ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
(1988/08)
山本 七平
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(前回のつづき)
もちろん不確定要素の皆無な対象はないし、最初にのべたように精神力といった一種の力の存在は否定できない。
しかしそれは極力正確に確定要素に換算しなおすべき対象である。
マッカーサーが「天皇は十二個師団に相当する」と言ったそうだが、私はこの言葉を他の人のように解さない。
彼はただ、天皇という不確定要素を一応十二個師団という確定要素に換算しただけだと思う。
この換算は正しいかどうか知らない。
しかし、日本と戦う場合、その総兵力を計算するにあたって、天皇という不確定要素を十二個師団に換算して、それをプラスして計画をたてるべきだという事実をのべたにすぎないと思う。
これが不確定要素の確定要素への換算と組み入れということで、この場合の問題はただ、この計算が正しいかどうかということだけである。
だが天皇や精神力をこのように師団数に換算した日本の軍人を私は知らない。
彼らにはそういう発想は全くなかった。
またスターリンが「法皇は何個師団もっていますか」と質問したのも、おそらくその趣旨は、その影響力を師団に換算すれば何個師団ですか、の意味だと思う。
そして毛沢東にもこの発想が絶えず出てくるのである。
そしてそれが当然だと私は思う。
彼らは絶対に「不確定要素」対「確定要素」などという無意味なバランスシートを作りはしない。
しかし昭和十七年、私か陸軍二等兵であったころ、こういう発想は、全くなかった。
不確定要素を極力、確定要素に換算しようなどという考えは文字通り皆無で、すべての人が「精神力」対「武器」、「民衆のもえたぎるエネルギー」対「武器」という発想を、当然自明のこととしていた。
もちろん新聞人とて例外でない。
内心おかしいと思った人は確かにいたであろう。
しかし前述のように、この発想とそれに基づく思考図式は、議論の対象たりえないから、何とも出来ないのである。
一体なぜこの発想がこんなに完全に浸透し定着したのだろう。
多くの人は日露戦争の影響をあげている。
日露戦争の”勝利”を「精神力」対「強大な武器」という安易な形で捕え、戦勝に酔って厳密な検討を忘れ、それをそのままズルズルと太平洋戦争までひっぱって来たからだという。
確かに日本軍は、日露戦争から日華事変まで、実質的には戦争をしていないから、そういえるかも知れない。
さらに徴兵制度によって軍隊が一種の教育機関=成人学校のようになり、また在郷軍人の影響などもあって、この思考図式が全日本人に浸透して、他の考え方をさせないまでになった、ともいわれる。
しかし理由はそれだけではあるまい。
日本は、確定要素だけで正確に計算したら、昔も今も、絶対に戦争が不可能な国のはずである。
従って戦争を考える場合、不可避的にこの発想の中にはまり込んでしまうからだろう。
そして、そのため日中の戦争を考えた場合も、知らず知らずにこの思考図式を裏返して日中にあてはめてしまうのである。
しかし私は、この発想は非常に危険だと思う。
というのは、日本人に再び戦争をさせる思考図式があるとすれば、それは、この発想からしか生れないからであり、こう考えない限り、「いくさはデケン」からである。
この裏返したものをまた裏返せば、日本の「民衆のもえたぎるエネルギー」が、どこかの国の「強大な武器」を圧倒しうると考えることが可能になるからである。
従ってこの思考図式を、どこの国にあてはめようと、日本対ロシアであろうと、中国対日本であろうと、北ヴェトナム対アメリカであろうと、その図式は、いつしか自らにあてはまるであろう。
というのは、この図式はもともと日本人のものであり、日本人が勝手にその図式を他国にあてはめているにすぎないからである。
いわば、どこかの国に日本を仮託しているにすぎないから、いずれは自らに帰ってくるはずである。
そのとき一体どうなるか――。
それは無駄な心配といわれるなら大変に結構だし、体験者の「偏見」ならそれはそれでよい、「飛行機はそう落ちるもんじゃありませんよ」かも知れぬ。
しかし、全くそれと意識せずに冷戦を予告していた場合があったように、それを口にしている人がそれと知らずに熱戦を予告している場合があっても、それは私にとっては不思議ではない。
そして勝手に仮託したり、裏返しにして投影したりした国々の発想自体は、日本人のこの発想とはおそらく別だと思う。
新井氏は「深い反省からこそ多くのものが生れる」と言っておられる。
心から賛成する。
しかしそれは、日本を戦争にと向わせた基本的発想とそれに基づく思考図式を徹底的に検討すると共に、そういう思考図式を現実にあてはめて強行されるとどのような恐るべき惨劇を引き起したかをあらゆる面で調べあげることであっても、この思考図式を裏返して日中関係にあてはめることではないと思う。
