コメント
考えすぎかな…と思う
…いじめをみすごしたら、同罪だ!…だから、日の丸に掲揚したり、君が代を歌えば………「はぁ?」ってなる…「何、言ってんの?」ってなる…ファシズムを育てるのと同罪だ!…「へっ!?」ってなる…橋下さんに賛成してないけど…私は、都構想がわからんので賛成できない…都構想がわからんなら、本読めとか、HPみろ とか、勉強せい とか、なんじゃそれって感じ…それは、また別の話か…でも、その言い方や、起立する多くの人をそのすべてを貶めるような言い方には、賛成できない…
>「国旗国歌への恭順を示せ」と言いたくて「ルールを守れ」とキイキイ言ってくる粘着質な人々
と同じように感じる…「自分の都合で無視したり変えたがったりするおかしなダブルスタンダード」は、橋下さんを非難するならいいのかな と感じる…「はあ?」ってなる…それとも、それらを無視してでも、橋下さんは、非難しなければいけない存在なの?…
橋下さんは「悪」なのかな…選挙で橋下さんに投票した少なくない人は「愚か者」なのかな…大阪の有権者の3分の1くらいだよね…橋下さんを知事にした「投票」という制度は、「愚か者」が「悪」を選んだ「最悪の制度」って事?…
では、どんな制度だったら、いいと思うの?…ちゃんと、教育を受けた理解力がある人に投票権を与え、「悪」である橋下さんに投票するような「愚か者」には、投票権を与えるな ってことかな…でも、(何考えてるかわからない)公明党を除くほとんどの政党(共産党から自民党まで)は、対立候補を支持したんだよ…あの人たちは「賢者」だったのかな?
って、私の言い分は、相当酷いよね…わかってるさ、でも、同じような事してるように感じる…村野瀬さんのブログでは、禁忌事項かな…「sv400s_dracinなる愚か者へ」って、言われそうだな…ま、それもいいか…
日の丸・君が代に生涯をかけ抗う…
わたしは、死ぬまで一切、君が代を口にせず、日の丸に頭を垂れないつもりです。
強制しなければ、愛されない国って、一体、何なんですかね~。人間の良心・信条・思想の自由を、束縛する権利は誰にもないと考えます。
恐らく、あなたのような考え(というより感情かな?)の人はかなり多いでしょうね。
橋下徹に積極的には賛同しないけど、ムキになって非難するのもどうかなぁ?という態度の人。
だからこそ、あなたのような人に尋ねてみたい。
何故、八人の教師は懲戒処分を与えるという「脅し」に屈せず、「日の丸・君が代」に反対するのだと思いますか?
彼らはこの先教師を続けても、教頭や校長に出世することはほぼ100%ないでしょう(教師としての資質、実績とは関係なく)
勿論、彼ら自身百も承知のことです。
はっきり言って、何の利益もありません。
彼らは単なる「変人」なのでしょうか?
あなたがなんだかモヤモヤした気持ちでこの状況を「眺めて」いる原因はなんとなくわかります。
殆どの新聞やTVでは「橋本大絶賛」
一方、このブログをはじめ一部の少数の人(私もです)は「橋本断固反対」
あなたは「どないやねん、どうせどっちもどっちやろ。どうでもいいわ」と思っていたのではありませんか?
ところが、このブログ記事の「傍観しているものはいじめの加担者」という一文を読んで、なんだか自分のことを言われているような気がして「カチン」ときてしまったのでは?
「自分はどっち側でもないんだから、ほっといてくれ」と。
ところで、ファシズムって何故生まれてくるか、考えたことはありますか?
まともなバランス感覚と知性を持った人間(恐らくあなたも)なら、全体主義より民主主義のほうがいいと考えるでしょう?
しかしながら、過去の歴史においても、日本の軍国主義や、ナチスドイツ等がおびただしい数の他国民、そして自国民の被害者を生み出しました。
現在の世界においてもファシズム(全体主義)を目指そうとする勢力は後を絶ちません。
ファシズムが彼らに何らかの(きっと彼らにはたまらないほど魅力的な)恩恵を与えるからです。
そして、その恩恵を受けるごく一部の勢力と恩恵とは無縁の大衆の支持によってファシズムが誕生します。
程度の差にはかなりの差があるものの、世界中のどの国も「ファシズム国家」になる可能性を持っているのです。
「そんな、アホな」 そう思いますか?
ヒットラーは「悪」を「愚か者」が選んだ「投票」の結果、まさに生まれたのはご存知ですか?
勿論、その時の多数のドイツ人にとってのヒットラーは「悪」どころか「正義」の「英雄」でしたが。
あっ、私は「投票」による「選挙制度」を否定しているのではないですよ。
ファシズムは「民主主義」の中からでも生まれてくる、という事です。
言い換えれば「民主主義」とは制度だけでは守れない、のです。
話を「日の丸・君が代」問題に戻しましょう。
あなたは「日の丸・君が代」が何を表(象徴)し、近代の日本(と主にアジア諸国)にどのような歴史的役割を果たしたか、どの程度ご存知でしょうか?
日本の学校では「近代史」ってほとんど「流す」だけなので、自分で関心持って調べない限り「良くは知らない」というのが「普通」でしょうね。
あなたが「どっちもどっち」という態度を取る前に、この問題の根っこの部分について、少しだけでも関心を持ってみてはどうでしょうか?
蔓延する無関心こそが、「民主主義からファシズムを生む土壌」の養分となるのです。
尤も、あなたの場合はこのブログを読んでいるくらいだから、全くの無関心ではないと思いますが(笑)
これは私の(そしておそらくブログ主さんの)考えですが、日本の民主主義は今とても重大な危機を迎えています。
過去の歴史や現在のこの国の実情を、知れば知るほど、学べば学ぶほど、残念ながらその思いは強くなっていく一方です。
ですから、あなたにも「今、この国で何が起きているのか」積極的に関心を持って欲しいのです。
このブログ内には、大変参考になる記事がたくさんあります。
きっと「八人の教師達」の行動の意味や、私を含めた「反橋本派」がキィキィ言う理由も少しはわかってもらえると思います。
あっ、村野瀬さんはそんな言い方は決してしてないと思いますよ(笑)
まずは知ることから。
ファシズムを目指そうという動きはどこにあるの?…橋下さんはそうだというの?…今は、ワイマール体制が崩壊した状況と、どこが同じで、何が違うの?…日本とドイツは同じだったの?…それは、今の日本でも起こりうる可能性があるわけ?その理由は?…等々…と疑問はワンサカあるけど…それは横に置いて…
ファシズムへの萌芽があるから、どんな方法で非難しても許されるのか?…っていうのが、一番の疑問なわけ…小泉さん以降、非難する時には、いつも似たような事をしてた となんとなく記憶してるけど…「石原さんや橋下さんに入れるような人(輩)は、(どうしようもないので、)啓蒙しなきゃ」っていうのは、親切心なんだろうけど…私達は、善である という根拠も、(善であるなら)なぜ、支持されないのか?への反省もないままの非難のように感じるわけ…全政党(維新と選挙バーターの取引をした公明党は除く)が加担したのに…国政では、あんなに対立してるのに…出来レースかよ って思うよな…
あれ?私は橋下さんに投票してないし、嫌いなのに、なんで、擁護してるんだ…ま、いいか…
続 でっていう…私の考えだって、相当怪しい…
この3倍位書いたら…720文字…たちどころに不正な投稿だって、された…不正って何さ…上手くまとめるほど…文章力があったら、大学教授でも、小説家にでも、なってるわ…
>>日本の民主主義は今とても重大な危機を迎えています。過去の歴史や現在のこの国の実情を、知れば知るほど、学べば学ぶほど、残念ながらその思いは強くなっていく一方です。
それほどでもないんじゃない? と異をとなえる
yasu
コメントを読むにつれ、次第にあなたの人格が少しずつみえてきました。
基本的には全てがあなたの「印象」に基づいいた主張である事。
そして、「印象」に基づいた結論に根拠を与えるため、随所に意図的な「歪曲」が見て取れる事。
「具体的」に挙げていきましょう。
その1
>私が常々疑義をいうのは「橋本」を支持する人は「愚民」であり、「橋本」を支持するコメントをする人は「悪」である。という~ 以下略
あなたがそう断じる根拠はなんでしょうか?
このブログ内のどの箇所か「具体的」に挙げてください。
一つ言っておきますが、このブログにわざわざ乗り込んできて「自ら」コメントしているのは「橋本支持派」自身です。
それに対して、ブログ主や読者から反論があるのは当然とは思わないのですか?
因みに、「橋本派がでたらめな主張を繰り返しては、こてんぱんに叩かれている」というのがこのコメント欄における私の「印象」ですが ←あくまでも「印象」ですよ(笑)
その2
>ファシズムを目指そうとする動きはどこにあるの~ 以下略
「ファシズムを目指そうとする動き」がどこにあるか、このブログ内では再三再四取り上げられています。
どちらかというと、最近は「そればっかり」(苦笑)なぐらいなんですが。
そもそも、あなたはこのブログ記事をちゃんと読まれてますか?
もしそれらの記事に対しての反論があるなら、個別かつ、「具体的」に述べてください。
その3
>疑問はワンサカあるけど・・・それは横に置いて・・・
あっさり横に置くんですね(笑)
今まさに、そのことについて議論しているのですが。
「疑問はワンサカある」などと言いながら、あなたがこの問題にまともに向き合う気が無い事がよくわかります。
その4
>ファシズムの萌芽があるから、どんな方法で非難しても許されるのか?・・・というのが、一番の疑問なわけ
全く意味不明です
「どんな方法で」とは一体何を指しているのか?「具体的」に示してください。
まさか、ブログで「政策」を批判するという「方法」が、「許され」ないという考えなのでしょうか?
だとしたら、あなたは立派なファシストですが。
その5
>私たちは善である、という根拠も~
そのような表現を私も、ブログ主も、恐らくコメント常連の方々も使用した記憶はありませんが、「具体的」に示してください。
言葉のスリカエや歪曲はネトウヨが印象操作のためによく使う常套手段です。
そもそも、「善」とか「悪」とか言った、極端に単純化された抽象的表現を「政治」「政策」議論に持ち出すのはふさわしくないとは思いませんか?
あなたの言説は一貫して、「問題を抽象化」させていますね。
その6
>(善である)なら、なぜ支持されないのか?への反省もない 以下略
「善」「悪」という表現の問題は於くとして・・・
どうやら、「善」なら支持される、という認識のようですが、なんともお粗末ですね。
「善」がいつも支持されるなら、なぜ人類は「過ち」を犯すのか?
何故、戦争・紛争を繰り返し、貧困や不平等が存在し、さらには深刻な環境破壊が生まれるのでしょうか?
いやむしろ、多数から「支持される」=「善」なら、「全体主義」こそまさに「善」そのものとなりますね。
だんだん、あなたの「思想」が透けて見えてきましたよ。
確かに、「橋本」に反対する勢力は少数派です。
だからこそ、村野瀬さんをはじめそれに対抗しようとする人々が、出来るだけ大きな声をあげて奮闘しているのです。
戦前の日本にも今よりずっと少ないながら、命懸けで軍国主義・侵略戦争に反対する人たちはいました。
あなたは「軍国主義を推し進めた連中」より、それを止めれなかった「少数の反軍国主義者たち」に「反省」を求めるのですね。
その7
>全政党(公明党を除く)が加担したのに、・・・国政ではあんなに対立してるのに・・・出来レースかよ
「全政党が加担した」とは一体何のことについてですか?
「国政」で「あんなに対立」しているとは、「何と何が、何について」「対立」している事を指しているのですか?
何度も書きますが「具体的」に書いてください。
さっぱりわからないので、リアクション不能です(笑)
その8
>ワイマール体制崩壊からファシズムの流れの説明って短略的過ぎない?
あなたのコメントだと、このブログがその「短絡的な説明」を記している、という様に受け取れますが、具体的にその根拠となる箇所を示してください?
以上です。
最後に一言。
私があなたのコメントに反応したのは、あなたに「誠意さ」がある、と感じたからです。
しかし、その後のコメントの内容の「不誠実さ」には大変落胆いたしました。
あなたが、「橋本には投票しない」と言いながら、このような内容のコメントを投稿する、という二律背反な言動を取る理由も大変良く「理解」出来ました。
そして、あなたが本質的には「橋本」にも「ファシズム」にもかなり「親和的」だという事も。
以後、批判を行うときは「具体的」根拠となるものをお示しください。
でなければ、ネトウヨ同様「叩きのめされる」のを覚悟で、どうぞお越しください。
「まずブログをちゃんと読んでからコメントしなさい。」
心配してくれてありがとう…859文字の挑戦…
文字数が2765文字行数79行のコメントが投稿できて、たった720文字の私のコメントが「不正なコメント」になるのか…知りたい…罵詈雑言なんてしてないのに…どこに問題があるのか、教えてほしい…メールで一度チェックしてもらってからのほうがいいのかなぁ
ところで、「橋本」って、わざとしてるの?…私の元の文章では、…「橋下」さんとしてるんだけど…いや、「橋下」さんが、通称であって、本当は「橋本」さんだったら、私が間違ってる…そうではない、としたら、わざわざ、「橋本」とする…「悪意」の…理由が聞きたい…わざと名前を間違えるのって、いじめや差別の常套手段じゃないの?…ここまで324文字
「橋下」さんへは、どんな形でも擁護するとだめなのかな…
>二律背反な言動を取る理由も大変良く「理解」出来ました。
そんなの当たり前じゃないか…かわらないのは、自民党をずーっと支持してる企業や団体とか、民主党支持の労組専従とか、共産党の専従とか、公明党を支持する創価の人かでしょ…あなたがそれのいずれかだとしたら、変わらないと思えるのも仕方ないけど…私はコロコロ変わっちゃう…村野瀬さんのブログは、党の専従か、あるいは、複数の人で運営してるのかなぁと思ってる…今度、村野瀬さんのことを知ってそうな人に聞いてみる…それは、また別の話…ここまで599文字…
>でなければ、ネトウヨ同様「叩きのめされる」のを覚悟で、どうぞお越しください。
相当以前から、たま~に投稿してるけど…まだ、出入禁止になったことがないから、大丈夫じゃないの…おそらく、3~4年位前から投稿…「超左翼おじさんの挑戦」にリンクしてあったので、来るようになった…私は、「超左翼おじさんの挑戦」の常連だと思うよ…超左翼おじさんから、本ももらったし、軽く自慢!…心配してくれてありがとう…「天下のノンポリ」って、「みんななかよく」のkuronekoさんに言われたくらいだから、てきとーなんよ…859文字…
「天下のノンポリ」って、きっと、「お前はだからダメなんだ」っていう意味を含んでるんだろうなぁ…
「不正のコメント」がどうたらこうたら、意味のよくわからない事(言い訳につもり?)をうだうだ書いてますが、結局私の指摘に「何一つ」応えない(応えれない)んですね(笑)
そのくせ、相変わらず根拠を示さず「村野瀬さんのブログ」は「党の専従」だの「複数の人で運営してる」だのとか、ハナシをどんどん逸らしていく。(だから何?)
