【号外】普天間の辺野古移設に反対 2万1000人が結集
上記のニュースを読んで、まず感じたこと。
それは果たして本当に2万1千人も集まったのだろうか?という疑問なのです。
なぜ疑問に思ったのか?といえば、沖縄戦の住民集団自決における軍命令の有無を巡って、沖縄で行なわれた集会の人数が水増しされていた過去↓があったからですね。
・集団自決と検定 秦郁彦 沖縄集会「11万人」の怪
・沖縄県民大会の規模を2.5倍も誇張する朝日新聞
本来ならば、新たな事実が発見された時に限られるべき教科書の記述が、この政治集会の圧力を元に変えられそうになったことは、由々しき問題だったと言えるでしょう。
今回は、どうなのか?
それは主催者発表以外にないので、真相はわかりませんが、鵜呑みにすることは出来ません。
そこで、今日は主催者発表の数(員数)について書かれた山本七平の記述を著書「日本はなぜ敗れるのか」から紹介して行きます。
この「日本はなぜ敗れるのか」は、虜人日記を書いた小松真一氏が挙げた日本の「敗因21ヶ条」をひとつひとつ解説していく形を取っていますが、紹介するにあたって、次の敗因を頭に入れておく必要がありますので、以下ご紹介。
虜人日記 (ちくま学芸文庫)
(2004/11/11)
小松 真一
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◆敗因二十一ヵ条の第一条
一、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。
然るに作戦その他で兵に要求される事は、総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。
武器も与えずに。
米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた。
では、この敗因がどう「員数」と関わっているのかを、山本七平が書いた「日本はなぜ敗れるのか」から紹介して行きます。
日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)
(2004/03)
山本 七平
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◆実数と員数
(~前略)
ある一つの主義に基づき、ある対象が在ることにする。
奇妙なことに、これが、歴史的にも同時代的にも、そして昔も今も日本で行われてきたことであった。
精兵主義は確かにあった。
しかしその主義があったということは、精兵がいたことではない。
全日本をおおう強烈な軍国主義があった。
だがその主義があったということは、強大な軍事力があったということではない。
ところが奇妙なことに、精兵主義があれば精兵がいることになってしまい、強烈な表現の軍国主義があれば、強大な軍事力があることになってしまう。
これはまことに奇妙だが、形を変えれば現在にも存在する興味深い現象である。
そしてこの奇妙な現象が日本の敗因の最大のものの一つであった。
そしてそれを思うとき、小松氏が、これを二十一ヵ条の冒頭にもって来たことは、私などには、なるほどとうなずけるのである。
なぜこういう奇妙なことが起るのであろう。
日本人全部がいかに激烈な軍国主義者になったところで、昭和のはじめの日本の常備兵力は、実質的には日露戦争時と変らぬ旧式師団が十七個あるだけであった。
総兵力十七個師団。約三十万人余。
これは、当時の日本の経済力を考えれば、ほぼ精一杯の師団数であったろう。
通常、完全編制の一個師団の兵員は一万五千だが、日本の師団は二万。
その理由は、自動火器の不足を単発の小銃の数で補うためだったといわれる。
その火力はアメリカの戦艦の五分の一以下、簡単にいえば、五個師団半の火力の総計でやっと戦艦一隻分の総火力である。
そして伊藤正徳氏によると、この十七個師団の中で、アメリカの海兵師団と対等にわたりあえる能力のある師団は、一個かせいぜい二個であったという。
日本全体がどのような主義を奉じようと、奉じただけでは、現実にはこの数がふえるわけでも減るわけでもない。
全日本人が強烈な軍国主義者になれば一気にこれの能力が十倍百倍するわけではなく、海兵隊と対等でわたりあえる師団が一個師団か二個師団という現実には、何の変化もありえない。
そしてまたその逆が到来したからといって、それだけで、その能力が十分の一になるわけでもない。
強烈な言葉や激烈な表現また誇大なスローガンの氾濫も、それだけでは何の実質的変化をもたらすわけがない。
そしてそれが日本人全体にどのような心理的効果を与え、それがどのように日本を規制しようと、外国にとっては、所詮、犬の遠吠えに過ぎない。
以上のことに、反対する人はいないであろう。
だがそのわかりきったことが通用しなくなり、精兵主義があれば精兵があり、軍国主義があれば強大な軍隊が存在することになってしまう不思議な現象。
