探してみたら、「『常識』の研究」の中にありましたので、今日は、そのコラムを紹介していきます。
「常識」の研究 (文春文庫)
(1987/12)
山本 七平
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◆海上秩序の傘
「核の傘」という言葉があり、この言葉が何を意味しているかは多くの人はすでに知っているであろう。
しかし、この言葉がジャーナリズムに登場する以前には、人びとは「核の傘」の下にいて、そこで生活しているという意識はなかったに等しい。
それはいわば、空気のように意識されなかったもので、それが意識され出したのは、むしろ「核の傘」の威力がうすれて、それが本当にあるのかどうか疑わしくなってきてからのことである。
「非武装中立論」に代表される「核の傘」の下の平和論は、「核の傘があるから……」を無言の前提としていたわけで、それは、その首唱者がそれを意識しようと意識しまいと、また意識しつつ隠していようと、現実には厳然と存在する前提であった。
そして「非武装中立論」が色あせてきたのは、人びとが自ら「核の傘」の下にいたのだと意識したときである。
そしてそれを意識したとき、それなき状態における防衛論が何一つなく、この点について、何の基本的発想も確立してなかったことに気づいたわけである。
だが、われわれが「傘の下」にあるのは「核」の場合だけであろうか。
それがなくなったら急に「何とかの傘」が意識され出して、それがなくなった状態における基本的な発想が何一つ確立していなかったことに気づくのではないであろうか。
従ってそうなる前に、それは「ある」といわねばならないであろう。
それは公海自由の原則、海上航行自由の原則という世界的秩序の傘であり、同時に外交官持権の相互承認、平和時における在留外国人の自国民同様の法的保護といった原則である。
これらの原則は、だいたい二〇〇年の昔にヨーロッパ、それも主としてイギリスによって確立され、ついでアメリカによって継承されてきたわけで、日本は明治のはじめの開国以来その「英米的秩序の傘」の下におり、これを空気のように、あって当然の状態を受け取る結果になった。
だがこの状態は決して空気のように存在するわけではない。
戦前の日本はずいぶん無茶をやったように言われるが、この点に関する限りほぼ完全に秩序を守り、自らも秩序維持に参加していたといってよい。
たとえ真珠湾を叩くことはあっても、米英大公使や在留米英人を人質にするようなことはなく、相互に交換船を仕立てて、中立国のロレンソ・マルケスで相互交換を行い、その往路と帰路はそれぞれ保証するという原則は保持した。
さらに日本海軍が海賊的行為を働いたり、平和時にどこかの海峡を勝手に封鎖したり、戦時にも中立国の船舶の自由航行を妨害したりといった行為はない。
だが、長らく守られてきたこの米英的秩序、特に「海上秩序の傘」が、果たして今後も保持されるのか否かは、相当に問題と考えねばならない。
と同時に、もしこの秩序がなくなった場合、生活を海上貿易に依存している日本はどうすべきか、その基本的発想は確立しておかねばならない時代が来たように思われる。
というのは、イランにおいて米大使館そのものが人質とされ、パーレビ前国王の引き渡しが要求されている。
こういったことは、太平洋戦争中の交戦国の間でも、まず類例がない事態だといわねばならないからであり、明らかに、空気のように存在していた一つの世界秩序の崩壊を意味する事態だからである。
この事態を見れば、将来、公海自由の原則や海上自由航行の原則が維持できるか否かは問題で、これは日本にとって実に大きな問題である。
たとえば、イランがある種の要求を掲げて、それに応じない者はホルムズ海峡の通過を許可しないといった場合、日本は、それがどのような要求であれ土下座的に応ずるつもりなのか、もし応じたら同様の要求が他の国々からも出て、応じなければ船ごと拿捕されるような結果になった場合どうするつもりなのか。
この種の問題提起はもちろんのこと、こういった問題意識さえ日本のマスコミには今までなかったと思う。
公海自由の原則、海上通行自由の原則は、日本にとって死活の問題である。
それは、華々しい防衛論争のような起こりうるべき可能性がきわめて少ない問題でなく、その秩序の崩壊はある意味ではすでに現実の問題となりつつある問題である。
それが起こったときあわてないように、その際はどうすべきかの基本的な発想ぐらいは、国民的合意の下に確立しておくべきであろう。
私にはこの方がむしろ、起こりうべき死活問題と思われるからである。
【引用元:「常識」の研究/国際社会への眼/P57~】
このコラムを読み直してみて、改めて山本七平の先見性を実感しました。
このコラムの視点に添ってみれば、「自衛隊が…」とか「いや、海保で…」という議論や、「違憲だ、合憲だ」という議論が、少し馬鹿らしくなってきます。
当然のように享受してきた「公海自由の原則、海上航行自由の原則」が当たり前ではないかもしれない。
その前提が崩れた時に、一番困るのは海洋国家日本であることは間違いないでしょう。
ソマリア海賊問題は、そのことについて考えさせてくれる良いキッカケかも知れませんネ。
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