それと私が「橋本」と打ってしまったのは、単に最初に間違えて変換してしまったためです。
何故それが「差別」にあたるのか、全く理解できませんが、あなたが出来るのはせいぜいその程度の「揚げ足取り」くらいなのでしょう。
安心してください。
「叩きのめす」と書きましたが、あまりにもバカバカしくてそんな気もなくなりました。
ただし、これからも「事実」に基づかない「印象」だけの中傷コメントを繰り返すなら、又「気が変わる」かもしれませんが(笑)
それと、私はあくまでも論理的に「言葉」で「叩きのめす」と書いたのです。
「出入り禁止」とかにスリカエないでください。
私は単なる一読者に過ぎませんから(笑)
君が代は嫌いです。
僕は当時べ平連に入っていました。僕のクラスの授業はない先生でしたので全然知らない教諭ですが
一緒にやろうと誘ってきましたが、結論は勝手にどうぞ。
そして卒業式当日、起立しなかったのは、その教諭の担任の数名とべ平連が数名。僕はやめろと叫んで
落花生を投げて式は中断。教師はすべて起立。笑っちゃいましたね。
式の後には3年生から怒られました。
卒業式台無しにしたって。まあ事実ですから謝りました。
それから2週間、放課後毎日職員室で討論。
その後卒業式が近づくたびに呼び出し。
又やるっと行ったら困惑顔。最後は出たら迷惑かけるから出ませんと行ったら担任喜んでいましたね。
結局自分の卒業式も出なかった。
君が代の歌詞が嫌い。今の世界が永遠に続くようになんて消極的ですね。天皇を称える歌であるのも
事実。
今でも歌いません。ただ起立はします。
一応国歌だそうですから(笑)
世間並責任
dr.stoneflyさんのTBもついてるね。
来てみたら、わたしが言及されているではないですか。
sv400s_dracin さま
>「天下のノンポリ」って、きっと、「お前はだからダメなんだ」っていう意味を含んでるんだろうなぁ…
別にそんな含意はないですよ。
「ノンポリティカルであることも一つの個性よ」(猫なで声) って、よけいに気持ち悪いか。
「起立した教師の責任」ってのは、レトリカルな話で、法的とか道義的とかの「責任」として論じるのは、議論がぐしゅぐしゅになりそうですね。
あるいは、話が超一般論になりそう。
「原発を許してきたわたしたちには福島県民に対して責任がある」とかと同じように、「そう言ってもいいけど、それでそこからどういう理論や行動を構築するの?」てな感じ。
実際にそう発言したら「あなた自身の問題として考えなさい」とか逆ねじを食わされて憮然とするってのがsv400s_dracinのタイプ。
起立した教師の個々の責任を問うのはどうなのかな。個人的信条で「日の丸」に敬意を払いたくてしょうがない教師がいたら、その心情は尊重しなければなりませんからね。ただ現実は、多数派の教師集団は職場での上級権力の強制に対して抵抗力がないのでしょう。
それがいいことかどうか。
不正車検でもなんでも、その分野では常態化しているし、関係者は知っているけど言あげしないで済ませてきたのならば、それを簡単に了解したり納得したりしていいのかい? とも思います。世の中、アクションしない責任、不作為も問われる。
東京都の不起立の先生で、それまでは普通に起立・斉唱していたけど、10・23通達で強制されてからは不起立になったって人もいるでしょう。「国旗・国歌法案」は、起立尊重義務なんて定めていませんし、強制して政治問題化させたのは、強制する側です。政治問題化したのだから、それに対するリアクションは、政治的になります。権力の強制に対して「抵抗する責任」が問われる局面もあるだろうと、わたしは思います。
ただ、「原発を認めてきた責任」を、ただの反省ブリッコではなくしっかりと定位するのは難しい。同様に、強制という権力のふるまいに抵抗する市民責任、というのも、そんなに簡単に構成・確立できる観念なのか、どうかは覚束ない。単に「そんなこといったって、一般の人の支持は得られないよー」てな話ではなくてもね。
ノンポリ界のsv400s_dracin さんも心配してくださるのは心強いことですが、サヨっちの方も、世間並みにそろえる人の責任、をどう提起していけるのかは、問われているでしょう。
まあ、15年戦争の戦争責任だって、一億総懺悔か、「唯一戦争に反対した我が党」みたいな言論か以外、なかなかないんじゃないかなあ。言論としても。
良心を規定するな
私は「橋下」が嫌いです。良心を規定しようとするから。いえ、彼はもっと巧妙で、表立っては良心は問わない。公の場での行動を規定しようとするんだね。「組織のルール」を前面に押し立てて。
人間が己の内心と己の行動とを完全に切り離すことが出来る存在なら良いんだけど、良心に忠実な人ほどそれが出来ない。教育の目的は「良心を育てること」「良心を下支えする知的体系を充実させること」「そして良心に従って行動すること」というふうに定義できると思うのだけれども、その定義からすると、「橋下」のやろうとしていることは教育にあたらない。「調教」と表現するのが相応しい。「良心に従うな」と指令することは、ハラスメントなんですよ。
というわけで、「橋下」に抗議しようというのには同意。
でも、この記事の主張はそれだけに留まらないんですよね。
「橋下」に抗議するには良心が要るんだけれども、その良心を規定しようとしているように感じる。そこのところが気持ち悪い。
「橋下」は嫌だけど、さりとて“『日の丸・君が代』に敬意を表することは不道徳だ”と規定されるのも嫌。
そりゃ確かに、かつては「日の丸」の旗の下で日本人は野蛮なことをした。これは事実。が、この事実をいかに己の内心へと結びつけるのかは、各人の自由に属する。他人がこの自由に踏み込んではいけない。
己の良心に従って行動する人をリスペクトする。そこまではいい。だが「孤立させてはいけない」とくると、少し退く。それはつまり、彼らの後に続けということでしょう。上にも書いたとおり、良心的な人間ほど行動と良心とは切り離せない。日の丸・君が代に良心的に敬意を抱いている者にとっては、そうした行動を取ることは良心に反する。にもかかわらず、ここではそうすべしと主張されている。ということは、「良心とはかくあるべし」と規定しようとしているに他ならない。
その点においては「橋下」と変わらないのでは?
「起立した者の責任を問う」なんて大上段は、良心が予め規定されていなければできるものではない。これは気持ちが悪い。
ちなみに私は日の丸・君が代に敬意を抱く者ではありません。が、日の丸・君が代に対して良心的敬意を持つ人には敬意を抱く。体制の強制へ抵抗した人と同じように。
国旗・国歌への姿勢を理由に、何人たりとも誹謗中傷や迫害されることのない社会。
そういう社会、ダメですか?
批判とは良心の自由の侵害(笑)
公人として、大衆の良心を利用し、個人、それも少数派を、上の立場から「弾圧する」橋下さん
その両者が「変わらない」だって???
こういうところに対する個人個人の鈍感さが、そのまま今の日本社会の鈍感さを形づくっているんだろうなあ。
あ、上の感想は私の「良心」ですので、コメント欄で「良心とはかくあるべし」と規定しようとするのはご遠慮くださいねwww
そもそも何で卒業式に君が代必要なのかな?
高校時代に主張した事。
◎そもそも君が代は国歌ではない(当時はそうです)
◎何で国が卒業式に関与するのか。
◎天皇制反対。
◎歌詞が嫌い。
こんな理由でしたね。
今の若者は野球やサッカーでも平気で歌います。有名歌手が歌うのは僕の感覚ではあれれって感じです。
最も、共産党まで憲法改正反対ですから、天皇制を認めています。世の流れですかね。
オリンピックで聞く君が代。演奏だけですからあまり
違和感ありません。
日の丸は全然気にならない。別に礼はしませんが。
面倒だから卒業式でやめれば良いのに。
天皇陛下は28日の園遊会の席上、東京都教育委員を務める棋士の米長邦雄さん(61)から「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と話しかけられた際、「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と述べた。
以上
あゆさん
それに答えて政治的発言をする天皇も問題ですね。
具体的にどの部分を指しているのです?今まで「“『日の丸・君が代』に敬意を表することは不道徳だ”と感じる人にまで強制などしていいわけがない」という文脈なら見たことあるけど。流れ見てます?
普通、“『日の丸・君が代』に敬意を表することは不道徳だ”と思い、それを他人も共有するべきだと考えるような人には、今の状況は耐えられんでしょ。肯定側の方が数としては圧倒的に多いだろうし。
そーゆー私は、押し売りしてくる連中の異常な多さと気色悪さが原因で国歌国旗は大嫌いです。パブロフの犬じゃないけど、あれ見たり聞いたりしてると条件反射的に連中を連想させるんだよね。昔はそんなに嫌いって訳でもなかったのに。
ぶっちゃけ、歴史的な意味合いは自分の個人的嗜好の源泉じゃない。
アジテーション
>そんな事を行ったら、キリがない…と思う
このぐしゅぐしゅ日本社会を相手にしているのだから、際限ないのはしょうがないんです。
起立した教師ばかりでなく、高校生の責任だってあります。教師は処分されるけど、卒業生なんて、別にいいじゃないねえ。怒られ納めに、不起立だって。
というより、そもそもわたしが今の高校生なら着席しないでずっと立っているけど。とがめられたら「日の丸が掲揚されているのに、着席は失礼であります」と軍隊口調でいうの。うけるぞ、きっと。
大阪の高校生たるものが、「厳粛な式典」なんてお仕着せに従っていいのか。「お奉行の名さえ知らずに年暮れぬ」の小西来山にたいして恥ずかしくないのか!なーんちゃって。
お笑いの都というなら、紋切り型の管理主義に少しは抵抗しろよ、と思うんだけどねえ。超アップテンポで「君が代」歌うとかさ。根性無しというより面白みに欠ける県民性だな。(と挑発してみる)
kgofbostonさん
どこにって、タイトルに書いてあるじゃないですか。“「起立」する人の責任”って。
ここでいう「責任」に道徳的な意味合いは含まれていないというのなら、それは「橋下」の論法と同じです。「橋下」は起立と道徳(良心の自由)とは関係がない。ただ、組織の論理として起立すべきだと言っている。私は、良心的な人間は自身の行動と良心とを切り離せないと言っている。
この論理を敷衍すると、起立に対して責任を問うのはその人の道徳を問うことであり、そこには不起立を道徳的とする「暗黙の前提」があるといっているわけ。
>そーゆー私は、押し売りしてくる連中の異常な多さと気色悪さが原因で国歌国旗は大嫌いです。
それはよく理解できますよ。村野瀬さんはご存知ですが、私のかつてはそういった立ち位置にいたんですから。今はどうなんているのか知りませんが一応「護憲派アマゾネス」に名を連ねていたこともある。
私が言っているのは、kgofbostonさんが国旗国歌を嫌いになったのと同じ理由で、国旗国歌反対が嫌いになる者もいますよ、ということ。もともと国旗国歌が好きな連中はますます嫌いになるだろうし。それでいいのか、と問うているわけです。
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」
ご存知ですよね。日本国憲法の第19条です。あなた方はこれを金科玉条にしていますし、私も支持するのですけれども、私は上のコメントで主張したのは、この記事は、この条文を侵害している恐れがあるということなんですよ。
「橋下」がこの条文を侵害しているという主張には私は同意します。“悪意をもって”侵害している。と私は考える。これに対して村野瀬陣営は“善意でもって”侵害している、と私は主張しているわけ。
その明確な表れは、ふなぼりすたという人のお間抜けなコメントです。「橋下」を悪意、「村野瀬」を善意と位置づける。ここまでは私も同じです。私が同じと言ったのは「良心への侵犯」であって、これは悪意であろうが善意であろうがダメなんですよ。ここがわかっていないから、ふなぼりすたコメントは、善意であれば良心は侵犯して良いというものになっている。あからさまにそう書かれてはいませんよ。私のコメントへの応答として読むならば、論理的にそのように帰結するということです。
条文には“悪意をもって”なんて条件付けはなされていないでしょう? 無条件に侵犯してはならないんです。あなた方はそういったことに非常に鈍感なんですよ。敏感であるというのなら、あなた方こそがふなぼりすたコメントのようなお間抜けを糾弾しなければならない。自身が拠り所としているものを無意識のうちに侵犯しているんだから。それが出来てこそ“不起立の道徳を問う”といった「離れ業」ができる資格がうまれるんですよ。
欧米ではこのようなに密な議論が為されている。倫理というものは「綿密に議論が為されなければならないというもの」なのだことへの理解が広まっている。だから、ドイツのように「倫理委員会」が脱原発を提言したら国民は受け入れられるのですよ。
仮に日本で「倫理委員会」を作ったって、その結論を国民の大半が支持するということにはならないでしょう。それは倫理が綿密に議論されるべきものだということを知らないからです。知らないから委ねられない。「空気」が倫理を支配してしまう。あなた方もそうした「空気」を生み出しているという点で「橋下」と同罪です。私が言っているのはそういうこと。
悪意をもって良心を侵犯するのは誰にもわかるからまだいいんです。問題は善意から侵犯されること。これは気がつきにくいから恐るべきものなんです。欧州でファシズムが怖れられているのは、善意からの良心の侵犯がファシズムを導くことになるからです。
わかります?
僭越ながら
『【良心】ほど始末に負えないものはない』
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-515.html
『現場とは何なのか/現場とは何処なのか』
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-604.html
『橋下批判と『生きる技法』』
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-630.html
よろしければご覧になってください。
やはり、あなたは随分な「誤読」をされています。
確かに「起立する人の責任を問う」というタイトルは誤解を招き易いタイトルですが、本文をきちんと読めばあなたの言うような奇妙な解釈は生まれないはずです。
もう一度、一字一句漏らさず読み直されてはいかがですか。
まさかとは思いますが、「意図的に曲解している」わけではないですよね?
SVなんとか、とかいう卑劣な輩のように。
そうではないことを願っています。
直截的
本文はこういう解釈の方が正しい、って教示するほうが話が早い気がするけど……。
つくづく皆、日本人なんだなあと思う。「何が正しい」、「何が間違っている」って、思うところを簡潔に示せば時間の短縮なのに……。
こういう発話態度も、日本的「ぐしゅぐしゅ」性ではないかと、わたしは批判的です。
国会での討論なんかか聞いていると、「敬語を禁止して語らせろ、この馬鹿どもに」とイライラするんですけどね。
ついでにいうと、橋下だの石原慎太郎だの「率直なものの言い方」なんてのも嘘っぱちで、あんなの官僚しゃべりの因循姑息と実は大差ないんじゃないかと思っています。(ここを説明するのは難しいので時間がかかりますけど)
やれやれ
はっきり申し上げましょう。私はこの記事だけならば、このようなコメントをすることはなかったでしょう。あなたのようなコメンテーターがいるから、このような批判をする気になったのです。
自分の読解だけを正しいとして他の読解を許さず、卑劣とこき下ろすその態度。それが自分たちが掲げる「格調高い理念」を穢す態度だということについての理解が全くない。
私は記事を敢えて誤読しているというところはあります。それゆえに、どこをどう「誤読」したのかをはっきりと申し上げることは出来ます。と同時に、その「誤読」は必ずしも不正解ではないということもわかっている。この記事は数学の方程式ではないのです。幅のある解釈を許す余地がある。その余地を敢えて偏った方向へと選択していくと、「村野瀬」批判の解釈になるのです。
が、どこをどう選択したかをここで示すことはしません。それはyasuさん、あなたの役割です。私やsv400s-dracinさんを誤りというのならば、どこをどう解釈したことが誤りなのか、明確に示す必要がある。立証責任は有罪だと主張する側にある。そのくらいの「常識」は弁えていますよね?
それをせずして単に誤読だとレッテルを貼るのは、自分が正しいということ言い立てたいだけのこと。それこそあなた方批判する右向きの人たちの卑劣な態度と同じものです。やつらは自身の「正しさ」の担保に歴史や伝統を用い、あなた方は「良心」を用いるのです。
そうした「良心」ほど始末に負えないのだと主張した私のブログ記事は読んでいただけましたか?
