投稿日:2015-01-29 Thu
昨日投書欄に『表現の自由は全てに優先か』というタイトルで、臨床検査技師のSという人が、フランス週刊誌の襲撃事件に関連して、フランス人の自由への思い入れに「傲慢さ」を感じると意見を述べていた。たぶん、Charlie hebdo の風刺画を想定しての意見だと思う。「フランスでは表現や言論の自由が民主主義の根幹であり、すべてに優先するかのような国民性を持ち、他者への配慮という感情が欠如しているかのように見える」とS氏は書いているが、これは、Charlie hebdo という雑誌に対していうべき意見であり、フランス人一般にすり替えることは短慮というほかない。Charlie hebdo という雑誌が「他者への配慮という感情を欠如」していると主張するのならば、それなりに納得はできるのだが、それを、まるでフランス人がこぞって Charlie hebdo を読み、風刺を楽しんでいるかのように、フランス全体に普遍化するのはどう考えてもおかしい。
襲撃されたあと Charlie hebdo がまたもやムハマッドらしき人物に「JE SUIS CHARLIE」と言わせている風刺画を掲載したことを念頭に言っているのだろうが、オランド大統領が表明したように、「政府が掲載禁止」を強制することは不可能だ。それこそ表現の自由に対する官憲の介入であり、恐らく裁判沙汰になるだろう。そんなことは政府としてはできるわけがない。S氏がちょっと頭を働かせれば、日本でもそのような風刺画どころか、どんな表現も(わいせつ等はのぞいて)「掲載禁止措置」にすることは不可能だということがわかる筈だ。「禁止命令」を出せば、日本でも当然同様に裁判沙汰となるだろう。
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投稿日:2015-01-21 Wed
新聞社を狙ったテロのあと、パリを中心に «Je suis Charlie»の合唱がわき起こった。あれだけの人数だから、その叫び声の内側が全部同じだったとは思わないが、大切なことは、あのとき«Je suis Charlie hebdo»と叫んだのではないことだ。Je suis Chrlie とは、「我々は犠牲者の側につく」「銃ではなくペンを持つ側につく」「やるならやってみろ」との思いで叫んでいたのだと思う。つまり、あの«Charlie hebdo»という新聞そのものに共感してのことだったかどうかあやしい。というのは、その新聞を嫌いな人たちも、その新聞を開いたことも見たこともない人たちも、あの群衆の中に混じってていた筈だからだ。いや、ほとんどの人がそうだったのだろう。だから、シンボルとしてペンや鉛筆を掲げていたのだ。あらためて、Charlie hebdo の風刺画を見て、多数の人が戸惑っているに違いない。時には、えげつないのもあるからだ。
最近、Charlie hebdo のような風刺画の出版物はヘイトスピーチと同じではないかという主張を耳にして、大いに驚いている。ヘイトスピーチの定義はと言われるとそれほど考えたことがなかったので困るが、wiki によると、「人種、宗教、性的指向、性別などの要素に対する差別・偏見に基づく憎悪(ヘイト)を表す表現行為のこと」とある。
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投稿日:2015-01-17 Sat
Charlie が新しい号を出した。彼らはこうなるとたとえ殺されても雑誌を出し続けるだろう。ただし、この度の表紙の絵を見て少しほっとしたのは、Je suis Charlieと言っている人物に名前がないことと、泣いていることだ。もしその人物がムハマッドだとしても、その涙は、愚かなテロとその犠牲者のために流していることになる。どんな人でも、まして預言者なら、今回の事件では涙を流さずにはいられまい。ただ、背景の文句「全ては許される」にはどんな意味合いがあるのだろう。まさかテロまで許されるわけではないだろう。
Charlieという雑誌は、この度初めて知ったのだが、大部分の人たちも同じだろう。聞くところによると、「Harakiri」という新左翼の過激な風刺雑誌を受け継いでいるとか・・・前身のも今のもそれほどの発行部数はなかった筈で、せいぜい3万部程度だったらしい。そうなると今度の新刊雑誌の数300万冊はなんと100倍になる。今までの絵をいくつか見たが、えげつないものから、それなりにおもしろいものまで、要するにできふできがあるようだ。どちらにしても、客層はそれほど上品でも知的でもなさそうだ。今度の恐ろしいテロで有名にしてしまったと言うのが実情だろう。
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投稿日:2015-01-04 Sun
新年最初の「毎日新聞」に掲載された社説は、「戦後日本70年・・・日本と東アジア」と題したもので、中国や韓国の経済的・国家的発展を率直に認め、今までの日本人特有の「日本をアジアの頂点とする序列的思考」をあらためて、中国・韓国と共生できる「並列的」思考を主張している(副題は「脱・序列思考のすすめ」となっている)。ようするに、日本は「大国残像ナショナリズム」を振りかざし、過去の栄光を取り戻そうとするべきではなく、隣国との共存・共栄を計るべきだということだ。そうして、昨日1月3日の社説は、「戦後70年・・・ピケティ現象」と題されている。社説によると、フランスの経済学者トマ・ピケティ著『21世紀の資本』の訳本が、各地の図書館で長い順番待ちになっているらしい。経済にひどく疎い僕は、原書であれ、訳本であれ、まだ手にとったことはないし、たぶん手にとってもチンプンカンプンに違いない。だからどうしても、評者経由の「孫引き的」な理解になってしまうのだが、それでも、それなりの理解と同感を得ることができた。「資本主義のもとでは、資産を持つ人がますます富み、持たない人々との格差が広がり続ける。富も貧困も世襲されていく」という分析も、以前からなんの実証もなく感じていたことであり、それを経済学者が論じてくれたことに納得している。
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投稿日:2014-04-29 Tue
四月二十日の投票の選挙について書くのだから、だいぶ前のことになる。書こう書こうと思っていて、忙しさにかまけていたら、いつの間にか今になってしまった。たいしたことを言う訳でもないのに、このていたらくは実に情けない。なんてことはない。
四月の中旬に練馬区のある駅で降りて町を歩き始めと、変なおじさん、失礼! ティッシュペーパーを配っているにしては変わっているという意味で「変なおじさん」と言ったまでで、見た目はむしろまじめそうで堅そうなおじさんたち・・・漫画カフェやなんとかパーラーのティッシュ配りの茶髪のお兄さんとは似ても似つかない・・・が、通りすがりの人たちにティッシュペーパーを配っているではないか。これは珍しいと思い、もらい受けようと近寄ると、「四月二十日は投票日です。よろしく」と声をかけて、ティッシュを手渡している。
要するに、変なおじさんたち(失礼!)は練馬区の選挙管理委員会の人たちで、投票率をあげようと、街に出てキャンペーンをしていたのだ。ご苦労なことだ。僕は埼玉の人間なので、選挙権がないと言って、いただいたものを返却するほど、律儀ではない。花粉症で鼻と目がぐちゃぐちゃの折りも折り、ありがたくいただいた。
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