一体これは、どういう図式で、どのようにして、そうなるのであろうか。
昔の例はかえってわかりにくいと思うので、その図式とほぼ同様の最近の例をあげて解明しよう。
われわれにとって、動かすことが出来ないものに、まず単純な「数字」がある。
たとえば、十七個師団という数、その中に含まれる火器の数と火力の合計、それらの総計としての全師団の総軍事力という「数字」は、主義主張によって変化するわけではない。
ましてある「数」の実数を軍国主義者が計算しようと平和主義者が計算しようと「数」は「数」であり、もし、両者の間に差が出るなら、どこで誤差を生じたか厳密につきあわせれば、それも解明できるはずである。
従って、それを行わずに、その数を多く見れば何主義者、少なく見れば何主義者といった分類を行う者がいれば、それは実にこっけいな存在といわねばならない。
まして、その実数を無視して、この数をある数量と見ない者には何らかの資格がない、といった発言は、こっけいを通りこして馬鹿げている。
ところが奇妙なことに、昔も今も、このばかげた発想が存在するのである。
その昔、火力その他から厳密に計算して、日本の師団のうち海兵師団と対等でありうるのは一、二個師団、と公然と発言する者がいれば、それだけで、その者は日本国民の資格のない者、すなわち非国民であった。
だがしかし、それへの反論は、常に、厳密な合理的数字による反論ではないのである。
そして現在、しばしばこれと似た発想が表われるのが、春闘などに動員された労働者の「数」である。
この「実数」は厳密に計算すればだれが計算したとて同じ「数」であって、その人の奉ずる主義主張によって、現実に実在する数が増減することはありえない。
しかし最近の「春闘決起大会」の動員数などでも、その数のいずれをとるか、「大」をとるか「小」をとるかが、明らかに一つの資格審査すなわち一種の「踏絵」になっており、その踏絵としての力の方が、「実数の正確な調査」に優先しているのである。
主催者の春闘共闘委員会の発表した「数」は二十万人、警視庁調べでは三万一千人である。
この差は一対七であり、もし「一」が実数、「七」が虚数、そしてこれが「戦力」の計算だと仮定したら、太平洋戦争の開始時の情況もある程度理解できるのではないかと思う。
というのは、両者の国力の差も、どうひいき目に見ても一対七か一対九であった。
従って日本がもし「三万一千」が実力数でありながら「二十万」という”虚数”を基にして両者を対等と見なしていたなら、開戦は必ずしも気違い沙汰といえなくなる。
そしてその場合、問題は、開戦そのものより、なぜ虚数を実数としたかにあるはずである。
では一体、この二十万と三万一千は、どちらが実数なのであろう。
新聞には、「ニ十万については、発表寸前まで内部からも批判があり、大会に参加した一般組合員からも失笑を貿った」とある。
だが面白いことに、大会の責任者井ロ幹事にとっては「正確な実数」は問題でなく、どちらの数をとるかは、その人の資格問題なのである。
従って氏は「ホコ先を新聞記者諸氏に向ける。『新聞記者が三万一千という警察の数字を信ずるようじゃ、もはや労働記者の資格ないよ』」と。
また内部の批判者も結局、大会責任者の「『発表が二十万人になっているんだから……』”公式数字”はニ十万だといい直す」(以上「週刊新潮」所収)という形になる。
では一体全体、本当にそのままのそこにいた人間の数は何人か、といえば、結局わからないのである。
そしてそれがわからない理由の一つは新聞の態度にある。
主催者側二十万、警視庁側三万一千と書いてあるが、当新聞社の調査では何方という数字は常に書いておらず、新聞は新聞として独自の調査をし、国民が判断を誤らぬよう、自らの責任で正確な数字を発表する義務があるとは、昔も今も考えていないわけである。
以上の図式は、太平洋戦争勃発時と非常に似ている。
もしアメリカが、「海兵師団と互角に戦える戦闘師団は日本に一、二個師団しかない」と発表すれば、これはいわば「警視庁の発表」であって、その「数字を信じるようじゃ、もはや日本人の資格ないよ」つまるところ非国民なのである。
またたとえ軍の内部に批判的なものがいても、公式発表たとえば、大本営発表があれば、その公式発表が正しいといい直す。
そのほかに、以上のいずれにもよらぬ第三者、たとえば新聞社自体が示す「数=評価」といったものもない。
従って、その実体は最後には、だれにも把握できなくなってしまう。
「二十万」と発表した人自身が本当は実数を把握していない(と私は思う)のと同じである。
そして激烈な”軍国主義”が軍事カとされてしまうから本当の軍車力はなく、”精兵主義”が精兵とされるがゆえに精兵がいない、という状態を招来し、首脳部は自らの実状すら把握できなくなってしまうのである。
それが最終的にどういう状態を現出したか。
小松氏は的確に記している。
■日本軍の火力
