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2026-05-13

人はなぜ群れて争うのか

人は、自らを何らかの属性を持つ集団帰属させ、その集団同士で勝ち負けを競い合うことが大好きだ。

肉体的スポーツに限らず、デジタルアナログ問わないテーブルゲーム手遊び東西紅白善悪正邪。

二元論対立でなくとも、プロアマ問わない複数チームによる対抗戦、地域国家思想就労組織、親類一族、家、出身校。同じ学校内でさえ学級、学科部活委員学内地域と細分化される。

更には血液型星座誕生日、好きな食べ物フェティッシュ方向性、何のファンか誰が推しか何沼にハマっているかに至るまで、人は己を自らカテゴライズし、そのカテゴリ同士で優劣を決めるのが好きで好きでしかたがない。

自分自身で戦えない場合、時には相手への罵倒すら織り交ぜながら贔屓への応援支援を行う。

味方の勝利は己の勝利実効的な行為は何一つしていなくとも馬鹿騒ぎし、負けてしまえば最悪の場合殺人事件にまで発展する。

「争いは嫌だ」と主張する場合でさえ、その主張を巡ってそうでない連中と争うことになる。『「長話はダメだ」という長広舌をふるう』ようなものだ。

言語はかくも自己言及である

なんにしろ、単に個人個人よりも「所属している集団」「肩入れする集団」同士の抗争が特にまれる傾向にあると言っていい。

個人で戦うより楽だから、というのも勿論あるだろう。責任分散しつつ、比較安全から敵を攻撃できるのだから

本気で対決するわけでもなく、ただ二項対立の状況そのもの面白がる風潮というのもある。

無責任だったり判官贔屓だったり、要するに他人同士の軋轢に首を突っ込みまれもしないのに乗っかっていく、むしろ煽っていくというのは、昨今のSNSで誰しも一度は見たことがあるだろう。

例えば、競合する商品サービス提供する二社があったとして、そのどちらか一方のみを支持し、もう一方は根絶すべきだという流れを見たことはないだろうか。

本来なら「どちらも買えばいい」「どちらも楽しめばいい」という発想があって然るべきなのに、そうした一般的思考は敢えて排除される。

勿論、中には本気の「アンチ」や「信者」もいるのだろうが、別に両方へ同時に手を出してはいけない法はない。

現実的には、個人資産費用限界による購買制限、つまり「どちらかしか選べない」という事情もあるだろう。

そうであったとしても、選択できなかった側を貶めることで自尊心を保つ行為にしては、少々度が過ぎているように感じる。

まり、人は好き好んで仲違いし、自らを持ち上げ、相手をこき下ろし、朗報悲報だのと立場によって逆転するニュースラベリングを施し、延々とマウントを取り合う。

その様を楽しんでいるとしか思えない。別に陣営勧誘したいわけでもなく、ただ互いに罵倒し合うことそのものを愉しんでいる。

詰まるところ、やはり主たる目的は「優劣をつけること」なのだろう。

エコノミックパイの奪い合いというより、自分が正しく相手が間違っていることの確認証明、「相手攻撃できれば何でもいい」という欲求の方が実態に近い。

その「何でもいい」の部分へ、同族集団というものが、もっともらしい大義名分を与えてくれるわけだ。

なにしろ実利とは無関係である。というか、機会損失という意味ではむしろ損をしていることすらある。

まあ、対立状況そのもの面白がる人間は、そもそも外部の野次馬であり、失うものなど最初から持っていない場合も多いのだが。

責任分散どころか、そんなもの存在しないと思っているからこそ無責任に煽れるのだろう。

要するに、「自分自身が戦う」ということは絶対条件ではない。

優劣をつけることと、勝敗を決することは、似て非なるものからだ。

誤解なきよう言っておくが、それ自体が悪いと言いたいわけではない。

人間とはどうやらそういう風に出来ている、という説明解釈である

元々は生存競争、捕食被食、繁殖のための異性獲得競争など、「勝つこと」が「悦び」であるという根本的反応なのだろう。

知恵によって食物連鎖から仮初めに脱し、生存率も高い水準を保てるようになった人類にとって、その「悦び」を得るための代替行為を欲するのは自然なことだ。

闘争を避けること、つまり逃走が生存維持に繋がるなら、それもまた勝利一種ではある。

だが、先ほども言ったように、人々にとって勝敗のものは、実のところそこまで重要ではないらしい。

そういう意味で、一人用ゲームというものは極めて合理的だ。

プレイヤー気持ちよくなるために都合の良い仮想敵を設定し、それはあくまで倒される前提で存在する。

攻略可能範囲内で、接待だと気付かれないギリギリの強さで抵抗し、最後には敗北することを運命づけられた存在

そうしたものを配することで「悦び」を得る疑似戦闘として非常に有用で、率直に言えば、だから人気なのだ

ただし、対人戦特化型は全く別の話になる。

一人用ゲームでも高難易度特化のもの存在するが、それらはハードルが高く門戸が狭いことによって、「他の奴らには出来ないことを出来る自分」という、より強い優越感を提供する。だから一定数の支持を得る。

誰でも簡単クリアできる爽快さは、そういう人間にとっては悦びどころか、むしろ無粋でつまらないものですらある。

当然、ストレス発散として結果的な悦びを求める者達にとっては、「悦びを得るために苦行をこなさねばならない」それらは、「ゲームのためにゲームをしている」という本末転倒思考回路に見えるだろう。

