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一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

贅沢な民主主義体制/それを支える「前提」について考える。

いよいよ衆議院が解散する運びとなりました。
民主党が政権を取る可能性が非常に大きいわけで、「反」民主党の私としては、非常に憂鬱なのですがこれも民主主義体制を取る社会では仕方あるまいと、自らを納得させている今日この頃です。

世論調査などを見ていて、一番意外だったのが、「(ソースはどこだか忘れましたが)自民党政権が民主党政権に変わったとしても、変わらないと考えている人の多さ」ですね。
つくづく、政治というのはイメージでしか判断されないものだな…と痛感しました。

マスコミの報道姿勢が、民主党寄りであるのが一因なのでしょうが、それでもちょっと調べれば、政策の違いなどわかるはずなのに…。

確かに、現在のこの閉塞感を打ち破ってくれないか…という国民の変化を求める気持ちというのが、背景にあるのでしょうけど、個人的にはそんな程度の考えで投票先を決めて欲しくないですね。

安直にイメージで選択して、そのイメージに裏切られたら、また、だまされたと被害者ぶるのでしょうか。
どうも、そういうことになりそうな気がして嫌な予感。
そして、ますます政治不信が募るような気がしてなりませんねぇ。

そう考えると、政治不信というのは、有権者自らが招いているような気がしなくも無い。
(もちろん、政治家にも責任の一端はあるのでしょうが。)

考えてみれば、政治不信というのは、民主主義体制にとってあまり好ましい状態ではないですよね。

戦前を振り返ってみても、政治腐敗に呆れた国民が、清廉潔白な軍人に世直しを期待し、その結果軍部の台頭を招いた前例もありますし。

しかし、なんでこうも政治に「清廉潔白」を求めるのでしょうかねぇ。
そもそも、国民の側だって、それぞれの立場で利益の誘導を期待して行動しているくせに。
政治家だけに、「清廉潔白であれ、とか、正義や善行を求める」なんてちょいと虫が良すぎませんか。

などと、ぼやくのもこれくらいにして、今日は「民主主義亡国論」について、山本七平のコラムを引用しながら考えていきたいと思います。

「常識」の落とし穴 (文春文庫)「常識」の落とし穴 (文春文庫)
(1994/07)
山本 七平

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◆そろそろ民主主義亡国論

(~前略)

というのは過去にもさまざまな「民主主義亡国論」があった。

その意味では「そろそろ」どころか昔からなのだが、この昔からの「民主主義亡国論」の図式が果たして現代に通用するか否かという問題である。

それがもし通用しないとなると、「昔ながらの……」でなく、文字通りの「そろそろ……」になるわけで、では一体この「そろそろ」はどんな形で現われるのであろうか。

(~中略~)

古典的な「民主主義亡国論」はすでにプラトンにある。

詳しくは田中美知太郎先生の膨大な『プラトンⅠ』を読んで下さればよい。
ここではそれを極めて短く要約させていただく。

だが要約すると皮肉なことにプラトンは民主主義否定論者のように見えてしまう。

だがもちろんそんな単純なことはいえない。

まず私が驚いたのは、すでに六十歳を越えていたプラトンが、ディオンの民主主義革命を助けるためにわざわざ騒乱のシュラクサイまで出掛けていったことである。

この情熱は並のものではない。

ではプラトンは何にそれほどの情熱を傾けたのか。

ここで田中先生の『プラトンⅠ』を引用させていただく。

「プラトンが理解し、支援したディオンの政治目標は何だったのか。それは漠然とした理想ではなくて、はっきりした具体性をもつものであった。

それは二つの解放を目ざしていて、『第三書簡』の主要なテーマにもなっている。

一つはカルタゴ人の支配下にあるもとのギリシア人都市を解放して、自由と独立を回復すること、もう一つはディオニュシオスー家の独裁下にあるシュラクサイ市民を解放して、りっぱな法的秩序をもつ市民の自由を回復することである。

そして前者の実現には、まず後者の成就が必要とされる(『第七書簡』三三六A)。

事実かれはディオニュシオス一家の独裁的支配と戦い、これを倒したのである。

しかしそれによって与えられた自由に秩序を加える仕事は、長期の苦しい戦いとならねばならなかった。

ディオンはその戦い半ばにして――あるいは『第七書簡』(三五一C)の言葉を借りれば『敵を圧倒するぎりぎりのところ』まで行っていながら、惜しくも――倒れたのである。

解放後のシュラクサイの人たちは、昔ながらの快楽を求めるだけの自由しか知ろうとしなかった。
それがかれらの民主主義である。しかし……」


「しかし」以下は省略させていただく。

プラトンについては田中美知太郎先生の本を読んでいただくとして、後代がこの事件から、というよりそれを記したプラトンの著作からさまざまな影響を受けたことは否定できない。

というのは、自由と民主主義を獲得した瞬間にあらゆる要求が出てきて収拾がつかなくなり、それが逆に民主主義を崩壊させてしまうという図式は、すでに史上何回か繰り返されているからである。

そして繰り返すたびにプラトンが思い起こされ、「そろそろ民主主義亡国論」となる。

そこでプラトンは、この「民衆の無限の要求」を制御するものは「法」しかないと考える。

だが、「無限の要求」をする民衆が選出した者が、この民衆の無限の要求を制御する「法」を制定できるか、となるとこれはだれが考えてもむずかしい

現代にたとえれば、「税金は払いたくない、しかし社会保障はあらゆる面で十分に享受したい」という民衆の要求を、民衆が選出した代議士に制定させようとしても、少々無理ということ。

この無理を、かつては植民地を搾取することで何とかやりくりをして来た国もあった

これがディオンの時代と違うところ

民主主義の模範のようにいわれたイギリスは一面では大植民地帝国であったのは皮肉である。

もう一昔も二昔も前のことだが、イギリスが植民地を解放し、「ゆりかごから墓場まで」を保障し、民主主義の模範と日本の文化人があがめ奉っていたころ、私はあるイラン人から、アングロ・イラニアン石油会社の月給では、イラン人はイギリス人の十分の一だという話を聞いた。

ま、そんなことだろう、その手品ができなくなればポンドの下落がはじまり、「鉄の女」が出て来て、どうやら縮小均衡でバランスをとる。

これがプラトンのいうどの段階なのか、といったむずかしい問題はしばらく措き、「植民地」という手品が使えなくなったことは否定できない。

では何か他に手品があるのか。

マルクスレーニン主義を採用すればよいのか。
それが「夢」であることは、『スルタンガリエフの夢』(山内昌之著)の次の言葉に表われている。

「――われわれは、ヨーロッパ社会の一階級(プルジョワジー)による世界に対する独裁をその対立物たる別の階級(プロレタリアート)でおきかえようとする処方が、人類の抑圧された部分(植民地人民)の社会生活に格別大きな変化をもたらさないと考える。

いずれにせよ、かりに何かの変化が生まれたとしても、それはさらに悪くなる方向であって良くなる方向では生まれなかった」。


スルタンガリエフは消える。

おそらくスターリンに消されたのであろうが、この言葉が事実であることは消すことができず、「解放という名の搾取や貧困化」は、現に目の前にある。

「君」という「主」は打倒できるが「民」という「主」は打倒できない

そしてこの「民という主」の貧しい要求も、総計すれば一君主の貪婪な要求を上まわるであろう。

ではいま一体、何がその過大な要求を支えているのであろうか。

それは「錬金術」である、といえば人は奇妙に思うかも知れぬが、この錬金術から生まれた科学技術であるといえば人は納得するであろう。

その道の人はICのことを「石」という。

石がICになりICが金になる、いや現代では金である必要はなく、「経済的価値」になるといえばよい。
イットリウムとかいうものが土の中にあるという。

これは昔からあった土の成分にすぎない。
それが科学技術とかいう術を駆使する錬金術師の手にかかると、超電導のための不可欠な物質、金以上の金になる。

二十世紀のこのような例をあげていけば際限があるまい。

一体、錬金術とは何であったのか。
簡単にいえばそれは、銅や錫などの安い金属から、何とか金を創り出そうとする術であった。

多くの王侯は、この術さえ完成すれば、無限の富を持ちうると空想した。

そして現代の「民」という「主」は、科学技術が新しい富を創出し、それが自分たちの無限の欲望を次々に充足してくれると信じて疑わない

だが富むのはあくまでも、石や土を金に変える術を持っている国であっても、石や土を持っている国ではない。

この関係は錬金術をもつ王が、銅と錫を安く買って金に変え、それでまた銅と錫を安く買うのに似ている。
否、それ以上である。

そしてその術をもつ国のところへ世界の富は集中して来て、「民」という「主」のあらゆる欲望を充足してきた

民主主義とは、「贅沢な体制」だとか「コストのかかる体制」とかいわれる。

確かにこれを成立させかつ維持して来た国は、七つの海を支配した国とか、広大な国土と無限の(と思われる)資源を持つ国とか、に限られていた。

世界史をぱらぱらとめくって見ただけで、厳密な意味の民主主義を維持しえた国、維持しえた時代が、例外的といいたいほど少なくかつ短時間であったことを知る。

さらに、その国その期間の中ですら、全員に及んだわけではない。

少なくとも自らの歴史を顧みるとき、「アパルトヘイトのある民主主義」を批判できる資格のある民主主義国はあまりないはずである。

その点、民主主義という贅沢のできる国はきわめて限定的で、何らかの形で他を搾取する形ではじめて成り立ってきたといえる。

美しいものの裏は必ずしも美しくはない

ではこの「民主主義」という「贅沢」を、日本はいつまで継続できるか。

ディオンのように、非常に短いと、民衆の過大な要求が民主主義を崩壊させたことは、だれにでも納得できよう。

もちろんそこから先をどう考えるかはプラトンのような哲学者に限られようが――。

だが錬金術が次々に民の要求に応じてくれるようになると、この贅沢が相当に長期間可能であることは否定できまい。

もちろんどこかの国がこの「錬金術国」を奴隷にすれば、という妄想を抱くこともありうるが、それは計算外の突発事故と仮定しよう。

そしていつしか人びとは、この錬金術を日本は永遠に独占し、「石」を「金」に変えて、あらゆる要求がいつしかかなえられる、それは現在の体制を維持していればよいと信じて疑わないようになる。

否、もうそうなっているかもしれない。

だがその「信じて疑わない」は果たして根拠があるのか

それは非常に危い基盤の上に立っているのではないか。どこが危いのか。

まず、その状態が人をどう変えてしまうかであり、次に、錬金術の独占が果たしてつづくか否かである。

まずあらゆる欲望が充足されるような状態は、人びとの意識を変えて錬金術への情熱を失わせるかもしれぬ。

そしてこの内部的変化が起こったとき、外部に新しい情熱を持った新しい錬金術の競争相手が現われたとき、どうなるか。

一挙に転落して不思議でない。

そのとき「貧しき民主主義」を頑として維持するには宗教的信仰に近い強固な思想が必要なのだが、ではそれがあるのか――。

【引用元:「常識」の落とし穴/Ⅱ民主主義の運命/P84~】

考えてみれば、民主主義とは効率性からかけ離れてますよね。独裁制の方がよっぽど効率的と思われるし…。
山本七平「民主主義という贅沢のできる国はきわめて限定的で、何らかの形で他を搾取する形ではじめて成り立ってきた」という指摘は、なるほどと考えされられました。

民主主義が根付く社会と、そうでない社会と言うのがありますが、その原因の一つに「コスト」の影響が大いにあるのではないかと。

日本も、戦後そうとう長い期間にわたって搾取する側でしたので、それが「当然」であると思い込んでいる人が大多数なのではないでしょうかね。

山本七平の今回のコラムは、そんな「前提」が、あたりまえでないと気付かせてくれたような気がします。

要は、民主主義社会とは贅沢な制度なんです。非効率な制度ともいえる。
現在は、それを行なうことができる環境であることに、我々はとりあえず感謝すべきでしょう。

ただ、その環境というのは決して磐石なのではないことを肝に銘ずる必要がありますよね。
以前「ソマリア海賊問題から「海上秩序の傘」について考える」という記事を書いたように、現在の自由貿易体制という「秩序」が永遠に続くと言う保証は誰にもできないのですから…。

また、「『民という主』の貧しい要求も、総計すれば一君主の貪婪な要求を上まわるであろう」という指摘にも、我々は留意すべきでしょう。

そうした前提を認識したうえで、民主主義の政治には一時期の停滞や後退はつきものと覚悟して投票に臨むべきでしょうね。

選挙の結果次第では、最悪、民主主義の崩壊の端緒にさえ、なりうる恐れもある。
仮にそういう事態が起こってしまったとき、それでも我々は「民主主義」を選択するだろうか?