友軍の火力としては高射砲が三門あるだけで、他は若干の重軽機銃と少数の迫〔撃砲〕、飛行機からはずした機関砲、旋回機銃位のもので、三八銃もろくになかった。
自分達の今井部隊は二千名の兵員に対し三八銃が七十丁という情けないものだった。
全ネグロスの友軍の兵員(陸軍、海軍、軍属、軍夫)二万四千のうち、陸軍の本当の戦闘部隊は二千名そこそこで、あとは海軍軍需部、海軍飛行場設定隊、陸軍は航空隊、飛行場大隊、航空修理廠、航空通信連隊等の非戦闘部隊が大部分だった。
(後略~)
確かに総兵力二万四千、しかし戦闘部隊は二千で十分の一以下、さらに今井部隊では兵員二千に対して、明治三十八年式の歩兵銃が七十丁、簡単にいえば、少なくとも全員の九割は戦闘力としてはそこに存在していない。
ただ標的として殺されるために存在しているに等しい。
これが軍国主義はあっても軍事力はなく、精兵主義はあって精兵がなく、客体への正確な評価を踏桧にかえ「二十万なら資格あり、三万一千なら資格なし」としつづけた一国の終末の姿である。
そしてこのことは、もう一方から見れば、陸軍の宿痾ともいえる員数主義を生む。
「数があるぞ」といえば質も内容も問わない。
これが極端まで進めば、「数があるぞ」という言葉があれば、そしてその言葉を権威づけて反論を封ずれば、それでよいということになる。
これは実に奇妙に見えるが、形を変えれば今もある。
前述の春闘の共闘委の西野事務局次長は「二十万?三万一千?問題」に次の通り答えている。
「つまらんことを聞きにくるんだねえ。二十万人招集したわけだから、ま、二十万人集まったと発表した。ただそれだけのことですよ……」。
これは実に面白い考え方である。
「ニ十万招集した、しかし三万一千(?)しか集まらなかった」という事実は、問題でないのだというわけである。
結局、招集数と実数の差は「実体なき員数」(これこそ員数の極致)でうめ、「ニ十万集まったと発表した」わけである。
なぜそうしたか、「――要は東京で中央集会をやりましたということ。こんなに気合が入っています、と新聞に出れば、いよいよ春闘が始まったゾという空気が、下部や地方に流れて行く。そこにこそ意味があるんだからねえ」。
大本営も大体これと同じ考え方をしていたらしい。
大兵団を比島に送りこむゾ、マレーの虎山下大将が総司令官になったゾ、大航空兵団が来るゾ、南方総軍司令部が寺内元帥以下天王山のマニラに乗りこむゾ、……ゾ、……ゾ……ゾ……ゾゾゾゾ……。
だがそれは結局、それをやっている人間の自己満足にすぎない「員数主義」である。
そして、小松氏のような普通の常識人には、バカバカしくて見ていられないのである。
(後略~)
【引用元:日本はなぜ敗れるのか/第三章 実数と員数/P75~】
上記の引用を読むと、沖縄の集会の「数」を巡る論争などにも、はっきりとその傾向が現れてますね。
マスコミは主催者発表をそのまま垂れ流し、自ら調査して検証するどころか、むしろ一部の新聞社などは、その数を強調し、自らの主張の正当性を裏付けるものとして利用したりさえする。
そこには、実態はどうなのか検証しようとか、事実を知らせようという意図は一切見受けられず、読者を一定の方向に誘導しようとする意図しか感じることが出来ません。
それでいながら、不偏不党・公正中立という衣を平然と被って報道するところが、日本のマスコミの大きな問題点ではないでしょうか。だからマスゴミと言われてしまう。
マスコミは、まずこうした集会に集まった「実数」を、主催者発表に頼らず、自ら調査し検証すべきでしょう。それも出来ずに、事実報道を謳うのはおこがましい限りだと私は思います。
また、情報を受け取る側も、主催者発表を鵜呑みにしない態度が求められるのではないでしょうか。
「員数」主義に陥らない為にも。
それはさておき、考えてみると、戦前の日本は激烈な「軍国主義」でしたが、戦後は一転して激烈な「平和主義」だと言えるでしょう。
平和国家日本、平和憲法、などとお題目を唱えたとしても、それで平和が維持できるわけでもないのに、なぜかそれによって日本が平和なんだ、ということになってしまう。
そして、日米同盟と自衛隊によって平和が保たれているという「現実」は、あっさり無視されてしまう。
「数」というのは、わかりやすく言葉でごまかし得ないはずですが、それですら山本七平の指摘するような「馬鹿げた現象」が起こってしまうことを鑑みれば、「日本の平和が何によってもたらされているか」という”現実”などは、激烈な「平和主義」にかかれば、簡単にごまかされてしまうのは、ある意味、当然なのかも知れません。
結局、政治的立場で「事実の認定」を歪めてはならない!という”姿勢”を取り続けなければ、こうした現象からは逃れられないのではないでしょうか。
そうしない限り、戦前の人間がだまされたように、我々もまただまされる結果になるでしょう。
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