というわけで、yasuさんの論証をお待ちしています。ま、そんな能力はないと踏んでいますがね。
sv400s_dracin さんへのお説教の続き への返答
>このぐしゅぐしゅ日本社会を相手にしているのだから、際限ないのはしょうがないんです。
だめですか?…それって、私が「~だから、デモってうるさくて嫌いだぁ」って、サウンドカーに文句をぶちぶち言ってた時も、「それでも、声を上げなきゃいけない」って、誰かに説教されたようなのと意味は同じですか?…ですけど…とまだ、言い返す因循姑息な私…常々ノンポリと自称、他称する私は…以下、毒多さんのブログへのコメントを引用…多様性こそが大事だと思ってますし、左を向け、左!(右向け、右も可)…右(左)を向くお前は、間違ってるぞって、注意されると、戸惑いつつ、左(右)を向きながら、心は、全力で後ろ向きに逃亡するめんどくさいタイプなので…追記:始 そーいうのって、闘士君には、ゆるせないのは、わかるけど 追記:終…それは、そうなんだけど、と思いながら、責任まで問うのかよっと石をなげてみたわけです…不純な動機…
でも、いちおう、愚樵さんのコメントを引き出せただけでも、投石した価値はありました…ノンポリで卑劣な輩が言っても、説得力がないですものね…私としては、一連のコメントを読んで、×と△の親和性が高すぎてなんともいえない…kuronekoさんにはっきり言えよと言われたのに、婉曲でずるい私です…だって、あぶない…危ない、危ない…
話し外れますけど…いつもずらしてるけど…
>国歌斉唱「口動いてない」教員、校長がチェック
っていう、記事を読んで、昨年、東京外国語大学の伊勢崎賢治さんと家族会元副代表の蓮池透さんの対談型式の集会を見に行った時…自称ノンポリの癖にあっちこっち行く…大阪府立の教員の女性の方が、「今までは、とりたてて、起立しなくても、咎められる事はなかったけど、これからは、どうなるのかわからないし、迷う」ってな、事を発言してたような…曖昧な記憶…あの女性教員はどうしたのかなぁって思い出しました…起立しないと、処分されるんですよね…最悪、分限免職でしたっけ…曖昧な記憶で申し訳ないけど、その方は、処分をうけるのと、教育者として、教育を続けるのとどちらが正しいのかを悩んでたと記憶してます…闘士さんたち(嫌味)は、それでも、信念を貫いたほうがいいというんでしょうけど…処分の是非ではなく、処分はあるという事実を受け止めて悩んでいた…私は、そーいうのを悩む教員には、残って欲しいと思う…そーいう迷いがなぜ起きるのか、何がいけないのかを解き明かして欲しい…歴史なのか、政治なのか…教育って、そーいうものでしょ…
処分を受けても、信念は貫くべきだと思うのでしょうか?…残るのは、責任を回避した無責任な教員だ ということですよね…信念を曲げた教員がする教育に疑問はないのでしょうか…
個々の教員の責任ではなく
起立したり斉唱したり自体は、その方が自分の個人的信条って人だっているのだから、文句をつける筋合いではない。日の丸・君が代の侵略性というなら、「そんな国旗・国歌法を通した政治責任と、成立したあとでも社会を啓発して、国旗・国歌法廃案、新国歌制定運動を提起しない政党の責任をまず問えよな。個々の教員より、ファシズムの土壌を用意してるんじゃないのかよ、おら」と話を転がすこともできる。
でも、個人の内面の自由の侵害を確信犯で行う権力を目前にして、長いものに巻かれた方が楽だという行動をとることの責任はあるでしょう。
もとよりその結果が直線的な因果関係で悪いかはわからないけど。皆が起立した→ファシズムがやってきた、って単純化はできない。だけど、アパシーだと政治も良くならないというような形での影響はあると考えられる。
また大勢順応に見えて、不起立の先生には事前にわざと校舎の外の監視業務を割りふって、式への参加を実質免除するとか、現場も一本調子に管理主義に走っているばかりでなくいろいろあるらしい。だから紋切り型で概念的な批判をするのも如何なものかとは思います。
でも現場によっては、不起立をするという教師は、めんどくさいもめごとを起こす奴、とみんなでハブっちゃえなんてことがあるかもしれないですよ。
結託や謀議はなくても、そっぽを向かれるかも。
そうやってぐしゅぐしゅで曖昧な日本社会で、じめっとした社会風土が強化されるかもしれない。こんな言い方をしている分には概念的なはなしですけどね。そう描写したほうがいいような現実の事態が起こるかもしれないとなったら、考えどころでしょう。
ただ、もっと不起立の教員が増えて、学校の半分以上の教師が不起立だったら、管理側も気安く処分はできまい、ってことではないね、多分。数の問題、ピケを張ってストをやっているのを、切り崩されてスト破り、って話ではない。不起立って個人の良心を問うているのだから。
個人の良心の問題だから、華々しく情宣もできなかろうし、マスコミは個人の心情などはスルーしがちだし、なかなか大変でしょうねえ。
大阪はしらないけど、東京は不起立1回ごとに処分があって、積もり積もると免職って、ポイントカードかよって仕組みたいですね。
まあ、誰が悪いっていったら、つまるところ「熱血先生」なんてもてはやす癖に、学校が管理強化されたら、上の命令を聞くのは勤め人(公務員)として当然だ、って被管理至上教員をよしとする一般ピープルなのかも。
乗りかかった船なので
>大勢に従って意に反する行動をする「事なかれ主義」の教員の「責任」を問うというのは、事のポイント
そこはわかるんですがね。
「橋下」の「圧制」に対して、「不起立」でしか対抗手段がないというのなら、儀式の場で傍観してなんら行動を起こさない者に責任を問う、というのは筋が通ると思うのです。
でも、対抗手段はあるんです。それは橋下徹を落選させることです。彼の主張は民主主義的な手続きを経て、一応は信認を得ている。と、彼は主張するわけです。その上で、民主主義的な決定を尊重しろ、と。内面で反対するのは自由だし、それを次回の投票行動として表現する自由にはもちろん侵害しない。けれども、一旦民主主義的に決まったことは、それが民主主義的に覆るまでは尊重しろ。そういう論理なんですよ。
ここの議論が不十分なのは、「橋下」のこの論理に対抗できるだけのものを提示していないということ。単に「良心の自由を侵すな!」と主張するだけでは、「いや、ちゃんと民主主義的に良心の自由を表現する機会はありますよ」と言っている「橋下」に対して感情的に批判しているとしか受け取ることが出来ない。
私は内田樹と同様に、そうした民主主義的【システム】の論理が教育の「現場」に入ってくることそのものに反対です。そして、ここで行なわれている反対論も、実は民主主義的【システム】を前提としたものでしかない。教師たちが自分の信念を貫くことが果して教育に、つまり子どもたちにとって良いことなのかという自省がないんです。
私は、『現場とは何なのか/現場とは何処なのか』
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-604.html
で橋下徹のいう「現場」は第二次産業のそれでしかないと批判しましたけれども、実はここでの教師たちの信念も第二次産業労働者のそれでしかない。「良心の自由」は、工場労働者が雇用主や行政に対して要求する最低賃金や社会保障と同等のものでしかないんです。
そしてです。このことは現実とも符合するんです。「良心の自由」を労働組合的闘争の道具としてきた教師たちは、子どもたちへの教育を工場で工業製品を製造するように行なってきた。その「成果」は明らかでしょう。「橋下」は学力低下という一面しか評価しませんが、子どもたちの心の問題へ踏み込んでいくならば、教育産業労働者としての教師たちがどれほどの成果をあげてきたというのか。負の「成果」の方がずっと大きいのではないのか。
自身の信念を主張するのはもちろん自由ですけれども、自分の果すべき役割についての自覚が疎かになるのはいただけません。卒業式とて「教育の現場」なんですよね。その観点からの議論は、kuronekoさんが少し提示した以外は、全くないのです。
全然噛みつかれてないわけですが
>でも、対抗手段はあるんです。それは橋下徹を落選させることです。
そこが難しいところなんです。政治イシューになっているにもかかわらず、政治的に対抗すると、「イデオロギーからの行動」と言われかねない。
教員たちが、入学式・卒業式といった場面でなく、日常的に校長や教育委員会に「一律強制反対」と申し入れたり、議会に請願したりすれば、それも政治的行動だとして、攻撃されるでしょう。
橋下リコールという運動もありますが、大変だという前に、学校式典での「日の君」強制というワンイシューで、選挙をするというのが、合理的だったり現実的だったりするのかどうか。
「選挙で選ばれた権力なんだから、強制は当たり前でしょ、むふん」という橋下政治は、投票行動の結果が全権委任だと主張するわけですが、学校現場での不起立や処分というワンイシューで、直接投票を提起するのも、政治上の価値意識の「乗っ取り」というか、それを他に優先させる点で、多数の市民から受け入れ可能なものなのかどうか。
個々の式典での問題に限定して、個人の行動として提起するほうが、実際的でもあり妥当でもあると思います。
「世間」を実体として批判することが意味があるのならば、起立した教員よりも「世間」のほうが批判されるべきでしょう。「マスメディア報道」の責任を問う、ならば、もう少し意味のあることかもしれない。
教育労組の責任、もステークホルダーの一つとして問う意味はあるでしょうね。
「良心の自由」を労働組合的闘争の道具としてきた教師たち という言い方は失当ではないでしょうが、そういう教師は、別に不起立教員ではない。
現実に不起立している教師は、組合活動など全然してこなかった人とか、クリスチャンで「戦前の日本みたいなものはいや」と感じる人とか、ばらばらでしょ。
60年代の文部省-日教組の対立構図が残存して、その中でラディカルな部分が不起立に走っているわけではない。
1.そもそも「“『日の丸・君が代』に敬意を表することは不道徳だ”と規定」しているのか
なので、私が代わりに遊んでみることにします。
(長文引退とか言っておきながら今回やっぱり長いんですが、サッカー選手だって引退→復帰は珍しくありません(いったい何の関係が・・・)。拙ブログのネタづくりの為とご容赦ください(←えっ?))
・・・・・・・・・・
「具体的にどの部分を指しているのです?」というkgofbostonさんの質問に対して、愚樵さん曰く
>どこにって、タイトルに書いてあるじゃないですか。“「起立」する人の責任”って。
・・・いやこれ、「引用ブログのタイトル」ですからwww。
まあ、最大限好意的に解釈すれば、タイトルが「「起立」する人の責任(「ペガサス・ブログ版」)を読んで」(←丸括弧の位置注意)ではないので、村野瀬さんが「責任がある」という考えだと読み取れる、ということでしょうか。
それとも、これがあの「敢えて誤読」のうちの一つなのかしら?
とはいっても、
>不起立の先生方をリスペクトしただけでは不十分で、不起立の先生方を孤立させてはいけないということも肝に銘じます。「いじめに直接加わらないけど傍観していることはいじめへの加担である」と心を決めて、いじめる側を勇気づけるふるまいをしたくないという私の意思表示です。
上記は書いてある通りの「私の意思表示」であって、このエントリーで村野瀬さん自身は、起立する人に対して、その道徳観に言及したり、何かを呼びかけてすらいませんけどね。
やっぱただの「誤読」なのかと思いつつ、ここも頑張ってさらに最大限好意的に解釈すれば、きっと
>「空気」を生み出している
という事が、愚樵さんとしては言いたかったのでしょうね。
でもここまでくると、
「“空気”とは、『発言する側』ではなく『感じる側』がつくり出す」
の好例のような気がしますけどね。
これについては、またあとで触れる予定です。
まあ愚樵さんが「規定していると感じた」という事だけはわかりましたし、それはそれこそ「思想及び良心の自由」の領域ではありますが、それはそれとして、あの文からそのようなことを「論理的に」導くことは、やっぱりできませんよね。
これがつまりは「幅のある解釈w」ということなのでしょうwww。
・・・・・・・・・・
次投稿では、良心に「踏み込まなかった場合」の“「起立」する人の責任”について書いてみましょう。
つづく
2.踏み込まなかった場合
・・・・・・・・・・
すぐに思い浮かべるのは、
「あなたの意見は私の意見と違う。 しかし、私は、そのようにあなたが自由に発言できる権利を全力で守る。」。
民主主義の根幹を支える考え方の一つと言っていいでしょう。
これを今回の件に適用すれば、
「あなたの行動(着席)は私の行動(起立)と違う。 しかし、私は、そのようにあなたが自由に行動できる権利を全力で守る。」。
と、当然なります。
>良心的な人間ほど行動と良心とは切り離せない。
と仰る愚樵さんのこと、上記にも当然同意していただけるものと思います。
で、起立している人々の間で、このような「あなたが自由に行動できる権利を全力で守る」動きはどのくらい見られるでしょうか?
「絶望的なまでに不十分」と言わざるを得ませんね。
村野瀬さん自身は、今回のエントリーで、具体的に「どのような“責任”があるか」については一切言及しておりません。
ということは、上記のような“責任”を念頭に置いて書いた、ということも十分考えられますよね。
しかも、論理的矛盾もない。
それでもそれでも、めちゃくちゃ頑張って好意的に解釈すれば(もはや好意の域を超えてますが)、愚樵さんとしては「引用に対し注釈・私見をつけてない以上、『引用先の考え』と『引用者の考え』とが『同じ』とみなされても仕方ない」と考えたのでしょうか?
それとも、ここも「敢えて誤読」しているのでしょうか?
それともそれとも、「村野瀬さんの他のエントリーを含めて総合的に検討すれば、上記のような『踏み込まなかった場合』という解釈はありえない」ということなのかしら?
・・・・・・・・・・
よろしい。それなら書きましょう。
とは言っても、村野瀬さんがどのように考えているのかについては、聞いてもいない私が(聞いたとしても)代弁するわけにはいきませんので、ここから先は「私の考え」として書きます。
次投稿は、良心に「踏み込んだ場合」の“「起立」する人の責任”です。
つづく
3.踏み込んだ場合
・・・・・・・・・・
まずは、「敢えて(?)誤読」の指摘から。
>「橋下」を悪意、「村野瀬」を善意と位置づける。ここまでは私も同じです。
一緒じゃありませんからwww。
私は、「橋下は、橋下自身の『善意』に従って行動している」と考えてますよ。
この方が国家・国民のために良い、という「橋下の考える」「善意」に従ってね。
「『橋下』を悪意」だなんて、私がいったいいつ位置づけたんですか?
「論理的」に指摘できます?
「論理的にそのように帰結するということです」とかの誤魔化しじゃなくて、具体的に書けますか?
むしろ論理的には↑のような解釈しかできないはずなんだけどなあ。
・・・ということは、やっぱりここも「敢えて誤読」のうちの一つ、とゆーことですかねwww。
だいたい「良心の自由」を考えるにあたって、「『良心』というものは、そもそも絶対的に規定などできない」というのは「イロハのイ」でしょうに。
だからこそ、人は、どのような思想を持っていても、それを理由に法の裁きを受けることはない、と。
そして、これが決定的に重要なのですが、
「憲法第19条は、国または公共団体と個人の関係を規律するもので、私人相互の関係を直接規律することを予定したものではない。」
のです。(Wiki「三菱樹脂事件」の右上「最高裁判所判例・裁判要旨1」参照>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8F%B1%E6%A8%B9%E8%84%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
最高裁判所で「すら」、「私人相互の関係のための規定ではない」としているのです。
高橋哲也氏も「『思想、及び良心の自由はこれを侵してはならない』この命令は、主権者である 私たち民から、国家権力者である首相、あなたに向けられている」としていますね。(http://www.kyokiren.net/_action/1000/takahashi.php)
お間抜けなのは私ではなくて、愚樵さん、あ・な・た(はあと)
それでも、愚樵さん自身が「『憲法第19条は私人相互の関係も直接規律する』と考える/考えたい」とするのは、別に問題ないですよ。
それこそ「思想・良心の自由」の領域ですから。
しかし、愚樵さんはその同じコメントで
>私が同じと言ったのは「良心への侵犯」であって、これは悪意であろうが善意であろうがダメなんですよ。
と、「自分の読解だけを正しいとして他の読解を許さ」ない書き込みをしていますよねwww。
最高裁判例にすら反している考え方を!
