はてなキーワード: 昭和63年とは
“ 矢野事件(やのじけん)とは、京都大学東南アジア研究センター(現・東南アジア地域研究研究所)所長であった矢野暢(1936-1999)教授が1993年(平成5年)に起こしたセクシャルハラスメント(以下、固有名詞と引用文を除き「セクハラ」で統一する)事件と、それに関連する事件・訴訟の総称である。「京大矢野事件」「京大・矢野事件」「京都大学矢野事件」「矢野セクハラ事件」「京大元教授セクシュアル・ハラスメント事件」とも呼ばれる。
日本におけるセクハラ問題化のメルクマールとなった事件とされ[1][2]、これ以降、大学でのセクハラに対する文部省(現・文部科学省)の取り組みも始まったとされる[3]。
1993年(平成5年)、京都大学東南アジア研究センター(以下、「センター」)所長である矢野暢が、あるセンター職員の妹を秘書として雇いたいと申し出た。矢野は面接と称してホテルのラウンジに呼び出し、「秘書の仕事には添い寝も含まれる」など発言し、断ったら姉を辞めさせると脅した。姉であるそのセンター職員からの抗議により、矢野は謝罪の念書を書いたが、その後も秘書などに対してセクハラ行為を繰り返し、次々に秘書が辞めていく事態となった。そのうち1人の非常勤職員は、センター事務長に「矢野からセクハラを受けたので退職したい」と訴えた。
上記の事情を知ったセンター助手がセンターに質問状を提出することなどによって、セクハラ疑惑として表沙汰となった。その頃、センター助手に、学生時代に自分も矢野から性暴力に遭っていたという女性から電話がかかってきた。
センターは、改善委員会を設置し、矢野のセンター所長辞任をもって解決を図ろうとするが、具体的なペナルティもなく事件がうやむやにされるのを恐れた被害者女性が、井口博弁護士と相談の上、弁護士名義で文部大臣宛に質問状を提出したり、「甲野乙子」名義で京都弁護士会人権擁護委員会に人権救済の申し立てを行ったりした。矢野は、12月31日付で京都大学を辞職した[4]。
1994年(平成6年)1月18日の京都新聞に、この事件に関する野田正彰の文章が掲載された。これを読み、現状が理解されていないと感じた小野和子が、1月25日の京都新聞に『学者と人権感覚 矢野元教授問題によせて』を寄稿した。これに反論する河上倫逸の文章が2月10日の京都新聞に掲載され、小野は2月20日の「大学でのセクシュアル・ハラスメントと性差別をテーマとする公開シンポジウム」において、『河上倫逸氏に答える セクハラは小事か』と題する文書を配布した。
矢野は、文部大臣に対する辞職承認処分の取り消しを求めた行政訴訟と、虚偽の事実が新聞に公表されたことなどにより名誉を傷つけられたなどとして甲野乙子、井口博、小野和子に対する3件の慰謝料請求の民事訴訟を起こしたが、いずれの判決も矢野の請求を棄却した。
事件の経緯
甲野乙子事件
1982年(昭和57年)1月末、大学3年生であった甲野乙子(仮名[注釈 1])は、甲野の通う大学の非常勤講師であった矢野暢[注釈 2]の特別講義に出席した[7]。その講義の終了後、甲野は大学内の学生食堂で矢野と話す機会を得て、東南アジア研究の話を中心に会話が弾み、自分が将来は研究者になりたい旨を伝え、甲野は矢野に自分の住所と電話番号を教えて再会を約束した[8]。三度目の面会の際、大阪市内のホテルの地下街で夕食などを共にした後、矢野は「今日は疲れているから部屋で話の続きがしたい」と切り出し、自分がチェックインしている同ホテルの部屋まで来るように申し向け、甲野はそれに応じて部屋に入った[8]。
部屋に入ってからも東南アジアの話が続いたが、突然、矢野が椅子から立ち上がり、甲野の手を握ったので、甲野は矢野の手を振り払った[8]。すると、矢野は「何で振り放った」と怒鳴り、甲野が「男の人からいきなり手を握られたら振りほどいて当然である」と答えると、甲野を平手で数回殴り、罵倒し始めた[8]。甲野は泣きながら反論したが、矢野に罵倒と殴打を繰り返され、反論も止め、手を握られるままとなった[8]。矢野は甲野の手を握りながら説得し始め、甲野の肩を抱こうとし、甲野がそれを拒もうとすると再び罵倒と殴打を繰り返した[9]。また、矢野は甲野をベッドに座らせ、自ら着衣を脱ぎ、「君も裸にならないと対等ではない」と着衣を脱ぐように求め、甲野が裸になると矢野は性交渉に及んだ[9]。矢野は「性行為は対等な人間同士がやることであり、君と僕が性的関係を持ったことは東南アジア研究を目指す者同士の同志的連帯の証である」などと言い、研究者になるために日常生活に到るまで指導することの同意を求めた[9]。甲野は黙り込んでいたが、矢野が詰問してきたために同意をした[9]。翌日、次に会う約束の日時を決めて別れた[9]。
