交渉相手がどういう相手だか把握した上で交渉するのだったら構わないのですが、どうもひとりよがりっぽく交渉している気がしてなりません。
(まぁ、これはあくまでも私の印象に過ぎないのですが…)
なぜそう思えるのか考えていて、ふと思い出したのが次に紹介する山本七平の記述です。
今日はアメリカ人とはどういう相手なのかが、それを示唆している彼の記述を「日本人とアメリカ人」の中から紹介していこうと思います。
この本は、昭和天皇の訪米をきっかけに書かれたもので、その際のエピソードも出てきます。
◆「いやなら出て行け」を許す空間
日本人とアメリカ人―日本はなぜ、敗れつづけるのか (ノンセレクト)
(2005/04)
山本 七平
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では一体アメリカとは何なのか。
アメリカという形で統一された「伝統なき空間的モザイク」が、組織として機能するように構成している枠組みは何なのか。
「憲法です、そしてそれに基づく法規です。アメリカとはそれだけの国で、それ以外には何もありません」。
これは、細川氏と話している所に入って来た『デンバー・ポスト』の論説主幹の言葉である。
氏の言葉をきいていると、「法的規制以外にアメリカ人を規制するものはないし、あってはならない」というふうにも聞こえる。
その通りかもしれぬ。
否応なしにモデイク型に多様化した文化が併存するなら、文化的統合とか伝統的・慣習的規制とかは許されず、ましてや文化の中心である中央への指向で統合するわけにもいかず、「明記された法」という枠組み以外のことでは、各人は勝手たるべしと言う以外にない。
ところが各人勝手といえば、「法の間隙をうめるため」、各人勝手に法とか規約とか規則とか相互契約とかをつくり、その構成員とその当事者はそのルールを守るという以外に、統合の方法はなくなる。
そこでアメリカとは「法だらけ」の国で、「石を投げたら弁護士にあたる」という形になる。
まず合衆国憲法にはしまり、州憲法、州法、古法、町法、村法から、私的な法、いわば博物館法、店内法、家法とでも言うべきものまで、各人が勝手に判定しているという感じである。
そして法がそれより”上級”の法と衝突すれば、弁護士のお出ましとなるわけであろう。
「何かといえばすぐ弁護士、こんなに法だらけではきゅうくつでたまらんでしょう」
「いえ、アメリカにはスペースがありますからネ、その州の州法がいやなら、気に入った州法の州へ行け、ということですな。端的にいえば、ばくちをやりたくなったらネバダ州へ行け、死刑反対なら死刑のない州へ行け、禁酒州にいたいなら酒をのむな、ということなんです」
とNさんは言った。
「じゃ、全部いやだったらどうすればいいんですか」
「そんならアメリカから出てけ、でしょうネ。ここは何しろ、”入ってきた人間の国”ですから、いやなら”出てほかへいけ”という発想が絶えずあるんです。これは町にも、村にも、店にもあります」
(~中略~)
そしてこれは店でも変わりはない。
いわば、ここはオレの店だ、オレの店に入ってくるなら、オレ様の定めた店内の法規に従え、いやたら出てほかへいけ、であって「お客様は神様」ではない。
このことを最初に知らされたのは、ワシントンでNさんとコーヒーハウスに入ったときであった。
見ればカウンターの上に「禁煙」と書いてある。
店主の定めた店内法規であろう。私は内心甚だ不愉快であった。
◆コーヒーハウスにもある”店内法”
というのは、それは、国務省での討論のあと、コラムニストのコノー氏に会いに行く途中で、簡単にいえばコーヒーを飲んでいっぷくしたいから入ったのである。
喫茶店に入って、「禁煙」とやられては、欲求不満がつのり、余計にタバコが吸いたくなる。
「禁煙をやぶったら、どうなります」「つまみ出されるかもしれませんな」と言ってNさんは、南部の禁煙バーでの体験を話してくれた。
禁煙バーとか禁煙コーヒーハウスとかは、アメリカでは少々流行らしい。
そういうバーに入って、Nさんがカウンターで喉をうるおしていると、町のオニイちゃんといった風体の二人づれが入って来て、禁煙を無視してタバコに火をつけた。
その瞬間、店主が、ものすごい見幕で、「タバコが吸いたきゃ、ほかの店へ行け。オレの店に入るのならオレの店のルールに従え。いやなら出て行け。」 と怒鳴った。
「アメリカ人が拳銃をつきつけるのは、ああいう時なんですよ。二人はすぐ出て行きましたから、それですみましたけれど……」ということであった。
(~中略~)
◆法による規制には文句を言わぬ
店内法、館内法、ホテル内法でこの有り様、全くアメリカ人は「それは法規だ」と言い出すと、始末の悪い問答無用の人間になる。
もっとも多人種モザイク国家にはこれ以外に秩序を保つ方法はないのかもしれぬが、サンフランシスコの市警の交通整理を見たときには、問答無用のその荒っぽさには少々あきれ、つくづくと「日本でこんなことをやったら、大変なことだろうな」と思った。
