そこで山本七平の記述も引用紹介しながら、アメリカに対して「対等に物申す」ことや、日本がどういう「立場」に置かれているのか、を考えていきたいと思います。
そもそも、「対等」とはなんぞや?と思ったりしたのでとりあえず辞書で調べてみました。
二つの物事の間に上下・優劣のない・こと(さま)。同等。
つまり、アメリカと日本の関係を、上下・優劣のない状態にすることが、「対等」といってよいと思います。
そこで思うのですが、実際「対等」を実現する為に必要なことはなんでしょうか?
私が思うに、実力が拮抗していれば、対等になるのは比較的簡単です。
問題になるのが、実力が乖離している場合です。どうやったら「対等」になれるのでしょうか?
実力以外の要素(例えば、格式とか地位とか)が、両者を拘束している場合は、あり得るかもしれません。
しかしながら、国と国の間でそうした要素が働くかといえば、私は非常に懐疑的です。
というか、幾ら国際協調の時代になっても、依然として、弱肉強食、実力がものいう世界だと思うのです。
となれば、アメリカと「対等」に付き合うということは、即ち、「アメリカと同等の国力を蓄える」ということが必要条件になるかと思います。
そこで、反米派の「対等」に戻りますが、彼らの意識の中に、「アメリカと同等の国力を蓄える」という意図は果たしてあるでしょうか?
仮にあるとしても「現実的に可能な」対策はあるでしょうか?
彼らの主張を見る限りにおいて、どうもそうした対策があるとは思えません。
右の対米自主独立派の主張を見ても、左の反米護憲派の主張を見ても、対米関係はかくあるべき!という主張ばかりで、具体的にどのようにそうした目標を達成すべきかを指し示しているものは殆ど見受けられません。
結局のところ、反米派のいう「対等」というのは、「アメリカに対抗しうる国力を備え、その力を背景に物申すこと」ではなく、アメリカに対して「嫌だから”ノー”と言ってみたいということ」に過ぎないのではないかと思います。
要は、単なる子供のワガママ、鬱屈を晴らしたいという欲望だけなのです。
さて、そうした場合、実力もないままアメリカに対して「”ノー”と言うこと」が果たして、日本にとって良いことなのか、悪いことなのか考えていく必要があると思います。
それを考えていく前に、まず日本の「立場」というものを、きちんと把握しておく必要があると思いますが、それでは、対等を主張する人達が、日本の立場を把握しているでしょうか?
ちょっと考えていきましょう。
例えば、「対等」関係を望む護憲派の主張によく見られるのが、コスタリカとかフィリピンの例を挙げて対等になれると主張しているケースです。
また、よく北欧とか理想の国を例に挙げて、日本もそうなるべし、と主張している人たちがいますけれども、それが、本当に参考になるでしょうか?
そもそも、日本とコスタリカ・フィリピン・北欧はそれぞれ全く異なる国なのですから、当然「立場」も異なります。
ですから、そうした違いを考えない「主張」というのは、日本の「立場」を把握しているとはとてもいえないでしょう。
つまり、他国を例に挙げるだけの主張というものは、あまり参考にならず、説得力を持たないと言って差し支えないのではないでしょうか。
そもそも、日本の「立場」をどのように見るか?
これ一つとっても難しいものがあります。
どうも気安く対米「対等」を主張する人たちの見方というのは、自らの見方に固執して、他国からどのように日本が見られているかという「視点」が欠落しているように見受けられます。
例えば、反米左翼のイメージする日本は、平和憲法を戴く平和国家になります。
そこには、アメリカの同盟国という意味合いはありません。
まるで中立国家であるかのような立場です。
また、反米右翼のイメージする日本は、今すぐにでも核武装したり、自主独立できる実力があるかのようです。
いずれも一方的に思い込み、自らの見方を「絶対化」して、他者からどのように見られているのか、まで考えが及ばないということですね。
要は、右も左も”ひとりよがり”なのです。
さて、日本の「立場」で、このような「ひとりよがり」が、どのような結果をもたらしかねないのか?
