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石田明生

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老々電話
7月2日(日)
 昼過ぎ、木庭さんに恐る恐る電話をした。木庭さんとは、僕が結婚した時に仲人役をしてくれた大学院の先生の奥様だ。先生はだいぶ前に他界なさったが、奥様はずっとお元気かつ活動的で、一時期は劇作家としてもてはやされたことがあった。とはいえ、もう90歳くらいになっておられるはずだ。しかも一人暮らしをなさっている。
 電話の呼び出し音(途中「録音します」と警告があった)のあと、「もしもし」とお声があった。やっぱり元気にしておられた。ほっとしてうれしくなり、こちらの声も弾む。名前を名乗ると、すぐに反応してくださった。
 奥様の近況をいろいろお聞きしたが、生活に一番の不自由は眼がよく見えなくなったことらしい。しかし、会話の中に通底音のように流れているのは、長く生きながらえていることの寂しさ辛さだ。友人も家族もほとんどおつきあいがないらしい(子供はいなかった)、ご友人達はみな他界してしまったそうだ。なんども「長生きの辛さ」とおっしゃっていた。お手伝いさんが週五日ほど通ってくる以外、口を聞くこともないらしい。幸いお耳とお声は問題がないので、電話でのそんな語り口がしっかりしている。それにしても、92歳のお年の方に何を言って励ましてよいのか、なんども言葉を失ってしまった。
 思い切って、8月にフランスに行こうと思っていると言うと「あら、いいわね」ととても喜んでくださった。そのため、「帰ったら、土産話の電話をします」と約束してしまった。
 「あらっ、それまで生きていないかも」と奥様。僕もそうだが、先のことを考えるバカらしさをいつも感じるが、90歳を過ぎるまで年をとると、「先」がまったくなくなってしまうのだろう、相手を沈黙させる力がある。「ほんと、長生きしてしまうのも困ったものよ」となん度も繰り返す奥様に、当方はなんにも答えられず、曖昧にむにゃむにゃいうばかりだ。
 「では、また電話します」と言って受話器を切った。切った後、僕の曖昧で締まりのないむにゃむにゃが録音されているのだな、とふと思った。

雑感 | 06:15:06 | Trackback(0) | Comments(0)