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石田明生

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『父の肖像』
父の肖像(2007年9月に発表)
・・・小説『なしくずしの死』を読み解くためのひとつの試み・・・


モーパッサンは、しばしばエッフェル塔のレストランで昼食をとったが、しかし彼はこの塔が好きだったわけではない。「ここはエッフェル塔が見えないパリの唯一の場所だからだ」と彼は言っていた。実際、パリでエッフェル塔を見ないようにするためには、無限に多くの注意を払わなければならない。(ロラン・バルト『エッフェル塔』)

はじめに
 ルイ=フェルディナン・セリーヌは一八九四年にパリ郊外の町で生まれた。衝撃的な小説『夜の果てへの旅』(一九三二年)でデビューし、その四年後、さらなる問題作『なしくずしの死』を発表する。その破天荒(もうすこしで破廉恥と書きそうになった)な文体は一般常識の枠組みを完全に打ち破り、あるいは完全にはみ出して、良俗とか穏和とか静謐とか、または円満とか団欒とか健康というものに価値を置く普通人の生活を脅かし、不安にする。
 小説は、セリーヌの自伝的な作品で、主人公が小学校に上がる直前から青年期に至るまでを描く。これは『ジャン・クリストフ』や『チボー家の人々』(完結は四十年)など一世代前にはやった「教養小説」の部類に入るのかも知れない。だがなんという「教養小説」だろうか。ロマン・ロランやデュ・ガールの主人公が自らの意志で自己を乗り越え、挫折を味わい、人と交わり、克己して、自己を形成するのに対して、セリーヌの主人公フェルディナンは、勤勉とか克己とか忍耐とは無縁だ。そればかりか、父親は息子を感化院に入れなければ、人殺しになると思って恐れる。だがその父親も常軌を逸しているのだ。彼は絶えず妻と息子に悪態をつき、癇癪を起こし、呪詛の言葉を投げ付ける。そのひとつに耳を傾けてみよう。
 学校を卒業したフェルディナン少年は、初めて就いた見習いの職をあっというまに失った。それを聞いて激怒した父は、息子の《欠陥の総目録》を数え上げる。

 《(父は)・・・僕の本性の奥底に隠れている悪徳のいちいちをまるでその一つひとつが怪奇現象ででもあるかのように探究した・・・そうしては悪魔のような叫び声を挙げた・・・(中略)・・・ありとあらゆる怪物が揃ってた・・・ユダヤ人・・・陰謀家・・・成り上がり者・・・それからとりわけフリーメースン・・・ぼくにはそいつらがこれとどんな関係があるのかさっぱり分からない・・・父はこういう自分の宿敵どもを端から駆り出した・・・》(P.220)

 主人公フェルディナンの父親は、保険会社に勤めるうだつの上がらないサラリーマンだ。彼にとって、《ユダヤ人》《陰謀家》《成り上がり者》《フリーメーソン》は同列、同価値らしい。どうして彼はこれらの単語を呪詛の言葉としていつも投げ付けるのだろうか。彼はセリーヌ、いやフェルディナンの父親だから、『シオン賢者の議定書』(1)も、ましてナチスの反ユダヤ思想も関係ない。小説『なしくずしの死』は作者セリーヌの幼年時代、千九百年の万博の頃が舞台となっているからだ。十九世紀から二十世紀への橋渡しとしての華やかなパリ万博、その頃どうして反ユダヤ・反フリーメーソンに凝り固まった無名の市民が誕生していたのか。もしかするとこのような名もない市井の人々の頑なまでの反ユダヤ・反フリーメーソン思想こそが、後のナチズムを生み出す温床となったのではないか。だとするなら、セリーヌの描き出したパリの片隅に暮らすひとりの父親の姿を見過ごすことはできない。
 彼が受け継いで来た歴史、つまり十九世紀という、まったく新たな対立構造が組み込まれた時代のコンテクストについて考察し、そこから醸成された負の思想と負の父親像を浮き彫りにしたい。


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小論 | 08:30:45 | Trackback(0) | Comments(0)