山本七平の懸念もあながち杞憂と言えなさそうな気がします。


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コメント

1読者さんへ

1読者さん、コメントありがとうございます。

今回の「民主主義体制を支える前提 -補足-」において、各国の選挙制度の違いの解説は非常にわかりやすく、日本の選挙制度を考える上で参考になりました。

全てに答えられませんが、幾つか感想をば。

>日本の民主制を歪めている元凶の一つは、間違いなくマスコミであり、
山本七平も日本のマスコミを「無定見」だと批判していましたが、相手によってコロコロ基準を変えて批判する悪癖が目に余りますね。

>なぜか日本では、こうした節約を重視した政策が、現実には常に失敗してきたにもかかわらず、江戸時代以来、国民的な評価が高い点は気になるところです

やはり倹約は美徳という精神が根強いからでしょうか?
何事にも、事態の正確な把握と対処というのが問題解決に必要なのでしょうが、その説明を政治家もマスコミもきちんとできていないような気がします。
というか、受け取る側の問題もあるのかもしれないとも最近私は思います。

1読者さんの抱く二つの懸念について、今後よく考えていく必要がありそうですね。
「令外の官」というのは便利ですが、その運用には危険性も伴うわけで、それと理念の暴走が一体化したら、確かに恐ろしいことになりそうです。

参院の役割も考えていかなければならないというのは、同感です。

その点、木走日記の「衆院は一票の格差をなくし、参院は地域の権利平等」という主張はやってみても良い試みかもしれませんね。
そうすれば、参院も存在意義があるでしょう。

それと、いつも参考になるサイトや、児島襄氏の記述を教えてくださりありがとうございます。

松本国務大臣の「民主主義無責任」という懸念には、考えさせられるものがありました。

以上、非常にとりとめのないお返事ですみません。

  • 2009/08/29(土) 23:40:37 |
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1読者さんへ

ノム チョムスキーやハワード ジン、ガンジーの名前を出したのは恐らく日本でも知られていると思ったからで単なる議論を容易にする為です。其れともう一つの理由は3人とも本を書くだけではなく実際行動しているのです。ジンもチョムスキーも日本では知られていないのかもしれませんが60年代から若者の先頭に立って行動してきた人達で今でも彼等の講演は若者から年寄りまで幅広い年代層で満員になります。Wikipediaは日本のを読まれたのですか?1読者さんのチョムスキーとジンについての説明は彼等の経歴や思想の変遷のごく一部しか述べていられないので一寸知らない人が読むと誰の事を言っているのか分からない様な説明になっていると思います。特にジンについては彼は歴史家ですからアナキズムも当然知識として勉強したかもしれませんがアメリカではアナキストとしては知られていないようです。私の行った彼の講演でもその様な事は彼は言っていなかったと思います。唯、右翼や保守派ではないようですね。
私は日本で言われる右翼でも左翼でもなく、さて、其れではアナキストかと聞かれると『日本では一体アナキズムは如何理解されているのか?』と先ず聞かなければならないと思っています。私自身はコンテンポラリーな国際的なアナキズム(現在ではリバタリアンソシャリズムと呼ばれています)は非常に幅が広く誰かを捉まえて『お前はアナキストだ!』と決め付けるのは不可能ではないかと思っています。
 其れと、日本でのアナキズムの捉え方はバクーニンやクロポツキンやプルードン辺りで停止しているのでブログのコメントでは残念ながら議論が不可能なようです。議論の行き違いになってしまうのです。
チョムスキーも『私の思想は典型的な啓蒙思想時代の思想とそれほど変わっていない。』と言ったりしているので別にマルキシズムだとかアナコシンディカリズムだとか名前が代表する主義には固執していないようです。唯、彼が言っている事で大切なのは『子供が病気なのに単に貧乏だから医者に子供を連れて行けない家族を無視し放置しておく事が如何して出来るのだろうか?私には出来ないね。我々はもう少し自分達を丁重に扱う価値がある存在ではないだろうか?』と言う様な姿勢だと思うのです。
ガンジーの言葉を出したのも其処なんです。民主主義は言葉ではなく行動する勇気やソシアルダーウィニズム”の様にある特定の価値観で優劣をつける原始的な価値観から人間を解放させる様な“心の有り方の改革”ではないかと思っています。19世紀後半から20世紀前半の欧米の思想下で当時の言葉を同じ意味で使い続け議論をする事には余り意味が無いと思っています。過去の村やありとあらゆる集団の名前を出し政治思想のヴォキャブラリーを使って議論しても現在その様な物は存在しないし(例えば、昔、村と呼ばれた地域は名前だけ残り村としての機能は完全に消滅してしまっている)1読者さんの仰る様に過去のコミュニティーやコミューン等をアナキズムに関連付けて議論している人は現在では非常に少数派か皆無ではないのかと思っています。
 兎に角、彼等の本を読めばジンもチョムスキーも1読者さんが言っている様な事を言っているのでは無い事が理解して頂けると思います。彼等は批評家的面が大きい人達ですから1読者さんが想像されている様な古典的哲学者タイプではないと思います。
 ハナ アレンツHannah Arendtとジョン ボルドリー ロウルズJohn Bordley Ralsについては批評等を読んだだけで詳しくは知らないのでコメントは差し控えさせて頂きます。ハナ アレンツについては当時の社会精神学者エリック フロムと同じ様な視点で議論を展開していた著書があったと思います、確か日本語に訳すと『全体主義国家の起源』の様な本だったと思います。私はフロムの方に興味があり彼女の本は未だ読んでいません。ロウルズは行動に欠ける人で有名な教授としか思っていませんでした。今度時間があれば読んでいます。
 私は行動の伴う思想家に興味があり、幾等素晴らしい論理を展開していても議論のための優れた論理は“ナイフを最高に鋭くする為に研ぎ続ける行為“の様な物ではないのかと思っています。
 因みに今南米アルゼンチンでは読者1さんのコメントにある昔ながらの労働者の経営する(そうです!アナコシンディカサリズムの典型の様な、若しくはロバートオーエンやアナキストのプルードンのコワポラティヴです!)が続々と誕生して一種の社会勢力になる可能性も有るようです。
一寸晩くなりました今日はこの辺で!又何かあればコメント欄でお話しましょう。

  • 2009/08/23(日) 18:10:00 |
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  • ejnews #-
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民主主義体制を支える前提 -補足-(2)

 さらに最近は、まともな政治報道がまるでないため、国民の意識にも少なからぬ捻れが生じているように思います。

 例えば、小泉政治はある種の改革を指向したのは確かでしょうが、その手法や政策には誤りも多く、その実績に対する評価は様々に分裂しています。
 私は、とくに内政に関して、国内経済が停滞するなか、デフレ解消や国内需要の喚起(内需拡大)を考慮せずに、財政均衡を目指すという最悪の選択をしてしまった点が問題だったと思っていますが、なぜか日本では、こうした節約を重視した政策が、現実には常に失敗してきたにもかかわらず、江戸時代以来、国民的な評価が高い点は気になるところです(小泉時代はそれでも、海外がバブルになっていたため、外需によって表面的な経済成長をつづけることができました。しかし、その前提が崩壊した現在、小泉政治の劣化コピー+場当たり的なバラマキでしかない民主党の政策には、かなり不安を覚えます)。

 もっとも、高度成長を前提にした単なる利益分配政治では、今後やっていくことができないのも確かですから、小泉政治の基本的方向性は正しかったのかもしれません。

 また、政策の内容の問題もさることながら、個人的には最近の政治的な意思決定過程の歪みの方が気になっています。マスコミのでたらめさを別にしても、とくに以下の二点については、少なからぬ危機感を持っています。

 一つは、官僚(や族議員)に対するルサンチマンに基づく批判と、その対応策としての〝政治主導〟という理念の暴走ともいうべき拡大解釈です。
 小泉時代に党内や国会による正規の政策決定過程が、抵抗勢力というレッテルが貼られて排除される一方で、経済財政諮問会議といういわば「令外の官」を活用することによって先鞭がつけられ、民主党によってグロテスクな形で継承されようとしている〝政治主導〟という理念は、はたして日本の議院内閣制度上、どのような正統性に基づいて、どのように位置づけられるのか、という問題です。

 一般に、官僚主導といわれ批判されているものは、政党もしくは国会の意思決定過程内の問題であるのに対して、近年の政治主導に関する主張は、実体のない(=政策論争のない)政権交代に過大な意義づけをする場合のようにかなり歪んだものになってしまっています。
 また、日本は猟官制をとっていない以上、政権交代があろうがなかろうが、政治と官僚との関係は本質的には変わらないし、変わるべきではありません。
 なお、猟官制またはそれに類似する人事制度を採用すべきかどうかは、公務員制度改革の問題ですが、その内容にもよりますが、個人的にはあまり賛成ではありません。とくに現在の民主党のように、党内民主主義による政策決定過程が確立していない政党が政権を獲得するような場合には、ほとんど制度的な歯止めがなくなってしまうからです(ナチスが政権を獲得した際の最大の抵抗勢力は、既存の官僚組織であったことを想起してみるべきでしょう)。

 もう一つは、衆議院の政党政治の劣化コピーになってしまい、最近では完全に単なる抵抗機関に堕落してしまった参議院の存在意義です。※

※この点については、以下のサイトが参考になります。
・民意映す「再考」の場に  堀江湛・尚美学園大学長
http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe7700/kangae_070816_01.htm
 ただ、私の個人的な考えは、以下のエントリーの方が近いです(もっとも管理人が民主党を支持している点は、まったく同意できませんがw)
・「一票の格差」問題を考える - 木走日記
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20090812/

 最近の私は、政治主導という理念の暴走と戦前の統帥権干犯問題、参議院の劣化による二院制の自己崩壊と戦前の内閣の一体性を逆手にとった軍部大臣現役武官制を比較すべきではないか、という衝動にかられています。
 情況的には意外に似ているのです。まず、もともと憲法が予定していなかった、あるいは憲法が規定していない部分(法の欠缺)に関する問題であること。ただし、その問題を解決するのに、憲法改正は必要ではなく、適切な憲法慣習(≒政治的慣行)を確立するか、下位制度の法律改正で十分対応できること。にもかかわらず、マスコミの煽動などによって、現実には誤った方向に拡大解釈されている点、などがそうです。