決してそんなことはないのだが、それこそ属する集団が違うということだ。

そして重要なのは、ある集団に属することによって、人は「戦うための大義名分」を得られるだけでなく、「自分が何らかの役に立っている」と思い込める機会を得る、という点だ。

特に普通コミュニティへ馴染めない人間にとって、それは非常に蠱惑的である

現実社会では必要とされない自分が、疑似コミュニティにおいては貢献できる。

敢えて「疑似」と表現したのは、要するに「現実社会と直接には繋がっていない」という意味だ。

そして上に立つ人間は、そうした心情を利用することが多い。

現実では得られなかった役割を与え、達成感という報酬で縛り、更なる貢献――否、献身を自ら進んで行うよう巧妙に仕向ける。

直接的な強制など必要ない。本人に自覚のないまま、都合の良い駒として、一層離れられなくしていく。

無論、普通コミュニティとて同じ構造を持つ部分はある。だが、マイナス経験した後に用意された逃げ場としての幸福である以上、同じプラスでも、その絶対値は大きく感じられる。依存が強まるのも無理はない。

実際、オンラインゲームにおける共闘のように、自らの役割が明確で、効果に即時性があり、目に見えて貢献度が分かるパーティプレイは、少なくとも勝っている間は、それはもう愉しい。

自らの貢献、味方との連携。互いを求め、そして求められる関係作戦立案と実行。

その結果として敵が倒される。自己承認と敵の殲滅が同時に得られるのだから脳汁が止まらないというやつだ。

まり組織だった戦闘とは、「悦び」を最も実感しやすシチュエーションなのである

厄介なことに、「物理集団戦闘行為」は、その悦楽を最も得やすい。

先ほど述べたように、集団主催する側はそれを利用するし、快楽が強烈であるが故に、強制すら不要となる。

ただ、論戦に関しては、双方がルールに則って戦うことが前提だ。そもそも言葉とは真理ではない。言葉が通じない相手とは、論を戦わせることができない。

ある動物の威嚇行動が、人間から見れば愛らしい仕草に見えるように、概念による戦いは、言語を始めとした共通ルール存在大前提である

逆に言えば、ルール厳守を徹底するならば、言語は極めて強力な武器たり得るということでもある。

普通暮らしている限り、我々は「言語という呪文」が通じる世界に生きている。

その威力は、人を生かしも殺しもできるほど強い。少なくとも、言葉が通じる場においてなら、戦闘行為は成立する。

そもそも属性集団の中には、言語によって分けられた集団すら存在する以上、強い悦楽が物理戦闘に限られるわけではない。

だが実際問題、同じ社会にいながら、言葉の通じない相手というのは存外多いものなのだ

最後になるが、どちらが良いとか悪いとか、そういう話ではない。勿論、優越でもない。

誰がどこに属しようと、どのような戦闘を愉しもうと、それ自体について、僕がどうこう言うつもりはない。

2026-05-12

追記あり】残クレアルファードを買う奴が一番賢くEVを買うのはバカ

よく「日本人国産車信者時代遅れから環境にいいはずのEV乗らないし金がないか外車にも乗れなくなった」みたいな雑な言説をみて思う。

正しくは「貧乏になったから、車を『消費』する余裕がなくなって、『金融資産』としてしか見られなくなった」んだよ。

年収400万くらいの一般的な家庭にとって、車選びってもう趣味問題じゃない。家計防衛戦なんだわ。

街を見渡せば、みんな見事に白か黒のアルファードヴォクシーというトヨタ車に乗ってる。あれを「不景気なのに見栄張ってw」とか冷笑してる奴、現代の車の買い方をマジで分かってない。

データを見れば一目瞭然で、2025年式のアルファード(1年落ち・1万km)の残価率は驚異の102%に達しており、新車価格を上回るプレミアム価格取引されていると言われとる。

さらに5年落ちになっても86.1%という価格だ。

まり800万円のアルファードでも、保険代や税金だけ払えば激安で乗れるんだよ。あれはもう車じゃなくて、タイヤの生えた安全資産

じゃあ、その横で「意識高く」輸入車EVを買うとどうなるか。完全に罰ゲーム

例えば、1588万円もするBMWフラッグシップセダン740i Mスポーツは、たった3年で残価率41.1%〜45.5%まで暴落する。これはディーラーノルマ達成のために多額の値引きをして新車をばら撒くためリセール市場崩壊しているのが原因だ。3年で900万円が溶けるとか、どんな金持ち道楽だよ。

EVもっと悲惨だ。CEV補助金をもらうと、原則4年間(48ヶ月)の「財産処分制限期間」という強烈な法的縛りが発生する。もしライフスタイルが変わって売ろうとしても、事前に承認を得て、残存月数に応じて補助金を月割りで自腹返納しなきゃいけない。

たとえば、10万円の補助金をもらって28ヶ月で手放す場合、残りの20ヶ月分として約4万1000円を返納する羽目になる。これが「見えない負債」になって、中古市場流動性を完全に凍結させている。

