ネットと愛国とは
![]() | ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book) (2012/04/18) 安田 浩一 商品詳細を見る |
「在特会」とは「在日特権を許さない市民の会」のことである。特権とは「特定の者だけに認められた優越的な権利」である。それでは在日特権、すなわち「在日外国人だけに認められた優越的な権利」とは何か? 彼らが「許さじ」として挙げているのは「特別永住資格」「朝鮮学校補助金交付」「生活保護優遇」「通名制度」などである。
著者の安田氏は「まったく賛同できないが,百歩譲って,仮にこの4つを,在特会が主張するとおり『在日特権だけに認められた優越的な権利』であるとして」も,「これら4つの『特権』のどの部分を憎悪しているのか」,それ「ほどまでにに忌むべきものなの」か「どうしても分からない」と首をかしげている。
私なら自分の心に本音で問う。オマエは特権で「優遇された」在日韓国・朝鮮人が本当に羨ましいか?在日は優雅な生活でバカンスを楽しんでいるのか?なろうことなら、日本人ではなく「在日」に生まれたかったと本当に思うか?
答えは「NO」だ。いや、殆どの日本人は在日に生まれ変わりたいと思うまい。何故かは言うまでもあるまい。
その「羨ましい存在」「恵まれた存在」とは真反対な在日を彼等は何故にここまで激しく攻撃し、憎むのだろうか?
この本から感じるのは、在特会はとにかく「朝鮮系」が嫌いでしかたない。そのエネルギーは凄まじい。例えば「パチンコ店をみれば『日本人から金を奪うな』と看板を蹴り上げる」「焼き肉店のまえを通りすぎるさいには〈キムチ臭い〉と鼻をつまむ」「朝鮮人は出て行け。半島に帰れ…」
安田氏が取材した在特会のメンバー達だが、恐ろしいほど「普通の人」「穏やかな人」「普通のサラリーマン・OL」が多いのだ。しかも、ネット上の書き込み等から彼等の活動は始まっている。ネット上によく見られる、韓国人や在日韓国・朝鮮人へのレイシズムに満ちた罵りや、著しいゼノフォビアの心証風景は「私達の隣の人達の姿」である。街宣車に乗り、戦闘服に身を包み、コワモテで騒ぐ従来の右翼のイメージとはここが大きな違いだろう。
直接「在日」から被害を受けたのなら、彼等の動機もまだ理解出来る。何がここまで彼等を動かすのだろうか?
「漠然とした不安や不満」「誰かに向けざるを得ない漠然とした怒りや無力感」…これらが何かのキッカケで「身近にいる弱者」に向かうか、遠くの強大な権力に向うかの違い、とは良く言われる所だが、こうした如何にも穿った評論家的な見方だけで説明が尽くせるものではない。
彼等のデモ活動も、フジテレビへのデモも、反・脱原発デモも、もしかすると、ほんの少しのネジの掛け違いでどちらに向うかが決まるのかもしれない。
私は一度、芝公園で行われた反・脱原発デモに参加したことがある。いずれのデモにも共通するのは「世の中に対する激しい怒り」と思う。こうした活動は始めようとして始められるものではないし、止めようとして止められるものではない。
北朝鮮による拉致問題に始まり、竹島問題等により、日本人の韓国・北朝鮮に対する悪印象・嫌悪感は増すばかりである。在特会にとっては「追い風」であろう。
また、折り悪しく、キム・ヨナ選手がこうした時期に登場し、日本で最も人気の高い浅田選手を凌ぐ強さを発揮した。例の韓国嫌いや在日嫌いの連中がこれに乗じて跳梁跋扈している。彼女がソチ五輪を目指すとの発表に、今からウンザリしているフィギュアファンは少なくない。
ウンザリしているのはヨナ嫌いの人もそうでない人も同じなのだが…。
所で、在特会もフジテレへの抗議デモを企画した人達も、日の丸を掲げて歩く。日の丸と君が代と愛国心は共通のキーワードなようだ。それに続く言葉は当然「反日」「売国」…。
君が代と国旗掲揚を強制し、違反者をビシビシ処罰する維新の会が「国民の支持と期待を受ける」のも無理もない。
安田氏が著書の中で次の格言を挙げている。
「18世紀のイギリスの文学者、サミュエル・ジョンソンは『愛国心は卑怯者の最後の隠れ家である』という有名な警句を残した。だが、本当にそうなのか。在特会を見ている限りにおいて、愛国心とは寂しき者たちの最後の拠り所ではないかと感じてもしまうのだ」
安田氏に倣い、私は次の言葉を引用しよう。「右翼」が英雄視する三島由紀夫の言葉である。私はとても共鳴している。
…実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。 何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッとするやうな感じをおぼえる。この、好かない、といふ意味は、 一部の神経質な人たちが愛国心といふ言葉から感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがつてゐる。 ただ何となく虫が好かず、さういふ言葉には、できることならソッポを向いてゐたいのである。
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。 反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。 では、どういふ言葉が好きなのかときかれると、去就に迷ふのである。愛国心の「愛」の字が私はきらひである。 自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に 対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。
中略…ふたたび愛国心の問題にかへると、愛国心は国境を以て閉ざされた愛が、「愛」といふ言葉で普遍的な擬装を してゐて、それがただちに人類愛につながつたり、アメリカ人もフランス人も日本人も愛国心においては 変りがない、といふ風に大ざつぱに普遍化されたりする。
これはどうもをかしい。もし愛国心が国境のところで終るものならば、それぞれの国の愛国心は、人類普遍の 感情に基づくものではなくて、辛うじて類推で結びつくものだと言はなくてはならぬ。アメリカ人の愛国心と 日本人の愛国心が全く同種のものならば、何だつて日米戦争が起つたのであらう。「愛国心」といふ言葉は、 この種の陥穽を含んでゐる。
中略… 日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛にお株をとられてしまつたが、 「大和魂」で十分ではないか…。
三島由紀夫「愛国心」より
公務員や公立学校の職員に限らず、近い将来、私立学校にも強制をする法律が出来るのではないか、との想像は決してマンガレベルの妄想ではあるまい。
国が躍起になって「愛国心」を強要した時代、庶民が決して良い思いをしなかったのが過去の歴史ではなかったか。
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2012.07.07 | | コメント(4) | トラックバック(0) | 政治・社会