 いずれにせよ、今回の総選挙およびその後の政治動向については、かなり注意して見ていく必要があると感じています。


 最後に、児島襄氏の『史録 日本国憲法』のあとがきから、日本国憲法制定時の経緯について述べた部分を引用します。

『天皇の〝無力化〟と軍隊の解消は、だから、米国側の憲法改正にたいする再重要条件であったわけだが、松本国務相をはじめ日本側委員がマッカーサー草案にたいして反撥した根本理由の一つは、天皇の大権を縮少するのはよいとしても、条約上の責任が不明確になってしまうことであった。
 「日本国憲法」では国民主権を明らかにし、行政上の責任は内閣総理大臣にあることを明記している。しかし、一方においては議会と内閣との関係は不明確であり、国家を代表する存在もあいまいになっている。
 かつて、軍隊は天皇に直属するという統帥大権が拡大解釈されて軍部の政治干渉をうながし、また天皇大権のおかげで行政の責任がぼやかされ、結局は「天皇の名」という口実で〝無責任政治〟がおこなわれたのが、「大日本帝国」の破局の主因であった。
 ところが、「日本国憲法」では、天皇に対する〝狂信的〟な合意と団結を防止しようとするあまりに、議会や首相の権限を強化し、地方分権を促進しながらも、同時に相互の権限と責任をできるだけ薄弱にしている。これでは、かつての〝天皇制無責任〟に代って〝民主主義無責任〟がもたらされるだけではないのか……。
 松本国務相がしみじみとそう述懐していたことがしていたことが伝えられている。
 松本国務相は、〝法律技術家〟といわれるほど厳格な法の解釈と運用を尊重していた。だからこそ「天皇制」を廃止するならともかく、「天皇制」を存続する限りは国家の性格をあいまいにする恐れがないような憲法改正をこころがけ、また、十分な時間をかけての審議をこころざした。
 だが、「日本国憲法」はもっぱら当時の東西冷戦を基調にした国債情勢を背景に、できるだけ早く日本を再編成する必要にせまられて、むしろ、旧体制の逆方向をたどればよいという安易な考えで、作成された。』

  • 2009/08/23(日) 16:14:28 |
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 民主主義体制を支える前提 -補足-(1)

>一知半解さん
 実に詳しいお返事ありがとうございました。

 私が前回、長々と民主制の歴史について触れた理由は、きわめて現実的な問題意識があったせいですが、とくにアメリカの大統領制について述べた部分には、背後に複数の複雑に絡んだ問題に対する思いがありました。

 まず、近年日本で話題になっていた首相公選制についてです。アメリカの大統領制が、前回コメントしたように、民主主義的要請から制度化されたものではないとすると、日本ではどのような理由でこれを認めるのか、とくに議院内閣制をとっている日本において、国会との関係をどう理解するのか、という問題です。一般には、首相を直接選ぶことによって、民意を反映させ、首相の政治力を強化するという理由が挙げられていますが、大統領制を採用するならともかく、議院内閣制を前提にした場合には、そう簡単な話しではないと思えるのです。

 さらに、問題になるのは、天皇制との関係です。民意によって直接選ばれた首相というのであれば、当然大統領と同じく、国際的にも国家元首として扱われるべきでしょうが、そうなると、国内的には曖昧にされているものの、国際的には実際に国家元首とされている天皇の存在と矛盾します。

 その反面、アメリカの大統領制は、緊急時には大統領に権限が集中されるために、有事に非常に強い政治体制であり、こうした点は日本も見習うべきでしょう。その意味では、前述の首相公選論にも一定の意味があるわけです。現実には、日本版NSC(国家安全保障会議)を強化するといった対応策もあるでしょうが、そもそも首相の任期が、その時々の国内政治情勢に左右され過ぎるために非常に短い日本の現状では、実効性に疑問が生じます。

 そこで、参考になるのがイギリスの議院内閣制であり、そのポイントとなるのが小選挙区制のあり方だと思うのですが、日本ではこの点に対する理解が乏しく、国民の意識もまったく不十分な状況にあると言わざるを得ないと思うのです。

 実際のイギリスの選挙制度についてはあまり詳しくないのですが、かつて友人から聞いた話しによると、二大政党制を前提にそれぞれがマニフェスト(政権公約集)を掲げて争うというのはその通りなのですが、実際の運用におけるイメージは、日本での一般的な理解とはかなり異なっています。

 まず、各政党はマニフェストを発行し、選挙前には販売もされているそうですが、その内容は国政全般におよび、見た目は日本の電話帳くらいの厚さがあるのだそうです。当然、一般の国民が簡単に理解できるようなものではないので、選挙前には各政党支持のボランティアが各家庭に戸別訪問をし、政策のポイントを説明するという活動も認められているそうです。
 また、各政党の候補者は、基本的にすべてが政党本部によって決定された“落下傘候補”ですから、有権者は人物や地元の利益ではなく、各政党の政策を基準に投票せざるを得なくなります。さらに、事前に首相候補を含む閣僚名簿も発表されているので、そうした人事に対する信任投票という意味も生じるでしょう。

 その他に、そもそも各政党のマニフェストはどのような党内手続を経て作成されるのか(党内民主主義)、あるいは貴族院や官僚との関係はどうなっているのか、など分からない点も多いのですが、上で説明した部分を実施するだけでも、近年日本で話題となっているほとんどの問題が解決してしまうことにお気づきでしょうか。

 すなわち、首相公選論は実質的にその意味を失いますし、世襲批判も的外れになるでしょう。また、このような選挙を経て成立した内閣には、マニフェストを実現するのに十分な政治的権威が付与され、ことさら政治主導を強調する必要もなくなります。また、不信任決議が成立するなど特別な事情がない限り、内閣は任期満了まで務めることが原則と考えられるようになるではないでしょうか。

 ただし、ここで注意すべきことは、選挙に勝った政党の政策は、他党のものより正当性が高いものと評価され、「他の政党にもこれを尊重する政治運営が要請される」ものの、これが「国民との固定した(法的な)約束として政府を拘束するわけではない」という点です(これは前回コメントした間接民主制の帰結の一つです)。

 しかし、日本とくにマスコミでは、この逆の論評が行なわれることが少なくありません。つまり、野党の反対のための反対が批判されない一方で、政府の情勢の変化による政策転換が国民との約束違反と批判される場合などがとくにそうでしょう。(もっとも、個人的には、このことだけでなく、マスコミの政治に関する評論の半分以上は的外れもしくは間違いと考えた方が良いと思っていますがw)

 このように日本の民主制を歪めている元凶の一つは、間違いなくマスコミであり、前述のような小選挙区制の制度趣旨や特徴は、実際には小選挙区導入時の選挙制度審議会において、堀江湛慶大教授(当時)らによってかなり突っ込んだ議論が行なわれていたのですが、マスコミではまるで報道されず、死票が多くなるといった的外れな批判ばかりがなされていました(死票が多くなること自体は事実ですが、選挙制度が小選挙区制に変わることで何を選択することになるのか、という視点がないと妥当な批評とはいえないでしょう)。

 そのことが「自民党政権が民主党政権に変わったとしても、何も変わらないと考えている人が多い」という、20年前と変わらぬ思考停止状態にある国民を生んでしまった主たる原因といってもいいかもしれません。

 もっとも私は、必ずしもイギリスの議院内閣制を、そのまま日本に導入することがよいと考えているわけではありません。イギリスの政治制度は、やはり政府(神)と国民(人)との契約という発想に馴染みやすく、日本人のような人と人との関係を重視する国民性にすんなり受け入れられるかどうかは疑問だからです。その意味では、中選挙区制に基づく55年体制も、国内外の情勢の変化によって現在では妥当しないとしても、その特質を見直してみる価値はあるかもしれません。
(つづく)

  • 2009/08/23(日) 16:10:20 |
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>ejnews さん

 コメントでご紹介があったノーム・チョムスキー、ハワード・ジンについては、私も、名前は知っています(とくにノーム・チョムスキーは、少し前に左派御用達の思想家として、その著書が盛んに翻訳出版されていましたから)。どのような系統の思想を持っているかについてもだいたい理解しているつもりですが、一応、wikiから抜粋して引用しておきます。

 ノーム・チョムスキー:言語学者、思想家。社会哲学的にはヴィルヘルム・フォン・フンボルトやジョン・デューイから、思想的にはスペイン内戦時のカタルーニャ地方バルセロナにおける極度に民主的な労働者自治によるアナキスト革命から強い影響を受け、権威主義的な国家を批判する自由至上社会主義(アナキズム)に関わり、アメリカに台頭するネオコン勢力によるアフガン侵攻・イラク侵攻やアメリカ主導のグローバル資本主義を批判している。

 ハワード・ジン:ニューヨーク市ブルックリン生まれのアメリカ合衆国の歴史家で、同国内では『民衆のアメリカ史』の著者として名高い。政治学者、社会評論家、劇作家としても活躍。ジンの思想はマルクス主義、アナキズム、社会主義の影響を受け、1960年代から公民権運動や反戦運動の分野で活動してきた。

 また、マーリー・ブックチン、ウイリアム・ゴッドウインについても、ググッてみたところ、どうやら“リバタニアンからアナキズムへ”といった傾向のある思想家のようですね。

 アナキズムについては、西欧の思想史において左派系・右派系を問わず、古くからの伝統があります。とくにアメリカにおいては、ピルグリム・ファーザーズ以来、伝統的な原始キリスト教団に対する憧憬から、右派系のアナキズムも根強く、それがまた、奇妙な形で左派系のリベラル思想と結びついていることは周知のことです。
 こうした思想がアメリカにあることを日本に紹介すること自体は別に問題ありませんが、それを(個人がどう考えるかは別にして)進歩主義思想とか‘本来の民主主義に至る思想’として紹介することは、ややミスリードではないでしょうか。

 また、よく取り上げていらっしゃるガンジーなどは、アメリカ版 Political Compass <http://politicalcompass.jpagel.net/> では、完全に極左扱いですよね。その意味でも、アメリカの標準的な思想とかなりズレがあることは確かでしょう。
 まぁ、アメリカはアメリカ、日本は日本ですから、それでも構いません。なにしろ、アメリカ版 Political Compass では、保守系を自認する私(だけでなく大半の日本人)がかなりリベラルに判定されてしまうのですから。

 また、どの程度自覚があるか分かりませんが、こうしたアナキズム思想の淵源の一つである古代における原始的共同体に対する理想化は、古今東西を問わず、いたるところで見られます。
 老子は、国中で鶏の声が聞こえるような小さな村落国家を理想としましたし、儒教的な国家観も、本来は国民が為政者の人格に直接触れることができるような小規模国家が前提となっています。
 古代ギリシャの都市国家・古代ローマ初期の共和制時代の思想も、基本的にはかなり小規模な国家を前提にしたものでしょう。さらに、20世紀に猛威をふるった共産主義思想にも、原始ユダヤ教団の形態の一つであるキブツと関連性がある、という指摘があるほどです。
 もっとも、山本氏は、日本的な民主主義には、儒教とくに孟子の思想と原始仏教教団(の議決方法である他語毘尼[たごびに] → 惣村一揆)の影響があると指摘していますから、この意味では、あえてアメリカのアナキズム思想を導入する必要もないかもしれません。