それを考える際に、ヒントとなるのが古代ユダヤの歴史です。
よく古代ローマに滅ぼされたカルタゴを、現代の日本とダブらせ警鐘を鳴らす主張は過去にもありました。
確かにカルタゴと日本とは、非常に似通った位置に見えると思います。
しかし、ある意味、日本の「立場」は、カルタゴより古代ユダヤに似ているのではないかと思います。
そこで今回、山本七平著「一つの教訓・ユダヤの興亡」から、日本と古代ユダヤの「立場」の類似点について、アンチ・セミティズムや黄禍論の類似性を絡めながら述べている箇所を紹介して行きたいと思います。
一つの教訓・ユダヤの興亡
(1987/11)
山本 七平
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◆序にかえて
(~前略)
問題は、前記のベン・アミ・シロニー教授の指摘のように、アンチ・セミティズムと黄禍論はつねに連動していることである。
そしてこの黄禍論という言葉は、はっきりいってしまえば「日本禍論」であり、それはアンチ・セミティズムという言葉が反ユダヤ主義を意味するのに似ている。
「黄」といっても、現代ではそれに中国人や韓国人は合まれないように、「セム」といってもそれにアラブ人が含まれるわけでない。
一言でいえば、それは「ユダヤ禍論」であり「日本禍論」なのだが、なぜこのような概念が存在しうるのか。
なぜ、この両者は「禍い」の根元のように見られるのか。
両国とも決して大国ではない。
二千年前のユダヤ王国は、ローマの勢力範囲内にあり、その面積は四国よりやや大きい程度で、国土はほとんど荒地であり、資源というべきものは何もない。
これはユダヤ人が一心に開拓した現代でも余り変りはない。
一方日本は、これより大きいとはいえ、アジア大陸に近接する四つの島にすぎず、これまた資源皆無に近く、その面積は二十世紀のローマ帝国たるアメリカのカリフォルニア一州に及ばない。
それは大帝国になりうる前提を欠いた国土であり、この点で見る限り、「禍い」と規定されるような脅威を与えうる国でも民族でもないはずである。
だが、この「はず」の通りなら、はじめから問題にはなるまい。
では、なぜ問題にされるのか。
まず問題の第一は、その時代の中枢文化を担い、自らの文化を人類普遍の文明と信ずる者にとって、両者とも一種の異端であり、かつまた、あったということである。
異端は異教ではない。
そして関係なき異教の方が、むしろ問題は少ないのである。
そして異端であったということは、両者ともそれぞれの中枢文化と実に複雑な関係にあったということである。
中東の中枢はバビロニアとエジプトであろうが、この両者にはさまれたイスラエルはセム文化圏に属しながら、一神教という点、いわば宗教という当時の基本的な点で、この二大中枢にとって異端であった。
それが次にギリシア・ローマ圏に組み入れられる。
しかし彼らは、ヘレニズム文化から見ても異端であった。
ギリシア人が、ローマさえ認める自己の文化的権威を認めようとしない彼らに、嫌悪感を抱いてもこれは不思議でない。
一方日本は、儒教文化圏に属していたはずである。
だが、日本が儒教的体制となったことは、その歴史において一度もない。
さらに、漢字を離れて「かな文字」を創出し、彼らには理解できない文化を創出し、さらに幕藩制やら武家社会などを形成していく。
それが、次に西欧文化圏に入り、その目はもっばら欧米の文化へと向う。
だが欧米から見れば、その言語といい文字といい宗教といい風貌といい、到底自らの文化圏の一員と思うわけにいかない。
もちろん世界には、この種の辺境文化・辺境民族は少なくない。
だが、それがパーリア民族(註)として、弱少かつ劣性な状態で細々と生存しているなら問題はないし、恩恵的な援助を与えて優越感にひたるのも悪い気持はしないであろう。
(註)…儀礼的に社会的世界から遮断されている客民民族のことを指す。
さらにそれらが、優等生的な段階に発展したら、ほめてやってもよい。
だがしかし、もし自らを凌駕するようなことがあれば許しておけない。
シロニー教授がいうように、それは彼らの自画像を破壊する行為である。
そこで日本人にとってもユダヤ人にとっても「成功は罪」なのであり、そうなったとき、その存在は「禍い」なのである。
(後略~)
【引用元:序にかえて/一つの教訓・ユダヤの興亡/P3~】
上記の記述を読んでみると、日本とユダヤの置かれた「立場」の相似性にちょっと驚きますね。
ユダヤは古代ローマ帝国の”異端”だったし、日本は西欧をスタンダードとする世界の”異端”なのです。
それでは、そうした「立場」における”ひとりよがり”がどう世界から受け止められるか?