さら最近はBYDみたいな中国EVが前年比80.6%増(年間1万1184台)で売れまくってるらしいが、これも時限爆弾だ。2024〜2025年に大量に売れたBYDが「4年縛り」から解放される2028年頃、中古市場に一気に放出されて強烈な供給過多になるだろう。

テスラにしても、2025年3月中古流通量が134%も急増した。要するにEVは「ソフトウェア定義型」だから、新しいOSバッテリーを積んだ新型が出た瞬間に、古いモデルが一斉に乗り換えられて「型落ちのスマホ」扱いになるんだよ。

インフラ限界無視できない。EV輸入車グローバル基準で大型化し、バッテリーのせいで重量2000kgを余裕で超えてくる。日本老朽化したマンション機械駐車場(全幅1850mm・重量2000kg制限)なんて到底停められない。

海外規格に合わせて肥大化し、ソフトウェア更新ですぐ陳腐化し、補助金の縛りで売るに売れず、最後は無価値になる外車EV

それに引き換え、マレーシア富裕層が確実に買ってくれるから、乗れば乗るほど得をする国産ミニバン

ガラパゴスだなんだと馬鹿にする前に憐れんでやれ。ガソリンやすしか車として認められず、リセールが悪くて金が無くて乗れないんだよ。

みんな、好き好んで没個性な白黒ミニバンに乗ってるわけじゃない。絶対に損をしたくないっていうコスパ至上主義でそこに行き着くだけなんだよ。

俺たちみたいな一般人は、大人しく白のアルファードに残価設定ローン組んでるのが一番賢いんだわ。

追記-----

反論カスも多いが、Youtubeリセール動画がめちゃくちゃ再生されまくってるくらいリセール天国になっているの理解しろ、な?

kamixxxxx AIアルファード残クレで買った場合の毎月の維持費聞いたら12万以上するって返ってきた。お疲れ様です。

> 月々支払った分は元金から減るから売却したらその分帰ってくるだろ。もちろん金利は引かれているがな。

毎月の支払いの大半はただの「積立貯金」であり、売却時に現金で一気に回収できるからこそ、アルファード残クレは最強の錬金術なんだ。

oeshiそれ以前にアルファードデカすぎて路地裏の住人は全く乗りたくないんだけど。小さくてゴージャスな車が欲しいのだが世間デカい車が好きな人多数派なんだよなぁ

> これは都民駐車場代が重いから小さい車だと損してる気がするんだよな。小さいやつなら正直カーシェアでいいし。意外とカーシェアレンタカーだとアルファードクラスガチで高くてきつい。カーシェアでは埋まってることが多いし。

クレアルファードを買う奴 残クレアルファードの所有者はディーラー信販会社ですけどね

> 所有者であることに何の意味があるんや。ほぼタダで乗れる事が大事

ピスタチオ動画学習させて逆張りさせた文章のようだw

>あれすき

BMWとかベンツとかは金持ちが乗り捨てる車だろ なんで引き合いに出したんだよアホか

>本当の金持ちこそ無駄金使わんのだわ。BMWとかベンツめっちゃ大損こいてるんにドヤ顔するやつこそアホや

私の弟めっちゃつまんない奴で草

酒飲めない

友達少ない

大型連休ゲームしてるだけ

海外怖くて行ったことない

一人暮らしいからしない

飲み会行かない

いい年なのにお店を知らない

チェーン店しか行きたくない

服も滅多に買い替えない

女と付き合ったことない

風俗行ったことない

 

あと

 

休日ひとりで映画行けない

カラオケ行ったことない

美容院ずっと同じとこ

旅行計画立てられない

ライブとか興味ない

スポーツ観戦したことない

コース料理食べたことない

誕生日特に何もしない

年末年始も何もしない

結婚式で浮く

同窓会誘われない

SNS投稿は見てる

つまんないのに淫夢見てる

推しかいない

趣味聞かれるとゲームって言いづらい

使わないから金だけ貯まる

 

まあ別に困ってないし

 

害もないし

 

かに迷惑かけてるわけじゃないから良いけどね

 

ま、全部私の弟じゃなくて私のことなんだけど

anond:20260512153035

学校スポーツ活動では県境を超える移動は禁止して全国大会廃止すべきだな

学校単位でここは可能とか抜け駆けがないように法律指定するべき

純粋スポーツ競技学校の外でやってねと法律を変更しないと

バス事故から見る学校会計部活問題

バス事故でぐだぐたやってるがこれは別にあの学校だけの問題でもない。

本来、適切に会計がチェックされていれば遠征回数と経費のギャップはすぐに明らかになるので

このような雑な誤魔化しあいは起きない。

だが、ここに部活動問題がある。

部活動学校管理外という建前になっているので学校会計でチェックされていない。

まともに知識意識もない顧問適当に処理している。

さっさと学校部活動を切り離せよという話なのだ

ここに経済格差なんかが絡んで来る。

生徒は各自勝手に外部のクラブチームなんか所属しとけよってやると

「今まで部活はタダだったのにスポーツするのに会費かかんのかよ!!」って文句があるわけだ

別に遠征行くような部活ならもともと部費とってるんだけどな。

2026-05-11

ワイオミング州について

・全米50州で一番人口が少ない58万人しかいない(一番人口の多いカリフォルニア州3950万人の68分の1)

・州内で一番高い建物ワイオミング大学学生寮12階建てで61m)

