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石田明生

Author:石田明生
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パスカル・キニャール著『アルブキウス』
 パスカル・キニャール Pascal Quignard という作家は、映画『めぐり逢う朝』の原作者としてしか知らなかった。
 この度、通っている図書館で不思議な本を目にし、ぱらぱらとめくってみた。するとこれまた不思議な文章が次々と現れるではないか。作者はパスカル・キニャール、本の題名は『アルブキウス』(高橋啓訳 青土社)。『めぐり逢う朝』では、音楽家の生涯を描いていたが、ここでは、古代ローマの雄弁術家を描いている。解説によると、作者の母親は文法学者の家系であり、父親は代々オルガニストの家系であったという。まさに、バロック音楽と古代ローマは、彼の最もなじみ深い範疇であったのだ。

バスカル・キニャール


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書評 | 17:58:49 | Trackback(0) | Comments(0)
町の図書館
 図書館に通って、講義「時事フランス語」のためのテキスト作りを毎日している。到着して最初に足を運ぶのは、フランス語の辞書が並んでいる本棚。そこで、簡単な仏和辞典、主に『クラウン仏和辞典』を参考に注作りをしている(ちなみに、大辞典はパソコンのアプリで持っている。クラウンのような初級用の辞典はそこに問題の単語の見出しがあるかどうか確かめるために使用する)。すると、興味深い現象に気付いた。仏和辞典の並ぶ書棚にいくと、『プログレッシブ仏和辞典』がいつもなくなっているのだ。つまり、誰かが、館内貸し出しをしているということだ。この発見は、僕の好奇心を大いに刺激している。どんなひとが、『プログレッシブ仏和辞典』を片手にフランス語の文章を読んでいるのだろうか。あるいは、フランス語の勉強をしているのか。
 帰りしな、いつも閲覧室をぐるりと見回しながら、図書館をあとにするのだが、まだその辞書を使用している人を目撃していない。こんな場末の図書館で、毎日フランス語に付き合っている人がいると思うとうれしくなる。
 図書館通いに楽しみがひとつ増えた。

日常スケッチ | 23:13:28 | Trackback(0) | Comments(0)
春めく日曜日
 日曜日は、図書館に行かない。高校生でいっぱいだからだ。
 すっかり春めいて、昨日は庭に四十雀がやってきた。今日も来てほしいが、今のところ現れない。
今、庭の餌台にみかんを置いてきた。来てほしい鳥は、メジロだ。が、思いとは別に、きっとヒヨドリがくるに違いない。と、悲観的なことを書いていると、今四十雀が二羽で遊んでいるのに気付いた。白いほっぺがかわいい。みかんを食べている様子はない。第一に、四十雀はみかんを食べるのだろうか。

東風吹かばの紅梅
我が家の紅梅も、東風を忘れず満開になった。


日常スケッチ | 15:11:52 | Trackback(0) | Comments(0)
変な町さいたま市
 昨日と今日は雨と雪まじりの日なので、図書館に行かなかった。昨日は、新宿に映画を見に行き(その映画についてはブログに書いている)、今日は日暮里にチュニジア料理を食べにいった。もちろんねらいはクスクスだ。味は ? ですって。クスクスの量や値段、ワインの値段はフランスと比べて高いのは仕方ないが、味はそれなりに楽しめた。最初は取っ付きにくいかと思われたチュニジア人のギャルソンも、別れ際にはフランス語で挨拶をしたりすると、打ち解けてきて、頬のこすり合いこそしなかったが、なんだか10年前からの知り合いのようになった(少しオーバーか)。

クスクスの写真            キャベツの写真
クスクスと付け出しのようなサラダ、ワインのカラフ(日本の店ではしばしばカラフェと書かれているが、正確にはカラフ)

 2月、3月はほとんど休みの日々だ。だから、生活のリズムを作らなくてはやっていられない。そういうわけで、高校生や一般人で込み合っている日曜と、休館日の月曜日をのぞいて、午後は図書館に通っている。図書館は、我が家から自転車で10分程のところにあり、風の強い日は大変だが、適度な運動になると信じて今まではほぼ全出席している。


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日常スケッチ | 18:44:22 | Trackback(0) | Comments(0)
『バベルの学校』(Julie Bertuccelli監督)
 映画『バベルの学校』(ジュリー・ベルトゥチェリ監督)を見る。
 パリ10区にある中学校、そこの「適応クラス」に集まった24人の中学生が主人公だ。「適応クラス」とは、様々な理由でフランスにやってきた移民の子供たちがフランス語を集中的に覚えるクラスだ。ある程度のフランス語能力を身につけないと、リセ(高等学校)に進むことができない。驚いたことに、その24人は20の国から来た子供たちだ。セルビア、ブラジル、アイルランド、ウクライナ、モロッコ、ギニア、セネガル、中国、エジプト・・・

https://www.youtube.com/watch?v=j7Df_3TcbNU


 そうだ、「バベル」とは様々な言葉が行き交い、通じないさまを表わしている。そのバラバラの子供たちが、一人一人の子供と保護者に向き合い、粘り強く指導するブリジット先生を通して、フランス語という共通言語を獲得し、たどたどしい会話でも心を通わせ合うようになる。学期末には、みんな夢を片手に巣立っていけるまでに成長する感動的なドキュメント映画だった。

バベルの学校
写真の娘ではないが、
医者になるのが夢だというセネガル出身のラマがいる。彼女はもう一度第2学年をするように先生に言われる。
クラスで最も年上(15歳)の彼女にとって、辛い宣告だ。
だが、数学も物理も化学も、しっかり勉強しなければ夢に近づけない。
がんばれラマ。写真はパンフレットより

