民主党が政権を取る可能性が非常に大きいわけで、「反」民主党の私としては、非常に憂鬱なのですがこれも民主主義体制を取る社会では仕方あるまいと、自らを納得させている今日この頃です。
世論調査などを見ていて、一番意外だったのが、「(ソースはどこだか忘れましたが)自民党政権が民主党政権に変わったとしても、変わらないと考えている人の多さ」ですね。
つくづく、政治というのはイメージでしか判断されないものだな…と痛感しました。
マスコミの報道姿勢が、民主党寄りであるのが一因なのでしょうが、それでもちょっと調べれば、政策の違いなどわかるはずなのに…。
確かに、現在のこの閉塞感を打ち破ってくれないか…という国民の変化を求める気持ちというのが、背景にあるのでしょうけど、個人的にはそんな程度の考えで投票先を決めて欲しくないですね。
安直にイメージで選択して、そのイメージに裏切られたら、また、だまされたと被害者ぶるのでしょうか。
どうも、そういうことになりそうな気がして嫌な予感。
そして、ますます政治不信が募るような気がしてなりませんねぇ。
そう考えると、政治不信というのは、有権者自らが招いているような気がしなくも無い。
(もちろん、政治家にも責任の一端はあるのでしょうが。)
考えてみれば、政治不信というのは、民主主義体制にとってあまり好ましい状態ではないですよね。
戦前を振り返ってみても、政治腐敗に呆れた国民が、清廉潔白な軍人に世直しを期待し、その結果軍部の台頭を招いた前例もありますし。
しかし、なんでこうも政治に「清廉潔白」を求めるのでしょうかねぇ。
そもそも、国民の側だって、それぞれの立場で利益の誘導を期待して行動しているくせに。
政治家だけに、「清廉潔白であれ、とか、正義や善行を求める」なんてちょいと虫が良すぎませんか。
などと、ぼやくのもこれくらいにして、今日は「民主主義亡国論」について、山本七平のコラムを引用しながら考えていきたいと思います。
「常識」の落とし穴 (文春文庫)
(1994/07)
山本 七平
商品詳細を見る
◆そろそろ民主主義亡国論
(~前略)
というのは過去にもさまざまな「民主主義亡国論」があった。
その意味では「そろそろ」どころか昔からなのだが、この昔からの「民主主義亡国論」の図式が果たして現代に通用するか否かという問題である。
それがもし通用しないとなると、「昔ながらの……」でなく、文字通りの「そろそろ……」になるわけで、では一体この「そろそろ」はどんな形で現われるのであろうか。
(~中略~)
古典的な「民主主義亡国論」はすでにプラトンにある。
詳しくは田中美知太郎先生の膨大な『プラトンⅠ』を読んで下さればよい。
ここではそれを極めて短く要約させていただく。
だが要約すると皮肉なことにプラトンは民主主義否定論者のように見えてしまう。
だがもちろんそんな単純なことはいえない。
まず私が驚いたのは、すでに六十歳を越えていたプラトンが、ディオンの民主主義革命を助けるためにわざわざ騒乱のシュラクサイまで出掛けていったことである。
この情熱は並のものではない。
ではプラトンは何にそれほどの情熱を傾けたのか。
ここで田中先生の『プラトンⅠ』を引用させていただく。
「プラトンが理解し、支援したディオンの政治目標は何だったのか。それは漠然とした理想ではなくて、はっきりした具体性をもつものであった。
それは二つの解放を目ざしていて、『第三書簡』の主要なテーマにもなっている。
一つはカルタゴ人の支配下にあるもとのギリシア人都市を解放して、自由と独立を回復すること、もう一つはディオニュシオスー家の独裁下にあるシュラクサイ市民を解放して、りっぱな法的秩序をもつ市民の自由を回復することである。
そして前者の実現には、まず後者の成就が必要とされる(『第七書簡』三三六A)。
事実かれはディオニュシオス一家の独裁的支配と戦い、これを倒したのである。
しかしそれによって与えられた自由に秩序を加える仕事は、長期の苦しい戦いとならねばならなかった。
ディオンはその戦い半ばにして――あるいは『第七書簡』(三五一C)の言葉を借りれば『敵を圧倒するぎりぎりのところ』まで行っていながら、惜しくも――倒れたのである。
解放後のシュラクサイの人たちは、昔ながらの快楽を求めるだけの自由しか知ろうとしなかった。
それがかれらの民主主義である。しかし……」
「しかし」以下は省略させていただく。
プラトンについては田中美知太郎先生の本を読んでいただくとして、後代がこの事件から、というよりそれを記したプラトンの著作からさまざまな影響を受けたことは否定できない。