そのことについて述べられた箇所を同書から引用紹介します。
(~前略)
ユダヤ人とギリシア人の争いは一転して、ユダヤ人対ローマ帝国の戦いとなったわけである。
なぜ、こうなったのか。
それはユダヤ人が富と特権をもち、これを当然の「権利」としてきたことへの反動があったであろう。
彼らはローマの市民権をもっても兵役を免除され、それでいながらパクス・ロマーナと広大で平和な市場を享受し、ユダヤの律法通りの自治を許され、富を蓄積してきた。
そのことへの反感、さらにギリシア・ローマ文明の優越性を認めようとしないこと、これが傲慢と感じられたのであろう。
◆ユダヤ人より上まわる現代日本人への反感
それは戦後の日本と一脈通ずるところがある。
彼らが「カエサルの与えた特権」をもつように、日本人は「マッカーサーの与えた憲法」により軍備の重荷はなく、パクス・アメリカーナの維持にこの面で何一つ寄与せぬとされつつ、これを市場として百パーセント活用して富を蓄積してきた。
そして日本人はそれを当然のこととし、高らかに平和論を口にしつつ、この面のアメリカの努力には全く敬意を払わず、むしろ批判し非難しつづけてきた。
そして自らの独自の生き方を当然とするだけでなく、それが欧米よりはるかに勝ると信じ、勝るがゆえに今日の富強を招来したと信じて疑わなかった。
そして、確かにそれは一面では正しい。
それをしていれば、「お前たちは貸す者となっても借りる者とはならないであろう」という旧約聖書の『申命記』の言葉は確かに日本にもあてはまる。
だが、それがどれだけ大きな反感になるか。
現代の日本人への反感が、かつてのユダヤ人へのそれを上まわっていることには多くの例証がある。
かつてある国際会議で、天谷直弘氏が、「ソビエトヘの防衛が問題になっているが、各国の自国産業の防衛が自由貿易体制を崩壊させようとしている、この”防衛”も問題とすべきだ」と述べた。
それに対して「GNPの一パーセントも自由世界の防衛に負担しようとしない日本があのようなことをいっている」といった趣旨の返答があり、同時に満場われんばかりの拍手になって、その雰囲気に異常なものを感じたという。
「義務を負担せず、カネばかりもうけている」
これが二千年間つづいた反ユダヤ感情の一つであり、それは実にローマ時代にはじまっている。
ラッセル・ブラッドンの『日本人への警鐘』のように、警鐘を鳴らしている者もいるのだが、それは日本人の耳に入らない。
ユダヤ人にもう少し協調性があれば、あのようにはならなかったであろうというユダヤ人が今ではいる。
だが律法絶対、憲法絶対という絶対主義はつねに、人をある世界の中に心理的に閉じこめて一人よがりにするために、そのような協調性はもち得ない状態に陥れるのである。
彼らはそれで破滅した。
他山の石とすべきであろう。
【引用元:ユダヤを破滅させた”ひとりよがり”の教訓/一つの教訓・ユダヤの興亡/P260~】
この本は、昭和62年に刊行されていますが、20年以上たった現代でも(自衛隊の海外派遣など、幾分、「立場」に見合う活動を展開しつつはあるものの)、基本的に日本の「立場」変わっていないように思います。
ここで民主党政権が、給油活動を停止し、それに代わる具体的な国際貢献策を世界にアピールできないとしたら、再び「義務を負担せず、カネばかりもうけている」という批難が強まることは避けられないでしょう。
「ひとりよがり」がどのような結果をもたらしたか。
それは、過去のユダヤ人の歴史を見れば参考になるはずです。
律法(トーラー)絶対が、ユダヤ人の「ひとりよがり」の原因であったように、平和憲法絶対が、日本の姿勢を「ひとりよがり」なものにしているのかも知れません。
それでは、一体日本はどう対処していくべきなのか?
それについては、次回以降、山本七平の記述を紹介しながら考えて行きたいと思います。
ではまた。
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