 ただ、こうした共同体を理想化する発想をそのまま現代社会に持ち込む場合には、おそらく二つの問題があります。

 一つは、近代的な主権国家は、複雑でかなり規模の大きな機能的な組織体(社会)であるという点です。こうした社会に、個人または小規模共同体で妥当とされる発想をそのまま持ち込むと、意図した結果が出ないばかりか、却って悪影響が出てしまうという点です。
 なお、詳しくは、一知半解さんの『社会保障には、人間性を破壊する負の面があるのではないだろうか?』というエントリーをお読みください(たまたま私もコメントしています。また、上記ノーム・チョムスキーの経歴に出ていた、ジョン・デューイによる教育改革の失敗は、その典型例の一つと言ってもいいでしょう)。
 
 もう一つは、極めて重要な点ですが、それでもあくまで現実の社会で理想を追求しようとすると、多様な価値観を認めることができず、必然的に思想統制的な側面が生じる点です。
 もともとこうしたアナキズム思想には、観念化された理想的な共同体に対するイメージがあるだけで、国家権力を含む複数の権力主体相互間を調整して個人の権利・自由を守る、といったような制度論・組織論的発想が希薄です。そのため、現実の権力主体や社会に対して素朴なルサンチマンを抱く一方で、その矛盾を個人の内心の問題に転嫁する傾向があると感じています(この点が、この種の考えが日本で異様な影響力を持ってしまう理由で、山本氏の読者ならピンとくるところなのですが、詳細は省きます)。

 もっとも、アメリカでしばしば見られるように、それを自分達の小規模な集団で実践するだけなら、単に「信仰の問題」といってもいいでしょう。しかし、それを(消費者運動や環境問題として)現代社会の問題に転嫁する場合には、共産主義がもたらした誤謬と相似した危険性があることに留意すべきでしょう。


 私は、近代以降の民主制は、近代的主権国家における政治形態の一つとして発展してきたもの考えています。

 その顕著な特徴は、特定の宗教の影響から分離された世俗国家であること(ただし、宗教団体が政治活動を行なう自由は認められている点に注意)、そして、徹底した価値相対主義を前提にしている点にある、といっていいでしょう。
 後者については、冷戦期の西ドイツやアメリカはやや事情が異なっていましたが、日本では、自由主義的な民主主義や資本主義を公然と否定していた共産党ですら、公党として認められてきました。
 もっとも、近代的な民主制においてもある種の人間像を措定する場合があります。しかしそれは、理性的人間像といったような価値中立的なもので、必ずしも特定の価値観やイデオロギーに立脚するようなものではないのです。

 そして、このようなややもすれば放埒に流されやすい社会を制御・統制する原理として歴史的に発展してきたのが現代的民主制であることは、前回のコメントでも述べたので繰り返しません。
 個人的には、さらに日本の伝統に則った保守的思想や慣行を重視することも大切だと思っていますが、これは人それぞれかもしれません。


 なお、私もアメリカを含む西欧思想を理解することは大切だとは思いますが、その場合、できるだけ歴史的・体系的に理解しておく必要があると思っています。とくに左派の人たちは、(自分に都合がよい思想に飛びつくだけで)どうもこうした意識が低いような気がします。
 その意味で、アメリカの思想的状況を把握するなら、ノーム・チョムスキーなどより、ジョン・ロールズやハンナ・アーレントの思想を日本に紹介する方が有益だろうと考えています。

  • 2009/08/23(日) 14:50:18 |
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正直なお答えを頂いて感謝しています。私も政治には素人で唯歳を取っていて広く浅く読んだ本が多い位なのですが、アメリカで人種差別された経験が度々あり民主主義は単なる学問的議論ではないと思っています。(私は日本を離れて20数年たち日本の事情が良く解からなくなっているので日本人が民主主義を如何考えているのか何ともいないのですが)少なくとも1960年代以降のアメリカでは“民主主義は、集団の個人個人が平等に扱われ、多数者の意見が重要でありながらも少数者も集団の一員として尊敬されると言う政治が民主主義の重要な要素”(だから女性の投票権が無かった戦前の大日本帝国は半数以上の国民に投票権が無く民主主義とは考えられていないのです)とされて其れを逸脱すると民主主義国家体制を形式的に摸写していてもオリガーキーやプルトクラシー、コーポレイトクラシーの様に民主主義ではないと考えられています。(世界は6千年前に神によって創造されたと信じているキリスト教原理主義者と自身を呼んでいる人々に支えられているネオコンとか右翼とか保守主義を誇る米共和党員たちは勿論私の民主主義の定義には反対すると思いますが、ブッシュ保守共和党政権下の8年を経験したアメリカ人はオバマ政権の象徴する“真の自由平等、民主主義”を選んだようです。)
民主主義について最も簡単な説明ですが、『法律を破っていないから良いだろう。』と言う態度は人間としては余り進化していない、十分でない態度として日本では軽蔑された物ですが(現在はわかりませんが)民主主義の精神は其れと全く同様で、ガンジーが説明した様に、犯罪にならない程度の行いで満足するだけでは社会の悲劇は無くならない。人間にはもっと精神的に進化した心のあり方が相応しく、其れはお互いに対する尊敬や愛である。分け与えると物質的に裕福にはならないかも知れないが平和で被害者の無い差別の無い(国際)社会が構築出来ると言う信条が民主主義を支える一番大切な心のあり方、精神性だとされています。此れがガンジーの言った『民主主義とは単に形式的に政治形態を民主主義と呼ばれる形態に機械的に変えるような物ではなく(其れでは民主主義は機能しない。民主主義は単なる政治形態ではなく)心のあり方を昇華させる行為だ。』なのです。
だから民主主義は説明すれば誰でも理解出来る簡単な事でどの国民文化圏の人々も理解出来るのです。
アメリカで『日本人は民主主義を理解していない。現在の日本憲法もアメリカが日本に強制した物で、歴史的文化的に民主主義はどの様な形でも日本に存在した事が無く、若し大日本帝国の敗戦が無ければ未だに日本人は民主主義国家の仲間入りは出来ていないだろう。』と言う人がいますが、そう思いますか?---------私は此の意見は非常に失礼な意見だと思います。喧嘩をしたければこの様な事を言う事は非常に効果的ですが若し平和を望むなら“中国はこうだ!”等と断言しない方が論理的な議論だと思います。私はありとあらゆる人種の住んでいるロスに住んでいるのですが、どの人種とかどの国から来たと言うだけでは人間は判断出来ず、お互いに同じレベルの人間として尊敬し合う以外には人種間国家間の抗争を阻止出来ないのを実感しています。
真の民主主義が実施されると企業の経営の利益率が悪くなるとかの理由で本当の民主主義を完成させ維持する事はどの国家でも反対する集団が存在し、其の集団は資本家層と呼ばれる集団と重複している場合が多く資金源が豊富で特にアメリカでは民主主義の強敵なのですが、(此れは陰謀論等ではなく、ご存知だと思いますが、実際、今、社会健康保険実施に関して金融資本の一部である民間健康保険企業が“ワシントンポストによれば”毎日140万ドルの費用をロビーイストや宣伝費に使用し、国家の当然の義務である市民の健康を守る社会保険制度確立に敵対しています。)ガンジーが大英帝国からの独立運動について語った言葉に『彼等(英国人支配勢力)は貴方の事を最初は無視する。そして次に貴方の努力をせせら笑い、そして最後に本気で戦ってくる。そしてその時に貴方の勝利する時がやって来る。』と言うのがあります。本当の民主主義の確率はどの国でも難しい様ですね。

  • 2009/08/15(土) 13:19:47 |
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ejnewsさんへ

ejnewsさん、再コメありがとうございます。

私は、民主主義に関してejnewsさんのように博識な知識を持ち合わせているわけでもなく、極めて単純に理解しているに過ぎないので、申し訳ありませんが、ejnewsさんのレベルの「民主主義とは何ぞや」議論についていけそうにもありません。

ただ、日本の民主主義とは、本物なのか?とか、より良い民主主義に近づくにはどうしたらよいのか?という考察をすることは大事だと私も考えます。

自分的には、1読者さんのオーソドキシーな議論がスッキリ受け止められるのですが…。
精神的な部分まで、となるとちょっとわからない…というのが正直な処です(汗)。

  • 2009/08/15(土) 00:04:56 |
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一寸ブログから目を離していて反応が遅れましたが、アメリカで最も尊敬されている歴史家の一人ハワード ジンや言語学者、哲学者、ノム チョムスキー等はアメリカを民主主義とは考えていないか、少なくともオリガーキーOligarchyやプルトクラシーPlutocracyに取って代られているかアメリカと言う国が始まった時から民主主義ではなかったと考えているようです。最近(此処20年程)はアメリカは民主主義(デモクラシー)では無くコーポレイトクラシー(企業の支配する政治形態)だと言う批判もありジャーナリズムでは此の言葉は定着しているようです。
 もう一度繰り返しますが、日本では一般に民主主義と言うと中央集権的国家での代表議員制民主主義を思いつく様ですが、此れは種々の民主主義と言われる形態の一つに過ぎないので此れだけに絞って民主主義を論議するのも非常に問題があると思います。もう少し視野を広げた論議が必要ではないでしょうか?
 民主主義とは国家政府の構成や機能だけでなく人間集団の個人個人がどれだけ平等に扱われているかと言う思想ですから、其の為には中央集権国家では特に市民に正しい情報が伝わっているか如何かが鍵になるのです。アメリカでは建国時から三権分立の三権だけでなくジャーナリズムが第四権として民主主義の必須条件として捉えられています。
ある国家が民主主義国家であると宣言しただけでは其の国が民主主義国家にならないでしょう?だからどれだけ民主主義国家の政治形態をしていたとしても民主主義が行われていると言う訳ではないのです。アメリカでも民主主義と堂々と宣言できる基本的社会状態になったのは1960年代以降の事で(黒人に対する差別)、ハワード ジン等は同じ理由で(奴隷、女性、土地所有者による投票権等の問題)古代ギリシャの民主主義を民主主義とは考えていないようです。同じ理由で、大日本帝国を民主主義と考える事は何でもかんでも民主主義と呼ぶ様な事になり議論が始まらないのでは?
 民主主義の日本での議論で気になる事は、議論が19世紀末か20世紀初頭辺りの欧米的議論をしている様な気がするのです。アメリカでは民主主義を議論する場合確かにプラトンやアリストテレス、老子にまで遡るのですが、日本で知られてる思想家で言えばノム チョムスキーNoam Chomskyやマーリ ブックチンMurray Bookchin遡ればウイリアム ゴッドウインWilliam Godwin等や其の他の思想が議論に全く反映されていない事です。勿論、ブログのコメントを通してだけでは判断出来ないのですが“読者”(読者さんの知識には驚きを感じますが--------)さんの議論も私にとっては一寸政治議論のオーソドクシーOrthodoxy正統派的過ぎる様にも感じます。現在の欧米での民主主義についての議論は単に政治論や経済論以内での議論に留まらず精神的な民主主義の捉え方や環境に対する人間の影響も含めた精神的又哲学的要素も含めもっと有機的議論が為されているようです。
此の民主主義の有機的捉え方の一例ですが、ガンジーは民主主義について『民主主義とはある政治形態を変えると言う様な形式的機械的な行為ではなく、心のあり方を変革する事だ。』と言っています。正に其の通りで真実の民主主義を理解するにはある特定の心のあり方が必要だと思います。日本でもお馴染みの古代ギリシャの哲学者アリストテレスは『若し民主主義が多数者の意見を尊重すると言う事であるなら貧乏人の支配する国家が民主主義国家だ。何故なら貧乏人は何処でも多数者であるから。』と言う様な事を言っているそうです。勿論多数者の意見は何かのプロパガンダで左右されているので民主主義の基準にはならないと言う様な意見を持っている方々にとってはアリストテレスの言葉は全く意味を持たない言葉なのでしょうけれど………………..。