この日以降、甲野は、矢野に殴られた跡の治療にも行かず、矢野と会う約束以外では人目を避けて寮の自室に籠りがちになり、大学の授業に出ないことも多くなった[9]。また、矢野と性的関係を持ったことには誰にも口外しなかった[9]。
甲野は、矢野の勧めに従い、4月からアルバイトとして、卒業後は事務補佐員として矢野の研究室に勤務した[9]。この間、何度か辞めたい旨を申し入れたが、その度に矢野が激怒し、殴るなどして撤回させられた[10]。また、矢野との性的関係も継続させられ、甲野が婚姻した後も続いた[11]。1988年(昭和63年)、甲野は他のアルバイトも矢野から性的関係を求められていたことや、第一秘書が自分と矢野との関係を認識していたことを知り、自分に対する対応が研究室ぐるみで行われていたと認識し、夫に対して告白するとともに、研究室への出勤を拒み、そのまま3月末に退職扱いとなった[11]。その後、甲野は大学院に進学したが、矢野や関係者との接触を避けるために東南アジア研究の道を選択しなかった[11]。
A子事件
1992年(平成4年)12月、京都府庁でアルバイトをしていたA子は、センターに勤務している姉を通じて矢野[注釈 3]から秘書として採用したいという申し出があった[11]。1993年(平成5年)1月8日に京都市内のホテルにあるフランス料理店にて、A子とA子の姉、矢野、矢野の所長秘書の4人で面接を兼ねた会食を行った[11]。その際、矢野は、あと数回会ってから採否を決めること、次の面接については姉を通じて後日連絡することを伝えた[11]。
次の面接日である1月12日、出張から戻ってきた矢野と駅で再会し、矢野が疲労を訴え、話し相手になってほしい旨を述べたため、A子は「私でよかったら話し相手になります」と応じた[11]。その後、会食で利用したホテルの地下にあるバーに向かい、階段を降りる途中で、矢野は「私がこういう風に疲れた時は、『先生、今日は一緒に飲みに行きましょう』とか、『先生、今日は添い寝をしてさしあげましょう』とか言わなければいけない。それが秘書の役割だ」と言った[12]。A子はバーに入った後、秘書の仕事は自分には負担が大きいので辞退する旨を述べた[12]。すると、矢野はA子に対し、「秘書としての事務処理の能力で雇うんではない。ハートの付き合いをしてもらうために雇うのである」などと怒鳴り始めた[12]。A子は「私には恋人がいるから、先生とはハートの付き合いができない」と言うと、「男がいるような妹を紹介したお姉さんもお姉さんだ。お姉さんと所長秘書には責任をとってもらう。私は所長だから辞めさせることは簡単なんだ」と畳み掛けた[12]。A子は、これらの発言を聞いて秘書採用の最終的な返答について保留し、矢野から次の休日頃に再度会いたいから予定を開けておくようにと言われて別れた[12]。
A子が帰宅後に自室で泣いていることから事情を察したA子の母がA子の姉に電話をし、A子は電話口でその日の経緯についてA子の姉に説明した[12]。A子の姉は話を聞いて憤激し、翌日、所長秘書に事情を説明し、A子の秘書採用を断り、自分も責任を取って辞職する旨を申し出た[12]。A子は、前田教授にも事情を説明した[12]。前田教授から事情を聞いた高谷教授は、A子の姉に対して、矢野に謝罪させる旨を電話で伝えた[12]。
2月25日、同ホテルにおいて、前田教授、高谷教授、所長秘書、A子の姉の立ち会いの下に、矢野はA子と会い、二度と同じようなことはしない旨を書き記した念書を渡し、「意志の疎通がうまく行かず、誤解が生じたのを深くお詫び致します」と謝罪した[12]。A子は、念書に「セクハラ」の文言を入れてほしいと思ったが受け入れられず、A子に対する言動の詳細については「あなたの心を傷付けた」という抽象的表現に留まった[13][14]。
3月8日、この事件を告発する匿名の文書が、文部大臣と文部省記者クラブに届いた[15][16]。矢野は、この事件を全面否定する釈明書を提出した[17]。