というのは、自由と民主主義を獲得した瞬間にあらゆる要求が出てきて収拾がつかなくなり、それが逆に民主主義を崩壊させてしまうという図式は、すでに史上何回か繰り返されているからである。
そして繰り返すたびにプラトンが思い起こされ、「そろそろ民主主義亡国論」となる。
そこでプラトンは、この「民衆の無限の要求」を制御するものは「法」しかないと考える。
だが、「無限の要求」をする民衆が選出した者が、この民衆の無限の要求を制御する「法」を制定できるか、となるとこれはだれが考えてもむずかしい。
現代にたとえれば、「税金は払いたくない、しかし社会保障はあらゆる面で十分に享受したい」という民衆の要求を、民衆が選出した代議士に制定させようとしても、少々無理ということ。
この無理を、かつては植民地を搾取することで何とかやりくりをして来た国もあった。
これがディオンの時代と違うところ。
民主主義の模範のようにいわれたイギリスは一面では大植民地帝国であったのは皮肉である。
もう一昔も二昔も前のことだが、イギリスが植民地を解放し、「ゆりかごから墓場まで」を保障し、民主主義の模範と日本の文化人があがめ奉っていたころ、私はあるイラン人から、アングロ・イラニアン石油会社の月給では、イラン人はイギリス人の十分の一だという話を聞いた。
ま、そんなことだろう、その手品ができなくなればポンドの下落がはじまり、「鉄の女」が出て来て、どうやら縮小均衡でバランスをとる。
これがプラトンのいうどの段階なのか、といったむずかしい問題はしばらく措き、「植民地」という手品が使えなくなったことは否定できない。
では何か他に手品があるのか。
マルクス=レーニン主義を採用すればよいのか。
それが「夢」であることは、『スルタンガリエフの夢』(山内昌之著)の次の言葉に表われている。
「――われわれは、ヨーロッパ社会の一階級(プルジョワジー)による世界に対する独裁をその対立物たる別の階級(プロレタリアート)でおきかえようとする処方が、人類の抑圧された部分(植民地人民)の社会生活に格別大きな変化をもたらさないと考える。
いずれにせよ、かりに何かの変化が生まれたとしても、それはさらに悪くなる方向であって良くなる方向では生まれなかった」。
スルタンガリエフは消える。
おそらくスターリンに消されたのであろうが、この言葉が事実であることは消すことができず、「解放という名の搾取や貧困化」は、現に目の前にある。
「君」という「主」は打倒できるが「民」という「主」は打倒できない。
そしてこの「民という主」の貧しい要求も、総計すれば一君主の貪婪な要求を上まわるであろう。
ではいま一体、何がその過大な要求を支えているのであろうか。
それは「錬金術」である、といえば人は奇妙に思うかも知れぬが、この錬金術から生まれた科学技術であるといえば人は納得するであろう。
その道の人はICのことを「石」という。
石がICになりICが金になる、いや現代では金である必要はなく、「経済的価値」になるといえばよい。
イットリウムとかいうものが土の中にあるという。
これは昔からあった土の成分にすぎない。
それが科学技術とかいう術を駆使する錬金術師の手にかかると、超電導のための不可欠な物質、金以上の金になる。
二十世紀のこのような例をあげていけば際限があるまい。
一体、錬金術とは何であったのか。
簡単にいえばそれは、銅や錫などの安い金属から、何とか金を創り出そうとする術であった。
多くの王侯は、この術さえ完成すれば、無限の富を持ちうると空想した。
そして現代の「民」という「主」は、科学技術が新しい富を創出し、それが自分たちの無限の欲望を次々に充足してくれると信じて疑わない。
だが富むのはあくまでも、石や土を金に変える術を持っている国であっても、石や土を持っている国ではない。
この関係は錬金術をもつ王が、銅と錫を安く買って金に変え、それでまた銅と錫を安く買うのに似ている。
否、それ以上である。
そしてその術をもつ国のところへ世界の富は集中して来て、「民」という「主」のあらゆる欲望を充足してきた。
民主主義とは、「贅沢な体制」だとか「コストのかかる体制」とかいわれる。
確かにこれを成立させかつ維持して来た国は、七つの海を支配した国とか、広大な国土と無限の(と思われる)資源を持つ国とか、に限られていた。
世界史をぱらぱらとめくって見ただけで、厳密な意味の民主主義を維持しえた国、維持しえた時代が、例外的といいたいほど少なくかつ短時間であったことを知る。
さらに、その国その期間の中ですら、全員に及んだわけではない。
少なくとも自らの歴史を顧みるとき、「アパルトヘイトのある民主主義」を批判できる資格のある民主主義国はあまりないはずである。