一言でいえば、ルール違反者に対してはきわめて”非民主的”であり、全く”人間性無視”の”物理的規制”を平然と、無表情でやってのけるのである。
それは、その日の三時ごろだったと思う。
千葉県知事、いわゆる殿様知事の故加納久朗氏の弟さん、二世の加納久憲氏(氏については後述する)を都ホテルに訪ねようと、ホテルを出た。
すると次の十字路に人だかりがしており、交通はストップで、名物の電車もとまっている。
セント・フランシス・ホテルから天皇が出てくるところらしい。
こういう交通規制に対して、アメリカ人は少しも文句をいわず、急ぐものは迂回し、暇なものは見物している。
アメリカ人は、権利の主張はうるさいが、「天皇のため交通どめまでして……」といったような、日本的な小姑的批判は皆無である。
見れば、とまった電車の前の窓に腰を掛けて、カメラをかまえているひま人もいる。
警戒は厳重で、上空をヘリがとび、周囲の高いビルの屋上には、ライフルをもっているらしい者が、ジーッと下をにらんでいる。
白バイが二台、パトカーが二台、次に何かの車があって、そのうしろの大型車が天皇の車、つづくのが市長の車であろうか。それがホテルの入り口に並んでいる。
群集は歩道に並んで見ている。
だが、並んでいると、天皇から遠くなるにつれて天皇の方がよく見えないから、遠い者はつい隣のものより車道へ首を出す結果になる。
するとその隣のものは車道へ半歩ほど出る。
その隣はさらに出る、何しろ車止めになっているから、ついついみなが車道へと出てしまう――どこの国でもこういう風景は同じことで、結局天皇の行進方向の道路の歩道からは、天皇の車から離れるに従って次第に人が車道へとはみ出して来て、天皇の車のあたりを底辺にした長辺二等辺三角形の人垣ができ、その人垣の頂点は行進方向の車道のまんなかになり、道路をふさいでしまった形になっている。
日本なら「車道へ出ないで下さい」「道をあけて下さい」と拡声機で怒鳴りつづけるところだろうが、パトカーも警官も平気でこれを放置している。
一体この、車道にあふれた群集をどう整理するつもりなのか。
◆群集すれすれに突っ走る白バイ
天皇が出てきたらしく、ホテルの入り口が少しざわめいている。
その瞬間、私は思わずアッと言いそうになった。
白バイが二台、走り出した。
この二台が、車道に出ている人の列すれすれにダダダダッと走るのである。
群集は驚いてダダッと後ずさりする。
二台は一定のところまで行くとUターンをして、またものすごい勢いで、女性のバストすれすれにつっ走る。
群集はまたダダッと後ずさりする。
警官は全く無表情でこのUターンを数回くりかえし、結局、一言も発さずに、群集を”物理的”に歩道に押し上げてしまった。
それを見きわめてパトカーが走り出し、ついで天皇の車も動き出し、一行は飛行場の方へ走った。
こういうときの警察官の表情は、まるで仮面のように無表情、そしてこれは「法の命ずるところで私の意志ではない」といった態度、文字通りの法の執行吏である。
確かに「車道に出るのはルール違反」であろう。
違反と知ってやっているのだから、これを規制するには、何の注意も必要がない、”物理的”に規制すればそれでよろしい、というのがおそらく彼らの考え方である。
そして不思議なことに(否、アメリカ的感覚では当然なことなのかもしれぬが)、これに対して抗議らしい態度を示したものは、一人もいない。
みんなそれがあたりまえ、という顔をしていた。
日本なら「権力的」とか「非民主的」とかいった非難の大合唱になるであろう。
だがこういうことは、この国では「個人の生命の安全」のために、必要不可欠のことかもしれない。
真珠湾攻撃のパニックのとき、なぜハワイで、日系が手引きしたというデマのもとに日系狩りが起こらなかったのか、多人種国家の中で、関東大震災の朝鮮人殺害のような悲劇がなぜ起こらなかったかを調べてみた。
そして何よりも驚いたのがその瞬間における徹底した物理的規制である。
外出禁止令と電話使用禁止令ですべての人間を家にとじこめて遮断し、これを群集化させず、デマの電話交換をやらせず、ラジオによる一方的指示のほか一切を断って魔女狩り的騒動を防いでいる。
これで見ると、アメリカとはこういう荒っぽい統制以外に、統制の方法がない国という気もする。
いわば文化的中央による心理的統制、簡単にいえば天皇制がないのである。
「荒っぽい」と感じたのは、この警察官の行動だけではなかった。
ワシントンで、国務省に行く前に、『ワシントン・ポスト』社へ立ち寄るうとしたとき、ちょうど同社のストに出合った。
サイモン編集長に会う約束だったのだが、ピケのために入れない。
ところがこのピケが、一見まことにだらしなく、またプラカードを下げている人びとも、全く「やる気」がなさそうで、ピケとは名目だけ、簡単に入れそうに見える。
私は突破する(というほど大げさに考えなかったが)つもりだったのだが、Nさんから「それはおやめになった方が良いと思います。アメリカ人は八百長が全然ない人種ですから……。
日本なら”断固粉砕”の鉢巻きで気勢をあげていても、本当に粉砕されることはありませんが、アメリカ人は正当な法的権利を侵害されたと感じたときは、何をするかわかりませんから……」といわれた。
