大震災から一年
東日本大震災から一年が経った。大震災で犠牲となられた方々に黙祷を捧げます。
大震災から一年をむかえ、メディアには「絆、一致団結、心は一つ、友だち、助け合おう、教訓を忘れずに等、こうした言葉が氾濫している。またしても「みんな、みんな」の合唱である。
3月11日のテレビ番組欄はどこも大震災関連の特集で埋まっている。
何故か唯一、テレビ東京だけが「通常運転」である。特集も無い。この「快挙」に私は賞賛したい。何か事が起きると「大本営化」するメディアに不気味なものを感じている私としては、救われる思いがする。テレビ東京は今後もこの姿勢を貫いて欲しい。
私の購読している読売新聞の第一面の見出しには「時は流ない。雪のように降り積もる。人はやさしくなったか。賢くなったか」とある。
東京に住む私にとっての大震災とは。
1.大手新聞、テレビ等、大手メディアの偽善と破廉恥さが改めて発揮された。
2.「エーシー!」とかのCMだけがどのチャンネルでも終日、何日も延々と流れる不気味さ。
3.「大手スポンサー東電の原発問題」でメディアと原発専門家が見せた醜態。
4.誰もが自粛、自粛と挙国一致体制の不気味さ。
5.それが三ヶ月もすると、テレビは再び下らぬおバカ番組を垂れ流し始めた。
6.地震に対する交通機関の想像以上の脆弱さ。膨大な人数の帰宅難民。
7.ティッシュペーパー、ペットボトル等が東京の商店から無くなる奇怪現象と買い占めをした主婦の自慢話。
8.福島県民に対する偏見と差別。それを助長する一部の煽り学者。
9.被災地の瓦礫や薪の受け入れを拒否する自治体や地元住民の存在。
10.原発推進、容認、脱原発、反原発と、原発問題はヒステリー状態。
こうして見ると読売新聞の「人はやさしくなったか。賢くなったか」がいかに虚しく響くことか。
7.と8.と9.に見るように、どんなに美しい言葉で飾った所で、人間はしょせんは自己中心なのだ。
義援金で被災者への「やさしさ。絆」があると思える感覚のお手軽さ。
自己中心が悪いのではない。私は7.8.9.のような人間を批判する資格もないし、そんな意見もない。
そうではなく、誰もが自己中心なのだから美辞麗句を並べ、善人ぶるのを止めればいいのだ。
人が花見に行くのを不謹慎であるかのような言動を止めればいい。
「挙国一致」体制から外れる人間を村八分にするような雰囲気を作らなければいい。
小者と化した政治家や無責任役人、欺瞞メディアを育てたのは我々日本の国民の責任もあると思う。
我々は政治家を非難するけど、そのような政治家に喜んで投票する国民が現実に沢山いるんだから。
テレビの番組が下らない、と非難するけど、そのような番組を喜んで見る国民が現実に沢山いるんだから。
「大震災の教訓を忘れるな」とメディアは曰うが、そんなこと、被災者が忘れるだろうか?
「教訓」を一度も生かさず、忘れるのは、メディアの方ではないのか?
「人はやさしくなったか。賢くなったか」とは、メディアに対する「教訓」ではないのか?
- 関連記事
2012.03.11 | | コメント(9) | トラックバック(0) | 政治・社会