大事なことなので、もう一度書きますね。
お間抜けなのは私ではなくて、愚樵さん、あ・な・た(はあと)
・・・・・・・・・・
さて愚樵さん、続けて
>ここがわかっていないから、ふなぼりすたコメントは、善意であれば良心は侵犯して良いというものになっている。
と仰っています。
まあぶっちゃけ「ここ」なんて「わかりようもない」んですがw、「善意であれば良心は侵犯して良い」からは、「敢えて(?)誤読」以上に「ある『基本的なこと』が全く理解できていない(か、理解できてないと詐称している)」ことがわかります。
次投稿ではそれを具体的に指摘し、先コメントで愚樵さんに「敢えて(?)誤読」された私のコメントの「正しい解釈」を書いてみたいと思います。
つづく
4.そもそも「良心の自由に踏み込まない」ことなど可能なのだろうか
「憲法第19条は、私人相互の関係を直接規律することを予定したものではない。」
のでしょう?
これは、ちょっと考えてみたらすぐわかることです。
なぜなら、「思想及び良心の自由」について「私人相互の関係を直接規律すること」など、そもそも「不可能だから」です。
ここで私が長々と解説してもいいのですが、ここまでもあまりに長くなってしまってますのでw、それについて言及しているブログを「参考」としてご紹介します。
>「「内心の自由」ってなんなんだ?」(http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20100422)
>言葉を含めて、人間の表現行為とは、他人の心のドアをノックすることだ。人間は、言葉を含めた表現によって、互いに影響し影響される。それは当たり前のことであり、人間の「コミュニケーション」とは、もともとそういうものだ。そこで「『内心の自由』は保証されている」などと言い出すことは、ただの無意味な冗言にすぎない。
ごく当たり前のことですね。
ここまで私は、愚樵さんの論理をなぞるため、愚樵さんの用法に「しかたなく」従って、「良心に踏み込む」「良心に踏み込まない」というように書いてきました(自分で「おかしい」と思っている言葉を「おかしい」と思っている用法で使うのは気持ち悪いものですw)。
それを愚樵さん、
>善意であれば良心は侵犯して良いというものになっている。
だってwwwwww
「善意」であれ、「悪意」であれ、「コミュニケーション/言論」とは、「原理的に『良心を侵犯してしまう』事から逃れられない」ものでしょうに。
私を、そんなこともわからない「お間抜け」と一緒にしないでくださいYO!
・・・・・・・・・・
ところで、憲法第12条には
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」
とあります。
そして、いわゆる「批判」とは、その「不断の努力のうちの重要な一つ」なのです。
この世には、天から与えられた「絶対的な正しさ」などありません。だからこそ人々は議論を重ね、時にはお互いを批判し、我々の社会における「正しさ」を我々の手で作り上げていくのです。
憲法第19条を「私人相互の関係のための規定ではない」とするのは、その手続きを保障するためでもあるのです。
私の先のコメントの
>あ、上の感想は私の「良心」ですので、コメント欄で「良心とはかくあるべし」と規定しようとするのはご遠慮くださいねwww
は、愚樵さんが私をどう「批判」しても、どころか私に「何を言っても」「原理的に『良心』を侵犯してしまう」のを、愚樵さんが理解してない(ように偽装している)のを揶揄しているのです。
愚樵さんにとって、民主主義とはいったいどのようなイメージなのでしょう?
・・・・・・・・・・
もう一つ、愚樵さんが歴史を「敢えて(?)誤読」しているところがあります。
「善意からの良心の侵犯がファシズムを導くことになる」のではありません。
ファシズムとは「善意そのもの」「良心そのもの」なのです。
戦前・戦中の日本で、天皇陛下の為に死ぬことは「良心」でした。
オウム真理教(現アレフ)を信仰することも、その信者にとっての「良心」です。
およそ「人間は自身の行動と良心とを切り離せない」のです。
だからこそ「良心」は、厳しく問われ続けなければならないのです。
愚樵さんのやっていることは、紹介ブログの中の喩えで言えば、
「他者の声に耳をふさぎ、『あーあー、聞こえない』状態に閉じこもる」人に対して、「それでいいんだよ」と甘くささやく
ことなのです。
愚樵さんと私、果たしてどちらが「ファシズムに導く者」なのでしょう?
・・・・・・・・・・
愚樵さんについて、だんだん「わかって」きましたね。
長文投稿も次までとして、最後に愚樵さんの「正体」に迫ってみたいと思いますwww。
つづく
5.愚樵さんの「正体」
1.で書いた「またあとで触れる予定」について。
・・・・・・・・・・
愚樵さんは、なにやら「橋下さんや村野瀬さんが空気をつくっている」かのような口ぶりですが、論理的に考えれば
「“空気”とは、「発言する側」ではなく「感じる側」がつくり出す」
もののはずです。
それが証拠に「空気を読め!」って言うじゃないですか。
(とはいっても「良心の自由」を侵犯できない愚樵さん、一般ピープルに責任があるかのようなことは書けないのでしょうw。)
1.の例でも、(「空気」の存在を主張するならば)その「空気」をつくり出したのは愚樵さんの方です。
こちらの方(http://ameblo.jp/voodoo32kpci/)の秀逸な造語を拝借すれば、
「村野瀬さんが『空気』を生み出している」
のではありません。
そうではなくて、
「『内心を批判されたくない』という甘えた精神の人々や、愚樵さんのように“それでいいんだよ”と『甘くささやく人』が、『村野瀬さんが“空気”を生み出している』という『Air』を生み出している」
のです。
「Air~」は無敵!ですものね~
・・・・・・・・・・
それでは最後に、愚樵さんの「正体」に迫ってみましょうかw。
「空気」を生み出しているという点で「橋下」と同罪
とか
その「誤読」は必ずしも不正解ではない
とか
「自分の読解だけを正しいとして他の読解を許さず」
と敢えてw誤読するあたりとか
なんていうか、昔からいる「中立を偽装する自称インテリ(笑)右翼」そのまんまなんだよね。
「どっちもどっち」とか言って一人悦に入ってるようなw。
そのくせ「批判」されると、「左翼は『自分の正義が絶対』という点でファシズムと同じ」みたいな反論(爆笑)しちゃったりwww。
私の年齢くらいだと、イザヤ・ベンダサンとか思い出します。
懐かしいなあ。
皆さんも、特にある程度年齢がいった方なら「ああ、そう言えば」って思われたんじゃないですか?
あ、でも思考の様式が似ているってだけであって、もしかしたら「偽装している」だけなのかもしれませんね。
何か「真の目的」を隠して・・・
・・・ま、でもそんなのどうでもいいや。
私は右翼でも左翼でも、一定レベル以上の方からはいろいろ学びたいと思っていますし、これは、という人は尊敬もしています。
しかし、このレベルでは・・・正直モ・ン・ダ・イ・ガ・イですわ。
まあ、ただひとつ敢えて言えば、
愚樵さんがもし「ファシズムを信奉する『良心』の持ち主が大多数を占める国」に生きていたら、彼はどうやって戦争突入を防ごうとするのか、どのように論理を構成するのか、ということには興味があります。
「『良心の自由』を侵犯しない」という、およそ「人間には不可能な条件」をクリアしながらね。
・・・・・・・・・・
おまけ
さて投稿するか、とコメント欄を見たら「全然噛みつかれてないわけですが」。
ワロタ。
・・・・・・・・・・
最後に、村野瀬さん。
引退宣言したのに勝手に復帰して、今までにもまして長文になってしまい、申し訳ありません。
そして、最後まで掲載していただいてありがとうございました。
おしまい
ピケ破りじゃない
さて投稿するか、とコメント欄を見たら「全然噛みつかれてないわけですが」。
ワロタ。 ( [15225]のコメント)
この不審な笑いは何なのか気になるなあ。
まあなにはともあれ、これから秘書室で起立した生徒や国旗・国歌法廃絶運動をしない政党への批判エントリーが続けば、わたしはそれでいいや。
皆さん知らないだろうけど、1970年前後は「自己否定」ってのが流行っていたのよ。自己否定しないサヨクははサヨクじゃないの。起立教員を批判するのは、「世間」の構成要素である自身を批判、否定することなの!! 70年代感性ってそういうもの。
sv400s_dracin さん、」わかりましたka。
起立した教員を批判するのは、ストのピケ破りではない、ということだけ確認できれば、まあわたしの言いたいことは言ったわけだけど……。
「傍観する自由」を声高に叫ぶ人達
ハシモト君はとってもおしゃべりが上手で、すぐにクラスの人気ものになり、そして学級いいん長になりました。
学級いいん長となったハシモト君は「このクラスはいいクラスではない。このクラスをほかのクラスよりいいクラスにするためには新しいルールがひつようだ」といい、つぎつぎに新しいルールを作りました。
たとえば「校長先生にあったら、90どに頭を下げておじぎをしなければいけない」とか
「校歌せいしょうの時はかならず大きな声を出して歌わなければいけない」とかです。
そして、まもらなかった人は「一週間、クラス全員からムシされる」というのです。
私とA子ちゃんはハシモト君に「そんなルールはおかしい。やめよう」と言いました。
次の日から私たちはクラスのみんなからムシされたり、休み時間に教室からおい出されたりしました。
私たちはB男君とC美ちゃんのところへ行きました。
かれらがいつもカゲで「ハシモト君はキライだ」とか「ハシモト君のやり方はおかしい」とか言っていたからです。
私たちはB男君とC美ちゃんに言いました。
「私たちがクラスからムシとかされているのに、どうして助けてくれないの?いっしょにハシモト君にもんくを言いにいこう」
すると、かれらはとつぜんおこりだして、こう言いました。
「クラスのみんなにはハシモト君のルールにしたがう自由があるし、僕たちには傍観する自由があるんだ」
私たちはがあっけにとられていると、さらにB男君は言いました。
「そんなことを言う君たちはハシモト君と同じだ」
私はとてもイヤな気持ちになりました。
このエントリーは上でも述べた通り誤解を招き易いタイトルですが、本文自体はとてもシンプル内容となっています。
受け止め方こそ人それぞれですが、本文自体は複数の様々な「文学的解釈」が成立するような類のものではありません。
一定の知性(読解力)を備える者が、奇妙な「解釈」をしたならば、原因は二つです。
「本文をまともに読んでいない」か
「意図的に曲解を試みている」かです(或は両方)
前者なら単なる過ちですので、読み直せば済むハナシですが、問題は後者です。
残念ながら、愚樵なる人物は後者でした。
尤も、私に向かって、svナントカの誤りを具体的に示せ、等と言い出す所を見ると、この人物がエントリー本文はおろか、コメント欄のやり取りすら「まともに読んでいない」し「読む気すらない」ことが良くわかりますね。
そういう「性質」の人なんでしょう(笑)
「解釈」ゴッコに誤魔化されて、彼らの本質を見失わないよう、お気をつけください。
それよりまだ、「B男君達は何故怒り出したか」を考察する方が有益ではないでしょうか(笑)
なんとかしなくっちゃ
起立した教員を批判するのは、ストのピケ破りではない →「ストのピケ破りへの批判」ではない
しかし、脱原発署名はあるのに、なんで「国旗・国歌法」廃絶署名運動はないんだ? サヨク全体が起立教員みたいになちゃったのか。とほほ。
「噛みつく」は、挨拶です
おわかり頂いていると思いますが、「噛みつく」はあくまで挨拶でして。揚げ足取りをする輩もいるように見受けますので、ま、一応、確認のため。
さて。
>そこが難しいところなんです。政治イシューになっているにもかかわらず、政治的に対抗すると、
それは仰るとおりですね。報道を含めたこのバイアスはなんとかならないものかと思いますが。政治イシューだと明言しているのは「橋下」にも関わらず、政治イシューに関わったとして公務員の思想調査をするわけですから、なにをか言わんやなんですが。
しかし、私の言いたいことはそのことではありません。“橋下徹を落選させればいい”と言ったのは橋下氏自身です。彼がなぜそのように言えるのかというと、不起立の抗議行動が、教師たちの認識がどうであろうと、それはすでに政治的行動だということ。なので「橋下」がしているように真正面から政治イシューとして取り扱われた場合に、対抗する手段に欠けるということなんです。あるとすれば、可能性の低い橋下落選しかなくなるが、政治的状況は仰るように非常に厳しい。
にも関わらず「不起立」を支援していこうというのは、これは特攻隊の精神にも通じるものがある。負けそうだけれども“絶対に”負けてはならないから、皆、勇気を持って奮い立て! というわけです。今、立ち上がらないのは(今の場合は逆ですけど)非市民だ、ということになる。
これを「空気」と言わずしてなんというか――おっと、kuronekoさんへのレスではなくなってきましたね。苦笑。
しかし、私が個々の式典での個別的抵抗運動を支持しながらも批判する理由はおわかり頂けると思います。いずれにしたって、このままではジリ貧なのは明白だし、肝心の生徒たちの方へも、教師たちの「心」が伝わらない。おそらく。生徒たちは単に政治的な闘争としか見ていないと思います。それでは犬死にでしょう、ということです。
では、方法はあるのか? 政治的に考えるならば、こうした場合は条件付き降伏というのが最善の手段でしょう。その条件ですが、例えば、式典では指示に従う代りに、日の丸・君が代の歴史的意義を生徒たちに伝える場を“公式に”認めるように要求するとか。最も重要なのが、闘争に勝利することよりも生徒たちに「心」を伝えることだとするならば――教育はここが目的のはず――、この方針は的外れではないと思います。
そう考えていけば、では、果して教師たちがそうした方向にすんなりとアタマの切り替えが出来るのかという疑問が湧く。できるのならいいんです。けれども難しいかも知れない。だとするならば、それは教師たち自身が第二次産業労働者のマインドになっているからだ、という批判に繋がっていくわけです。
これは労働組合に加入しているかどうかを問うているわけではありません。思考が労働組合的かどうかを問うているのです。
いずれにしても、このような問題を奇貨に、教育とはないかが再考されるようになるといいのですが、なかなか望みは薄いようですね。
やっぱりそういう誹謗か
難しいエントリー
>一定の知性(読解力)を備える者が、奇妙な「解釈」をしたならば、原因は二つです。
奇妙な「解釈」 という語の指す意味が理解できないから、おっしゃること全体が理解できません。
もちろんわたしの読解力の無さは あなたの責任ではありません。
悩ましいのは、起立した教員の中に「卒・入学式の日の丸・君が代で起立することは教育効果があり、自分の心情にもかなっている」という人もいるだろうということです。
そういう人の起立責任って、「そういう思想をもっていること自体がいけないこと」とするわけにはいかないとしたら、どう定位すべきかな、と思案。
その考えを思想として批判することはできるけど、折伏して考え方を変えさせるべきってのもね。
このエントリーは、わたしにはかなりなアポリアを突きつけられるものとして、そうそう簡単に読解できるものではないのです。
それはわたしの事情ですから他人様とは没交渉ですけど。
「大阪の高校生の大多数は退屈なキャラで、長いものに巻かれろの社畜予備軍」ぐらいのはなしなら理解しやすいかも。
格調の高い村野瀬秘書室のために。
ふう。ならばどうして、格調高きところを目指すこの村野瀬秘書室で、このように品位のないコメントを投稿するのでしょうね? 品位と知性とが一致するわけではないのは百も承知ですが、とはいえ、比例するケースも多いので、私はてっきり知性の方も品位と比例しているのかと思い込んでしまいました。そこのところは伏してお詫び申し上げます。
(最初の私へのコメントをもう少し丁寧に書いてくだされば、そんな誤解はせずに済んだのに...、と愚痴。)
さて。
まず、yasuさんへのコメントで申し上げたことの確認ですが、私が批判しているのは、「村野瀬」です。決して村野瀬玲奈さん個人ではない。村野瀬玲奈だけならば、このような批判を展開することはなかった。格調高いはずのこのブログの品位を貶める者たちがいると認識したので、このような論陣を張っている次第。