私には、この裏返しあてはめのケースが非常に多いように思われるので、いずれ個々に例をあげて、その発想と思考図式を検討してみたいと思うが、その前に、新井氏の反論の中で、もう一つ検討しておかねばならぬ点は、氏のあげている確定要素すら果して事実かどうかという問題である。
氏のバランスシートは、「強大な武器をもった日本」という確定要素と、「民衆のもえたぎるエネルギー」という不確定要素との対比という形になっているが、この「強大な武器をもった日本」という前提は正しいのか。
戦争中、新聞は確かに「強大な武器をもつ、無敵の精鋭日本軍」という虚像を作りあげた。
しかし虚像はあくまでも虚像であって事実ではない。
この自らが勝手に作りあげた虚像をあくまでも事実で押し通し、それを一方的に「確定要素」にしてしまっては、そのバランスシートがいかに帳尻が合っていても、それは所詮恣意的に帳尻を合わせた「虚像」と「不確定要素」の対比にすぎない。
それは無意味である。
そこでまず次に、日本軍なるものの中で「精神力」という一種の力をもっていたはずの人とその人がもっていた「強大な武器」の実体が実際はどういうものであったかを順次に検討していきたいと思う。
が、その前にまず虚像と実像を簡単に分別しておきたいと思う。
これをしておかないと、おそらく何の話も通じないであろうから。
(ある異常体験者の偏見の章/終了)
【引用元:ある異常体験者の偏見/ある異常体験者の偏見/P24~】
私は上記の記述を読むと、いつも自主独立とか反米を気安く叫ぶ人たちを連想します。
果たしてこの人たちは、確定要素を計算できる能力があるのか?非常に疑問に思うのです。
特に、左翼と言うのは反米がデフォルトですから、必然的に「自主独立」とならざるを得ないと思うのですが、彼らの「自主独立」とは、何の覚悟も痛みも伴わない「お友達みんなとお手手つないで仲良くしましょ」というだけの”オママゴト”レベルなんですよね。これでは、確定要素なぞ最初から計算外であるのでしょうけど。
そういう人たちほど「平和」を叫ぶのだから、支離滅裂もいいところです。
日本の確定要素を無視して平和を叫ぶことは、再び日本に戦争させる「思考図式」のひとつといえるのではないでしょうか。
一方、右翼の側にも、反米的な人がいますが、そうした人たちほど「自主独立・核武装」を安易に唱えます。
こうした人たちも、日本の確定要素を正しく把握しているとはとても思えない。
いくら核武装しようが、海外との交易路が断たれたら日本は干上がるという前提には変わりが無いのに…。
それと、自主独立とは周り全てを敵に廻す覚悟が無ければ到底かなわないものですが、それを唱えている当人にその覚悟があるとはとても思えないところも不安ですね。
結局のところ、日本が生きていく道は唯一つ、現在の自由貿易体制を維持発展させていくしかないはずなのです。
そのためには、過去記事「鬱屈する反米感情をコントロールしないと危ない。」において山本七平の記述を紹介したように、米国の矛盾極まりない無理難題な要求をある程度は受け入れる”覚悟”をしておく必要がどうしても出てきます。
以下、その記述(引用元:危機の日本人)を抜粋引用して終わります。
危機の日本人―日本人の原像と未来 (カドカワブックス)
(1986/10)
山本 七平
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◆一貫性のないアメリカの主張
確かに、アメリカはアメリカの債務国で赤字国である国に対しては「お前の責任だから何とかしろ」と要求しつつ、一方、アメリカの債権国で黒字国である日本に対して、「お前の方でこの黒字を何とか解消しろ」という。
これはまことに得手勝手な話であって、その態度には論理的な一貫性はない。
だが、この矛盾を徹底的に追究したらどうなるであろうか。
もちろん双方にさまざまな言い分があるであろうが、要約すればそのときの相手の言い分は、「そう主張するなら、お前は自由主義世界の安全と秩序に全責任を負う『御威光国』になれ」ということ、簡単にいえばアメリカの肩がわりをせよということである。
だが日本はその責任を負う気はないし、負うことも不可能である。
まことに残念なことだが、「今の掟」では、経済力だけでは御威光国にはなれず、軍事力を持つことを要請される。
では日本はアメリカの軍事力を肩がわりする気はあるのか。
全然ないし、第一それは不可能であり、そんなことをすれば経済的に破綻して、元も子もなくしてしまう。
ということは、自らの責任において秩序を保持し、それをあたかも自然的環境のように自分の責任で守る意志は日本にないということである。
その場合は「御無理、御もっとも」として、御威光国の秩序維持に協力すること以外に、方法がない。