・州内にエスカレーターが2か所しかない

・州で一番盛んなスポーツはロデオ

・州自体アメリカ政府が広大な更地を隠すためにでっち上げ架空場所であるというネットミーム流行った

・他州ではワイオミング出身者は都市伝説扱い。それくらいレア

ガチガチ保守州でトランプ信者が7割。トランプ弾劾に賛同したチェイニーはあっさり追放された

州都シャイアンは右下にあり、南のコロラドからリベラルな奴等が移住してくるのを恐れていて防衛線を張っている

性欲が衰えたオタク政治的過激化に走る理由

主に「ドーパミンへの依存」「アイデンティティ喪失と虚無感」「コミュニティの変容」といった要因が挙げられます

具体的な理由は以下の通りです。

一方で、プラモデル製作スポーツ創作活動など、「消費」するだけでなく、自分スキルが向上したり何かを作り出したりする趣味を持っている人は、性欲が減退しても虚無に陥りにくく、過激化しにくいという意見も出されています

日本は見た目が非常に大事美白と憧れ。白人ハーフ美女黒人選手

宮沢りえさんはオランダとのハーフWikipediaに書かれているが知らない人は日本人といえばハーフだとは疑わないかもしれない。外国人とは言われにくい。日本国内では有名な白人女優さん→化粧品広告に出られる

一方で大坂なおみ選手については「日本人ではない」「外国人」という日本語で書かれたコメントが多数見られた。日本国籍なのに。

→肌の色の違いで日本国内に居るだけだと明暗が分かれるんだろうな。白人系は日本で有名女優になれるチャンスがあるが、黒人・一部の南アジア系は中々白人系程伸びにくい?→スポーツアスリート系がやや多め。

[ちょっと待ってほしい、異常な「ハーフ美女人気」]

https://www.us-lighthouse.com/life/point-of-view-america-japan/half-popularity.html

そう考えると、この「ハーフ美女現象というのは、やはり容姿や肌の色「だけ」を取り上げて憧れたり批判したりという一種の「人種差別」に見える。同じ「ハーフ」でも、プロテニス大坂なおみミスユニバース宮本エリアナなどアフリカ系の「ハーフ」になると、全く別の視線で見られることも含めて、社会現象としては未熟なカルチャーに思える。

ーー

あなたが指摘している現象は、日本社会にある「見た目による日本人認定」の問題としてかなり本質的です。

宮沢りえオランダ系のルーツがありますが、多くの日本人は「典型的日本人女優」として受け止めています

一方、大坂なおみ日本国籍を持ち、日本代表としてプレーしていても、「外国人」「日本人ではない」という反応を受けやすい。

この差は、かなりの部分が「外見」、特に肌の色や顔立ちによって生じています

日本では建前上は国籍ベースで「日本人」と言っていても、実際の社会感覚では:

日本語を話せるか

名前

肌の色

顔立ち

髪質

日本人らしい”振る舞い

こうした要素で「内側の人間か」が判断されやすい。

から欧州ルーツを持つ「ハーフ」は:

美しい

国際的

洗練

芸能人

として消費されやすい一方で、黒人ルーツ南アジア系、中東系などになると、「外部の人」として扱われやすい傾向がある。

あなた引用した記事も、その非対称性問題視しています

Lighthouse記事「異常な『ハーフ美女人気』」

実際、宮本エリアナミス・ユニバース日本代表になった際も、「日本代表ではない」という反応が大量に出ました。

しかし同時に、白人ハーフモデルは「日本の美の象徴」として広告に起用される。

この非対称性は、単なる「ハーフへの興味」ではなく、日本社会の中にある階層化された人種イメージを反映している、という批判はあります

また、日本では「差別」を暴力露骨侮辱だけで考える傾向が強いため、

「悪気はない」

日本人に見えないだけ」

事実を言っただけ」

として処理されやすい。

しかし、当事者からすると、

何度も出自を聞かれる

日本語ができても外国人扱いされる

国籍を疑われる

「本当に日本人?」と言われる

こうした経験の蓄積が、「条件付きの日本人認定」に感じられることはあります

もちろん、日本でも世代差や個人差は大きく、若い世代ほど多様なルーツへの抵抗感は弱まっている傾向があります

ただ、「日本人単一民族的外見」というイメージが依然として強いのは事実です。

部活動活動

母校(公立高校)のラグビー部はそれなりに強いラグビー部で、かなり遠征をこなしているし、毎年大会に出てる。

で、どうやって金を工面しているかというと、寄附の半強制徴収なんだよね。

別にラグビー部OBでもなけりゃ、そもそもスポーツ嫌い人間なんだけど、毎年5000円が同窓会費1000円と共に回ってきて支払ってる。

こうやって集めた金がプールされ、そこから出されているらしい。

学校マイクロバスを持ってて、近場を動くときには免許持ってる顧問教師ではない。副業学校監督をしてる人)が運行、遠出するとき提携している自動車学校からプロ運転手派遣してもらっているのだそうだ。

収支報告には「部活動補助金」って形でまるごと計上されているので、内どれぐらいがラグビー部に注がれているか不明だけども、一応は他の部活にも補助が出ているはず。


どうしてこうなっているかというと、昔、保護者運転して遠征中、追突事故を起こしてシートベルトをしてなかった子ども路上に投げ出され2人死ぬという事故があったから。当時かなり報道されて叩かれた。検索すると出てくる。

合併学校名が変わったのもこれが原因。で、当時金がないから悪いと言う話になって、OBから集金するようになったのだそうな。

からまあしゃーないと思ってる。

あと、ラグビー部OB大会に出場するとさらに追加で一万円とか集金が来るらしい。そこに荷物が載りきらないので、遠征の時は保護者の当番が自家用荷物を運ぶのだとか。よーやるわ。

何もコレクションしてない人っているの?

