危機の日本人 (角川oneテーマ21)
(2006/04)
山本 七平
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(~前回からの続き)
前にある外国人との会合で私は次のような要旨の話をした。
「過去に於て日本人は、少々不思議な経験をした。というのはある時期まで日本の軍事力は欧米の賞讃の的であった。
セオドア・ルーズベルト大統領は東郷元帥に会って最大の賞讃をしたし、また私は、所用があって、かつてマッカーサー司令部のあった第一生命を訪れたとき、不思議な経験をした。
第一生命の会長室がマッカーサーの執務室であり、その部屋は今は使われず、記念のため当時のままに保存されている。
マッカーサーの椅子に座ってみませんかと言われ、私は面白半分に座って部屋の中を見まわした。
何の装飾もない、実に質素な部屋である。
マッカーサーが執務した時代と全然変わっていませんか、という私の質問に、昔のことに詳しい管理人がいった。
彼は壁の一角を指さしながら、ただ一つ違う点はあそこに乃木大将の写真が掲げられていたことです、と。私は少々驚いていった。
だれがそれを取りはずしたのですか、と。
相手は言った。
その写真は第一生命のものでなく、マッカーサー大元帥がお持ちになったのですから、持ってお帰りになったのでしょう、と。
ことによったら、アメリカ人記者ウオッシュボーンの『乃木大将』で関心をもって調べた結果であろう。
いずれにせよ、ウオッシュボーンの賞讃記事を読めば、だれでも関心をもつ、それが、ある時点から非難と憎悪の対象となった。
◆一貫して借全国だった日本
こういう変化があった一方、明治から一貫して、日本の経済は非難の対象ではなかった。
もっとも綿業に於ては主としてイギリスからダンピングという非難があったが、イギリスの専門家は逆に、ダンピングでないと日本を弁護している。
確かに輸出攻勢への非難は一部にあったとはいえ、日本の経済政策はおおむね、好感をもって迎えられた。
理由は簡単である。
日本は外債を元利とも常に完全に期日通りに返済した唯一の国だったからである。
日本は大変な資本輸入国であり借金国であったが、カントリー・リスクは皆無の国だったといってよい。
この点では常に欧米の資本輸出国の優等生であった。
だがこれが日本にとって、どれほどの難事業であったか、理解している欧米人は殆どいないであろう。
なるほど今では欧米人は、自分たちは常に公正に振舞っていたかのような額をしている。
だが安政五年(一八五八年)にアメリカが、悪名高い砲艦外交によって日本に押しつけた日米通商航海条約は、少なくともわれわれの目から見れば公正なものではない。
日本は関税自主権を奪われ、一方的に、従量・従価はアメリカが都合のよい方を採用することで、最高五パーセントと定められていた。
これは実質的には関税ゼロに等しい。
当時の日本には何の近代産業もない。
そこへすでに工業化した先進国の製品が無関税でなだれ込めば、日本の伝統産業は潰滅するか、産業の近代化は不可能になる。
後発の国は、保護関税で先進国に対抗して自国の産業を育成しようとする。
現に、アメリカもドイツもこれをやっている。
だが日本はそれを封じられた。
その中で日本が近代化するのは、不可能といってよかった。
過去において、こういう仕打ちをしたということは忘れないでほしい。
幸いに日本には絹があった。
この外貸手取率百パーセントという屋根裏の牧場の製品の輸出高は、一時は、日本国政府の予算の総額に匹敵したのである。
日本は細い絹の糸にすがって近代化の進を切り開いたと言っても過言ではない。
だが、以上の状況下における急速な近代化は、多額の資本の輸入が必要であった。
簡単に言えば日本は安政五年以来、ほぼ一貫して借金国だったわけである。
もちろん例外的な一時期はあったが、戦後にまた過去の蓄積のすべては壊滅してゼロにもどり、借金で再出発した。
その間、諸外国の日本への基本的な要求は、不良債務国になるなということであった。
◆諸外国の「強制」から生まれた国の「体質」
この点で日本人は、先進国の優等生だったといえる。
実に安政五年以来、日本は内需を抑制して輸出にはげみ、ひたすら借金を返しつづけたわけである。