日本は決して過去の失敗を繰り返してはならない。
「御威光国」は経済力と軍事力のみならず科学技術をも含めた総合的国力を要請される。
過去の日本は経済力なしに、軍事力だけで「御威光国」になれると夢想した。
否、妄想をしたと言ってよい。
現在もしその逆、すなわち軍事力なく経済力だけで「御威光国」になれると妄想したら、同じ失敗をくりかえすであろう。
もちろん、そんな妄想は今の日本人には毛頭ない、という人もあろうし、事実、ないのかも知れない。
しかし、経済力は持っても政治には一切無関係といいうるのは個人のみであって、国家はそうはいかない。
というのは、自らにその意志がなくても、日本の経済力がアメリカの御威光を損ずる結果になれば、日本がまるで自然的環境のように依存している現在の体制を崩壊させる恐れがあるからである。
もちろん、崩壊させて、自らの意志に基づく新しい体制を樹立する意志と計画があるなら別だが、そうでないなら、自らも発展しつつ同時に、その発展を可能にしている政治的・経済的環境を維持していくにはどうすべきかを考えるべきで、そのためには、実に矛盾した相手の要求を受け入れる覚悟をしておくことが必要であろう。
というのはその矛盾は、実は日本に内在しているからである。
だがこういっただけで反発を生ずるかも知れぬ。
というのはこういう考え方は、日本人の伝統的な機能至上主義的発想とは相容れない。
というのは、機能すること自体に価値を置くから、最大限に機能を発揮してきたことを一転して否定され、その成果も努力も無にされることに日本人は耐えられない。
それまで高く評価されていたことが、一転して罪悪視されるという結果を招くことを、日本人は理解しないし、しようともしない。
また、相手のきわめて非論理的な態度に、強者の圧力を感じて釈然としないが、それに変る自らの提案もしない。
確かにベン=アミ・シロニー教授の指摘するように、アメリカの態度はまことに論理的に一貫しないのである。
ではそれに応ずるのはなぜか。
過去において似たような問題はしばしば出て来ているが、その間、戦前・戦後を通じて一貫しているのが、次の言葉であろう。
政府の弱腰、アメリカベったり、対米媚態外交、等々々。
だがそういいながら多くの場合、日本は屈伏する。
すると屈伏の連続が屈辱感となり、それがある程度たまって来ると、どこかで爆発する。
これは簡単にいえば、そのとき自分がなぜそれをしなければならないかを明確に意識せずに、「無理難題に屈伏させられた」「外圧に敗れた」と受けとっても「自分がそれによって発展して来た環境を、その発展のゆえに破壊することがあってはならない」と考えないからである。
ではそう考えずに、屈伏・屈伏の屈辱感から、あくまでも屈伏せず、外圧をはねのけたらどうなるか。
自らがそれに即応することによって維持・発展してきた環境を自ら破壊して、自らも崩壊する結果になってしまうことになる。
◆論争をしない日本
もっとも現代の日本にはまだその徴候は現われていない。
現われていないから安心だと言えるであろうか。
実はそれが言えないのである。
ベン=アミ・シロニー教授の言う通りアメリカの主張は理不尽である。
こういう場合ユダヤ人なら徹底して相手に論争を挑むであろう。
そして一つでも譲歩すれば、別の面で相手に何かを譲歩さす。
だが日本人はそれをしない。
またはっきり言って出来ない。
シロニー教授のように、相手の理不尽を相手の論理でつかむという術にたけていないからである。
彼らはこれを反射的に行いうるが、それは伝統の違いであって、日本人にこのまねはできない。
しかし日本人は、言葉にはならなくてもカンは鋭いから、何となく、納得できないという気持は抱いている。
だが、それがしだいに蓄積して来ると、いつかは爆発する。
日本人がよく口にする「今度という今度はがまんならない」が出てくるのである。
これが出てくるのは非常に危険だから、以上のように整理して、日本が何が故に理不尽な要求に従わねばならぬかを、はっきり納得しておく必要があるであろう。
【引用元:危機の日本人/第四章 未来への課題/P200~】
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◆ある異常体験者の偏見【その1】~日本を破滅に追い込んだ「思考図式」~
◆ある異常体験者の偏見【その2】~二通りある「負けるべくして負けた日本」~
◆ある異常体験者の偏見【その3】~戦争を引き起こす『確定要素』対『不確定要素』という構図~
◆ある異常体験者の偏見【その4】~砲兵が予告した「冷戦時代」の到来~
◆ある異常体験者の偏見【その5】~「精神力」対「武器」という発想→「地獄の責め苦」~
◆鬱屈する反米感情をコントロールしないと危ない。
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