 移民の多いフランスでは、同化主義を標榜し、フランスの価値観を身につけてもらおうと、このような教育に力を入れている。しかし、この映画で語っているのは、子供たちがフランス語を獲得しつつ、母語をも大切にし、異なった様々な価値観をそれぞれ持つことの重要性だ。宗教、言語、文化などなどの「違い」の重要性と言ってもいいだろう。
 それにしても、画一化された日本からはずいぶんと遠い話だ。
 ちなみに、原題は「La cour de Babel (バベルの中庭)」だ。節目節目で、雪のつもった中庭、花の散った中庭など季節を表わす庭の映像を流していた。頑までに学校以外のパリの映像をいれず、華やかで美しい景色が排除されていた。これは、以前見た『パリ20区、僕たちの学校』と同様だった。概してフランス人の作る映画は、この手のものが多い。

その他 | 15:52:37 | Trackback(0) | Comments(0)
甥の死
 今年は、国際的にも国内的にも悲しい事件が多発し、嫌な年だと以前書いたが、今度は身内の死に見舞われた。甥の死。記憶に閉じ込めたいので、以下簡単に三日間の日記にした。

2月4日(水) 晴
 朝7時頃、朝食を始めようとテーブルに着くと、突然電話のベルが鳴る。朝の電話は恐ろしい。マンションの宣伝も、保険の勧誘もこんな時間にくることはないからだ。吉報など、もちろんある筈もない。第1コールで同じ思いの妻と顔を見合わせ、第2コールで妻が受話器を取る。前々日、肺がんの手術を明日に控えた高校の同級生に電話をしたばかりだったので、つい弱気になってしまった。
 「M君が危篤なんですって、お義兄さんから」
 ずきんと胸がなり、受話器を受け取る。M君とは、3年前から闘病生活をしている甥のことだ。この正月の元日、退院をして自宅療養しているM君を見たばかりだったので、元気になったのだろうと楽観していた。そうだ、M君のこともあったのだ。電話口の声はその父親、つまり兄の悲痛な声だった。
 受話器を置いて、川越の病院に駆けつけた。


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日常スケッチ | 11:31:15 | Trackback(0) | Comments(0)
今年の顔になるか、高貴なエリート
 年末から年始にかけて、「2015年が良い年になりますように」という年賀状を、いつまでも若い旧友やかつての教え子たちの顔を思い浮かべながら、何枚書いただろうか。そのとき、今年の1月がこんなかたちで始まるとは思いもよらなかった。パリでの新聞社襲撃事件、スーパー立てこもり事件、それだけでも十分忌まわしいのに、その後間もなく日本人人質事件が続き日本もテロの標的にされて、結局は最悪の結末を迎えて事件そのものは終結した。だが、その間も、リビア、シナイ半島、パキスタンで恐ろしいテロ事件が続発したことも忘れてはならない。この血塗られた1月を演出したのは他でもない「ISIL(イスラム国)」もしくはそれを支援あるいはそこと競り合いする過激なテロ組織だ。これらの組織はまだ健在だから、これからどんな行動をとるか予断を許さない。
 後期試験が終わり、一息ついたところでもあったので、その間テレビ報道に釘付けになってしまった。2001年の9.11やイラク戦争のときもそうだったが、このような大事件が起こると、テレビのニュース番組にさまざまな評論家や学者・専門家が、まるで雨後のタケノコのように大挙して出演し、知識を開陳し持論を展開する。彼らはいわば、お茶の間の顔にさえなる。もしかしたら、どこかで人気投票やケチのつけ合いが行われているかもしれない。それどころか、かつてのオウム真理教のときのように、こういう解説者・評論家たちの中から国会議員が登場するかもしれない。

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雑感 | 18:39:59 | Trackback(0) | Comments(0)
悲憤の果て
 日本中、いや世界中が固唾を呑んで、後藤さんの無事を祈っていたのだが、それもむなしく殺害されてしまった。この殺人はひとつ後藤さんだけの問題ではない。以前からそうだったが、かれらの蛮行は人類への挑戦、地球の生命に対する軽蔑以外の何ものでもない。そのことをまた新たに見せつけてくれたわけだ。
 もちろん、イスラームの教義などとはおよそ関係のないものだ。どんな宗教ともどんな哲学とも隔絶された、虚無的な心の陥穽のようなものだ。あのような人殺しと恐怖で、本当に国ができると考えているのだろうか。

 かつてフランス大革命のとき、かのロベスピエールは恐怖(terreur)で、難局を乗り切ろうとした。

" la vertu sans laquelle la terreur est funeste, la terreur sans laquelle la vertu est impuissante".
「美徳がなければ恐怖は忌まわしいものであり、恐怖がなければ美徳は無力である」(ロベスピエール)

 恐怖政治の行く末は、歴史が示している。彼はまたたくまに失脚して、自らもギロチンの露となった。それにしても彼の恐怖政治は、彼自身廉潔の士であるように、ひとつの筋を通そうとしていた。あのISILのような、拉致、人質、自爆テロ、脅迫等々のような卑劣なまねをしたわけではなかった。彼を失脚させたのは、清廉すぎたことだ。テルミドールの反動を引き起こして、ロベスピエール派の首をはねたバラスやフーシェなどのような連中は、金銭や快楽に目ざとく、ロベスピエールに告発されるのを恐れたからだ。
 とはいえ、恐怖を持ってしては何人も民心を安んじることは絶対にできない。そのことをロベスピエールの恐怖(テルール)は証明している。ちなみに、これが「テロ」の語源だ。

雑感 | 15:52:44 | Trackback(0) | Comments(0)