だって、せっかく村野瀬さんが格調高い記事を書いたところで、足元がこれでは台無しですもんね。
でと。
19条を引っ張り出したのは私の不覚でした。この程度で足りるだろうという侮りがありました。その理由は上で述べた通りです。19条を持ち出した私への批判の論理には、私も肯く以外ありません。
というわけで、ここから先は、ふなぼりすたさんが持ち出したコミュニケーション論への批判になります。いえ、違う。コミュニケーション論“への”ではない。ふなぼりすたさんのコミュニケーション論の扱い方への批判です。
>「善意」であれ、「悪意」であれ、「コミュニケーション/言論」とは、「原理的に『良心を侵犯してしまう』事から逃れられない」ものでしょうに。
ここもまったく仰るとおり。が、だからといって、良心を侵犯してよいのだという理屈にはなりません。原理的に侵犯してしまうものだからこそ、細心の注意を払ってコミュニケーションを行なうべき――となるのが筋というものでしょう。
村野瀬さんはともかく、村野瀬さんをとりまく「あなた方」には、その姿勢が決定的に欠けると言わざるを得ない。コミュニケーションが原理的に失敗するのだというのをいいことに、意図的にコミュニケーションを失敗させているようにしか見えない。それは「ハラスメント」と呼ばれる行為です。
>ところで、憲法第12条には
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」
>とあります。
>そして、いわゆる「批判」とは、その「不断の努力のうちの重要な一つ」なのです。
そう仰るふなぼりすたさんが、なぜ私の批判を「不断の努力のうち」と認めることが出来ないのか? この点は甚だ疑問です。私はyasuさんに示したように、この批判は敢えてするものなのだと明言しています。私の意図を、コミュニケーションが失敗しないようとするならば、「不断の努力」とまずは解釈するのが基本です。ふなぼりすたさんをはじめとする「村野瀬」の姿勢は、ここから大きく踏み外していると言わざるを得ない。
このような態度を一般的にはどういうか。あなた方がよく用いる言葉です。「卑劣」というのです。ふなぼりすたさんはせっかくの知性がありながら、それを建設的に用いることをしない。他人を貶めるために使っている。嘆かわしいことです。
そのようなあなた方とのこれ以上の議論は消耗戦になるだけのことでしょう。「空気」についてetc、指摘したいことはまだあります(kuronekoさんへのレスで一部記しましたが)。しかし、建設的な議論になるとの期待はできそうにありませんから、私も無駄な労力を使うのは省かせていただくことにします。
ということで、私は撤収させていただきます。あとは私への更なる人格攻撃をなさるのも結構、どうぞご自由に。もう、ここへは出入りすることはないでしょう。
おっと、kuronekoさんからのレスがあるかもしれないか。が、残念ですけど確認には来ません。kuronekoさん、失礼をお許しください。
露骨なアクセス数稼ぎ
自分のところでエントリーを立てました。
明日に自分のコメント欄にレスポンスを書きます。
なんか聞くだけ聞いて、応える時間をとらずに申し訳ありません。
忙しさにかまけている間に色々な意見が出ていて見てるだけで勉強になります。少し遅すぎたかもしれないですが、一応返答を。
なるほど、“「起立」する人の責任”ね。
完全ではないですが、ま、おっしゃりたい事の推測くらいはできました。
確かに「責任」て言葉は良心の押し付けに受け取られかねない言葉ではある。
良心を規定するってのは自由の侵害だね。そこはおっしゃる通り。
他人に迷惑かけない以上、自分が何しようが文句言われる筋合いはない。
じゃなければ、タバコも駄目だし禁酒法時代の再来ってことになる。
ま、ここで言う「責任」てのは、自分が国旗国歌にどーゆー態度をとるかに関する責任(善悪、価値判断基準といってもいい)じゃなくて、
自分がどーゆー立場に立とうが非対称な力関係の中で現実に理不尽な扱いを受けている少数を「認識」する責任ってことだと自分は思っていますけどね。
正しく書くなら、「現実に理不尽な処分を受けている者を無視して迫害を助長するな」といったところだろうか。
ぶっちゃけ、それをするのに起立する・しないとか、歌う・歌わないは関係しないと思うんだよね。
あえて誤読してるというのもメッセージ性があって面白く考えさせてくれます。
「起立してる連中は、起立してないことで被害に合っている連中を見捨ててる。だから良くない」
と、他人に受け取られたら負けとおっしゃりたいのかな?(他にもあるかもだけど。)
まあ、この件に興味のなかった人が読めば確かにそー受け取るかもね。
でも、起立してないことで被害に合っている連中を見捨てないために、やるべきことってのは本来「自分が起立しない」ではないはず。「起立する」=「起立してない連中を見捨ててる」も論理的におかしい。
「起立しない」ってのは一つの手であって、やりたい奴がやればいい。
起立しようが、国旗を掲揚しようが、国歌を歌おうが、そんなのは瑣末な事でどーでもいい。実際私はそう。そーじゃなければ、精神衛生上とても耐えられるとは思えない(笑)。
大事なのは自分が国歌を大声で歌ってる最中に、「歌わない事で処分されてる者」を擁護し、「それはおかしい。理不尽だ」と言えるようにならないといけないって事かと思っています。
ジェームズ・メレディスの大学進学時にケネディがとった行動の精神を、力がなくとも一人一人が持って行動するべきだってとこだろうかね。
感想と批判
もしくは最初から気づいていて、『良心的な人間は自身の行動と良心とを切り離せない』や『細心の注意を払ってコミュニケーションを行なうべき』というのは、自分がする批判は『村野瀬』のする批判とは違うという逃げ道だったのかもしれませんが、屁理屈にしか思えません。
議論されていた方と違いがあるとすれば、『あなたの意見は私の意見と違う。 しかし、私は、そのようにあなたが自由に発言できる権利を全力で守る。』という価値観の有無のように感じました。愚樵さんの語った事を実践すると批判はできなくなりますし。
また、意図的な誤読や曲解は解釈の余地と言わず、それに基づく論理は詭弁です。
詭弁を弄する方と議論ってできるんでしょうか?私は議論できないと思いますが。
とりあえず、私には最初から最後まで慇懃無礼に罵っているようにしか見えなかったので建設的な議論をするつもりだった事に驚きました。
建設的な議論をするつもりだったのならば初めから意図的に誤読などせずに誠実に議論すれば良かったのにと思います。
遅くなりました
(別に待ってたひとはいないでしょうが)
しかし、誰かに何かいうことが、「良心に踏み込む」って、理解できないなあ。
一般的に、発話行為は、音声を相手の耳には否応なく届けるでしょうけど、「良心に踏み込む」って、そんなに簡単にできちゃうの?
みんな、良心とか気軽に大量に(もしくは簡単に侵入可能な形で)持っているんだあ。そうなのかあ。
わたしもそうなのかなあ。いままで気づかなかった。
B男の正体
最初に、私が何故このB男というキャラクターについて詳細な分析を試みようと考えたのか、理由を述べたいと思います。
このB男(一般的には日和見主義者・オポチュニストと呼ばれます)という存在こそが、「日本型ファシズムを産み出す土壌」を考察する上で非常に重要な役割を果たしている、と考えるからです。
ある意味では、所謂「ネトウヨ」等の存在以上に深刻な問題を孕んだ「病巣」と言えるのです。
B男のような人間が個人的に大嫌い、という理由はひとまず置いておきます(笑)
尚、この論考はかなりの長文となり、数日に渡るものと思われますが、お許しください。
ところで、皆さんはB男という存在をどう感じられましたか?
一見不可解とも思える行動をとるB男ですが、彼には明確な行動原理が存在します。
その原理の根本は徹底した「自己の保身と正当化」にあります。
「獣」と「鳥」の間を往来したコウモリの寓話は有名ですよね。
正にそのコウモリのように社会を上手く「泳ぐ」ことが彼にとっての人生の命題なのです。
その為に彼が取る行動形態は以下の通りに説明できます。
1、立場を明確にしない
2、事態の「先鋭化」を回避する
3、事態の「曖昧化」を計る
4、関係の修復を目指す
一つ一つ見ていきましょう
1、立場を明確にしない
これはご理解いただけますね。
人生をうまく立ち回る事こそが彼にとって唯一無二のテーマである訳ですから、基本的には敵をなるべくつくらないようにするのが彼の「生き方」です。
「私たち」のまえではハシモト君の悪口を言い、その一方ではハシモト君達とも良好な関係を築く、正にコウモリです。
ただし、平時ならこれで済むのですが、問題は両者の間で対立が顕著化した事態。
これを「自体の先鋭化」と呼ぶことにします。
2、「事態の先鋭化」を回避する
この「事態の先鋭化」はB男のような日和見主義者には非常に厄介な状況と言えます。
何故なら、この状況は彼に対し「立場の明確化」を迫るものだからです。
コウモリにとって最悪の状況は「正体がバレる」事です。これは彼にとって命取りになる可能性がありますね。
最終的には「勝ち馬に乗る」B男ですが、はっきりと勝敗が見えないうちは、なるべく立場を留保したいところです。
ハシモト君と「私たち」の間を行き来しつつ、なんとか状況の回避を画策しますが、とうとう避けられない事態に直面します。
即ち「私たち」に詰め寄られる場面ですね。
B男君ピンチ!
しかし、彼の本領ははここから発揮されます。
続く
B男の正体(その2)
問題の本質を見え難くするため、並立する別の問題を提起しつつ、一般論や抽象論に転化させることで複雑化させ、最終的には「曖昧」(ウヤムヤ)にする、という事です。
即ち、B男の提示した「クラスメートがルールに従う自由」ですね。
この後も、次から次へと「手裏剣」「目くらまし」を飛ばしてきます。
「校長先生にお辞儀する自由」
「校歌を大声で歌う自由」といった具合です。
この「目くらまし」で「私たち」が混乱して、自分たちの側にも何か問題があったのかも、等と考え出したら思うツボです。
B男君はすかさず次の行動に移ります。
4.関係の修復を目指す
基本的に「敵」を作らないようにするのがコウモリ的日和見主義者の習性です。
B男君は「私たち」に言います。
「わかってくれたらいいよ。僕も言い過ぎたようだ。僕も君たちと同じ気持ちなんだよ」
こうして、B男君はうまく「泳ぎきる」事に成功しました。
ここで押さえていかなければならない事は、B男は決して「私たち」の味方ではない、という事実です。
そして、事態を改善しようとする過程においては、足を引っ張る存在でしかありません。
最終的に選択が迫られた際は、一秒の躊躇いもなく強者の側を選択します。
彼のハシモト君批判は単なる方便でしかない事を忘れてはいけません。
えっ?話は解ったけど、現実にそんなB男みたいな人間いるのか?って。
そうですねぇ、やはり具体例がないとピンとこないですよね。
何かいい具体例は・・・
おっと、なんだ。喜んでください。
近くに絶好のサンプルがありましたよ(笑い)
この後は、具体例として愚樵なる人物の言説を検証しつつ、更なる考察を進めていきたいと思います。
続く
B男の正体(その3)
「良心を規定する」もので、「日の丸・君が代に敬意を表する事は不道徳だと規定」していると断じ、さらに批判対象である「橋下」と「変わらない」ものと批判をしています。
これを読んでいる皆さんは、ちゃんとこのエントリー記事をお読みでしょうから、このような愚樵さんの主張に違和感を持つ方が多いと思われます。
実際に記事のどこをどう読んでも、そのような主張はなされていません。
そうです。これが一つ目「手裏剣」「目くらまし」です。
B男君の例のやつですね。
この愚樵さんの主張に対し、kgotbostonさんが「具体的にどの部分を指しているのか」との指摘がありました。
当然の指摘ですね。
それに対する愚樵さんの応えは
>タイトルに書いてあるじゃないですか
(笑い)
これに対しては、ふなぼりすたさんも思わず突っ込んでいらっしゃいます。
詰まる所、具体的な論拠の明示はなされませんでした。
というか出来るはずはありません。
だってそんなこと書いてないもの。
しかし、愚樵さんにとっては自分の主張が正しいかどうかはどうでもいいのです。
何故なら意図は別のところにあるからです。
B男にとっては「クラスメートのルールに従う自由」も「お辞儀する自由」も「校歌を歌う自由」もただの「目くらまし」に過ぎず、実際はどうでもいいことなのです。
唯一大切なのは「傍観する自由」「見て見ぬ振りする自由」だけと言えましょう。
因みに私が婉曲的に(やんわりと)曲解をたしなめた事にに対しての愚樵さんのコメントが「傑作」なので紹介致します。
>(私に対して)どこをどう解釈したのが誤りなのか明確に示す必要がある。立法責任は有罪だと主張する側にある。そのくらいの「常識」は弁えていますか。
いやぁ、すごいですね。
「どこをどう解釈した」のかが明示されないので、私もあなたがどこをどう「誤」ったのかさっぱりわかりません。
いきなり「ツチノコ」がいないことを証明せよ、と言われたみたい。
それには先ず「ツチノコ」いる根拠を明示してもらわないと反論の仕様がありませんよねぇ。
まぁ、ネトウヨなんかはよくこの手の無茶を主張してきますが(笑い)
先ずこの批判を始めた自分に論拠の明示の責任があるのに、それはスルーして、相手には論拠の明示を居丈高に要求する。
おやおや こういう一種のダブスタは「橋下と変わらない」のですが、愚樵さんの「常識」ということでしょうか?
続く
B男の正体(その4)
愚樵さんの意図は、何とか本来の論点から議論の土台を別の問題に素早く移行させることにあります。
問題のスリカエ、一般論、抽象論への転化。
そして、最終的にはこのエントリーの訴えている主張をも「曖昧化」する。
それこそが愚樵さんの狙い、という訳です。
愚樵さんはさらに論点をぼやかしつつ、混沌とした状況づくりを進めるため「手裏剣」(飛び道具)を飛ばします。
>私は敢えて記事を誤読をしているというところはあります。それ故にどこをどう「誤読」したかをはっきり申し上げる事はできます。
キッパリ(笑い) なんなんでしょうか? これは??
お腹が痛いです。
はじめの主張の論拠は示さないのに、どう「誤読」したかについては「はっきりと申し上げれる」そうです。
つまり、「意図的に曲解していた」ことを認めるってことですよね。
「橋下と変わらない」等と罵倒しといて。
おいっ まず謝れ
ところで「どこをどう誤読したのか」何時になったら「はっきり」させてもらえるんでしょうか?
因みに「誤読」という表現は私の指摘を受けてのものですが、私は最初から「誤読」だとは思っていませんでしたよ。
あなたの「正体」を見極めるために使っただけです。
「憲法19条」を持ち出したり、護憲アマゾネスにいた過去なんかを持ち出したりしたところで「正体」を誤魔化すことは出来ないんですよ。
こういう「目くらまし」「手裏剣」も論理的に分解してしまえば、何ってことはないのですが、実際には案外効果的だったりします。
だからこそB男 じゃなっかった、愚樵さんも用いる訳です。(きっと、今までもそうやって生きてこられたのでしょう)
こういった詐術に嵌らない為には、「相手の提示してくる土俵には乗らない」事、そして常に議論の原点(ここではエントリー記事)に立ち返って問題を考える、という事が肝要なのです。
でなければ、なんだかよくわからない議論にウダウダ引っ張られているうちに、図らずとも本質の「曖昧化」の手助けをしてしまう危険性があるのです。
続く
「B男の正体」その5
そう、「関係の修復」を目指す、ですね。
元々、村野瀬さんの書いた(紹介した)エントリー記事の(よくわからない)批判から始まった愚樵さんの書き込みですが、村野瀬さんを「敵」に回すつもりは毛頭ありません。
そこで頃合いを見計りながら、徐々に批判する対象を移行させていきます。
具体的に見てみましょう。
>私が批判しているのは「村野瀬」であって村野瀬玲奈さん個人ではない
>格調高いはずのこのブログ品位を貶める者たちがいると認識したので、このような論陣を張っている次第
もはや、「良心の規定」だ、だの「日の丸・君が代に敬意を表すことは不道徳と規定」してる、だの言っていた当初の主張は見る影もありません。
あれは一体何だったんでしょうねぇ(笑い)
でも、これで良いのです。この一見矛盾するような言動こそが、日和見主義者B男にとっての「予定調和」なのですから。
ところで愚樵さん
あなたの言われる「村野瀬」とは私の事(も)指してますよね。 ねぇ そうですよね?