1993年(平成5年)4月中旬、矢野は出張先の東京のホテルの自分の部屋において、出張に同行していた採用間もない秘書のB子に抱きつき着衣を脱がそうとしたが拒まれた[18]。B子は直ちに帰宅し、以後出勤することなく4月30日付で退職した[18]。
C子事件
矢野は、前述のB子とのトラブルがあった1週間後に、出張先の東京のホテルの自分の部屋において、出張に同行していた採用間もない秘書のC子に抱きつき着衣を脱がそうとしたが拒まれた[18]。
D子事件
1993年(平成5年)6月10日、矢野は京都市内のホテルのエレベーター内で非常勤職員D子に抱きついた[18]。6月14日、D子は「矢野からセクハラを受けましたので辞めさせてください」「愛人にはなれません。報復が怖いから一身上の都合ということで辞表を出します」などと言って辞職願を出した[18]。
1993年(平成5年)6月14日、D子がセンター事務長とセンター庶務掛長に対し、矢野からセクハラを受けたので退職したい旨を訴えて辞職願を提出したことをセンター職員らが目撃した[19]。6月15日には、矢野の研究室の私設秘書全員が辞職願を提出した[19]。
A子の事情を知っていた米澤真理子センター助手(以下、「米澤助手」)は、上記の事情も知り、もはや矢野の個人的問題では済まないと考え、他の女性センター職員10名と共に6月21日付で事件の真相を究明し断固たる処置を取ってほしいという旨の質問状を「センター女性職員有志一同」名義で所長代理、副所長、各部門長、各部門主任宛に提出した[19][20]。
この質問状を受領したセンター教授らは、部門長会議及び拡大部門長会議で対応を検討し、改善委員会を設置し、矢野以外の全センター教授で構成することを決定した[19]。これらの経緯を知った矢野は、7月15日に開催された臨時の教授会において所長を辞任したい旨を申し出て承認された[21]。改善委員会委員長である高谷教授は、個人の良識に解決を委ねるべきであると考え、矢野に謝罪等の条件を実行させ、所長を辞任することで事態を収拾しようとした[22]。米澤助手は、高谷教授の報告の中にセクハラについて触れていないことを不満として、再び7月26日付で改善委員会の全委員宛に調査の継続の有無と辞任理由とセクハラの責任の関係について回答を求める趣旨の質問状を提出した[22]。
質問状を受けて、7月30日に所員会議を開き、改善委員会委員長は、センターの全所員に対し、7月29日の協議員会でも矢野の辞任が承認されたこと[注釈 4]、矢野の辞任の理由は他の公務が多忙であることとセンター内が混乱していることの責任を認めてのことであるとし、改善委員会はこれ以上の調査をしないことを伝えた[22]。その一方で、女性職員に対し、今後は非公式に懇談を続けていくことを提案した[22]。米澤助手は、非公式の懇談を続けるという提案を受け、8月中に2度の懇談を持った[22]。また、米澤助手らは、井口博弁護士(以下、「井口弁護士」)と相談し、8月20日付で、セクハラの事実を認めて被害者に謝罪するか、責任の取り方として全ての公職を辞職するつもりがあるか、という趣旨の矢野個人に対する質問書を送付した[25]。
矢野は、8月31日に正式にセンター所長を辞任した[26]。9月1日、矢野の後任として坪内良博センター教授(以下、「坪内所長」)がセンター所長に就任し、改善委員会委員長も兼務することになった[26]。9月9日、矢野は、所員会議において、所長辞任の挨拶をし、センター内に混乱が生じたことについて、遺憾の意を表した[26]。矢野は、岡本道雄元京都大学総長(以下、「岡本元総長」)、徳山詳直瓜生山学園理事長(以下、「徳山理事長」)、高谷教授、古川教授と、自分の今後の対処の仕方について相談した[26]。
同僚からの手紙で上記のような内部告発が行われていることを知った甲野は、9月24日にセンター編集室に電話し、米澤助手に自分と矢野との性的関係などの事情を告白した[27][28]。この告白を踏まえ、米澤助手は、同日の小懇談会において、矢野のセクハラの事実の有無について調査したいと申し出た[29][30]。