  • 2009/08/13(木) 14:04:07 |
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1読者さんへ

1読者さん、じつに詳しい解説のコメントを下さり、本当にありがとうございます。

おかげで今回の記事の基となるプラトンについてあまり知らなかった私でも、昔から現在までのプラトン評価の変遷を大まかに掴むことができました。

以下、自分が理解した点について、雑駁ながら書き記してみます。

>理想的な政治体制として哲人政治を提唱しつつも、最も反対したのは僭主制であり、僭主制につながる恐れのある民主制にも警鐘を鳴らしたというのが正確で、「民主主義は最悪の政治形態だと言われ続けてきた」とかプラトンをファシストと看做すことは、やや牽強付会な理解

この問題を考える上では、上記のプラトンの主張をまず把握しておくのが前提となるわけですね。また、プラトンの警鐘を、民主制否定だと受け取るのもおかしいと。

>プラトンの民主制批判は、20世紀前半だけでなく、歴史上一貫して西欧の政治思想に影響を与え続け、とくに西欧における近代以降の民主制は、このプラトンの批判に応える形で発展してきた

上記の経緯も把握しておく必要を感じました。
また、なぜプラトンの民主制批判にも関わらず、民主制の模索が行われてきたのかについては、下記の記述がわかりやすかったです。

>現実にはごく少数の者によって政治が行なわれていても、「民意による」という「担保」がある限り、その政治体制自体に不満を持つ者はほとんどいないから

確かにこの「担保」は、他の何にも勝る正統性ですよね。

>前述のクロスマンが、民主制の正統化原理を「高貴なウソ」と表現したように、民意を政治の正統化に利用しつつも、いかにその時々の具体的な民意が現実の政治に直接反映されないようにするか、という工夫の歴史でもあるということは、日本ではほとんど知られていません。

上記の点は重要な指摘ですね。
確かに「直近の民意」が全てであるというような風潮は、この「工夫の歴史」が分かってない証であるような気がします。

>プラトンが『「民衆の無限の要求」を制御するものは「法」しかない』と考えたこと

確かにそのとおりですね。
プラトンの時代に既にそのような思想があったということを考えると、人間というものは昔から変わらないものなのだな…という感想を抱きますね。

こうしたことを理解するためにも、歴史に学ぶというのは、大切なことなんですねぇ。

>少なくとも英米においては、間接民主制それ自体に独自の意義(現実の民意との理論的な切断)を認める立場が多数派です。そして、この立場は『「無限の要求」をする民衆が選出した者が、この民衆の無限の要求を制御する「法」を制定できるか』という問いに対する一つの答えでもある

上記の記述で、間接民主制の意義がよくわかりました。
国民投票制度などは、これとは相反する制度だと思いますが、上記の点を考えると、多用するのは宜しくなさそうですね。

>現代的な民主制は、決して「民意が万能(あるいは絶対)」という考え方に立つものではなく、法治主義、権力分立、さらに人権保障といったものが不可欠の要素として組み込まれ、かつ微妙なバランスを維持することによって初めて成り立つものだ

そのとおりですね。
この点の考察が、日本ではスッポリ抜けているような気がします。

国民本位の政治とか庶民の目線でとか、それがあたかも当たり前のように唱えられていますが、本当にそれをやられたら「合成の誤謬」だらけとなりそうですね。

>『民主主義とは、「贅沢な体制」だとか「コストのかかる体制」とかいわれる』本当の意味は、単に経済的な側面だけではなく、こうした政治過程そのものの複雑さに由来するものと考えるべき

なるほど。
山本氏はその点にあまり触れていませんでしたので、ぼんやりとしか理解していませんでしたが、そのように解説していただくとよく理解できます。

>民主制を維持発展させていくためには、その国独自の歴史や伝統、社会状況に対する冷静かつ真摯な分析が必要不可欠で、とくにプラトン的伝統を持たないわが国においては、この点が鍵になるはずですが、今までほとんど重要視されてきませんでした。

そのとおりですよねぇ。
日本は常に理想とする国が世界のどこかにあるという幻想を抱き続けていますが、そういう幻想を抱くのも、ご指摘の点が重要視されていないからでしょうね。

また、中西輝政氏の記述のご紹介もありがとうございました。
特に、

>価値観・世界観という点での大きな理解と方向性をまったく喪失しているところに、今の日本人の不安の第三の、そして最も深刻な根源がある。

という指摘には、非常に考えさせられるモノがありますね。

これは、「日本人が、自らの思考様式・行動規範というものを、言語化して明確に把握していない」ことと何か関係があるのでしょうか?

私の解釈では、自らを知らないが故の「喪失」というようにも思われるのですが…。

>私の視点は、一応歴史(≒法思想史)に基づく制度論のつもりですが、山本氏の視点と両立しないわけではないと思っています。

私もそのように考えます。非常に参考になる切り口の解説をありがとうございました。

なお、最後にご紹介いただいたブログ拝見しましたが、確かに理解に差がありますね。どうして左派の解釈と言うのはああもひねくれているのか…。面白いですね。

一応、私なりの受け止め方を書かせていただきましたが、まだ至らぬ点があるかもしれません。そうした処をご指摘いただければ幸いです。

  • 2009/08/10(月) 23:18:11 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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民主主義体制を支える前提(2)

 さらに、先進民主主義国家と言われる国家相互間において、一国として同じシステムの国がないことは、詳細に比較してみれば良く分かることです。これは、その国の歴史や伝統、社会状況などによって生じるものですが、そうであるなら、民主制を維持発展させていくためには、その国独自の歴史や伝統、社会状況に対する冷静かつ真摯な分析が必要不可欠で、とくにプラトン的伝統を持たないわが国においては、この点が鍵になるはずですが、今までほとんど重要視されてきませんでした。

 近年の日本では、西欧伝来の普遍的思想に触れ、これが「世界の潮流だ」とブームになると、その思想の内容や歴史的文脈を深く考えることもなく、あまつさえ勝手に思い込んだイメージに熱狂して一方的に日本の現状を否定してみたり(メディアや左派に多い)、他方で、その結果少しでも不都合な状況が生じると、その思想の一面に対する中途半端な理解に基づいてこれを批判する(保守派に多い)、ということを繰り返してきました。冷戦終結後、90年代に始まった“政治改革(行財政改革等を含む)ブーム”は、その典型だったと言うべきでしょう。そして、そのためにいまだ解決の糸口すら見えていない状況に陥っていると言うべきかもしれません(この辺のところを詳細に分析してみたかったのですが、今回は省きます)。

 今回の総選挙の結果如何に関わらず、この世界的な不況の中、少なくとも今後1年はさらなる政治的混迷が続くことが想定される現在の日本の状況において、一度立ち止まって、民主主義の本質、及び世界やわが国の情勢(マスメディア等の問題を含む)を冷静に考えてみる必要があるかもしれませんね。


 最後に、再び中西輝政氏の『いま本当の危機が始まった』から、その一部を引用します。

 この本は、2001年のITバブル崩壊後、小泉政権の発足前後に書かれてたものですが、今読んでもまったく古びた感じがしません(ただ、例に取り上げられている「市場原理」や「グローバル・スタンダード」については、昨年末の金融危機によって事実上頓挫し、とくに欧米では、今後「失われた10年~30年」を経験することになるでしょうが、これを他の言葉に置き換えて読んでも、十分成り立つと思います。「政権交代」でもいいかもしれませんw)。

『まず第一は、今の不況がなぜこれほどジリジリ長く続いているのか、その本当の理由が誰にもわからないことだ。<略>
 そこで、「改革が必要だ」といってさまざまな「改革」をやろうとするが、それが事態を一層悪化させている。これが今の日本の不安の根源の第二である。<略>

 国際化やグローバル・スタンダードという、「これが世界の流れだ」と一知半解なマスコミ・評論家が伝えるものに対して、日本人はそれを律義に金科玉条的、真に普遍的なものだと考えてきた。しかし、市場原理にしても、民主主義、あるいは人権においても、普遍的な原則がそのまま適用されることは、本来不完全な人間から成るこの世界においてはあり得ない。原理原則を強く推し進めようとすれば、必ず現実と乖離する。だから、原理と共に現実も重視する近代欧米人の思考からすれば、普遍主義的な理想というものはつねに「ダブル・スタンダード」になって当然、ということになる。
 たしかに市場原理と自己責任が嘘偽りなく「原則」なのだが、LTCM(国際金融)が倒産すればウォール街が打撃を受ける、アメリカの景気が落ち込む、失業者も増加する、それはまずいとしたら、ただちに護送船団でいく決断をする。この臆面もない堂々たる「ダブル・スタンダード」が、普遍主義つまり西欧文明の本質といってもよいだろう。また、それならそんな基準など捨てろということには決してならないのも、西欧文明の本質なのである。
 日本人も世界と対するとき、つねにこの理解が不可欠で、今後はまず「グローバル・スタンダード=ダブル・スタンダード」という認識のもとで行動すべきである。大事なことは、ダブル・スタンダードだから全部が無意味だ、ということにはならない点だ。ところがいまだに「グローバル・スタンダードに合っていないから、日本は駄目なのだ」という未成熟な議論を、毎日のように日本のマスコミでは聞かされる。そんなことを聞くと、普通の日本人は、これまで日本で当然のように通用してきたやり方は全部ダメなのかと思ってしまう。つまり、価値観・世界観という点での大きな理解と方向性をまったく喪失しているところに、今の日本人の不安の第三の、そして最も深刻な根源がある。』

 この「価値観・世界観という点での大きな理解と方向性をまったく喪失している」点が解消されない限り、日本では山本氏の言う「民主主義」を頑として維持する『宗教的信仰に近い強固な思想』は生まれようもないでしょう。


※山本七平氏は、田中美知太郎博士が翻訳したプラトンの「国家」の原典をテーマにしていますから、その視点が今回のコラムのような人間論・文明論になるのは当然です。私の視点は、一応歴史(≒法思想史)に基づく制度論のつもりですが、山本氏の視点と両立しないわけではないと思っています。
 ところで、プラトンの「国家」については小林秀雄も何か書いていて、読んだ記憶があるものの、何に書いてあったか忘れたのでググッていたら、面白いサイトを見つけました(なお、当該評論は「考えるヒント」に収録されているようです)。
(1) プラトンの『国家』(保守派)
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshiharajya/46107782.html
(2) プラトンの「国家」(左派、60年安保世代?)
http://blog.goo.ne.jp/sendatakayuki0123456789/e/ec66a42e518f8e7a757c632bceeaab16
 同じ評論を読んでこの理解の差、思わず笑ってしまいました。

