感謝したい。けれど、それで心身の消耗感が埋め合わされるわけではなく、どうにも気持ちのやり場がなくこんな文章を書いている。
違うのは宗教そのものというより、宗教に代表される中間団体への警戒感だと思う。
フランスの場合、カトリックというのは国際的な組織でもあるし、何しろ「個人」というものを析出させるためにはキリスト教の否定が急務だった(もっとも政教分離法自体は20世紀に入ってからだが)。
一方の合衆国の場合はピルグリムファーザーズ神話以上に、やはり開拓の歴史からくる強烈な「自治」志向があり(銃所持が「権利」と憲法に明記されるのもこの歴史あってのこと)、そこから中央政府に対してはまず分権的・州権的な立場が存在する。