現在、先進国が、後発の債務国に要求していることは、内需を抑制して輸出にはげみ、債務を返済せよということである。
日本はそんな要求はされなくとも、内需を抑制して輸出にはげみ、とどこおることなく、債務を元利とも返済しつづけてきた。
この間の日本の内需抑制・輸出先行型の経済体制は、どこの国も基本的には非難しなかったし、非難しなかったことは別に不思議ではない。
これは諸外国の要請、また諸外国が日本に強制したことによって発生した体質で、実に一二〇年以上つづいた体質である。
欧米先進国の都合でこの体質を変えよというのはまことに勝手な要求だと私は思うが、日本は、大勢に順応しても自己主張をしない国だから、変えるであろう。
だが一二〇年以上つづいた体制を一気に変えろというのは少々無理である。
私に言わせれば、十年かかっても不思議ではない。
以上に述べた現象は簡単にいえば、日本がその順境に順応することによって、逆にその環境を破壊しそうになっているという状態であり、日本の伝統的な行き方は常にこの自己矛盾をはらんでいる。
私がこういったとき、著名なイギリスの日本学者が、「過去のことはともかくとして、将来のことを検討しましょう」といった。
私はそれに対していった。
「その主張は少々おかしい。
過去のことを忘れないのはあなた方であって、われわれではない。
殆どすべての日本人は、いま私が述べたような過去のことは、とうの昔に忘れている。
そして、以上のような主張もせず、いかに現在の壮況に適応すべきかに腐心している。
欧米が現在の態勢をたてなおすのに時を貸せというなら、同じように日本も、一二〇年もつづけざるを得なかった態勢を変えるのに時を貸せと言ってよいはずである」
◆成功しすぎた異端-日本人と日本経済
残念ながら日本は「自由圈の御威光」ではないし、自らが「御威光」になる気もなく、もっと呑気で責任を負う義務がなくかつ高収入を得られるナンバー2、いわば「副社長」の位置に安住したいなら、「崔家門の知恵(註)」に学ぶべきである。
(註)…拙記事『昔から「機能&経済」至上主義だった日本人』参照
だが、その場合、きわめて不合理な要求をされることは覚悟せねばなるまい。
ヘブル大学の日本学者ペン=アミ・シロニー教授は、『誤訳される日本』(光文社)の中で次のような面白い指摘をしている。
「貿易不均衡を生じた場合、赤字を出している側がその不均衡を立て直すというのが慣例になっていた」と。
これは今でも慣例であって、債務国でありかつ貿易赤字国である国に対しては、先進国・債権国は、その不均衡を立て直せと、厳しく要求している。
だが日本はこの点で奇妙な地位に置かれていると氏は指摘している。
「一九七三年のオイル・ショックに伴い、日本の対米赤字は一〇〇億ドルに膨れ上がった。
しかし、誰一人としてアメリカを非難する者はいなかった。
それは、日本のように資源のない国は、貿易不均衡のあおりを受けても仕方がないのだと考えられたからである。
つまり、日本自身の問題であって、他の誰の責任でもないということなのだ。
時は移って一九八三年、日本の対米黒字は二〇〇億ドルにも上った。
すると、突然にアメリカがわめき始めた。
購買力では、一九八三年の二〇〇億ドルと一九七三年の一〇〇億ドルは全く同じにもかかわらず……」
大変に面白い指摘である。
シロニー教授は、ここから、先進資本主義国における、成功しすぎた異端である日本人とユダヤ人の対比という問題に進む。
それは確かに一つの捉え方であり、その点に関心のある方は前掲書を読んでいただくとして、私は別の面からこの問題を捉えてみたいと思う。
◆一貫性のないアメリカの主張
確かに、アメリカはアメリカの債務国で赤字国である国に対しては「お前の責任だから何とかしろ」と要求しつつ、一方、アメリカの債権国で黒字国である日本に対して、「お前の方でこの黒字を何とか解消しろ」という。
これはまことに得手勝手な話であって、その態度には論理的な一貫性はない。
だが、この矛盾を徹底的に追究したらどうなるであろうか。
もちろん双方にさまざまな言い分があるであろうが、要約すればそのときの相手の言い分は、「そう主張するなら、お前は自由主義世界の安全と秩序に全責任を負う『御威光国』になれ」ということ、簡単にいえばアメリカの肩がわりをせよということである。