  • 2009/08/09(日) 17:14:34 |
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  • 1読者 #-
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民主主義体制を支える前提(1)

 現代的な民主制についての最も著明な評価は、第二次世界大戦直後にウィンストン・チャーチルが行なった米国ミズーリ州フルトンでの演説(March 5, 1946)でしょう。
“It has been said that democracy is the worst form of government except all the others that have been tried.”「すべての政治体制が試されるまで、民主主義は最悪の政治形態だと言われ続けてきた。」

 この演説は、20世紀前半のドイツにおいて、民主制を批判したプラトンがファシストとして解釈され、反自由主義・民主主義のシンボルとしてナチズムに利用される一方で、その反動から英米では、クロスマン、ポパー等によるプラトン批判が繰り広げられるといった、現実の戦争の背後にあった一種の思想戦と無関係ではないでしょう。佐々木毅氏の『プラトンの呪縛』からは、西欧にはプラトンを西欧思想の定立者であり精神的権威とする伝統がありながら、それが容赦なく貶められていく20世紀前半の厳しい空気を読み取ることができます。
 しかし、ブラトンは、政治体制が「王制→民主制→僭主制(独裁制)」と変遷すると考え、理想的な政治体制として哲人政治を提唱しつつも、最も反対したのは僭主制であり、僭主制につながる恐れのある民主制にも警鐘を鳴らしたというのが正確で、「民主主義は最悪の政治形態だと言われ続けてきた」とかプラトンをファシストと看做すことは、やや牽強付会な理解というべきだと思います。

 ただ、ここで注意しなければならないことは、プラトンの民主制批判は、20世紀前半だけでなく、歴史上一貫して西欧の政治思想に影響を与え続け、とくに西欧における近代以降の民主制は、このプラトンの批判に応える形で発展してきたという点です。

 プラトンの批判にもかかわらず、なぜ歴史上何度も民主制が試みられてきたのか? それは「民意による」という民主制の正統化原理が、他の政治制度に比べてはるかに政治的な安定をもたらすからでしょう。現実にはごく少数の者によって政治が行なわれていても、「民意による」という「担保」がある限り、その政治体制自体に不満を持つ者はほとんどいないからです。

 しかし、その一方で、西欧における民主制発展の歴史は、前述のクロスマンが、民主制の正統化原理を「高貴なウソ」と表現したように、民意を政治の正統化に利用しつつも、いかにその時々の具体的な民意が現実の政治に直接反映されないようにするか、という工夫の歴史でもあるということは、日本ではほとんど知られていません。
 この点こそ、プラトンの批判に応え、山本氏が言う『「民という主」の貧しい要求も、総計すれば一君主の貪婪な要求を上まわる』という弊害をも回避する方策となりうるものなのですが。

 具体的な例に基づいて、歴史的に見てみます。

 プラトンが『「民衆の無限の要求」を制御するものは「法」しかない』と考えたことと対応するかのように、西欧における近代的な民主制は、その代表例であるイギリスの歴史からも分かるように、法治主義(英米では「法の支配」)を前提に、議会を中心に発展してきました。
 特定の個人や集団であれ不特定多数の民衆であれ、「人の恣意」ではなく、「法」という客観的な基準に基づいて政治が行なわれるべきこと、そして、その法は多数者から選ばれた「代表者」によって制定されるべきこと(間接民主制)、という近代的な議会制度が歴史上初めて成立したわけです。

 後者の点については、民主制の基本はあくまで民衆自身が「直接」法を制定すること(直接民主制)、とする考え方もあり、ルソー以降、欧州の一部の国々や英米のリベラル系の学者、日本でも左派系の憲法学者の間では有力ですが、少なくとも英米においては、間接民主制それ自体に独自の意義(現実の民意との理論的な切断)を認める立場が多数派です。そして、この立場は『「無限の要求」をする民衆が選出した者が、この民衆の無限の要求を制御する「法」を制定できるか』という問いに対する一つの答えでもあるのです(ちなみに、日本国憲法においても、間接民主制を原則とし、各議員は具体的な選挙民ではなく「全国民の代表」として行動することが要求されています)。

 また、一般に「国民の代表者を国民自身が選ぶ」事例として、民主主義の象徴のように思われているアメリカの大統領制は、実は民主主義的な要請から制度化されたものではないということも、日本ではほとんど知られていないことです。
 すなわち、イギリスでは庶民院(下院 )に対して貴族院(上院)と国王が抑制的な役割を果たしますが、アメリカの上院は地域代表(州代表)的な性格が強く、下院に対して十分に抑制的な役割を果たすことができないため、議会の暴走を恐れた「建国の父」たちが、同じく選挙によって選ばれた執政官(大統領)に、議会に対するベトー(拒否権)を与えて抑制しようとした、というのがその発端であり、自由主義的な要請(権力分立)によって制度化されたものなのです。

 議会が暴走するとどうなるかは、その後のフランス革命時のジャコバン派独裁による恐怖政治を見れば分かります。建国の父たちの心配は決して杞憂ではなかったのです。また、このジャコバン派独裁による急進的な改革は、20世紀における共産主義革命のモデルともなり、‘民主独裁’という名の政治体制の下、惨澹たる被害をもたらしたことはいまだ記憶に新しく、決して古い過去の話ではありません。

 さらに付け加えれば、アメリカの大統領選挙自体にも、その時々の一時的な民意が直接反映され、独裁者が生まれないように、様々な工夫が施されている点に注目すべきでしょう。あれほど長い選挙期間を設けることも、独特の間接選挙である点もそうした配慮の現れと考えることができます(大統領制を純粋な民主的制度と考えた場合の矛盾は、一期目のブッシュ(Jr)大統領の選挙の際に露になったわけですが、「建国の父」達の配慮を否定してまで選挙制度を変えるかどうかは、アメリカ国民自身の判断でしょう)。

 このように見てくると、現代的な民主制は、決して「民意が万能(あるいは絶対)」という考え方に立つものではなく、法治主義、権力分立、さらに人権保障といったものが不可欠の要素として組み込まれ、かつ微妙なバランスを維持することによって初めて成り立つものだということが分かるのではないでしょうか(人権保障も多数者に対する少数者の権利保護という面では、民主主義に対する制約原理と考えることができます)。
 したがって、『民主主義とは、「贅沢な体制」だとか「コストのかかる体制」とかいわれる』本当の意味は、単に経済的な側面だけではなく、こうした政治過程そのものの複雑さに由来するものと考えるべきではないかと思います。
(つづく)

  • 2009/08/09(日) 17:10:15 |
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  • 1読者 #-
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管理人のみ閲覧さま

鍵レスありがとうございます。
帰省していて返事が遅くなりましてすみません。

ところで教えていただいた経過を見ると、予想通りというか…、これが彼らの様式美なのですね。
こういう連中に限って、「とことん話し合え」とか言うんですから、恥知らずにも程がありますね。

  • 2009/08/09(日) 14:03:47 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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ejnewsさんへ

ejnewsさん、レスありがとうございます。
帰省で返事が遅れましてすみません。

>民主的投票とはどの様な物なのでしょうか?公平で平等な投票とい事なのでしょうか?

とりあえず個人の「秘密投票」が完全に履行されることではないかと思います。

選挙制度の欠陥を以って、民主主義ではないという話になりますと、真の民主主義を体現している国がはたして存在しているのだろうか…という疑問が浮かんできます。

日米両国とも、民主主義でないとする見解もあろうかとは思いますが、政権交代が平和裏に行なわれることを以って、一応は民主主義国家とみなして差し支えないのではないでしょうか。

>コストが高いと言えばソヴィエト連邦等は非常にコストの高い政治形態で昔の大日本帝国も軍事コストが異常に高く国民の幸せなどは政府の目的では全く無かったのではないでしょうか?

仰るとおり、民主主義以外のコストも高そうですね。
ただ、大日本帝国に関して言えば、当時も民主主義が曲がりなりにも機能していましたし、その当時の民意が富国強兵であったのだという解釈をしています。

>中国はもっと小さな地域国家に分解した方がより民主的な国家を造り上げる事が出来るのでは?

それはちょっと疑問ですね。
もともと民主主義的「素地」がまったくない社会(例えば部族社会)に、民主主義を持ち込んでも形骸化するだけだと思うのです。

日本の場合は、昔から「話し合い」社会でしたし、昔から仏教の「多語毘尼」にみられるように秘密投票の習慣があったので、西洋伝来の「民主主義」も抵抗無く受容できたと考えています。

中国の場合はどうなのでしょう?

そのような文化的伝統があるのかないのかわかりませんが、もし、そうしたバックボーンをもたない社会だとしたら、そこへ民主主義を持ち込むことが是なのか…いまいち確信がもてません。

  • 2009/08/09(日) 13:17:26 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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小悪党ですら倒せないのに

大悪党なんて倒せないに決まっている。
なに、和久氏は、詭弁垂れ流してるんでしょうかね?
だから、騙されるんですよ。
陰謀論よりも、目の前の悪を叩き潰す。これが正しい。
また、在チョンに参政権を与えること=日本を売り渡すことを約束していながら、国民にはマニュフェストに掲載しない民主党なんか大悪党である。

目の前のことができずに、遠くのことなどできるわけがない。

特にapeman以下のクソ南京大虐殺肯定論者は、
「肯定しているにもかかわらず、反省や謝罪など一回も行動でしたことが無いカスども」
なのである。
彼らが、抗議の自殺、謝罪のための全財産の中国に捧げるなどの行為を一回もしたことが無いことでわかる。他人に、オレは謝罪している反省しているなんてあほなことをいっているが、行動の伴わない連中である。

というわけで、陰謀論を唱える前に、小悪党の朝鮮人排除を唱えないなら、マッタク無意味である。

  • 2009/08/08(土) 11:12:43 |
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  • sirokaze #-
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  • 2009/08/01(土) 22:17:10 |
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民主主義は果たして他の政治形態と比べると贅沢なのか?等。

早速お答え下さって有難うございます。
又お聞きしたい事ができました。民主的投票とはどの様な物なのでしょうか?公平で平等な投票とい事なのでしょうか?若しそうだとすれば、アメリカ、日本等の状態を見ている限り平等な選挙は行われていないと多くの人は考えているのではないでしょうか?資金のある政党政治家が圧倒的に有利だと言う現状は日米共に同様だと思います。其の他には選挙区の意図的区分化によって特定の政党に有利な選挙民比率分配選挙区形成。地域による一票の価値の違い。種々の選挙方式を意図的に選ぶ事による選挙の不平等化。アメリカのブッシュ大統領が選出された選挙などが好例の投票結果操作。等の十分な例から日米の政治形態は民主主義ではないと言う事になり、其れにも拘らず日米の状態を見て民主主義は働かないと結論を下す事は間違った答えを引き出している事になるのではないでしょうか?
 私にはどちらかと言うと日本は未だ民主主義に至ってはいず、此れから本当の民主主義国家にする努力の方が大切なのではないのかと思われます。此れは的外れな考えなのでしょうか?多くの日本人がボンヤリと日本は民主主義国家だと思っていると言う事が日本が民主主義国家である証拠にはならないと思うのです。例えば昔のソヴィエト連邦や現在の中華人民共和国の国民が彼等の国家は共産主義だとボンヤリ思っていたとしても“共産主義国家”“社会主義国家”ではなく“ファシズム的中央集権一党独裁軍国主義国家”でありナチスドイツ政権と殆ど変わりのない物なのではないでしょうか?
…………….と言う事などを考え合わせると、日本と米合衆国に限っては此の二つの国家の民主主義が良く機能していない理由がコストが高いとか他の理由にあると言う訳ではなく、此の二つの国家は民主主義ではないから不平等や政治問題が多く起こると考えた方が論理的ではないのでしょうか?コストが高いと言えばソヴィエト連邦等は非常にコストの高い政治形態で昔の大日本帝国も軍事コストが異常に高く国民の幸せなどは政府の目的では全く無かったのではないでしょうか?現在まで種々の政治形態が実験されてきましたが民主主義以外は余り国民に公平に行き渡る幸福感と言う意味では成功した例を考え付く事が出来ないのですが.......................................................。
 中国についてですが、現在の中華人民共和国の国境は歴史的に過去の帝国の名残で過去の全ての帝国が滅亡した様に民主主義が適応されると当然崩壊するべき存在だと思います。中国はもっと小さな地域国家に分解した方がより民主的な国家を造り上げる事が出来るのでは?現在の中国は大昔に形成されたEUの様な物で圧政によって持続している非常に不安定な存在ではないのでしょうか?