米澤助手らは、8月に送付した質問書について、質問書に記載した期限を過ぎても返答がなかったため、文部大臣宛に9月27日付で井口弁護士を代理人として質問書を送った[26]。10月1日、文部省は京都大学に照会し回答を求めた[29]。坪内所長は、高谷教授、前田教授の立ち会いの下、矢野に対し事実関係を問い質したが、矢野は事実関係は存在しない旨の弁明をした[29]。10月4日、坪内所長は、事実関係を調査したいと申し出た米澤助手に対し、事実関係の調査を所長の責任で公的なものとすることを決めたので、調査結果をまとめて提出してほしい旨の説明をした[29]。
米澤助手は、甲野らに公的な調査が開始されるので協力してほしい旨を伝え、甲野らから陳述書を入手した[29]。それに聴取書や証言メモを作成し、これらに基づいて作成した調査報告書と陳述書等を11月8日に坪内所長に提出した[29]。11月11日、坪内所長は改善委員会を開き、被害者とされる女性の実在と証言の自発性を確認するため、海田教授、土屋教授、前田教授、福井 Permalink | 記事への反応(1) | 19:43
“ 1993年(平成5年)、京都大学東南アジア研究センター(以下、「センター」)所長である矢野暢が、あるセンター職員の妹を秘書として雇いたいと申し出た。矢野は面接と称してホテルのラウンジに呼び出し、「秘書の仕事には添い寝も含まれる」など発言し、断ったら姉を辞めさせると脅した。姉であるそのセンター職員からの抗議により、矢野は謝罪の念書を書いたが、その後も秘書などに対してセクハラ行為を繰り返し、次々に秘書が辞めていく事態となった。そのうち1人の非常勤職員は、センター事務長に「矢野からセクハラを受けたので退職したい」と訴えた。
上記の事情を知ったセンター助手がセンターに質問状を提出することなどによって、セクハラ疑惑として表沙汰となった。その頃、センター助手に、学生時代に自分も矢野から性暴力に遭っていたという女性から電話がかかってきた。
センターは、改善委員会を設置し、矢野のセンター所長辞任をもって解決を図ろうとするが、具体的なペナルティもなく事件がうやむやにされるのを恐れた被害者女性が、井口博弁護士と相談の上、弁護士名義で文部大臣宛に質問状を提出したり、「甲野乙子」名義で京都弁護士会人権擁護委員会に人権救済の申し立てを行ったりした。矢野は、12月31日付で京都大学を辞職した[4]。
1994年(平成6年)1月18日の京都新聞に、この事件に関する野田正彰の文章が掲載された。これを読み、現状が理解されていないと感じた小野和子が、1月25日の京都新聞に『学者と人権感覚 矢野元教授問題によせて』を寄稿した。これに反論する河上倫逸の文章が2月10日の京都新聞に掲載され、小野は2月20日の「大学でのセクシュアル・ハラスメントと性差別をテーマとする公開シンポジウム」において、『河上倫逸氏に答える セクハラは小事か』と題する文書を配布した。
矢野は、文部大臣に対する辞職承認処分の取り消しを求めた行政訴訟と、虚偽の事実が新聞に公表されたことなどにより名誉を傷つけられたなどとして甲野乙子、井口博、小野和子に対する3件の慰謝料請求の民事訴訟を起こしたが、いずれの判決も矢野の請求を棄却した。”
“ また、矢野と性的関係を持ったことには誰にも口外しなかった[9]。
甲野(仮名)は、矢野の勧めに従い、4月からアルバイトとして、卒業後は事務補佐員として矢野の研究室に勤務した[9]。この間、何度か辞めたい旨を申し入れたが、その度に矢野が激怒し、殴るなどして撤回させられた[10]。また、矢野との性的関係も継続させられ、甲野が婚姻した後も続いた[11]。1988年(昭和63年)、甲野は他のアルバイトも矢野から性的関係を求められていたことや、第一秘書が自分と矢野との関係を認識していたことを知り、自分に対する対応が研究室ぐるみで行われていたと認識し、夫に対して告白するとともに、研究室への出勤を拒み、そのまま3月末に退職扱いとなった[11]。その後、甲野は大学院に進学したが、矢野や関係者との接触を避けるために東南アジア研究の道を選択しなかった”
—— Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E9%87%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6
元増田です。
おじさんが書いたクソみたいな内容の日記がホットエントリに…っ!
