堅物ではなかった福沢諭吉の「福翁自伝」
福沢諭吉(1835~1901)
【渡米した福沢諭吉の楽しいエピソード】
以前、「歴史・文化」の記事で「明るい笑顔の写真と肖像画にしましょう」とのテーマでベートーヴェンの堅物的肖像画を取り上げたことがある。私達は教科書に引用される肖像画や肖像写真から受けるイメージにかなり影響を受けるということを。
妙齢のアメリカ女性と並んだ諭吉の写真を見ると、堅物男を思わせる一万円札の有名な肖像写真とはかなり違ったイメージを抱くであろう。
この写真は1860年に咸臨丸で渡米した時のもの。サンフランシスコにある写真館で撮影された。諭吉が数えで27才の時だ。女性は数え年12才のシオドーラ・アリスという名の、まだ少女だ(古い白黒写真の為か年齢よりはかなり大人びて見える)。写真館の娘である。
福翁自伝によれば、「私独りで行った所が娘がいたから、お前さん一緒に取ろうではないかと云うと、亜米利加の娘だから何とも思いはしない。取りましょうと云って一緒に取った」と。
諭吉は渡米した他のメンバーには内緒でこの写真を取り、日本への帰路の途中で皆に見せたそうだ。案の定、「誰だこの女性は?芸者か?女郎か?普通の娘か?」と騒がれたらしい。
武士が女性と並んで写真を取るなど考えられなかった時代に、諭吉だけがこれを実行したのだ。彼は口だけは達者でも実行の伴わない他のメンバー達を、この写真を見せながら大いに冷やかしたそうだ。それだけではなく、諭吉のちょっとしたお茶目心を私は感じる。一見、堅物に見える諭吉もこうした遊戯心があると分かり、益々好きになった。
また、滞米中にオランダ医師の家庭を訪れた時、来客に対してコマゴマと働く夫と、座敷に座りこんで話し相手をする妻を見て、「まるで日本とアベコベのことをしている。これは可笑しい」と諭吉は語っている。「可笑しい」と言いつつ、諭吉はこのオランダ医師の夫婦のあり方を否定的に捉えていない。ここが彼の素晴らしい所と思う。
【諭吉の悪戯】
諭吉は二十代前半に蘭学を修める為に大阪は緒方洪庵の「緒方塾」に入る。真面目に勉学に勤しむがそれだけでは息が詰まる。夜、貧乏塾生達と安居酒屋?で騒ぎ、挙句の果てに皆で店の小皿を5~6枚「しっけい」して難波橋の上に立つ。そこへ三味線をチャラチャラと鳴らす小舟があった。あんな贅沢な遊びをする奴がいるからこちらは貧乏するとて、盗んだ小皿を小舟に投げつけたところ、プツと三味線の音が止んだ。後に、塾生から三味線の芸者がカンカンに怒っていたとの話しを諭吉は聞く。もちろん、諭吉は下手人は知っていても黙っている。(この件は諭吉は実行犯?ではなかったような語りだけど、もしかすると諭吉も小皿を投げた一人だったかもしれない)
【禁酒に失敗した諭吉】
花柳に戯れることもなければ、権妻という名の妾も持たない清廉潔白な諭吉だが、大の酒好きだったそうだ。一念発起して「禁酒」を試みるも一ヶ月を経ずして挫折。その間、悪友?から煙草を勧められ喫煙の習慣を身につけてしまう失敗を犯す。後年、酒は止めたが喫煙は(身体に悪いと知りつつ)生涯止められなかったという。
「一身独立、そして一国独立」という強い信念と実行力がモットーであった諭吉にも、このような「意志の弱さ?」があったとは愉快だ。彼も人間なのだ。とても親しみを感じるエピソードだ。
【諭吉は体罰反対論の先駆?】
福翁自伝の「喜怒色に顕さず」という項目で、「あるとき私が何か漢書を読む中に、喜怒色に顕さずという一句を読んで、その時にハット思うて大いに自分で安心決定したことがある。「これはドウモ金言だ」と思い、始終忘れぬようにして独りこの教えを守り、ソコデ誰が何と言って誉めてくれても、ただ表面に程よく受けて心の中には決して悦ばぬ。また何と軽蔑されても決して怒らない。どんなことがあっても怒ったことはない。いわんや朋輩同士で喧嘩をしたということは、ただの一度もない。ツイゾ人と掴合ったの、打ったの、打たれたのということは一寸ともない。これは少年の時ばかりでない。少年の時分から老年の今日に至るまで、私の手は怒りに乗じて人の身体に触れたことはない…」とあった。
今、学校教育やスポーツ界での「体罰」が問題になっているが、諭吉は教育者としても父親としても、体罰は一切振るわなかったようだ。これは先進的というか、凄いことではないだろうか?21世紀の現代と比べて自由とか平等とか人権とかの意識が稀薄だった時代である。いまだに体罰容認論が根強い日本教育界の現状を諭吉が見たら、どう思うだろうか?
それにしても、子供の頃に読んだ本の一文が生涯のモットーになること自体が凄いというか、素晴らしいことのように私は思う。本を読むということが、単なる趣味ではなく生きることそのものであったこと、そして、諭吉の優れた感性があればこそだろう。
【福沢諭吉は日本における男女平等を唱えた先駆者】
福翁自伝に「子女の間に軽重無し」とある。世間では男子が生まれると大層めでたがり、女子が生まれると難病がなければまあまあめでたいとの軽重があるが、こんな馬鹿げたことはない、と諭吉は力説する。ここに私は非常に感銘を受けた。
ところで「学問のすすめ」の初編冒頭の有名な一文、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」だが、明治初期に書かれた時代背景を考えれば「人」とは男性を指すものと思われるだろう。が、違うのだ。第八編には「男も人なり女も人なり」と主張しているからである。
私は未読だが、諭吉には「新女大学」「女大学評論」等の著作がある。女性も男性同様に学問を修め、「一身独立」を目指すことが日本の独立の為に重要との説らしい。
諭吉の女性論については、幸徳秋水と共に社会主義運動に取り組んだ堺利彦や歌人の与謝野晶子からも賞賛されているそうだ。
謎だったのは、当時は男尊女卑、すなわち、女性は男性に劣るから、男性に従うものであるとされていた時代、何故諭吉が早くから男女平等の考え方が出来たのかだ。不思議だ。
【日清戦争の勝利を喜ぶ諭吉】
「日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有いとも言いようがない…中略…ただこれ日本の外交の序開きでこそあれ、ソレホド喜ぶ訳でもないが、その時の情に迫れば夢中にならずにはいられない」と語る諭吉。文明国=日本VS野蛮国=清との考え方からの帰結であろうか。ここは私にはあまり共感出来ぬ箇所だった。
福沢諭吉の外交・軍事についての考え方は、日本の植民政策・軍事国家への道を後押ししたと批判される場合が多いし、私もそのように思える。ただし、諭吉の著作や論文を読破したわけでもないので、断定は避けよう。
私のブログに投稿して頂いた坂本様とのご縁から読んだ「福翁自伝」ですが、読み応え充分。名著と思います。福沢諭吉という人間から啓発されるものがいくらでもあります。また、幕末維新を生きた一人の卓抜な人間を知ることは、血の通った歴史を知ることでもあります。
坂本様、ありがとうございました。新訂 福翁自伝 (岩波文庫)
(1978/10)
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2013.02.27 | | コメント(46) | トラックバック(0) | 歴史・文化