いやぁ、「」付きとは言え「村野瀬」なんて呼んで頂けるとは光栄です。 ありがとう 愚樵さん
それにしても、「橋下と変わらない」なんてこき下ろしといて、舌の根も乾かぬうちに「せっかく村野瀬さんが格調高い記事を書いたのに」とは、いくらなんでも露骨じゃないですか?
わかり易すぎます 「正体」バレちゃいますよ
それから、私に対して「品位」がないとのご指摘ですが、別に否定はしません。
結構、私短気ですし。
昔は口より手の方が早かったし。
特に卑怯な奴が大嫌いなんですよ。
「品位」とは何か議論する気なんてないですが、例えばあなたの同志(?)svナントカが私に叩きのめされた後(すみませんねぇ「品位」ない表現で)、残したコメントは読まれましたか?
私の指摘に何一つ応えなかった(応えれなかった)のはいいとして(わかりきってたことですから)
次の一文です
>村野瀬さんのブログは党の専従か、あるいは複数の人で運営されているのかなぁと思っている・・・
今度、村野瀬さん事を知っていそうな人に聞いてみる。
私はこの一文を読んだ瞬間、頭に血が上りました。
もし近くにいたら、ぶん殴ってましたね。
あなたの「品位」とやらのセンサーには反応しましたか?
さてさて、この長い論考もひとまず終わらさせて頂きます。
結果的に、このエントリーはB男的存在を炙り出すリトマス試験紙の役割を果たしました。
そこまでブログ主さんが意図していたとしたら、もはや「神」ですが(笑い)
最後に、大変有益なサンプルを与えて下さった愚樵さんに感謝の言葉を述べたいと思います。
愚樵さん ありがとう。
今後も良いサンプルのご提供を心よりお待ちしております。
あれ? 一日で終わっちゃたよ(汗)
深い意味はないです
>>さて投稿するか、とコメント欄を見たら「全然噛みつかれてないわけですが」。
ワロタ。 ( [15225]のコメント)
>この不審な笑いは何なのか気になるなあ。
「ジャブはいいから、さっさとストレート打ってこんかい。」
と感じたもので。
にせ大阪人現る???
いくないんですわ、これが。ほな、兄さんだけにないしょでお教えしまひょ。内定を取り消されてしまうんですわ。4年のインターバル後だって分かりませんわ。大阪を甘く見たらあきまへんで~。
>というより、そもそもわたしが今の高校生なら着席しないでずっと立っているけど。とがめられたら「日の丸が掲揚されているのに、着席は失礼であります」と軍隊口調でいうの。うけるぞ、きっと。
私が保守系校長だったら、起立生徒には「日の丸が顕現しているのは、上官命令に対する絶対の服従である。着席!」というね。のけぞるぞ、きっと。
>大阪の高校生たるものが、「厳粛な式典」なんてお仕着せに従っていいのか。「お奉行の名さえ知らずに年暮れぬ」の小西来山にたいして恥ずかしくないのか!なーんちゃって。
「恥」なんて感覚は大阪には当に粗変仮名。なんてったって、放置自転車日本一のお国でおま!なーんちゃって。
>お笑いの都というなら、紋切り型の管理主義に少しは抵抗しろよ、と思うんだけどねえ。超アップテンポで「君が代」歌うとかさ。根性無しというより面白みに欠ける県民性だな。(と挑発してみる)
もちろん! かの県(府)民の大半に面白みなどありはしませぬ(口を開けば「もうかりまっか」と金の話ばかり)。お笑いの才能など、ごく一にぎり。なれど、己に欠けるものへの渇仰心は意外にもある。単に「お笑い芸人たちに仕事場を提供しているだけの都」たる所以でしょう。(と挑発してみる)
yasu氏へ
>もし近くにいたら、ぶん殴ってましたね。
なんやこれ。相手を「ぶん殴る」ちゅうのは暴行を加えるということや。暴行は犯罪やで。なにがなんでも法に触れたらアカンとは言わへん。例えば、A男の妹をB夫が強姦して妹が自殺してしまった場合なら、A男がぶん殴りたくなる気持ちに同情くらいはできる。勧めはせんが、実際やったとしても情状酌量の余地はあるやろ。
せやけど、このケースは、S氏の「村野瀬はんの正体?とやらに言及したコメント」(確かに品位はあらへんが)に腹を立てて、近くにいたらぶん殴る宣言したというシチュエーションや。実際やったとしたら、なんら許されることやない。
さらに重要なことは次や。
別エントリ(「さいたさいたセシウムがさいた」という講演タイトルをめぐって)のコメント欄で紹介されたリンク先(Nuclear F.C:原発のウソ)からの引用や。
> 憲法が保障する「表現の自由」からみるとどうか。一橋大学大学院の阪口正二郎教授(憲法学)は「世の中にはいろいろな考えや意見がある。表現の自由の下では、心地よい表現だけでなく、不快な表現にも出合う。
>それに対し、『表現するな』と応じるのではなく、表現の自由を認めて反論するのが社会のルール。そうでなければ、人々が萎縮して大事な表現行為が出てこなくなってしまう」と説明する。
横山…じゃなかったyasu氏が、相手が近くにいたらやろうとしたことは、S氏の不快な表現に出会って『表現するな』と応じるのと一緒や。
実に当たり前やが、暴力は相手を黙らせる効果があるからや。卑劣な手段や。「不快な発言→頭に血が上る→ぶん殴る」一連の流れで殴る時に一番出てきそうな台詞は「黙れ、このやろう!」やろな。
まさか、「実際に殴ったわけではないでしょう」とか、しょうもない茶々入れるやつはおらへんやろな。本人が認めてるで。「昔は口より手の方が早かったし。」と。つまり、こやつの暴力志向はいま始まったことやない。さんざん「口封じ」をやってきたんか? そして、これからも機会があればやるいうことや。この体質こそを問題にしてるんや。
>これは私の(そしておそらくブログ主さんの)考えですが、日本の民主主義は今とても重大な危機を迎えています。
笑わせるなっちゅうの。単に「俺さま基準」で、気に入らない発言をした人間をぶん殴ろうなんてする輩の守りたい「民主主義」なんぞ片腹痛いわ。
あんた、まさか「護憲派」ではないやろ?
ふなぼりすたさんへ
>ところで、なぜ 「憲法第19条は、私人相互の関係を直接規律することを予定したものではない。」 のでしょう?
>これは、ちょっと考えてみたらすぐわかることです。
>なぜなら、「思想及び良心の自由」について「私人相互の関係を直接規律すること」など、そもそも「不可能だから」です。
まず、後段ですが、不可能ではありません。可能ですよ。ですから、前段「なぜ」の理由付けとして後段は使えません。
憲法上の権利条項が一般的に直接私人間においても効力を有すると主張する、直接適用説もあります。しかし、この直接適用説を通説・判例は採りません。「やることはできるのだけれども(可能)、やらないようにしている」ということです。
直接適用説を採らない理由を、二つほどあげます。
一つは、長らく基本的人権は公権力との関係で保障されると受け止められてきたからです。これは既に、ふなぼりすたさんご自身が上のほうで判旨を出されているのですが、もう少し詳しく抜きますと…
「憲法の右各規定は、同法第三章のその他の自由権的基本権の保障規定と同じく、国または公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障す る目的に出たもので、 もつぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない」
もう一つは、通説では例えば、自由権と見られる権利を私人間に直接適用してしまうと、国家による私人間への介入を広く認めることにつながりかねず、私人の自由を制限する恐れがあるからです。よって間接適用説を採るのです。(直接規律も直接適用も同義です。念のため)
そもそも不可能であるならば、「私人間に直接適用してしまうと」という文言が出てこれるわけがないということに、ご留意を。
法学・憲法学の分野は、「ちょっと考えてみたらすぐわかること」ばかりではありませんので、はい。
a >起立する人の“良心”自体に「踏み込まなかった場合」の“「起立」する人の責任”について。 ・・・・・・・・・・
b >すぐに思い浮かべるのは、「あなたの意見は私の意見と違う。 しかし、私は、そのようにあなたが自由に発言できる権利を全力で守る。」。
c >民主主義の根幹を支える考え方の一つと言っていいでしょう。
d >これを今回の件に適用すれば、「あなたの行動(着席)は私の行動(起立)と違う。 しかし、私は、そのようにあなたが自由に行動できる権利を全力で守る。」。と、当然なります。
bとcは異存なしですが、dは疑問がありますね。分かりにくいんだけど、読み返すうちにワンセンテンスに一般論と個別論を同居させてるからかな…と思えてきた。
前提となる疑問として、bを今回の件「のみ」に適用しようとしてるのか、カッコ内を取っ払った場合でも適用できるとしているのか?があります。
とりあえず(そこを自分でクリアして)、議論の流れを次のように読んでみました(違うと言われたら訂正します)。
1…bすなわち「言論の自由の一般原則」を、2…人間の行動に適用することで「行動の自由の一般原則」にし、3…さらにそこから「着席・起立の自由」を導き出している。
一応、このように読んだとして、次に本筋の疑問が出てきます。1から2の流れです。
「あなたの意見は私の意見と違う。 しかし、私は、そのようにあなたが自由に発言できる権利を全力で守る。」を 、「あなたの行動は私の行動と違う。 しかし、私は、そのようにあなたが自由に行動できる権利を全力で守る。」のようにスライドして適用できるのか?ということです。適用することで「行動の自由の一般原則」というものができてしまいます。
私の考えとしては、だいぶ無理があるのではないか。
まず、言論の自由の一般原則は、ごく一部の例外を除いて星の数ほどある言論にひとしなみに適用されます。では、行動の自由はどうか。人間の行動は、カバーする範囲があまりに広く、現実的に制限・制約が非常に多いものです。言論の自由の一般原則を、そのまま行動の自由に適用して一般原則化することなどできそうにありません。そもそも、「行動」とは、「人間を含む動物の活動や行い全般を指す言葉」ですから、言論(活動・行為)は人間の行動の一構成要素です。順序が逆です。
歴史上「あなたの行動は私の行動と違う。 しかし、私は、そのようにあなたが自由に行動できる権利を全力で守る。」なんてことを言った人はいるんでしょうか? いないと断言するつもりはないですが、現代人が参照するに値する言葉として残ってるんでしょうかね?
良心は「自己申告制」
確かに「良心に踏み込む」っていう言い回しは、私にも分かりにくい。
ところで、教科書の引き写しですが、「思想・良心」は表記上分かたれていますが、憲法学上は特別に区分することはなく、大体において「思想・良心」は一体として扱います。その中で良心を定義しておくなら、個々の人間の内面における諸々の心的・精神的作用のうちで、倫理性の強いものを良心と呼ぶことにしている…という程度のものです(もちろんこれには異説はありますが、おいておきます)。
ぼやけた感じの定義に見えるかもしれませんが、こうしておくことで他者によって具体的な良心の内容を規定されることを防いでいるのですから、周到に考えられているといえそうです。
例えば、「歯磨きをする」という行為。虫歯になりたくないからとか、小さいころから習慣付けられてるからやってるとか、磨かないと気持ちが悪いからとか、そんな動機付けもあるでしょう。ここで、「歯磨きをしないと口臭で人に迷惑をかける。それは私の良心が許さない。だから私は食後に欠かさず歯磨きをするのだ」という宣言をする人がいたとします。これが、その人にとっての「良心」なのだということです。私だったら「ふーん、そういう良心をお持ちなのね。そうー」と返して終わりにするでしょう。
個人が持っているさまざまな倫理観(べき論)の中から、意識的に「これが私の良心です」と宣言したときに、他者にとっても具体的に認識されやすい形で立ち上がってくるということでしょう。
>みんな、良心とか気軽に大量に(もしくは簡単に侵入可能な形で)持っているんだあ。そうなのかあ。
ですので、「みんな」ということではなく、人によってです。この広い世界、「気軽に大量に」持っている人がいても不思議ではないし、あまり持ってない人だって、たぶん相当数いるんじゃないでしょうか。
カッコ内はよく分からないけど。
>わたしもそうなのかなあ。いままで気づかなかった。
そうなのかそうでないのかは、ご自身次第です。
あなたのコメント、そこそこ面白かったですよ(「刑法」でなく、わざわざ「憲法」持ち出すあたり)
それにしても、喰いつくところがそこなのねぇ(笑い)
あっ、でも反論はしませんよ。バカバカしいので。
>ふなぼりすたさん
当ブログのコメント欄における深い知識と高い見識にはいつも感嘆しております。
私は浅学な身故、過ち等もあると思いますが、お気づきになられた際にはご教示いただければ幸いです。
エントリーの計画
わたしには重要に思えるから、エントリーを立てようか、考慮中です。
そもそも、このエントリー自体が難問で、どうとらえていいのか、もっと考えてみたいし……。
おほほほほ。
畏れ多くも大人(たいじん)たるyasu氏様に「そこそこ」でも面白がっていただけるなど、この上ない光栄にございますわ。
そうそう、阪口教授も直接憲法に違反しているなどとはおっしゃってはおりませんことよ。憲法の理念を大切にする「民主社会」のあり方を、述べていらっしゃるのですわ。わたくしめはその文脈を拝借いたしました。yasu氏様が憲法に違反しているなどこれっぽっちも思ってはおりませんわ。
あら・・・やだ、恥ずかしい。わたくしとしたことが、yasu氏様が書かれていないことまでつらつらと。母からも、常々「あんたって娘は、おしゃべりなんだから」とたしなめられてますのよ。
>>ふなぼりすたさん 当ブログのコメント欄における深い知識と高い見識にはいつも感嘆しております。
まあ! 秘書室の重鎮たるyasu氏様にそこまでリスペクトされるとは! ふなぼりすた様も、きっとご名誉に思っておられますことでしょうね。
yasu氏様のような実力派サポーターを得て、ブログ主様もさぞかし心強きことでございましょう。
>あっ、でも反論はしませんよ。バカバカしいので。
もちろんですわ! 気高き知性の持ち主であらせられるyasu氏様が、わたくしめのような下賎の徒に「反論」など、貴重なお時間の浪費でございますわ。いつもながらの賢明なご判断ですわね。
それでは、ごきげんよろしゅう(笑)。
「責任」ってのが難しい
>(「刑法」でなく、わざわざ「憲法」持ち出すあたり)
どうして「刑法」がでてくるのか、よくわからない。
[15346]のコメントのことでしょ。
仮に、わたしのところへ「おまえの言ってることはムカつく」といって、剃刀の刃とか銃弾とか送られてきたら、刑法上の犯罪として被害届を出すとして、その他に、「かかる行為は憲法で認められた言論。表現の自由を脅かす行為だ」ってエントリー出したら、笑われたりするのかな。
[15364]のコメント。
>「あなたの行動は私の行動と違う。 しかし、私は、そのようにあなたが自由に行動できる権利を全力で守る。」
「あなたの行動」が暴行とか強盗とかだったら、そうはいえないと思うけど、「わたしは児童ポルノを見ないけど、あなたが児童ポルノを見ることを守る」というのは、言う人がいそうな。児童ポルノではなくて、ただのポルノだったら多いでしょう。「喫煙」もあるけど「大麻摂取」は少ないかな。
結構、法的に規制されているかどうかで判断する方が多そうです。
それよりわたしが気になるのは、
今回の件に適用すれば、
「あなたの行動(着席)は私の行動(起立)と違う。 しかし、私は、そのようにあなたが自由に行動できる権利を全力で守る。」。 [15223]のコメント
の(着席)と(起立)を入れ替えることは不可能か、ということです。
不起立(着席)の教員が、「あなたの行動(起立)はわたしの行動(着席)とは違う。しかし…」ということは、意味がないのかな。
意味がないとすれば何故か。そして、起立を強制する権力の存在を棚上げして「起立する責任」だけで盛り上がるのは変ではないか。また、なんで問題が「教員」に限定されて、その外側のもろもろの責任は、議論されないのか。運動シーンで「国旗・国歌法廃止」ってのが提起されてないのは、失敗ではなかったかなあ、と思い始めているんだけど。
あるケースでの起立した教員の責任に問題がとどまらないのならば、「責任」は広くあるのではないか。強制の現場に立ち会ったのは、生徒も保護者も来賓も同じだし、教育委員会の通達や校長の職務命令が出されている前段階が見えているわけだから、それに対抗する運動を作る責任だってあるはず。どこまでの「責任」を射程にして議論すればいいのか、かなり難しいエントリーだと思うけどねえ。
「あなたの意見は私の意見と違う。 しかし、私は、そのようにあなたが自由に発言できる権利を全力で守る」(以下【1】)は、 現代において議論に導入する場合、単に歴史上の会話のワンシーンを再現するためではありません。「言論の自由の原理原則とその権利保障」を散文的に表現したものとして扱います。
【1】の中核は「そのようにあなたが自由に発言できる権利」です。「あなたの意見は私の意見と違う。」はひとつの例でありまして、別に「私の意見と違うところのあなたの意見」だけに権利があるとしているわけではありません。「どのような、あなたの意見でも」ということが含意されています。また、「あなたの」も特定の「あなた」ではなく、誰の意見であってもよいわけです。
こういった文脈を読み込むべきものですから、【1】を「あなたの行動は私の行動と違う。 しかし、私は、そのようにあなたが自由に行動できる権利を全力で守る」 として適用するなら、「誰のどのような行動であっても、自由にできる権利がある」ということになるはずです。しかし既説のとおり、人間の行動には、制限・制約がかかりまくっており、とてもそんな一般原則化はできそうにない(つまり適用できない)。
以上は、前コメントにおける「1から2への流れ」についての補完です。
では、「1から直接3への流れ」にするとどうか?【1】は諦めて「2から3の流れ」としたらどうか?といった検討項目があるのですが、長くなるのでいったんやめます。
>>「あなたの行動は~(中略)~結構、法的に規制されているかどうかで判断する方が多そうです。
この論法がしっくりこないのは、ヴァリエーションとして膨大な「権利の言説」を生産することができ、しかもそれに強力な権利保障(→全力で守る)を与えようとするところ。しかし、言論の自由は、(通説ではないが)長谷部氏の言われる「切り札」としての人権であって、安易に他の人権に応用できるものではないと思います。
(続くかな?)