だが日本はその責任を負う気はないし、負うことも不可能である。
まことに残念なことだが、「今の掟」では、経済力だけでは御威光国にはなれず、軍事力を持つことを要請される。
では日本はアメリカの軍事力を肩がわりする気はあるのか。
全然ないし、第一それは不可能であり、そんなことをすれば経済的に破綻して、元も子もなくしてしまう。
ということは、自らの責任において秩序を保持し、それをあたかも自然的環境のように自分の責任で守る意志は日本にないということである。
その場合は「御無理、御もっとも」として、御威光国の秩序維持に協力すること以外に、方法がない。
日本は決して過去の失敗を繰り返してはならない。
「御威光国」は経済力と軍事力のみならず科学技術をも含めた総合的国力を要請される。
過去の日本は経済力なしに、軍事力だけで「御威光国」になれると夢想した。
否、妄想をしたと言ってよい。
現在もしその逆、すなわち軍事力なく経済力だけで「御威光国」になれると妄想したら、同じ失敗をくりかえすであろう。
もちろん、そんな妄想は今の日本人には毛頭ない、という人もあろうし、事実、ないのかも知れない。
しかし、経済力は持っても政治には一切無関係といいうるのは個人のみであって、国家はそうはいかない。
というのは、自らにその意志がなくても、日本の経済力がアメリカの御威光を損ずる結果になれば、日本がまるで自然的環境のように依存している現在の体制を崩壊させる恐れがあるからである。
もちろん、崩壊させて、自らの意志に基づく新しい体制を樹立する意志と計画があるなら別だが、そうでないなら、自らも発展しつつ同時に、その発展を可能にしている政治的・経済的環境を維持していくにはどうすべきかを考えるべきで、そのためには、実に矛盾した相手の要求を受け入れる覚悟をしておくことが必要であろう。
というのはその矛盾は、実は日本に内在しているからである。
だがこういっただけで反発を生ずるかも知れぬ。
というのはこういう考え方は、日本人の伝統的な機能至上主義的発想とは相容れない。
というのは、機能すること自体に価値を置くから、最大限に機能を発揮してきたことを一転して否定され、その成果も努力も無にされることに日本人は耐えられない。
それまで高く評価されていたことが、一転して罪悪視されるという結果を招くことを、日本人は理解しないし、しようともしない。
また、相手のきわめて非論理的な態度に、強者の圧力を感じて釈然としないが、それに変る自らの提案もしない。
確かにベン=アミ・シロニー教授の指摘するように、アメリカの態度はまことに論理的に一貫しないのである。
ではそれに応ずるのはなぜか。
過去において似たような問題はしばしば出て来ているが、その間、戦前・戦後を通じて一貫しているのが、次の言葉であろう。
政府の弱腰、アメリカベったり、対米媚態外交、等々々。
だがそういいながら多くの場合、日本は屈伏する。
すると屈伏の連続が屈辱感となり、それがある程度たまって来ると、どこかで爆発する。
これは簡単にいえば、そのとき自分がなぜそれをしなければならないかを明確に意識せずに、「無理難題に屈伏させられた」「外圧に敗れた」と受けとっても「自分がそれによって発展して来た環境を、その発展のゆえに破壊することがあってはならない」と考えないからである。
ではそう考えずに、屈伏・屈伏の屈辱感から、あくまでも屈伏せず、外圧をはねのけたらどうなるか。
自らがそれに即応することによって維持・発展してきた環境を自ら破壊して、自らも崩壊する結果になってしまうことになる。
◆論争をしない日本
もっとも現代の日本にはまだその徴候は現われていない。
現われていないから安心だと言えるであろうか。
実はそれが言えないのである。
ベン=アミ・シロニー教授の言う通りアメリカの主張は理不尽である。
こういう場合ユダヤ人なら徹底して相手に論争を挑むであろう。
そして一つでも譲歩すれば、別の面で相手に何かを譲歩さす。
だが日本人はそれをしない。
またはっきり言って出来ない。
シロニー教授のように、相手の理不尽を相手の論理でつかむという術にたけていないからである。
彼らはこれを反射的に行いうるが、それは伝統の違いであって、日本人にこのまねはできない。