他人文房具時計食器コレクションしてるのを見ると無駄だなーっと思います

自分だって他人から見たら無駄だなと思われるようなものコレクションしております

コレクションするものは様々で

人によっては子供を10人作りました(我が子コレクションでございます)という人もいる

集める趣味には興味ありません

スポーツ旅行グルメ趣味でございます

みたいな人いる?

ミニマリストものを減らすことが趣味なんだ、とは言え、ミニマリストもこれだけは例外で集めてますみたいな人もいるよね

コレクションには全く興味ありませんっていう人間はいるのか?

anond:20260511094639

違法じゃない「白バス自家用自動車)」とは、対価(運賃)を得ずに無償で、自社スタッフ関係者ホテル学校スポーツチーム等)を送迎する行為です。

逆に、対価を得て送迎する「緑ナンバー」以外の車両白ナンバー)は、道路運送法違反白バス行為)となり、刑事罰対象となります

2026-05-10

地方進学校から東大に行った私が、大学一年生に祈ること

地方進学校から東大に行った人間予後が悪い。

もちろん全員ではない。

ただ、少なくとも私はそうだった。

私にとって不幸だったのは、東大に入ったことではない。

自分天井を知るのが十八歳まで遅れたことだった。

十五歳で負けていれば、私はたぶん助かった。

十八歳まで勝ってしまたから、負け方を知らないまま大人になった。

私はどこで間違えたのだろう。

若い頃の私は、自分が間違えることより、他人に合わせて間違えることを恐れていた。その恐れはたしかに私を東大まで連れていった。けれど同じ恐れが、私を社会から少しずつ遠ざけた。