  • 2009/08/01(土) 10:27:43 |
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  • ejnews #-
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sirokaze様

済みません、もう書かないと言いましたのに、
sirokazeさんの私宛のコメントが、無視できなくて・・・・・

大きな悪事を企む者は、国と言う組織を牛耳る事から始めるのが常道だと思います。
貴方の憎んでおられるのは小悪党だと思います。
政治を論じる時に問題にするのは、小悪党のやる小規模な悪事の事ではないのです。
国を動かして行う悪事は桁違いに大きいし、それを受ける者にとって影響力も甚大だからです。

例えば金正日が君臨する、北朝鮮もその一つでしょう。
金正日が悪いからと言って、私は朝鮮人全員が悪人だとは思っていません。
大部分の北朝鮮国民は、気の毒な被害者であると思っています。
アメリカの金融機関の大物達、製薬会社など政府を抱きこんで商売を遣っている企業家達の中には、相当な悪事を国に遣らせている究極の悪人がいると思いますが、
だからと言ってアメリカ人全員が悪人だと思ったことは有りません。

という訳で、貴方のあげられた小悪党についてでは無く、
巨大な利益を得る為に、政治家を抱き込んで大掛かりに、
悪事〔庶民が被害を受けるような政策を国に遣らせたり、戦争をさせたがることなど)をやっている人たちの事を、私は指した積りでしたので、念のため。

  • 2009/08/01(土) 07:54:03 |
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  • 和久希世 #dN1wHbUA
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和久さん

>>何かの利を得んとして、あらゆる種類の悪事を企み、強行する無慈悲な輩がいる事も、否定する事はできません。

 在日朝鮮人とか、リアル朝鮮人とか、南京大虐殺マンセーのapemanみたいなサヨクとか。
 そういった連中だよねえ。
 俺も嫌いですな。

  • 2009/08/01(土) 01:27:49 |
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  • sirokaze #-
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管理人のみ閲覧さま。

鍵コメにて詳しい解説ありがとうございました。

確かに彼らの主張も一見筋がとおっているように見えますが、仰るとおり何でも厳しくすりゃいいってもんじゃないですよね。

  • 2009/07/31(金) 23:21:12 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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ejnewsさん

ejnewsさん、初めまして。
コメントありがとうございます。

民主主義とは何かとのお尋ねですが、なかなか難しいご質問ですね。
確かに民主主義といっても、それぞれその社会のバックボーンが違いますから、まったく同じとはいえないと思いますが、このコラムでの捉え方というのは、大雑把に言って民主的な投票が行なわれていることを前提としているのではないかと私は受け止めています。

余談ですが、民主主義が根付くためには、その社会に受け入れる素地がないとダメなのでは…と思うようになりました。例えば中国などは、仮に民主化されたとしたら、砂のようにばらばらになってしまうと思います。
こうした国に幾ら民主主義を押し付けても無駄なのではないかな…と思うこの頃です。

  • 2009/07/31(金) 23:07:57 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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失礼とは思いますが突然お邪魔させて頂きます。興味深い議論が続いているようですね。
 私はアメリカ生活が長く日本でどの様な政治議論がされているのかもう良く解からないのでチンプンカンプンなコメントかもしれませんが御許し下さい。
 此処で言われている“民主主義”ですがアメリカの(日本的に言うと)“進歩主義思想家--プログレッシヴ”とでも言われる人々(日本語では良い訳が見つからないのですが簡単に言うと“柔軟に幅広く考える主義”と言うと良く解かると思います。)によると『“民主主義”とは資本主義的な見方だけで考えると当然コストが高くつくと受け止められるかも知れないが、人間社会文化全体をその様な単一的な見方で理解しようとするとトンでもない問題を起こす可能性がある。』と言うのが大体の意見のようです。
 其れと此処で例として挙げられている過去の”民主主義”は民主主義と言う名前で呼ばれているだけで民主主義とは程遠い物なのです。プラトン等の古代ギリシャや、つい最近までの米合衆国の様な奴隷制の存在する社会は決して民主主義ではなく、英国は“大英帝国”と自らを呼んでいた様に帝国主義国家だったのです。例えばドイツのナチス政権は“ドイツ国家社会主義”と言う社会主義だったでしょう?だからと言って彼等が社会主義者だと思っている現代人は居ない訳で、北欧諸国の“民主社会主義”と呼ばれている政治圏内の人に『ナチスも社会主義だったよ。』 なんて言うと普通は笑われてしまうでしょう。
 つまり、先ず『民主主義は何か?』を最初に説明して頂けると此のブログを訪問している方々にももっと明快な刺激的議論が出来る様な条件が整うのではないのかと思っているのです。
 特に此処では“中央集権国家”と言う体制での代表議員制民主主義が議論されている様に見受けられますが、此の形は本来の民主主義ではないと言う思想も多い様です。
 

  • 2009/07/31(金) 18:30:27 |
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  • ejnews #-
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有難うございました

それを伺って安心しました。

確かに良かれと思ってした事でも、悪い結果がでる事はあるもので、それを否定する積りは有りません。
でも、世界には最初から人を地獄のような境遇に落としてでも、
何かの利を得んとして、あらゆる種類の悪事を企み、強行する無慈悲な輩がいる事も、否定する事はできません。

此れはもう思想信条の自由に関わってくる問題でしょうから、
この問答から私はは引かせていただきます。
最後まで誠実に応対してくださった事に感謝します。

  • 2009/07/31(金) 10:01:06 |
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  • 和久希世 #dN1wHbUA
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  • 2009/07/31(金) 00:23:35 |
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和久希世さんへ

たびたびのコメントありがとうございます。

何やらお詫びをしていただきましたが、どうも誤解されていますね。
私はエリートでもなんでもない。市井の一庶民に過ぎません。

>庶民の権利を守りたいと私は思っているのですが、貴方はどうやら違う何かの利益を守りたいと思っておられるのではないでしょうか?

私だってそう思ってますよ。
ただ、貴方とそこに至る手法や考え方が違うだけでしょう。

「庶民の権利を守りたい」と思う貴方の考えは誠に結構ですが、仮に貴方の考えどおりにやってみたとして、本当に庶民の為になるか私には疑問なのです。というかむしろ、為にならない恐れが強いと思っているのです。

「良かれとおもって為した行為が、逆にあだとなる恐れ」にもっと注意を払うべきだと思います。

それともう一つ。
貴方は敵味方を峻別しすぎる。
自分の見解に沿わないものは、全て敵の陰謀か若しくはその手先と見做すのは、いささか被害妄想的で、偏狭な態度だと思われます。

そうした安易な決め付けが、対立を生み悲劇をもたらす元凶なのに。

余談ですが、どうも護憲派の方々はそうした方が多い。
話し合いを至上とする人々のはずなのですが…。不思議ですね。

  • 2009/07/30(木) 22:54:39 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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管理人のみ閲覧さまへ

鍵コメありがとうございます。

コメントいただいておいて何なんですが、実はこの手の話は苦手なんです。
そのことは、私が過去にそうした記事を挙げたことが無いことからも、お分かりいただけると思いますが。

ご指摘のやり取りを読ませていただきましたが、わけわかめ(涙)。
私が理解している前提でコメントされているようですが、残念ながら買いかぶりされてます。

こんなお返事で申し訳ございません。

  • 2009/07/30(木) 22:51:31 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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仰るとおりでしょうね

誰も初めから悪をなす積りで政治をしているわけではない。
その通りだと思いますよ。
だけど国民は大変大勢いますので、それぞれ利害が反する場合が多いのです。
要するに政治家が誰に、好いことをやっているかと言うことに尽きるでしょう。
私が政治悪と言ったのは、一般庶民にとって非常に不利益な事を、法律改正してまでも行うという意味なのです。

絶対悪も、絶対善もこの世には無いと私も思います。
しかし相対的な善悪は厳然として存在していると思います。
私たちは庶民として、庶民の権利を侵蝕する政権にクレームをつけて、反省してもらいたいと思っているのです。
民主主義国における主人は国民であるのですから、国民の大多数の庶民に不利益な政策にクレームをつけるのは当然のことではないでしょうか?
〔何故なら政治家は選挙の時、大多数の庶民の為の政治を公約に掲げなければ(庶民に信任されなければ)、当選できないはずですから、当選後庶民の既得権を奪うような政策に変更した場合、公約違反になるはずでしょう?〕

貴方と私の、意見の合わないのは、誰の為の政治を望んでいるかについてだと思います。
庶民の権利を守りたいと私は思っているのですが、貴方はどうやら違う何かの利益を守りたいと思っておられるのではないでしょうか?
勿論庶民も会社が遣っていかれなくなったら、仕事がなくなってしまうのですから、
会社の利益を考えないといけないのは当然ですが、
社員を酷使して会社の利益ばかり追求しすぎると、又問題が生じるでしょう。
やっぱり「ものには限度と言うものが有る」と言うことで、その線引きは微妙になるのでしょうが・・・・・

お詫び
かつて私はあなたのことをエージェントと言った事がありましたが、
それは私が勝手に貴方を庶民の一人であると思い込んでいたからに他なりません。
貴方はエリートとして、エリートの利益を守ろうとしておられるだけのかもしれませんのにね。
大変失礼なことでした。
深くお詫び申し上げます。

  • 2009/07/30(木) 10:37:12 |
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  • 和久希世 #dN1wHbUA
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  • 2009/07/30(木) 01:38:53 |
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他の方には良くわからんコメントを

あの馬鹿は、前にsadaさんにしたのと同じように、反論は過去のコメントにして、わかりにくくする姑息極まりない事をしとりま。
自分達の意見に自身がなければ、他人を小馬鹿にした発言は控えりゃいいだけなんですけどね。

  • 2009/07/30(木) 00:48:01 |
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  • 仮)山田二郎 #-
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管理人のみ閲覧さまへ

管理人のみ閲覧 さま。

鍵コメありがとうございます。返事が遅れてすみません。

しかし、彼らの行動様式は、見事なまでにパターンが決まってますね。
品性が無い対応は、彼らの「地」ですから仕方ありませんけど、都合の悪い意見を表に出さず、都合の良い意見ばかり載せるというのは傍から見ていても、みっともない限りですね。
挙句の果てには、アク禁ですから。
ああいう連中が、自由権利を主張するのを見ると、心底反吐がでます。

  • 2009/07/30(木) 00:09:28 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
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政治悪なんてものはない!結果がたまたま悪なだけだ。

和久希世さん、だれも悪を為そうとして政治をやっているわけではありません。
それぞれの立場が良くなるよう、有利になるよう、政治を行なっているのです。
貴方はそれを単純に悪と決め付けて全てを判断しようとする。

私は「それがおかしい」と言っているのです。
政治に善悪の色眼鏡をつけて判断するから、結局のところだまされてしまう。

それに、善意でやったことが、社会にとっては悪影響だったということは、私の記事でも散々紹介しているではないですか。

貴方が信じる善意が、社会にとっては迷惑になるかもしれないということになぜ気がつかないのです?
少しは自分を疑ってみたらいかがですか?

