fc2ブログ
 
■プロフィール

石田明生

Author:石田明生
ホームページの方もよろしくお願いします。
文学雑感、旅行記、翻訳などを載せています。

■4travel

スキピオの旅行記(写真付き)もごらんください。

■最近の記事
■カテゴリー
■最近のコメント
■月別アーカイブ

■最近のトラックバック
■リンク
■アクセス解析

■ブロとも申請フォーム
■ブログ内検索

■RSSフィード
映画『遠い日の家族』とラフマニノフピアノ協奏曲第二番
 秋日和となった昨日、映画を見に行った。と言っても、映画館に行ったのではない。さいたま市にあるいくつかの図書館のひとつ「大宮西部図書館」にJRの電車とニューシャトルという車両に乗って行った。誕生以来さいたま市に住んでいるがニューシャトルに乗ったのは初めてだ。当然車両にカメラを向けているのは僕だけだった。図書館は大宮駅からひとつ目の「鉄道博物館駅」で降りて、徒歩10分ちょっとばかりのところにある。
 このように遠い図書館にしかも電車賃まで払ってやって来たのは、クロード・ルルーシュ監督の邦題『遠い日の家族』を観るためだ。我が家の近くの図書館で調べたら、この映画はさいたま市にはレーザーディスクでしかなく貸し出しはしていないとのことだったからだ(当たり前だ、借りても鑑賞不可だ)。
 ずいぶん昔テレビの深夜放送の名画座からビデオに録画して何度か見たが、そのビデオを失くしてしまった。時が経ち、映画の内容が記憶から少しずつこぼれ落ちてしまったので、もう一度見たいと以前から思っていたのだ。結果、やはり傑作中の傑作であることが確認できた。できれば映画館で観たかった。
 映画の原題は『Partir, Revenir』、意味は「あの世に旅立ち、この世に立ち戻る」だろうか。邦題はドイツとの戦争中に悲劇を体験した二つの家族という設定からとっているのだろう。


 映像は、自伝的な本を出版したサロメ・レルネールが、当時話題のテレビ番組「アポストロフ(註)」の司会者ベルナール・ピヴォのインタビューを受けるところから始まる。サロメの本は映画化が決まったので、ピヴォにキャスティングを紹介する。特に、「ピアニストはベルショ(Erik Berchot)でなくては困ります、弟とそっくりなんですから」と説明する。そんな会話から、コンサートホールでラフマニノフのピアノ協奏曲第二番の演奏が始まる。もちろんピアノはベルショ、聴衆の中にサロメが座っている。
 演奏が始まると同時に、物語が始まる。時は1939年、二組の仲の良い家族が映し出される。父親同士は医者、一方にはひとり息子のヴァンサン、もう一方にはサロメとその弟サロモン(ラフマニノフの再来かと思われるほどピアノ好きで天才的な奏者)、仲良しの母親同士、まさに申し分のない二組の家族だ。ところが、パリをナチスドイツが占領して様相は一変。サロメの家族はユダヤ人なのだ。ヴァンサンの家は財産家なのでブルゴーニュの田舎に城を所有している。彼らはレルネール家の人たちにそこに身を隠すよう提案する。実際サロメの家族はパリ脱出に成功し、二家族は城で合流して生活を共にする。
 ところがしばらくして、ドイツの兵士たちがやってきて、レルネール家の四人を逮捕して連れ去ってしまう。それから数年してドイツが降伏し、サロメだけが生還して城に戻ってくる。彼女は自分達がナチスに拉致されたのはこの村の誰かの密告によったことを知っている。誰が密告したか。村人か、使用人か、ヴァンサンかあるいは・・・。ドラマはサスペンスのように進行して行く。はたして大団円を迎えることができるか。
 今日じっくりとひとりで、ピアノ協奏曲第二番を聴いた(辻井伸行のピアノだったが)。メロディーの流れとともに、二組のブルジョワ家庭、ナチス、ユダヤ人狩り、家族同士の友情、その娘と息子の愛情、嫉妬、エゴイスム、それら物語の素子が脳裏の中で次々と繋がって場面を構成し、浮かんでくる。戦争とかジェノサイドとか巨大な悪はもちろん、目に見えず、重みも感じられない感情の小さな揺らぎも人の運命を変えてしまう。
監督: クロード・ルルーシュ
配役: リヴィエール家・・・父ロラン、ジャン=ルイ・トランティニアン 母エレーヌ、アニー・ジラルド 息子ヴァンサン、リシャール・アンコニナ レルネール家・・・父シモン、ミシェル・ピコリ 母サラ、フランソワーズ・ファビアン 娘サロメ、エヴリーヌ・ブイクス 息子サロモン、エリック・ベルショ(ピアニストでもある)

註: 「アポストロフ」とは、当時はやっていたテレビ番組で、司会のベルナール・ピヴォが、作家に質問したり、作家同士に文学論を戦わせたりした。番組は1975年から1990年まで続き、フランス人のみならず著名な作家たちが出演した。珍しい出演者ではジスカール・デスタン大統領がいる。モーパッサン論を論じるために出演した。噂によると文学に造詣が深かった好敵手フランソワ・ミッテランに徴発されたとか(前者は理系出身だった)。
映画では、ピヴォが作家となった登場人物のサロメにインタビューして、本当らしさ(リアリティー)を持たせようとしている。
 
 わざわざ遠い図書館まで足を運んだので、ついでにルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』も観た。もちろんずっと以前観たことがあるが、今回も熱中して観ることができた。アラン・ドロンの演技は言うまでもなく、映画全編を通して、手を抜かない演出には驚く。しかし、時代の違いだろうか、封緘するとき、彼が舌で舐めたのには驚いた。また、偽の手紙を作成するのに手袋をしてないが大丈夫だろうか気になった。当時は紙から指紋はまだ取れなかったのだろうか。もちろんDNA鑑定はなかったと思う。
 というわけで、昨日は二本立て映画を楽しんだ。どちらを先に観たかって?もちろん、『太陽がいっぱい』だ。この映画のエンディングはあまりに有名で、ご存じの方も多い。言ってみればニーノ・ロータの音楽同様すっきりしている。『遠い日の家族』のエンディングは、再びコンサートホールのサロメとラフマニノフの協奏曲第二番のエンディングと重なる。帰り道、頭にしみ込んだ協奏曲が、映画の場面をいくつも思い起こさせるかもしれない。そう思って『遠い日の家族』を後にした。正解だった。

映画評 | 21:09:30 | Trackback(0) | Comments(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する