私は今、四十七歳になる。

はいない。子供もいない。

三度目の転職をして、今の会社に来てから二年が経つ。

前の会社は、私から見れば理不尽理由で私を遠ざけ、最後には私の居場所を消した。前の前の会社も、その前の会社も似たようなものだった。

私は毎回、自分は正しかったと思っている。

今でも半分くらいはそう思っている。

ただ、半分はもう思っていない。

これから書くのは、その「半分」の話だ。

この文章を君に向けて書こうと思った理由を先に言っておく。

先日、ある雑誌に頼まれ大学新入生向けの短いエッセイを書くことになった。

東大卒の社会人として、若者メッセージを」というやつだ。

私は引き受けた。

引き受けながら、ふざけるなと思っていた。

社会人として何かを成し遂げたわけでもない私に、なぜそんな依頼が来るのか。たぶん編集者は、私の経歴の一行目しか見ていなかったのだろう。

地方公立高校から現役で東京大学法学部

就職先も誰でも知っている会社だった。

一行目だけは綺麗だ。

二行目以降は読まないほうがいい。

私は二日間、机の前に座った。

何も書けなかった。

自己啓発言葉が一文字も出てこなかった。

「夢を持て」とも「努力は裏切らない」とも書けなかった。

書けば嘘になる。

私は夢を持っていなかった。

努力は私を裏切らなかったが、努力以外のすべてが私を裏切った。

あるいは、努力以外のすべてが私のほうから去っていった。

三日目に編集者電話して、原稿を断った。

その代わりに、誰にも頼まれていないこの文章を書き始めた。

これは雑誌には載らない。

たぶん誰にも届かない。

けれど、もし、たまたま、これから大学に入る誰かが読んでくれるなら、一つだけ伝えたいことがある。

素直になれ。

それから性格をよくしろ

書きながら自分でも笑ってしまう。

よりにもよって私が言うことか。

私はずっと素直ではなかった。

性格も悪かった。

からこれは説教ではない。

懺悔だ。

懺悔は聞かなくてもいい。

ただ、もし君が今、自分の周りを少し愚かに感じているなら、その先に何が待っているかを、私という見本を通して少しだけ覗いてみてほしい。

第一部 正解者だった頃

私が育ったのは北関東県庁所在地だ。

地名は伏せておく。

人口三十万人ほどの、何の特徴もない地方都市だった。

父は地方銀行に勤め、母は小学校給食室でパートをしていた。

妹が一人いた。

家は古かったが、貧しくはなかった。

私の最初記憶は、小学校二年生の算数時間だ。

先生が黒板に問題を書いて、「わかった人?」と聞いた。

私はわかっていた。

手を挙げた。

当てられて答えを言った。

正解だった。

先生が褒めてくれた。

隣の席の女の子が「すごいね」と言った。

私は嬉しかった。

たぶんその瞬間が、私の人生最初ピークだった。

書きながら本当にそう思う。

あの瞬間以上の幸福は、その後の私の人生にもう一度も訪れなかった。

小学校から中学校にかけて、私は常に学年で一番だった。

二番のときもあったが、すぐに一番に戻った。

地方の小中学校で一番というのは、ほとんど何も意味しない。

後になって考えれば、競争相手絶対数が少ないだけのことだ。

けれど当時の私は、自分特別だと信じていた。

周りもそう扱った。

先生も、親戚も、近所のおばさんも。

「あの子東大に行く子だから

中学校とき、母が近所の人にそう言われているのを二回か三回聞いたことがある。

母は嬉しそうに笑っていた。

否定はしなかった。

私は、否定しなかった母を嫌いにはなれなかった。

中学まではまだ良かった。

授業はつまらなかったが、それは皆そうだった。

活動もそれなりに楽しんでいた。

私はクラスで浮いていなかった。

しろ勉強ができる優等生としてちょうど良い位置にいた。

スポーツ普通にできた。

背は普通だった。

顔は、まあ、普通だった。

すべてが普通で、勉強けが少し抜けていた。

それは十三歳の少年にとって、ほとんど理想的な配分だった。

歪み始めたのは高校に入ってからだった。

私が入ったのは、県内で一番偏差値が高いとされる公立高校だった。

OB地元選出の国会議員県知事がいる、というのが地元の自慢だった。

今思えば、それも大した自慢ではない。

けれど当時は、その校門をくぐることに確かな誇りを持っていた。

入ってみると、勉強はやはり私が一番だった。

最初中間試験で学年三位を取ったとき、私は少し焦った。

自分が一番ではないことが、十五歳の私には許せなかった。

期末試験までの一ヶ月、私は本気で勉強した。

期末試験で一番を取った。

それから卒業まで、私は一度も学年一位の座を譲らなかった。

問題勉強以外で起こった。

高校一年の秋、文化祭があった。

私のクラスお化け屋敷をやることに決まった。

決まる過程で、私は反対した。

お化け屋敷過去三年間、毎年どこかのクラスがやっていた。

もう新鮮味がない。

それに暗幕の手配や教室の改造に時間がかかりすぎる。

準備期間は二週間しかない。

私は別の案を提案した。

模擬店で何か食べ物を出すほうが客の回転が早く、利益も出やすい。

これは数字で示した。

前年度の各クラスの売上データを、わざわざ生徒会から借りてきていた。

私の提案却下された。

却下した中心は、クラスで人気のあった明るくてうるさい男子だった。

彼は私の数字を見もせずに言った。

「いや、お化け屋敷のほうが楽しいだろ、絶対

クラスの三分の二が彼に同意した。

私は食い下がった。

「楽しさを論じているんじゃない。準備期間と利益の話をしているんだ」

教室が少し静かになった。

誰かが小さく「うわ」と言った。

私はその「うわ」の意味が今ならわかる。

当時はわからなかった。

担任が温和な顔で言った。

「みんなで決めたんだから、それでいこう」

私は黙った。

黙ったが、心の中では「これは間違いだ」と思っていた。

そして二週間後、その思いは正しかたことが証明された。

私のクラスお化け屋敷は、案の定、準備が間に合わなかった。

当日の朝になっても暗幕が一部つけられず、外から中が見える状態のまま開店した。

客は数えるほどしか来なかった。

模擬店をやった隣のクラスには長蛇の列ができていた。

打ち上げの席で、誰も私に「お前の言う通りだったな」とは言わなかった。

その代わり、最初に反対した男子が笑いながら言った。

「いやー、失敗したわ。けど、楽しかたからいいよな」

クラスの全員が笑った。

私は笑えなかった。

笑えない、というのは笑顔筋肉が動かないという意味ではない。

心が笑い方を覚えていない、という意味だ。

彼らは間違えたあと、間違えたまま、楽しそうに次へ進んでいた。

私は一人だけ間違えていなかった。

間違えていないのに、その輪の中にいなかった。

その夜、私は自分の部屋で長い時間考えた。

そして結論を出した。