  • 2009/07/29(水) 23:58:59 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
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最後の宗教

 何年も前、作家・塩野七生氏は欧米人も交えたシンポジウムで、「民主主義は欧米人の輸出する最後の宗教か?」と言って、欧米人出席者より日本人司会者をあわてさせたそうです。共産圏国家にはヒヨコみたいにビクビク、何も言えない左翼同様、米国やイスラエルには反論出来ないクリスチャンや親米保守派は似ていますね。異論反論者には屈米か過激左派、人種差別主義者呼ばわりする点も。双方とも外国の奉仕人だから、言動も似通ってくるのでしょう。先日、「自由、民主、人権の人種差別」という、面白いブログ記事を見かけました。
http://blog.livedoor.jp/k60422/archives/51543742.html

  • 2009/07/29(水) 22:01:00 |
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  • mugi #xsUmrm7U
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  • 2009/07/28(火) 18:38:19 |
  • |
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私は騙される側の人間である事を承知しています

騙される人間に責任が無いのかといわれますが、責任の問題ではないと思います。
私が騙された事については、以前のブログ(dendrodium)で書いた事がありますが・・・・・

騙す人間がいると言う事を、認識していなかったら、何処まで行ってしまうか分からないと思うのです。
おれおれ詐欺について、どうしてあれだけ報道しているかと言うと、おれおれ詐欺というものが有るという事を知っているのと、知らないのとでは対応が違ってくるからでしょう?
政治で悪行をされたら、その被害はおれおれ詐欺どころではないのですから、
お互い気をつけましょうと、呼びかけているのです。

あの豊かな国の象徴のようだった国アメリカ、そのアメリカの今の国民の窮状は惨憺たるものの様では有りませんか!
毎日1万人の人が健康保険を失っているそうですが、アメリカの保険会社は公的年金を作る事を、トルーマン大統領の時から、反対し続けていたそうです。
http://eigonihongonews.blog110.fc2.com/blog-entry-196.html
サブプライムローンで家を失った人達は、今でもテント生活をしているのではないでしょうか。
(昨年暮れ以来一切報道されませんが・・・・・)
私たちは、政治悪を野放しにせずに済ませたいとの思いから、不特定多数の人に呼びかけているだけなのです。
これらの事は私達国民の意識が変わることで、いくらかの歯止めのかかることであると思うからです。(民主主義である限り・・・・・)

  • 2009/07/28(火) 08:04:36 |
  • URL |
  • 和久希世 #dN1wHbUA
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和久希世さんへ

和久希世さん、コメントどうもです。

ご意見はわからなくもないですが、庶民には全く罪が無いのですか?
曲がりなりにも、日本は国民が主権者であり、支配階級の政治家といえど、庶民が選んだわけですけど。

選んだ庶民は、だまされたから罪はないとでも仰るのですか?

貴方の意見は、あまりにも庶民を馬鹿にしていますよ。
貴方の意見を見ていると、「自分はこうして支配階級の陰謀を察知できるのに、愚かな庶民はだまされている現状が歯がゆくて仕方がない」という構図に見えて仕方がないのですが。

いい加減、政治の世界に「勧善懲悪」的思考を持ち込むのは止めませんか。
だから、正義づらした悪人にコロッとだまされるのですよ。

政治の世界では、一方が善で一方が悪だということは有り得ません。
そうした思考に囚われている限り、陰謀論にだまされ続けることになるでしょう。
まぁ、和久希世さんお一人が引っかかっている分には、問題ないと思いますが、これが大多数となると、冗談ではすまなくなりますね。
正義の美名の下に、何でも許される世界になってしまいますから。

  • 2009/07/27(月) 22:48:32 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

鍵コメありがとうございます。

管理人のみ閲覧 さま。

ご活躍、拝見させていただいておりました。
所詮、人道主義者を演じていても、異論に接すると品性の無さを露呈するところなどは、相変わらずのようですね。

  • 2009/07/27(月) 19:24:36 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

和久希世氏らのように「何事も他人のせい」と考えると、極めて楽なんだよね。
ただまあ、そう言う思考は、個々が責任を持たなければいけない民主主義国家の住民よりも、無責任でいられる独裁国家の住民に向いてると言えるけどね。

  • 2009/07/27(月) 14:07:41 |
  • URL |
  • 仮)山田二郎 #JalddpaA
  • [編集]

’70年頃先進国では、貧困の消滅によって私権への収束力(私利私欲)が衰弱し始めた。人々はこれ以上の物的充足を得る為に、あくせく働こうとはしなくなり、物的欠乏が飽和限界に達したことによって、市場は拡大を停止し縮小過程に入った。にも拘らず、この社会を差配する全世界の統合者(政・官・財および学者・マスコミ)たちは、なりふり構わず市場の拡大を続行し、不足する需要を補うべく大量の国債を発行して、日本では800兆円を超える財政赤字を累積させてきた。

その結果、増刷された紙幣がダブつき、経済は必然的にバブル化する。’80年代の日本のバブルとその崩壊に続き、’90年代以降、アメリカやEUだけではなく、ロシア・中国までがバブル化した。つまり、市場は、バブルによって見せかけの数字上だけの成長を維持するしかない袋小路に嵌り込んでしまったのである。


バブル経済とは言い換えれば借金経済でもある。市場をバブル化させた原動力は国家の借金であり、金融機関もレバレッジ倍率(資産/自己資本)、つまり借金ふくらませて投機を膨張させてきた。つまり、’70年貧困の消滅以降、市場は見せかけの数字上の成長を維持するためには、借金経済化→バブル化するしかなくなったったのである。


そして、’07年のサブプライム問題、’08年のリーマンショックを契機に始まった全世界的な経済危機。これはバブル(借金経済)が崩壊過程に突入したことに他ならない。それに対して各国政府の打つ手はまたもや借金(大量の国債発行)を増やすことしかない。その末路がドル・米国債暴落の危機なのである。


つまり、ドル・米国債暴落の危機とは、バブル経済(借金経済)の終焉であると同時に、それしか拡大の道がなかった市場(原理)そのものの終焉をも意味するのである。


現在世界中で進行している事態は、市場原理(資本主義)の崩壊という最終局面である。その深刻さは'29年世界恐慌の比ではない。しかし、同時に現代は、私利私欲も求めて争ってきた市場時代300年、いや武力支配の時代も含めた私権時代3000年の歴史を覆す大転換期でもあるのだ。(http://blog.trend-review.net/blog/2009/07/001295.html

という訳で、庶民は足るを知っているが、支配階級が底なしに強欲で、なりふり構わず利益を追求したのが、バブルの原因であり、庶民が底なしに贅沢をしたがるから民主主義にお金がかかるという説には賛同しかねます。。

  • 2009/07/27(月) 07:31:00 |
  • URL |
  • 和久希世 #dN1wHbUA
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というか、

基本的にサヨクの人達って、本音では独裁好きで、言論の自由は嫌いって人達が、とても多いからね。

  • 2009/07/26(日) 22:58:39 |
  • URL |
  • 仮)山田二郎 #-
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  • 2009/07/26(日) 20:19:26 |
  • |
  • #
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サヨク標準思考

>>私が言いたいのは、民主主義というのは維持するのが大変という事実を認識したほうが良いのでは…というだけで、独裁制を支持したつもりはこれっぽっちもなかったのですが…。

 いやあ、俺も読んでてそう思ったし、それ以外の感想は浮かばなかったけれど、和久氏にかかると、なんでも陰謀やら政府やらが悪を企んでいて、民主に投票しない、させないように「考えさせる」のは裏に組織があるからだ! としか思ってないみたいだなあ(笑)。
 失礼ながら、過激派左翼のテロリスト労組と大して変わらん思考の持ち主ですな。
 なんでもかんでも自分たちに同調しない者は敵だと思って、脳内敵勢力を、勝手に敵巨大権力の手先と思い込む。
 サヨクたちの頭の中はヨウチエンジの「XXレンジャー」とか、「XXマン」とかと大して変わらんことをご忠告しておきますよ。
 ちなみに、サヨクは一般社会から見れば、悪の組織「特定アジア」に啓蒙する「カス戦闘員」にしか見えてないことだけは、正しい認識ですがね。

  • 2009/07/26(日) 10:18:55 |
  • URL |
  • sirokaze #-
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それはどうも失礼しました

このところ政治に対して、すっかり疑心暗鬼になっていますので。
只一つ抗議させていただきたい所があります。

私は陰謀論好きなのではなくて、
政治の世界にある、隠れた謀略を疑わずにはおれないと言う事です。
政界には詐欺師も及ばないような、魑魅魍魎がうようよと徘徊していると思えますので・・・・・
決して誰かの陰謀説を、丸信じしているわけではないのです。

陰謀論と決め付けたがる人は、この言葉によって総ての政界の悪巧みに対する疑いを、封じ込めようとされているような気がして、つい抗議したくなりました。

  • 2009/07/26(日) 07:37:34 |
  • URL |
  • 和久希世 #dN1wHbUA
  • [編集]

和久希世さんへ

和久希世さん、コメントどうもです。

TBさせていただいたのは、「モノには限度があるだろう」という貴記事とちょっと関連しているような気がしたからなのです。

>要するに民主主義はお金がかかりすぎるから、そろそろ独裁制度に戻したいと、あなた方のボスが言っておられるということですね。

面白い受け止め方ですね。
まさかそのように解釈されるとは、全く想像しておりませんでした。

私が言いたいのは、民主主義というのは維持するのが大変という事実を認識したほうが良いのでは…というだけで、独裁制を支持したつもりはこれっぽっちもなかったのですが…。

陰謀論好きの方にかかると、独裁制支持のように見えてしまうものなのですね。

  • 2009/07/26(日) 00:42:47 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
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TB有難うございました

もっともらしい理屈で、馬鹿を納得させようとの事でしょうが、
要するに民主主義はお金がかかりすぎるから、そろそろ独裁制度に戻したいと、
あなた方のボスが言っておられるということですね。

  • 2009/07/25(土) 07:48:09 |
  • URL |
  • 和久希世 #dN1wHbUA
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一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
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・本人よりコメント削除要求があり、管理人から見て、明らかに事実無根の中傷・名誉毀損と判断した場合は警告の上、当該コメントを削除することがあります。

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