……少し離れて……
>運動シーンで「国旗・国歌法廃止」ってのが提起されてないのは、失敗ではなかったかなあ、と思い始めているんだけど。
これは、1999年以前に戻すということでしょうか?(あるいは国旗・国歌自体の廃止も視野に入れているということなのかな?)。
法のみの廃止だろうとしますが、本来、この法文自体は強制の根拠にはなりませんし、ここまで定着しているのを覆すのも困難なので、想像するに強制さえしなければいいという人が多くて動きが出ないのかもしれません。
法制定以前から強制は始まっていました。戻せたとしても、またぞろ「事実上の国旗・国歌であり」とか「儀礼上の慣習として広く定着しており」といった理由付けで押し付けが始まりそう。
いや、そうではなくて(自己文否定)、ある意味イデオロギッシュなこのイシューは、鶏と卵ではないですが広義の「左派」勢力が民主制で多数を占めた時でないと、再検討の俎上に上らないような気がします。その時にはシンボルの再設定に動くかもしれませんし、相対的少数者の「日の丸・君が代を国旗・国歌にしたい」という願望に政治的妥協をして法文は残るかもしれません。
シンボルといえば、「日本が近代国家である限り対外的なシンボルは必要であり、国歌はともかく、国際的に広く認知されている日の丸を使うことは合理的である」と言った「現実左翼」がいたなあ。それに対して、例えば航空機の尾翼や胴体に「日本」という文字を大書すればいいという意見がありましたね。なるほど、文字をシンボルにするというのも面白いと思いましたね。
追加です
現行法に「なお、一切の強制を禁ずる」といった条文を付加します(どこかで、やられていそうな気もしますが…)。
遅くなってすみません
呼びかけられていたのにお答えできなくてすみません。
話題には乗り遅れてしまったようですが、質問にはできるだけ答えてみたいと思います。
[15347]について
自由権一般の話として、ペリフェラルさんの仰ることに異論はありません。
ただ、あそこで私が言おうとしたのは「思想及び良心の自由」限定での直接適用の不可能性の話です。
どういうことかというと、
「a氏のAという主張に対し、b氏がB(主張Aは「思想及び良心の自由の侵害」だ)と主張する」
というシチュエーションにおいて、b氏の主張を認めてa氏の発言を制限することは、それ自体がa氏の「思想及び良心の自由」を侵害することになってしまうため、ここで「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と言ってみたところで、b氏のBという主張を「認めるわけにも認めないわけにもいかない」というところから一歩も進むことができない、ということです。
ただ、「本当に一歩も進むことができないのか」とか「そもそもAとBは同じレベルの主張として扱っていいのか」とかを、「きちんと法論理的に詰めないと『法的には~』とは言えない」というのであれば、確かにそれはその通りだと思います。
[15364]について
b→dは限定的であり、「行動一般への拡張」ではありません。
「着席=主張の表現」という前提での「着席」と「起立」の話です。
したがって、1から2の流れは、私の想定したものとは異なります。
ただし、私の想定と違うからといって、[15383]以降の考察を止めるよう求めるものではありません。
[15366]について
私は深い知識も持ち合わせておりませんし、自分の見識が特に高いとも思っていません。
ただ、普通の感覚というか常識というものが一部欠如しているらしいので(私生活でそう言われましたw)、その分身軽なんだと思います。
・・・・・・・・・・
以下は、特に呼びかけられてはいませんが、
[15373]について
>(着席)と(起立)を入れ替えることは不可能か
私は可能だと考えます。
ただ、同時にお互いがお互いを批判する権利も確保されるべきでしょう。
「『批判すること=権利を守っていない』という理解は間違いである」という考え方を採用したいのです。
それから、少なくとも引用ブログの書き手(yamamotoさん)は
>起立を強制する権力の存在を棚上げして
はいませんよね。
むしろ「傍観者のつもりのお前にだって責任はあるんだよ」という、文字にこそしていませんが、「臆病の先物買い」とはそういう話ですよね。
(まあkuronekoさんはそんなことはわかってて「あえて」書かれたんだとは思いますが、世の中には「非正規雇用を切り捨てた大手労組を批判」したら「企業を免責して世代対立を煽るネオリベの手先だ」とか、「沖縄に基地を/地方に原発を押し付けるのは都会人のエゴだと批判」したら「国や東電を免責して地方と都市の国民を分断・対立させる工作員だ」とかを「真面目に」主張される方が少なからずいらっしゃるもんで、念のため書きました。)
一般的に、責任を広く認めることは自分に火の粉が降りかかることにつながり、それに敏感な人々は責任というものを極めて限定的に解釈しようとする、という傾向はあると思います。
厳しいことを言えば「幼稚で臆病」なのでしょう。
ただ、「国旗・国歌法廃止」限定で言えば、それを提起することは結局「天皇」に行き着いてしまうから、だからそもそも「議論することすらできない」という側面も大きいと思います。
ではなんで「天皇」に行き着くと議論することすらできないのか、と言われれば、結局「幼稚で臆病だから」とか「非科学的だから」とか「常識を弁えているから」とかくらいしか、私には思いつきません。
広い責任
70年頃の時代気分を知っていて、端っこだけどアクティブ(活動家ってやつね)であるわたしは、「起立した責任」って、かなり変な議論、あるいは偏った議論に思えます。
そもそも、なんで教師だけが起立、不起立の選択を迫られて、脇で議論しているブロガー達も、その前提を疑ってないのか。生徒だって保護者だって、自分の意に添わなければ「強制されている」わけでしょ。
また、強制されているのをやめさせるために、裁判闘争ではなく、政治闘争をする責任が、日本国憲法を守ると言っている政党にはあるのではないか。
別に、全てのことを一つのエントリーで言わなければならないわけではないから、わたしは、ここで以下のことが言及されてないのを批判はしませんが、「起立した責任」というなら、こっちの責任もあるだろうと思う。
「そんな国旗・国歌法を通した政治責任と、成立したあとでも社会を啓発して、国旗・国歌法廃案、新国歌制定運動を提起しない政党の責任」
>一般的に、責任を広く認めることは自分に火の粉が降りかかることにつながり、それに敏感な人々は責任というものを極めて限定的に解釈しようとする、という傾向はあると思います。
おそらく、社民も共産も幼稚で臆病なんでしょう。
ともかく、自己検証、自己批判のない「権力の追求」って、何なのかと思う。
kuroneko さまへ
>そもそも、なんで教師だけが起立、不起立の選択を迫られて、
「だけ」などという話は、少なくとも私(や、引用元ブログのyamamotoさん)はしておりません。
「起立」「不起立」であれば他の参加者にも、そして「こういう事態」になってしまったことについては、卒業式に参加していない人にも(もちろん私にも)責任がある、と言っているのです。
そもそもあのブログ記事自体が、読み手にある「選択」を迫っているはずです。
つまり、
>「起立した責任」というなら、こっちの責任もあるだろうと思う。
というのに全く異論はありませんし、というかむしろ昨日のコメントはまさにそのように書いたつもり(「傍観者のつもりのお前にだって責任はあるんだよ」の「お前」とは、「今まさに(引用)ブログを読んでいる『お前』」という意味)だったのですが、もし「教師だけ」というように読めたという事でしたら、ぜひともその理由を教えてください。
(これはケンカ口上ではなくて、後の自分の作文に役立てたいという、ようは図々しいお願いです)
ちなみに、kuronekoさまは「こっち」の例として「政党」を挙げておられましたが、私は終始「個人」を念頭にコメントを書きました。
・・・・・
引用元のブログの内容は「(多くの人は)なぜ起立した責任を問わないのだろう」です。
それに対しkuronekoさんは、自らが外野にいて(つまり責任がない所から)批判だけするのは偏っているから(と多くの人が考えているから)、と考えていらっしゃるのかもしれません。
(これは私の予想なので、間違っていたらご指摘ください)
私は、そうは考えません。
他人に「起立する責任」を問うことは、結局「自分自身にもなにがしかの責任があるということを自ら認めることである」ということに、ほとんどの人が気がついている、と思っています。
というのは、「着席する教師」vs「校長・市長・etc」という構図にとって、「起立する教師」というのは本当は「第三者」である(と多くの人は思っている/思いたがっている)のに、責任をその「第三者」に広げて適用するとなると、「そもそもなんで『こういう事態』になっているのか→橋下が当選したからだ→ということは・・・→ということは・・・」と、「THE第三者」である自分自身についてどうしても考えちゃいますよね、ってことです(考えない人が一定数存在することはもちろん認めます)。
「起立する責任」など認めてしまったら、自分もなにがしかの「責任」を負わされてしまいかねない、そんなのは御免だ・・・
・・・というように、「自らが『責任』を負いたくがない故に」他人の起立する責任を問おうとしないのだろう、と私は考えているのです。
つまり、「自己検証、自己批判をしたくない」人こそ他者批判を控えてしまう、ということです。
さすがに「自己批判をしたくないが故に他者批判をする」橋下氏のような人が多数だとは思えません。
(もしかしたらこの部分で、私とkuronekoさまとの現状認識が違っているのかもしれませんね。)
先日の愚樵さんへのコメントで書いた「『それでいいんだよ』と甘くささやく」というのは、多くの場合「耳をふさぐ他人に対して」ではなく、まずもって「耳をふさぐ自分自身に対して」行われるものだと思います。
・・・・・
「そんな国旗・国歌法を通した政治責任と、成立したあとでも社会を啓発して、国旗・国歌法廃案、新国歌制定運動を提起しない政党の責任」
もちろんあるでしょう。
おそらく、社民も共産も幼稚で臆病なんでしょう。
私はその原因を、「社会を啓発して」ができなくなったから、と考えます。
なぜか。
政党が、有権者を客か何かと勘違いして、国民に対して「批判」ができなくなってしまったからです。
そしてそれは、悲しいかな、政党が「受け入れられる運動」を模索した結果なのです。
幼稚で臆病な国民に受け入れられるために、社民も共産も「国民と同程度に」幼稚で臆病になったのです。
だもんで、私が書くとしたら、「政党の責任」の他に
「『そんな国旗・国歌法を通した政治責任と、成立したあとでも社会を啓発して、国旗・国歌法廃案、新国歌制定運動を提起しない政党』をつくった国民一人一人の責任」
となりますし、
「そんな~(中略)~提起しない『個人』の責任」
というのも、もちろんアリです。
細かく設定
「(多くの人は)なぜ起立した責任を問わないのだろう」
わたしの観察によると、「多くの人」は無関心か、「なんか教員のわがままなんじゃない?」という感覚だろうと思います。それが多数派だろうと思いますが、ここでの議論は、もう少し限定した範囲で、「多くの人が、(不起立教員に共感し、賛意を示しても)、起立した教員の責任を問うことがないのか」について考察します。
わたしの感覚をベースに推論すれば、「起立した教員が日の丸・君が代に対して不起立したいと思っていないことも多いだろう」、という判断が一つ。「日の丸・君が代の強制に反対の教員でも、そこを対抗運動の場とはしないという個人の判断がありえる」という考え方が一つ。「強制反対は個人の思想・信条への抑圧であり、不起立は個人的は行為であるから、起立という行為に対しても個人の行為として認めるのが筋で、不起立は良くて、起立はぺけというような言論は筋違い」と、まあ3種類ぐらいの理由で、「起立した教員の責任」を、問わないのだどうと思います。
ですから、「自らが外野にいて(つまり責任がない所から)批判だけするのは偏っているから(と多くの人が考えているから)」という判断で、つまりは、「そういうおまえはなにやねん」というツッコミを、最初から自分自身にして、というよりは、不起立という行為をできる限り個人の行為として考えて考えようとするので、「起立する」行為を、批判しないのだろうというのが、わたしの推察です。
しかし、起立することの「世間並み責任」はあるだろう、というのがわたしの考え方ですので、起立した教員を長いもに巻かれる世間一般の提喩とするのではなく、直接に「世間並み責任」を問うほうが妥当だろう、という姿勢でコメントしているつもりです。
自らが問われることになるので他者責任を問わない。
これは、天皇の戦争責任を問わない日本国民の無責任性とも通じるところでしょうが、この場合はどうなのかな。わたしは、起立教員の責任ってところに限定することは、直接のマイナスがあるのではないかな、と考えます。(考えるというより感じるというほうがいいかも)
エントリーを書きました
だいぶ考えがまとまってきたけど、まだすっきりしない。このエントリー、あるいは元のペガサス・ブログ版にでてきた「責任」という言葉が、おさまりが悪く、「何だかわからない」という感じがあったので、「起立した責任」ってのは、最初から無理筋で、最初からもっと一般的な責任を考えた方がいいのだろうと思います。橋下政治になる前から、あるいは東京都の10・23通達が出る前から、式典の「国歌斉唱」で起立して、それが普通だと思っている教員に対して、「起立した責任」ってどういう道筋で問うのかがそもそも分からない。
一般的な、権力追随的な社会気分を助長させる責任、というのなら、見当もつくのだけど。
着席パフォーマンス
お忙しいところレスをどうも。私なんか、ごゆっくり対応頂けるほうがむしろありがたいくらいですから、お気になさらないでください。
>>[15347]について
>「きちんと法論理的に詰めないと『法的には~』とは言えない」というのであれば、確かにそれはその通りだと思います。
とおっしゃってますので、「了承しました」で終わりでもいいかなとも思ったのですが、やはりまだ疑問点があるので質問・言及させてください。
>「思想及び良心の自由」限定での直接適用の不可能性の話です。
これは、以下のように解釈してもよろしいでしょうか?