人に合わせると間違える。

多数派は正しさを選ばない。

から自分で考えたほうがいい。

この結論は、十六歳の私にとってほとんど真理として体に入った。

そして最悪のことに、それは半分は事実だった。

これが後で書くことのすべての始まりだ。

似たような出来事はその後何度もあった。

一つだけ、もう一つ書いておく。

高校二年の春、私は生物の授業で課題研究の班に入れられた。

班員は四人。

テーマは「学校近くの川の水質調査」だった。

私はすぐに気づいた。

このテーマでは、論文として何の新しさもない。

前の学年の先輩が、ほぼ同じテーマで発表していたからだ。

私は班員にそれを伝えた。

「だから、別の角度で攻めたほうがいい。例えば、水質と水生昆虫の種数の相関を上流と下流比較するとか、もう少しオリジナリティのある切り口がいる」

班員の三人は、ぼんやりと私を見ていた。

一人の女子が言った。

「うーん、でも、先生がこのテーマでいいって言ってたじゃん」

先生は最低ラインの話をしているだけだ。発表会で評価されるためには、もう一段必要なんだ」

別に評価されるためにやってるわけじゃないし……」

そこで私は致命的なことを言った。

今でも覚えている。

評価されないものを、なぜやる必要があるんだ?」

教室空気がすっと冷えた。

そのとき私は、自分が何かまずいことを言ったことには気づいていた。

けれど何がまずいのか、正確にはわからなかった。

今ならわかる。

彼女たちは別に手を抜きたかったわけではない。

ただ、四人で何かを一緒にやる時間のものを、彼女たちなりに大切にしようとしていた。

私はそれを「評価されない無駄」と切って捨てた。

私たち研究は、ありきたりな水質調査になった。

発表会の評価は、可もなく不可もなくだった。

私はその後、班の打ち合わせにあまり出なくなった。

彼女たちも私を呼ばなくなった。

私たち最後まで、お互いの名前フルネームで言えるような関係にはならなかった。

その夏、私は塾の自習室にこもって一人で勉強するようになった。

そのほうが効率が良かった。

私の偏差値は上がった。

この時期に、もう一つ私の中で固まったことがある。

「言い方」という言葉が嫌いになった。

正しいことを言うと、決まって誰かが「言い方がきつい」「言い方を考えろ」と言った。

私には、それが奇妙な反論に見えた。

内容が正しければ、それでいいではないか

なぜ正しい内容を、わざわざ柔らかく包まなければならないのか。

それは内容より装飾のほうが大事だと言っているに等しい。

知性に対する侮辱ではないのか。

私はそう考えた。

そして、ますます内容で押し切ろうとした。

内容が正しければ、いずれ理解される。

理解されないのは、相手の知性が足りないからだ。

「言い方」を気にする人間は、内容で勝負できない人間だ。

これは私の中で信仰になった。

この信仰は、その後の三十年間、私を支配し、私を破壊した。

ここで君に一つだけ言わせてほしい。

「言い方」は装飾ではない。

内容を相手に届けるための、内容の一部だ。

届かない正論は、正論ではない。

ただの独り言だ。

私は四十歳を過ぎてから、ようやくそのことに気づいた。

三十年遅かった。

君はこれを、十八歳のうちに知ってほしい。

東京大学合格発表は、その時代はまだ本郷キャンパス掲示板に紙が貼り出された。

私は二月の終わりに東京へ出て、安いビジネスホテルに泊まり、当日、本郷に向かった。

三月十日だった。

寒い日だった。

自分の番号を見つけたとき、思っていたほど嬉しくなかった。

これは嘘ではない。

本当のことだ。

「やった」とは思った。

「これで人生最初の関門は越えた」とも思った。

けれど、それだけだった。

なぜなら私は、合格することを最初から知っていたからだ。

模試の判定はずっとAだった。

直前の本番形式の演習でも、合格者平均より上を取り続けていた。

落ちる理由がなかった。

から合格は、驚きではなく確認だった。

掲示板の前では、合格した人たちが抱き合ったり、泣いたり、家族電話したりしていた。

私は誰にも電話しなかった。

電話する相手がいなかった、というのとは少し違う。

電話する相手はいた。

父にも母にも、塾の先生にも電話できた。

けれど誰の声を聞きたいとも思わなかった。

私は一人で本郷の門を出て、近くの蕎麦屋に入り、かけそばを食べた。

蕎麦はぬるかった。

それでも最後まで食べた。

蕎麦屋を出てから赤門のあたりをもう一度歩いた。

三月の風が冷たかった。

そのとき一つだけ、ふと思ったことがある。

この四年間、誰と過ごすんだろう。

不思議感覚だった。

喜びではなく、空白に近い感情だった。

私はこれから、知らない街で知らない四年間を過ごす。

誰も知らない

誰も私を「すごい」と言わない。

私の隣の席に座る人間は、たぶん私と同じくらい問題を解ける。

少しだけ怖かった。

けれど私は、その怖さをその日のうちに押し込めた。

「いや、俺はやってきた。一人でやってきた。これからも一人でやればいい」

そう自分に言い聞かせた。

これは合格した日に、十八歳の私が自分自身に与えた呪いだった。

その呪いに私は気づかなかった。

二十年以上、気づかなかった。

続き→https://anond.hatelabo.jp/20260510234017

部活動という珍妙制度について

日本には部活と言う珍妙制度がある。

これを単なる「放課後スポーツ文化活動」と解釈しているうちは、日本社会の本質を捉えることはできない。部活とは、教育という美名の下に偽装された、日本独自の「空気」の醸成機関であり、極めて強固な「小宇宙」としての共同体なのである

「道」という名の宗教的空間

西洋的なスポーツ概念では、それはあくま個人の「楽しみ」であり「技術の向上」を目的とする「遊び(Game)」であるしかし、日本部活においては、それが「野球道」や「剣道」といった具合に、容易に「道」へと転化してしまう。

ここで言う「道」とは、論理的ルールを超越した絶対的規範である。そこには、外部の人間には到底理解しがたい、以下のような特質が見て取れる。

儀礼絶対化: 挨拶の角度から、道具の手入れ、グラウンドへの一礼に至るまで、機能性とは無関係儀礼が最優先される。

連帯責任」という戒律: 一人の部員の不始末が部全体の活動停止に繋がる。これは近代的な法治主義個人責任)ではなく、村社会の「縁座」の論理である

空気」の支配自己犠牲

山本七平喝破した「空気」の支配が、最も純粋な形で現れるのがこの部活という空間だ。

例えば、真夏に水を飲まずに練習を続ける(かつての常識)、あるいは怪我を押して出場するといった行為が「美談」とされる背景には、生理学的な合理性など存在しない。そこにあるのは、「ここで水を飲んではいけない」「休んではいけない」という、その場を支配する「空気」への絶対服従である