その点、民主主義という贅沢のできる国はきわめて限定的で、何らかの形で他を搾取する形ではじめて成り立ってきたといえる。
美しいものの裏は必ずしも美しくはない。
ではこの「民主主義」という「贅沢」を、日本はいつまで継続できるか。
ディオンのように、非常に短いと、民衆の過大な要求が民主主義を崩壊させたことは、だれにでも納得できよう。
もちろんそこから先をどう考えるかはプラトンのような哲学者に限られようが――。
だが錬金術が次々に民の要求に応じてくれるようになると、この贅沢が相当に長期間可能であることは否定できまい。
もちろんどこかの国がこの「錬金術国」を奴隷にすれば、という妄想を抱くこともありうるが、それは計算外の突発事故と仮定しよう。
そしていつしか人びとは、この錬金術を日本は永遠に独占し、「石」を「金」に変えて、あらゆる要求がいつしかかなえられる、それは現在の体制を維持していればよいと信じて疑わないようになる。
否、もうそうなっているかもしれない。
だがその「信じて疑わない」は果たして根拠があるのか。
それは非常に危い基盤の上に立っているのではないか。どこが危いのか。
まず、その状態が人をどう変えてしまうかであり、次に、錬金術の独占が果たしてつづくか否かである。
まずあらゆる欲望が充足されるような状態は、人びとの意識を変えて錬金術への情熱を失わせるかもしれぬ。
そしてこの内部的変化が起こったとき、外部に新しい情熱を持った新しい錬金術の競争相手が現われたとき、どうなるか。
一挙に転落して不思議でない。
そのとき「貧しき民主主義」を頑として維持するには宗教的信仰に近い強固な思想が必要なのだが、ではそれがあるのか――。
【引用元:「常識」の落とし穴/Ⅱ民主主義の運命/P84~】
考えてみれば、民主主義とは効率性からかけ離れてますよね。独裁制の方がよっぽど効率的と思われるし…。
山本七平の「民主主義という贅沢のできる国はきわめて限定的で、何らかの形で他を搾取する形ではじめて成り立ってきた」という指摘は、なるほどと考えされられました。
民主主義が根付く社会と、そうでない社会と言うのがありますが、その原因の一つに「コスト」の影響が大いにあるのではないかと。
日本も、戦後そうとう長い期間にわたって搾取する側でしたので、それが「当然」であると思い込んでいる人が大多数なのではないでしょうかね。
山本七平の今回のコラムは、そんな「前提」が、あたりまえでないと気付かせてくれたような気がします。
要は、民主主義社会とは贅沢な制度なんです。非効率な制度ともいえる。
現在は、それを行なうことができる環境であることに、我々はとりあえず感謝すべきでしょう。
ただ、その環境というのは決して磐石なのではないことを肝に銘ずる必要がありますよね。
以前「ソマリア海賊問題から「海上秩序の傘」について考える」という記事を書いたように、現在の自由貿易体制という「秩序」が永遠に続くと言う保証は誰にもできないのですから…。
また、「『民という主』の貧しい要求も、総計すれば一君主の貪婪な要求を上まわるであろう」という指摘にも、我々は留意すべきでしょう。
そうした前提を認識したうえで、民主主義の政治には一時期の停滞や後退はつきものと覚悟して投票に臨むべきでしょうね。
選挙の結果次第では、最悪、民主主義の崩壊の端緒にさえ、なりうる恐れもある。
仮にそういう事態が起こってしまったとき、それでも我々は「民主主義」を選択するだろうか?
山本七平の懸念もあながち杞憂と言えなさそうな気がします。
FC2ブログランキングにコソーリと参加中!
「ポチっとな」プリーズ!
- 関連記事
-
- 日本は穢土/自国を貶める人間は、自分が「きれい」であることを証明したいだけ。 (2009/08/16)
- 内なる「悪」に無自覚な日本人/性善説がもたらす影響とは? (2009/08/11)
- 「敵への憎悪」は理解できても、「人種的憎悪」は理解できない日本人 (2009/08/09)
- 資源問題に関する日本人の「現実的」態度は、世界に比べて現実的だろうか? (2009/07/31)
- 贅沢な民主主義体制/それを支える「前提」について考える。 (2009/07/25)
- 「伝統的規範」と「社会の変化」を調和させることの難しさ/~「日本スバラシイ論」を疑え!~ (2009/07/18)
- 単純に「教育の無料化」を叫ばれてもね…。 (2009/07/16)
- 社会保障には、人間性を破壊する負の面があるのではないだろうか? (2009/07/12)
- 社会保障が完備された社会があったとしたら、それは果たして「理想郷」たりえるだろうか? (2009/07/04)