「思想及び良心の自由」の問題系において、私人間で争いが発生したケース(一方が良心の自由の侵害を訴える)において、公権力が憲法第19条を直接適用して解決を図ろうとすることは、そもそも不可能事である。
>b氏の主張を認めてa氏の発言を制限することは
「a氏の発言を制限」する主体は、誰あるいはどこでしょうか?
以上、「神は細部に宿る」ではないですが、細かいところから誤解が起こりうるので、まずは質問からにさせて頂きます。
>>[15364]について
>したがって、1から2の流れは、私の想定したものとは異なります。
わー、やっぱり私は、虚空に向かって拳しを振り上げ(←もちろん言葉の綾)ていたのね。失礼しました。
>[15383]以降の考察
これはちょっと棚上げしてですね(いや、多少の関連はあるのですが)…。
>「着席=主張の表現」という前提での「着席」と「起立」の話です。
ここです。kuronekoさんが『ふなぼりすたさんは、「起立」とか「着席」って行為を、表現活動として言っているつもりと補足をしていましたが、そこも大事なところですね。 』と解説してくれましたので、ぼんくらの私でも少し理解が追いついてきました。
自分にとり分かりやすく表すなら、「君が代の、強制的起立斉唱に抗議する表現活動としての着席パフォーマンス」となりますか。なかなか面白い視点です(ここの論点では、私は「起立する側の責任」とかより、法廷で通用するロジックになりえるかという事を中心に考えています。その他の理由で「起立する自由」も省く)。
ちなみに、こういったアプローチがかつて君が代訴訟の場で提起されたことがあったのでしょうか? 私は細かに経過を追っているわけではないので、ふなぼりすたさん、ご存知でしたら教えてください。
でも、そう手放しで喜べるわけではないです。ご存知のように表現活動は、「時・場所」により制約がかけられるからです。既存のロジックも動員しながら「反対運動は別の場でやれ。そちらの自由は保障されている」とくることが想定されます。
しかし着席パフォーマーとしては、「今ここでなければ駄目なんだ」と主張することができる。「強制の現場でやってこそ意味がある」ということですね。
表現活動というなら、何か芸的な一工夫があればさらにいいのかなと。派手すぎて追い出されない程度の。外からの勝手な言い草ですがね。
簡単に勝てるほど現実は甘くありませんが、現状は厳しいですし様々な角度から模索するのはいいことだと思います。
テクニカルに考えましょう?
もっと、「法技術的」にテクニカルに、考えませんか??
つまり、みなさんが原告を支援する弁護士だと思うことにしましょう。そのときに、どのような「法学的、判決例的な論理テクニック」を使えば「裁判に勝てる」あるいは人々の認識として、その主張が「法的に正しい」と思ってもらえるか。
数年日本の外に暮らしているだけで、日本人の人たちは、「法的問題(judicial matter)」、「政治問題(political matter)」の区別がついていない人たちが多いのだなと思います。
とりあえずの法的知識(ググれば出てくる、または、適当な教科書に必ず解説あり)
(1)「行為」と「表現」と「思想(見解)」は、法的な意味がまったく異なる。(例えば、刑罰はきわめてまれな例外を除いて「行為」に対してしか課されない!その例外も「行為の要素」が含まれてる。)
(2)憲法の違憲審査基準には、「厳格審査(strict scrutiny)」と「合理的基準(relational basis)」とこの二つの中間に「Intermediate scrutiny」が存在する。
(3)日本の最高裁は、実は、言論、表現の自由に対して厳格審査をかけていない。
(4)ところが!!合衆国最高裁も欧州人権裁判所も厳格審査の対象であるという認識は共通している。ただし、アメリカのlawless imminent action basis は、ヘイとスピーチの取り締まりも、無効にするぐらいより厳格。
さて、ここまで書けば、「植民地支配」だの「軍国主義だの」と関係ない「法的技術」で具体的訴訟について「勝つ」ために何をすればいいのかが、お分かりでしょう。
まず、日本の最高裁が「厳格審査」を適用するという「判例変更の判決」を勝ち取ること。これは、別に教職員の不起立に対する訴訟でなくてもよいのです。つぎに、具体的に「教職員が不起立するということ」について、この基準で、審査する訴訟において、厳格審査を適用すればOK。
>天斗さん
行政からの罰則や社会的圧力付きの、日本式「日の丸君が代への恭順の強制」を公教育としてやっている民主国家はない。
行政からの罰則や社会的圧力付きの、日本式「日の丸君が代への恭順の強制」には教育的な前向きの意味はない。
以上です。
体罰は正当な教育方法であって教育的に意味のある行為であると信じる人が社会の中に多少多くたって「体罰はダメだ」と訴え続けるように、行政からの罰則や社会的圧力付きの、日本式「日の丸君が代への恭順の強制」はダメだと言い続けます。
秋元康については「安倍のこともおいおい」ですね。控えめに言って「李下に冠を正さず」、厳しく言えば「そんなんなら消えて宜しい」です。
私も彼のアンドリュー・バルトフェルド自民党の裏金問題を暴いた日本共産党の委員がいない政倫審は自民党の政治腐敗を加速させるだけでは? #自民党は利権と汚職と税金泥棒許すまじ共産排除を正当化する奴等は「揚げ足取りをするから」などとほざきます。それなら「おめえらは、死んでも他人にあれこれ指図するな」などと反論する権利がこちらにありますアンドリュー・バルトフェルド玉木を衒いて石を売る国民民主党は、学生を学びに集中させない誤った政策を推進しています。(国民民主党への強い疑問 (4)) #玉木雄一郎に騙されるな #国民民主党に騙されるな #玉木代表の議員辞職を要求する重要なのは、いまアルバイトしている学生のもので、本当に将来を見るならば、子ども手当を廃止してでも、この少子化時代、年少扶養控除の復活した方がいい?特定扶養控除の工作員z講談社と弘兼憲史が沖縄米軍への抗議運動に「辺野古日当デマ」。 #島耕作の辺野古・日当デマに抗議します #講談社不買 @morningmanga @KODANSHA_JP戦時中の講談社1938年の秋には出版大手の大日本雄弁会講談社が『南京城総攻撃』というタイトルの子供向けの本を出版した。そのなかでは,「報国百人斬競争」の物語がきわめてドラマチックTakeshi玉木を衒いて石を売る国民民主党は、学生を学びに集中させない誤った政策を推進しています。(国民民主党への強い疑問 (4)) #玉木雄一郎に騙されるな #国民民主党に騙されるな #玉木代表の議員辞職を要求するわざわざ自然を壊さなくとも、都心にゴルフ場もAEONもこそ作れるはずトピズレすみません…
「ゴルフ税」は必須かと
田舎に育ち、バブル期のゴルフ場開発ラッシュで、地下水が汚染された、とか野生動物(特にサルが)人里に出没するようになった津木野宇佐儀「原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたい」 (被団協、田中熙巳(てるみ)代表委員、2024年ノーベル平和賞授賞式で)No title>Takeshiさん
>国家賠償
憲法制定小委員会で議論された結果、現憲法に「国家賠償請求権」が明記されました。
先人たちの思いを「押しつけ憲法」論のいいようにさせては津木野宇佐儀政治を知らないスポーツ選手や有名人の自民党からの選挙出馬が悲しいAKIMOTO48の存在が不気味で怖い谷亮子のアホさと彼女を担ぎ上げた小沢にも、もうやめてくれよ!と思ったものです。
芸能人、局アナ、すぽーす選手…言葉は悪いですが「〇ホ」の一つ覚え…でもジミンだけで津木野宇佐儀個人経営の餃子屋さんへの堀江貴文による誹謗中傷に法の裁きを。強きを助け弱きを叩くジミン支配下ニッポソなら>工作員zさん
>返済できずに破産かもしれないネ
ホリエ某は、ジミンpowwwwwwwwered by 財界& assssssssssisted by 電通 がいる限り、そうはならないでしょうね(憤怒)
ass津木野宇佐儀全国民のための正しい政治を求めることは「共産主義的な物言い」だとする石原伸晃の発言が、「政治は自民のもの」という自民党の基本姿勢をよく示していた。補足です。 インドネシアにおける共産党員虐殺の主体には,イスラム法学者もいました。必ずしも共産党員及びそのシンパが犠牲になっただけでなく,中国人も犠牲になりました。軍が武Takeshi欧日間の経済連携協定で、欧州連合が人権後進国日本に「人権条項」を要求するのは当然である。天賦人権論最近の記事のコメント欄では脈絡がないので、村野瀬玲奈と天賦人権論を検索ワードにして出てきた記事にコメントします。
「こどもには権利も義務もない」と言っている地方kuroneko個人経営の餃子屋さんへの堀江貴文による誹謗中傷に法の裁きを。この方は、大阪万博の特別顧問だそう。ライブドアceo時に証券取引法違反で逮捕された前科。ロケット打ち上げ失敗の融資先はたぶん政府系金融機関でしょう?返済できずに破工作員z「まるで中国、北朝鮮」と言うのではなく、「まるで大日本帝国」と言おう。北朝鮮への帰還事業から65年 北朝鮮への帰還事業は1959年12月14日に新潟港から出発したのが第一陣で,2024年12月14日には65年を迎えました。当時朝鮮人は日本社会において貧困と差別に苦しみ,「地上Takeshi政治を知らないスポーツ選手や有名人の自民党からの選挙出馬が悲しいNo title来年は確か統一地方選挙もあるので、「地獄逝こう」と立憲で有名人を候補に擁立する猟官運動の類が頻発しますね。
「頭数にしかならんだろ」と冷めた目で見ています。今井アンドリュー・バルトフェルド政治を知らないスポーツ選手や有名人の自民党からの選挙出馬が悲しい体育会系芸能人はともかく、スポーツ選手つまり体育会系エリートは、割と自民党に近い思想を持っていると思います。
体育会系は軍隊であり、そこに民主主義などありませんから。怒りの日政治を知らないスポーツ選手や有名人の自民党からの選挙出馬が悲しい打越さくらvs中村真衣か オリンピックでのメダル受賞者の自民党議員となると,堀井学や橋本聖子のようにかんばしくない人を思い出します。中村真衣さんは早くから自民党の参議院議員になりたいとTakeshi全国民のための正しい政治を求めることは「共産主義的な物言い」だとする石原伸晃の発言が、「政治は自民のもの」という自民党の基本姿勢をよく示していた。インドネシアにおける共産党員大虐殺インドネシアは17500の島から成り,人口は2億3500万人。300の民族から成り,365の言語が話されています。留学生のリクルートのためにジャカルタに出張したとき,インドネシTakeshiハン・ガンさんのノーベル文学賞授賞講演のテキスト (メモ)No titleトピズレすみません
山口放送制作のNNNドキュメント「アボジが眠る海」は必見です
山口県宇部市の長生炭鉱の惨事は、恥ずかしながら、知りませんでした津木野宇佐儀ハン・ガンさんのノーベル文学賞授賞講演のテキスト (メモ)ハン・ガンさんの小説が尹錫悦大統領の弾丸を求めるデモに参加した若者曰く「今までデモに参加したことはなかった。でもハン・ガンさんの小説を読み光州事件のことを知り民主主義の危機を感じたの閉口ハン・ガンさんのノーベル文学賞授賞講演のテキスト (メモ)民主主義の勝利ハン・ガンさんの韓国でクーデターを起こして失敗した尹錫悦大統領への弾劾訴追案が一昨日(14日)可決されました。
心より歓迎したいと思います。
これは民主主義の勝利その閉口島根原発再稼働。大事故が起こったら日本政府も自民党も電力会社も誰も責任を取らないのに。そもそも原発は多くの欧米列強は脱炭素を悪用し原発を推進しようとしています。
しかし原発は核兵器の開発のためにつくられた悪しきものです。
さらにウラン採掘から運転・廃炉、廃棄物処閉口島根原発再稼働。大事故が起こったら日本政府も自民党も電力会社も誰も責任を取らないのに。危険だとわかりきっている原発が避難計画の策定が不十分の中、島根原発が再稼働されました。
これは暴挙そのものです。
一時盛り上がりをみせていた脱原発の声はすっかり下火になってしまいました。
なり閉口修学支援新制度において、成績要件によって機械的に支援を打ち切ることは低所得家庭の学生の学びと人生を危機にさらす偏った富を吐かせるもちろん、無償化は「学費」だけでなく、教育全般の無償化です
「GDP」では中国に続き、さらにドイツに抜かれましたが
まだまだ経済「大国」日本にはそれくらいの富はある津木野宇佐儀玉木雄一郎ドヤ顔の公約「手取りを増やす」は「玉木を衒いて石を売る」行為ではないか (国民民主党への強い疑問 (3)) #国民民主党に騙されるな #玉木雄一郎に騙されるな予想。給与所得控除55万円はいじれない。特定扶養控除での調整か年少扶養控除の復活かでしょう。柿ノ木扇蔵ハン・ガンさんのノーベル文学賞授賞講演のテキスト (メモ)疑問:M上青樹にどんな演説ができるのか??…∞またまたトピズレ、すみません
ここ何年か、過剰に喧伝され続けてきた某M上ペラ樹氏のノーベル賞受賞…
彼には絶対にない!
それより、生前に谷川俊太郎さんが受賞されてい津木野宇佐儀「原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたい」 (被団協、田中熙巳(てるみ)代表委員、2024年ノーベル平和賞授賞式で)No title 田中熙巳さんが日本政府が原爆被害者への国家補償をかたくなに拒んでいることを批判したことについて、ネットでは「補償ならアメリカに求めろ」とか「結局は金か」と罵倒クテシフォン島根原発再稼働。大事故が起こったら日本政府も自民党も電力会社も誰も責任を取らないのに。鼻先の馬は必死、目先のジジイ・オヤジは「一代主義」の「お主も悪よのう」福島原発事故でまき散らされた放射能はしばらくしてドイツでも観測されたそうですし、海洋汚染もアメリカに到達しています。
推進派はともかく、世界からはニッポソの核お津木野宇佐儀大日本帝国のおかしたたくさんの過ちの一つ、太平洋戦争の開戦。(1941年12月8日、真珠湾爆撃)No titleそして、南京と・だけでない「蝗軍」の蛮行…
「ゴメンで済んだら警察いらん」と言いますが、まだきちんと「ゴメン」も済ませていないニッポソ…
いつになったらアジア全土で津木野宇佐儀論外取締役デマ工作についての最初のぬるい謝罪を批判されてやっと「沖縄の方々」に謝罪した弘兼憲史と講談社。しかし、まだ問題は残っています。 @morningmanga @KODANSHA_JP講談社は滅ぼされて然るべき理由を自分で作っている一つ
ワニブックスを買収したこと。私としては「アイドルのグラビア雑誌などの収入でヘイト本を作っている」扱いなので「やっちまった」という感があります。
新書は「石しアンドリュー・バルトフェルド1937年12月13日は大日本帝国軍による南京占領の日。南京虐殺の蛮行の歴史を忘れず、犠牲者を悼み、蛮行を繰り返さないと誓う。8月6日と8月9日に原爆被害を思い出すように。12月13日は聖ルチアの記念日でもある。イタリアの歌謡でサンタ・ルチアとして歌われるシラクサのルチアの記念日は、西欧では12月13日とされています。ルチアは生涯を神に仕えることを決意し、自分の財産を貧しいTakeshi1937年12月13日は大日本帝国軍による南京占領の日。南京虐殺の蛮行の歴史を忘れず、犠牲者を悼み、蛮行を繰り返さないと誓う。8月6日と8月9日に原爆被害を思い出すように。2024年12月13日は南京大虐殺から87年2024年12月13日は、南京大虐殺から87年を迎えます。日本人学校の生徒が殺害される事件が起こり、かなり緊張感が高まっているようです。今の中国では大学を卒業しても希望しTakeshi