私はそのときふと、戦場の米兵を思い出した。
彼らもまことにデレっとしており、ついついそれを誤断する。
これが非常に危ない。
「同じことかな」と考えてやめた。
やめてよかったのである。
「スタッフの一人がピケを破って外に出ようとし、撲られて相当なケガをした。とても出られそうもないから今日は社に泊まり込む。残念ながらお目にかかれない」と、サイモン編集長から国務省に電話があったのだから……。
◆八百長のないアメリカの”怖さ”
マナジリを決してテンションの極限にあるように見えても、「六〇年安保」の例を持ち出すまでもなく、日本という国は、どこかに八百長的合意がある国だ、だからそのつもりでアメリカで生活していると、とんだことになる、とNさんは言った。
「アメリカは怖いと言いますけど、日本の怖さとは違うんです。私はまだアメリカで”インネンをつけられた”という経験はありません。
日本なら盛り場でコワイおニイさんから何かいわれたといった経験はだれでもあるでしょうが、どんなスゴ文句を並べたって、どっかで妥協がつくとお互いに思っているし、事実、妥協がつくんです。
だがアメリカ人は、そうはいかないんですなあ。
だから不意にやられたと錯覚する……。
どうもこの点、日本の対米外交も対米世論も危なっかしく見えますなあ。繊維交渉のときも、日本側には、どこかに八百長のつもりがあったと思いますよ」
結局、警察官、労働者、兵士、博物館員、ホテルのマネージャー、店主から町のオニイさんまで共通する行き方は、アメリカそのものの基本的行き方でもあろう。
相手がルールに違反して国境というピケを破って真珠湾に突入したと感じた瞬間、今までデレっとしていたように見える人びとが、八百長的妥協なき戦いへと、一斉につっぱしってしまう。
アメリカはこの点確かに怖い国だが、これを”護持”しないとアメリカ自身が成り立たなくなるのであろう。
そしてその怖さは、Nさんの言う通り、「日本的な怖さ」とは別物である。
だがそのアメリカ人が、逆に、どこかで日本を恐れている(気味悪がっている?)ことは否定できない。
『フォーリン・アフェアーズ』誌のバーンズ氏は「いま日米間には何の問題もありません。しかし相手が日本だと、われわれは問題があればあるで、なければないで神経質にならざるを得ません」と言った。
同じようなことは国務省インド担当のブラウン氏も言った。
「アメリカとインドの関係は、どんな大問題が発生してもお互いに神経質にならないのですが――日本はネェー」と。
結局、こちらの八百長的テンションを、向こうは、本気で受けとめ、向こうの本物のテンションはこちらが八百長でうけとめるという妙な関係が常に存在するらしいのである。
【引用元:日本人とアメリカ人/第六章 天皇制のないアメリカに君臨する「オレ様が法」/P134~】
最後の記述は、アメリカ人と交渉する上で、肝に銘ずる必要があると思いますね。
鳩山民主党政権にそうした認識があるかといえば…、多分ないだろうなぁ…。
【追記】
この「日本人とアメリカ人」のあとがきに、「解説にかえて――山本学の真髄」という題で、稲垣武氏が解説をしているのですが、大変わかりやすいものなので一応追記紹介しておきます。
(~前略)
と同時に天皇といった「文化的中央による心理的統制」を欠いた「伝統なき空間的モザイク」であるアメリカが統一された組織として機能する枠組みとしては「憲法とそれに基づく法規」しかなく、その法規の間隙を埋めるために、「各人勝手に法とか規約とか規則とか相互契約とかをつくり、その構成員とその当事者はそのルールを守るという以外に、統合の方法はなくなる」と分析し、コーヒーハウスにすら「店内法」があり、禁煙はおろか人種差別まで平然と行われ、それを無視すれば叩き出されるか、それが嫌なら徹底的に店主と論争しなければならぬ現実が紹介されている。
日本にはそのような法や規則があっても、どこか八百長めいた融通性があるが、アメリカ人はルール自体が異議申し立てで改変されない限り、ルールはルールとして容赦なく遵守を要求する。
それがアメリカの怖さであり、真珠湾奇襲で日本がルールを破ったと感じた瞬間、「今までデレっとしていたように見える人びとが、八百長的妥協なき戦いへと、一斉につっぱしってしまう」。
幕末以来、日本はアメリカと優に一世紀を越すつきあいがあるが、まだ山本さんのいう「アメリカの怖さ」が判っていないのではないか。
主張すべきことを明確に主張せず、八百長的な腹芸で妥協しようとするために、外交交渉でもアメリカに押しまくられてしまう。
その結果、嫌米ムードが瀰漫(びまん)し、それがまたアメリカにはねかえって対日態度をますます硬化させてしまう。
今ますます深刻化している日米関係のきしみは、日本人とアメリカ人の文化の違いが根本原因ではなかろうか。
(後略~)
【引用元:日本人とアメリカ人/解説にかえて――山本学の真髄/P200~】
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