しかし日本人は、言葉にはならなくてもカンは鋭いから、何となく、納得できないという気持は抱いている。
だが、それがしだいに蓄積して来ると、いつかは爆発する。
日本人がよく口にする「今度という今度はがまんならない」が出てくるのである。
これが出てくるのは非常に危険だから、以上のように整理して、日本が何が故に理不尽な要求に従わねばならぬかを、はっきり納得しておく必要があるであろう。
だがそれだけでなく、過去の失敗を振り返っておくことも無駄ではあるまい。
(次回へ続く)
【引用元:危機の日本人/P219~】
上記の引用を念頭に置きながら、最近話題の普天間基地移設問題を巡る鳩山内閣の対応についてちょっと考えてみます。
この問題に対する鳩山政権の対応を見ていると、アメリカの(理不尽な)要求に何とか逆らいたいという気持ちが伺えます。
確かに、その感情を抱くのは、極めて自然でしょう。
しかしながら、鳩山政権やそれを支持する人達には、「日本が何が故に理不尽な要求に従わねばならないか」という理由を、ハッキリと把握せず、全然納得できていないようなのですね。
要は、日本自らの立場を、鳩山首相は自己把握できていないのです。
それだから、対応がブレまくる。
一般庶民ならそれでも構いませんが、一国の首相がそんな状態では正直危なっかしくて見ていられません。
どうしてもアメリカに逆らいたいのなら、アメリカへの依存を減らす対策なり方針なりをしっかりと国民に示すべきでしょう。
(彼は彼なりに東アジア共同体という対策を示しているつもりなのかも知れませんが、全く現実的ではありません。これでは対策が無いも同然です。)
ノーを言うにも、責任が必要なはずです。
無責任なノーを突きつけることは、決して「対等な関係」を意味しません。
それとも、鳩山首相は、ただ単に「対等の日米関係」と唱えていれば、対等になるとでも思っているのでしょうか?
仮にそうだとしたら、とんでもないアホを首相にしてしまったものです。
彼の言動を見ている限りでは、口では日米同盟の強化・対等な日米関係を謳いながら、実際の言動では、アメリカに逆らう行動を取りたがっています。
なぜ、そのような行動を取りたがるのか。
それは、「なぜそれをしなければならないかを明確に意識していない」故の反発心が原因なのでしょうが、その他にも、彼の人に嫌われたくないという八方美人の性格にも帰することが出来そうです。
先だってアメリカの雑誌に、「歌舞伎の真似をやめるべきだ」と指摘されていましたが、まさに「見栄を切りたい」だけなのです。
そして、鬱屈した反米感情を抱いている日本人から、拍手喝さいを浴びたいのです。
そう考えてみると、鳩山首相は、おそらく自ら進んで決断をしようとしないでしょう。
言を左右にし、名護市長選の民意という「言い訳」が出来るまで時間を稼ぎ、普天間基地を辺野古に移設することは駄目になったと開き直るつもりでしょう。
そうさせないためには、周囲の説得如何に掛かっているわけですが、果たして鳩山首相が説得に応じるかどうか…。
この問題を、鳩山首相が年内解決をしなければ、泥沼化することは避けられないでしょうね。
結局のところ、この問題を、鳩山首相のような民意の迎合というレベルで政治利用することは決して日米両国にとって、いい結果をもたらさないでしょう。
両国の不信と反発を増幅させ、いずれ日本人をして「今度という今度は我慢ならない」という臨界点に到達させかねない恐れがあります。
再び”真珠湾攻撃を望む”という状況に日本を陥れてはならないのです。
たとえ庶民がそれを望んだとしても、それを止めるのが、本来政治家に課せられた役割なのではないでしょうか。
ましてや、一国の首相がそう誘導してどうするんだ!と私は言いたいですね。
そう考えると、鳩山首相は、政治家として余りにも不適格なのではないか…と思わざるを得ません。
何だか話が矮小になってしまいましたが、次回は過去の日本の失敗について山本七平が述べた箇所を紹介していく予定です。
ではまた。
【関連記事】
・昔から「機能&経済」至上主義だった日本人
・八百長のある国、日本。八百長の無い国、アメリカ。【追記あり】
・「普天間の辺野古移設に反対/2万1000人が結集」報道一考
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