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97年から書き続けたweb日記を、このたびブログに移行。
歌舞伎座「壽初春大歌舞伎」夜の部を観た
先週三連休の中日、日曜は、歌舞伎座で「壽初春大歌舞伎」夜の部を。

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今月の歌舞伎観劇はこれで終わり。一階一等席は19,000円と普段よりも1,000円高いが、観客が役者に上げるご祝儀分か(笑)1800人の小屋で一人1000円ずつ高くすると25日興業で4千5百万円か。馬鹿にできない金額だ。

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席は二階東の桟敷。ここは今まで座ったことがなく、一度試してみるかと選択したのだが、花道は遠いものの障害物無く全て見えるし、オペラグラスあれば観劇にはストレス無くなかなか結構である。西の二階桟敷は花道は近いが、役者の後頭部を上から見下ろすことになるので、そこがちょっとね。

最初の演目は「番町皿屋敷(ばんちょうさらやしき)」

皿を割ったお菊さんが手打ちになり幽霊となって井戸から声が聞こえる怪談は「播州皿屋敷」。姫路城には「お菊井戸」があるが、これはそれらの類似した物語に題材を取り、舞台を江戸番町に移し、大正期に岡本綺堂が一種の悲恋譚として書き直した歌舞伎狂言。

旗本とその屋敷で働く腰元の恋は、成就するはずのない身分違いの恋。主人の青山播磨を恋い慕うお菊は、播磨に縁談の噂があることに気をもみ、先祖伝来家宝の皿を割って播磨の心を試そうとする。

割ったと聞いた途端、播磨は、「粗相であろう、咎めはせぬ」とお菊を許す。しかしお菊がわざと割ったと注進を受け、詮議すると、お菊が自分の心を試そうとした事が分かり、これが播磨の憤激を呼ぶ。

お菊に「残った皿を出せ」と言い、お菊を見つめながら、皿が出された途端に一枚ずつ刀の柄で粉々に割ってゆく「皿など惜しくはないのだ」という鬼神の如き演技が心を打つ。最愛のお菊が、一度たりともお菊以外の女に心を動かされたことのない自分を信じず、試そうとした事を播磨は決して許すことができないのだった。憤激と絶望のうちに播磨はお菊を切る。しかし播磨の心に嘘偽りが無い事を知って従容と死を受け入れるお菊。

吉右衛門は、芝居の前半では何故かところどころ台詞が抜けるようだが、老獪な力技で押し切る(笑)。お菊への細やかな愛、そして絶望と憤激を大きく演じており印象的。芝雀の腰元お菊は、叶わぬ恋に心乱れる可憐な若き女性を見事に演じている。女方の芸というのは凄いね。下町の侠客放駒四郎兵衛を演じる染五郎も、ちゃんとした出来。

30分の幕間を挟んで次は「女暫(おんなしばらく)」

「暫」は歌舞伎十八番の荒事。十二代團十郎の演じた舞台は、「歌舞伎名作撰 歌舞伎十八番の内 暫 歌舞伎十八番の内 外郎売」のDVDで観たことがある。悪玉によって善玉が斬られようとするとき、「しばらくしばらく~!」と團十郎が現れ、途轍もない強さを見せつけて悪玉を全て蹴散らし、威風堂々と去って行く。江戸の連中はこういった「荒事」が大好きだったんだなあ。

この「女暫」は、荒事の主役を女方がやるという面白い趣向。設定や脚色もオリジナルの「暫」がほとんど残っている。主役の巴御前を演じる玉三郎は、実際には背が高いから十分に見栄えがあって印象的。男勝りの巴御前というのは有名な話で、他の狂言でも題材に出てくる。

最後は幕外の引っ込み。女なので六法での引っ込みがよく分からない、という楽屋落ちに続いて、幕裏から舞台番として吉右衛門が登場して、「あっしもよく分かりませんが、多分、こんな風にやるんじゃないですか」と教える。有名役者がわざと取るに足らない役を知らぬ顔でやるのを「ご馳走」と呼ぶとイヤホン・ガイドにあったが、客席が沸いて舞台と一つになる、新年にふさわしいめでたい演出。最初は見よう見まねで六法を演じるが、ふと我に帰り「おお恥ずかし」と叫んで、照れて女に戻って花道を去る巴午前。しかしよく考えてみると女方というのは男が演じている訳で、歌舞伎の重層性がよく現れた、なんとも不思議な味がある演出でもある。

最後の演目は、新歌舞伎座初お目見えの猿之助が主演。「猿翁十種の内 黒塚(くろづか)」。 旅人を泊めては殺して食っていたという「安達ヶ原の鬼婆」伝説が題材。オリジナルは能舞台。

猿之助が老女岩手実は安達原の鬼女役。幻想的な月影の下、初代猿之助がロシアン・バレーにヒントを得て取りいれたという技法も含めて、曲がった腰のままで舞い踊る舞踊が不思議に美しい。ススキの原と月光に浮かぶ老婆の影に杖が角の如きに浮かぶ。奥の間を決して見てはいけないぞというと、必ず見てしまうのは、日本の民話のお約束だが、裏切られたと知って、月下でうかれて踊る老女が鬼婆へと正体を現す。

この鬼婆の化粧は実に怪異だがなんとなく「おばけのQ太郎」も思い出す意外な愛嬌もあり。最後は勘九郎演じる阿闍梨たちに調伏されて幕。勘九郎はなかなか立派な出来。猿之助の新歌舞伎座初登場にはふさわしい幻想的で美しい舞踊劇だが、初春を寿ぐような演目かといわれるとちょっと違うような気もせんでもない。しかし三本とも元になった話の知識があるので、なかなか楽しめた。この日は、鶏を絞め殺すようなか細い声の爺様はおらず、大向こうはちょっと少ない気がしたなあ。
 
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