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石田明生

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映画『エッフェル塔Eiffel』を観る
 昨日、新宿まで映画を観に行った。映画のタイトルは『エッフェル塔Eiffel』(マルタン・ブルブロンMartin Bourboulon監督)。建設当時の社会、特に塔建設における賛成/反対の世論などがほんの僅かでも描かれていればと期待していたのだが、予告編どおり技師エッフェルの恋愛話が中心で、建設の苦労(資金、労働者のスト)がほんの僅か味付けされているに過ぎなかった。その逆を期待していたものとしては残念のひと言だが、仕方ないだろう(有名人の恋愛は誰でも見たがる)。

 «モーパッサンは、しばしばエッフェル塔のレストランで昼食をとったが、しかし彼はこの塔が好きだったわけではない。「ここはエッフェル塔が見えないパリの唯一の場所だからだ」と彼は言っていた。実際、パリでエッフェル塔を見ないようにするためには、無限に多くの注意を払わなければならない。(ロラン・バルト『エッフェル塔』)»

 この、文豪モーパッサンの逸話はあまりにも有名だ。塔の建設当時、彼は「ベラミ号」というヨットで地中海を周遊し、滋味豊かな旅行記を書いている。「わたしはパリを去り、フランスを去った。けっきょく、エッフェル塔に、つくづくうんざりしたからだ」(『放浪生活』La vie errante)
 冒頭、こう書き出して、ピラミッドはもちろんピサの斜塔からバベルの塔まで引っ張り出して、塔論をぶちまけて一章を使っている。
 ことほど左様に、彼はエッフェル塔を嫌っていた。また、エッフェル塔建設の反対派の急先鋒に、あのオペラ座を作ったガルニエもいる。彼らは塔を「醜い鉄の骸骨」と非難していた。
 そんな話が映画に盛り込まれ、モーパッサンやガルニエが登場したらおもしろかったのだが、登場はおろか、美醜論争は皆無だった。
 ところで、エッフェル塔ができるまで人類が建設した最も高い建物は、エジプトのギザにあるクフ王のピラミッドだったということはあまり知られていない。エッフェルは4千年以上の間世界一の高さを誇ったピラミッドを抜いたのだ。20世紀になってアメリカのクライスラー・ビル(1930年)にその座を譲ることになる。
 パリでは1972年にモンパルナスの駅前にその名もモンパルナス・タワー(59階建て210m)ができた時も、激しい景観論争が巻き起こった。この論争は反対派の勝利と言えるだろう。2年後、パリ市内にこの種のビルの建設は禁止になったからだ。確かにこのビルは、素人目にも、なんの特色もないただののっぽビルでしかないようだ(失礼!)。
 ある時、パリの地下鉄の乗り換え用の通路を歩いていて、ポスターの傑作を見た。モンパルナス・タワーの最上階にあるレストランの宣伝コピーだ。
 ポスターにはそびえ立つモンパルナス・タワーの写真の最上階に吹き出しがあり次のような文句が書かれていた。
「皆さんは、ここから、パリで最も美しい景色を見ることができます。Ici, on peut avoir la plus belle vue de Paris.」(フランス語は記憶のまま、違っていたら失礼)
 この自虐的なフレーズは(素敵な自虐だ!)、先に挙げたモーパッサンの逸話を知らなければなんのおもしろみもない。そう、モンパルナス・タワーの最上階からの眺めは、唯一モンパルナス・タワーの見えない地点だからだ。そこから、パリの街並みにすっかり溶け込んですっくと立つ「貴婦人」エッフェル塔が見える。モーパッサンが生きていたら、なんと言うか。


映画評 | 23:38:18 | Trackback(0) | Comments(0)
旧友への返書
 先月、高校時代の友人から手紙が届きました。自然と人間との共生によって人間回復を希求する哲学者内山節氏の講演会への誘いでした。手紙によると、退職した現在、友人自身も農地を耕す農民として暮らしていると言っています。内山氏の哲学を実践しているのでしょう。
 数年前古稀を記念して行われた同期会を前にして、そのS君から、突然電話があり(同期会の幹事から番号を聞いたのでしょう)、まさに半世紀ぶりに再会しました。「生きていましたよ」久々顔を合わせたときの彼の台詞です。それは、決してオーバーな表現ではありません。彼は、太平洋戦争後、戦地で行方不明になっていた帰還兵のようでした。学園闘争真っ盛りのなか、W大に行ったまま、僕たちの周りから消えてしまって、消息がわからなくなっていたからです。
 中学生の頃から詩人や作家になりたいという漠然とした夢を抱いていた僕は、高校に入ると文芸部に入り、青臭い詩や小説を書いたり、読書会で部員たちと議論を戦わせたりしていました。その中にS君がいました。彼は、僕とは次元の違う読書量と文章能力を有していました。サルトル、カフカについては彼に教わった記憶があります。
 卒業アルバムの文芸部の写真には、男子3名女子4名が写っていました(彼の手紙に同封されていました)。もう一人の男子部員は、あの学園闘争の後、外国に闘争の場を求めて異国の地に行きました。それ以来、彼がどこでどうしているか生死さえわかりません。真面目で一徹な彼は、高校卒業後に会った時に「武力闘争しかないんだ!」と叫んで席を立ち、背中を見せて敢然と去りました。今思い出すと、白黒映画の一場面のようです。
 M君に返事を認めました。今その返事を読み返してみると、書きながらいつの間にか昔の感情に浸るかのように、思いのままに書いているのに驚いています。50年という月日が経っても、文を書きながら頭に浮かんでくるS君は高校の時の顔をしていたのです。最後に「反論無用」と思わず書いてしまいました。たぶん、彼と議論をするといつも負けてしまうことを思い出したからでしょう。
 返書は以下の通りです。

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雑感 | 15:12:13 | Trackback(0) | Comments(0)