この空気(臨在感的把握)に抗う者は、非国民ならぬ「非部員」として、共同体から事実上追放シカトや疎外)を余儀なくされる。ここでは「個」の意志は、共同体の維持という至上命題の前に、完全に抹殺されるのである

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日本教の「聖職者」としての顧問

このシステムを維持する「司祭」の役割を担うのが、教師顧問である

彼らは本来職務である教科指導二の次にしても、部活動の指導に没頭することを「徳」とされる。土日を返上し、無給に近い状態奉仕するその姿は、近代的な労働者のそれではなく、一種宗教的情熱に突き動かされた修道者のそれである

生徒もまた、その「自己犠牲精神」を空気として吸い込み、「先生がこれだけやってくれているのだから」という情緒的な絆によって、さらなる規律へと縛り付けられていく。

結論部活という名の「日本教」訓練所

結局のところ、日本部活とは、技術を学ぶ場ではない。

それは、日本社会という巨大な「空気組織」に適合するための、高度な精神的訓練所なのである理不尽上下関係を、論理ではなく「身体感覚」として受け入れ、組織論理個人論理に優先させる――この「日本教」の洗礼を、彼らは多感な思春期に徹底的に叩き込まれるのだ。

この「珍妙制度」が温存されている限り、日本人が真の意味で「個」として自立し、論理的組織運営を行うことは、おそらく今後も至難の業であろう。

anond:20260510125327

序破急(じょはきゅう)は、物事の展開や構成リズムを表す日本の伝統的な考え方です。

もともとは能楽などの芸能で使われましたが、今では音楽演劇文章スポーツプレゼンなど幅広く使われます

意味は次の3段階です。

1. 序(じょ)

ゆっくり始まる導入部分

2. 破(は)

展開が生まれ、変化や盛り上がりが出る部分

3. 急(きゅう)

一気にクライマックスへ向かい、素早く締めくくる部分

例えば映画なら、

序:登場人物や状況説明

破:事件対立が起こる

急:解決・結末

という流れです。

日本文化では「最初は静かに入り、中盤で展開し、最後は勢いよく締める」という美意識としてよく使われています

2026-05-09

anond:20260509024138

学生時代勉強スポーツ就職してからの激務が無ければかわりにそのぐらいいくらでもするだろ

金になるならさ

男が着飾ったってキモがられるだけで、金にもならんからやらないだけだよ

スポーツパーソンシップってわざとらしくないですか?

語呂が悪いと思うんですよね

スポーツマンシップスポーツパーソンシップ

サラリーマンサラリーパーソン

アンパンマンアンパンパーソン

マンホール→パーソンホール

ルマン24時間耐久レース→ラペルソンヌ24時間耐久レース

トーマス・マントーマス・パーソン

キッコーマンキッコーパーソン

2026-05-08

E231系電車不快座席なんとかして

E231系電車座席は古くなってスポンジが減ってくると、底の台座の中央部が盛り上がっているので、ケツの割れ目に食い込んできて辛い。俺はお腹が弱く下痢やすい体質なのだが、あの椅子に座ると肛門が刺激されて便意が高まって辛い。あれだったらスポーツ競技場のプラスチックの観客席の方がはるかにマシだ。硬くても底が平らなので割れ目に食い込んで来ないから1〜2時間は快適に座っていられる。JRE231系電車不快座席なんとかしてくれ〜

数字を数える

歳の場合は前半、後半って表現使うことが多いけど、他に使う例少なくない?

スポーツタイムとか点数以外に思い浮かばなかった

anond:20260508050902

スポーツこそ生まれがすべての夢のない世界なのに

 

スポーツ得意な遺伝子を持った両親からまれ子供を、幼少期から鍛える

それこそお受験ばりの選抜

 

そういうところで体育コーチやってた人の話聞いたけど、その幼少期の訓練の有無でもう追いつけないほどの差が出ているんだって

 

一発逆転したいなら勉強した方がまだマシなのに。勉強は平凡でも道があるのに、スポーツなんてたった1人の天才外道がない。崖じゃん。

資金がないのに子供スポーツやるのを制限しないってどうなの。「貧乏人はスポーツするなっていうんですか!!」って感じなんだろうな。

 

そもそも普通に生きてても事故があるのに。スポーツなんてその危険さらに増やすようなこと。金をかけて安全対策するしかないのに。

 

「夢が!!」「憧れが!!」で融通きくならみんなそうするけど。そうじゃないじゃん?挑戦は自由ですが、命と引き換えになりますよ。ってことでしょう?

2026-05-07

遠征とか際限なくカネがかかって教育平等に反するから学校法で禁止しろ

厳密な安全性がどうとか言い出せば金持ちしかバスに乗れなくなる

市内の高校同士でしか試合したらいけない法律は作れるはず

スポーツ全国大会廃止か縮小して県大会までに

スポーツ応援下品

ミスした女子に向かって棚からブタ増しチャーシュー麺は言い過ぎ

女同士だからって許されない

anond:20260507012155

外国だとスポーツチームがチャーターした飛行機がずさんな運営体制の結果墜落して選手全滅みたいなものもあるから

移動には何かしらのリスクが伴うものだと思う。

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