FF人気のお陰ですが、ありがとうございます。
以下、返信
調べたらFF2発表は1988年(昭和63年)のようですから、多分昭和だったんじゃないですかね?
>マル勝ファミコン ファイナルファンタジー 付録 小説 でググる→ 実際にこれなのかは知らん https://jp.mercari.com/item/m69128405753
>タイトルでググる→ https://blog.naver.com/ffner/40193273267?viewType=pc
>https://auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/c1152289864
こんなだった気がします!! …というかまだ残ってるのが凄いですね。
>マジレスするとFF2の小説だろうね。姫に化けたラミアクイーンがベッドに誘うシーン。
調べたら、どうやらこれっぽいですね。ヒルダって名前だったような気がします。
ゲーム本編で「自分のおっぱいを引き裂いて肋骨アタック」とか、さすがに任天堂様が黙っていないでしょうからマイルドな表現にしていたのかもしれません。
やってないので知りませんが、ヒルダちゃんはヒロインじゃないのかしら?
当時小学生だった私の読解力での記憶ですから、ヒロインじゃなかったら申し訳ありません。
>スニーカー文庫の「ファイナルファンタジー2―夢魔の迷宮」に先立っての一部公開的な付録だったのかな
どうなんでしょうね?当時まだ小学生だったんで分かりませんが、多分販促を兼ねた付録だったのかと。
調べたら小説書いてるのFF2のシナリオ担当だった方の様ですね。
つまりこれ公式展開で、スクエニの許可どころか作った人の作品だったようです。…尖り過ぎてませんかね?
>これおぼろげながら記憶にあるわ。たぶんマル勝で合ってる。当時のマル勝はエログロ方面に相当攻めてたよなあ。
証人の方が居たっ! 私が存在しない記憶を捏造してなくて良かった!!
定期購読してた訳じゃなくて、たまたま本屋で買ってもらったファミコン雑誌だったんですが…マル勝ってそんな位置づけだったんですね。
> FFの小説は解からないが、魍魎戦記マダラは良く覚えてる。マル勝はPCエンジンとかの雑誌の流れを汲んでいた事から、当時はそういうエロとグロが入り混じった雑誌作りだったのも覚えてる。
>魍魎戦記MADARAはFC版が好き
マダラは確か手が剣になって、それが「ギミック」とかいう名前がついてましたね。
当時、ギミックって単語は「手が剣に変わる」という意味だと思ってた記憶が甦りました。
……そして有識者2人の見解として「マル勝はエログロだった」らしいという事が分かり、改めてすごいなと感じました。
これも調べたらジョジョ2部とFF2は大体同じ時期に発表されてますね。
どっちかがインスパイアしたのか、もしくはシンクロニシティか、あるいは1988年前後に肋骨で攻撃するのが流行していたのかも知れません。
>こういう自分だけのよくわからない苦手意識がスッキリすると気持ちええよね
前身の千歳空港は軍民共用空港であり、1951年[23]の民間航空再開後、自衛隊機と民間機が共用で使用してきた。しかし、1978年に千歳空港と東京国際空港(羽田空港)間の旅客数が世界最多となるなど旅客数・貨物量が増加。大阪や名古屋、福岡など全国の大都市や、道内各地を結ぶ路線が就航するなど、北海道のハブ空港として機能するようになった。一方で、ソ連機の領空侵犯に対する自衛隊機のスクランブル出動は年間200回にも及び、その間、民間機は地上や周辺空域で待機を余儀なくされ、長い場合は30分にもわたることがあった。そのため、航空機の安全確保と航空需要の拡大に対応するため、新たに新千歳空港が建設されることとなり、1975年(昭和50年)11月20日[23]に着工。1988年(昭和63年)7月20日に、民間専用の空港として開港した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%8D%83%E6%AD%B3%E7%A9%BA%E6%B8%AF#%E6%AD%B4%E5%8F%B2
(ラーメンショップは別として)家系の元祖である吉村家から喧嘩を売るかのように独立して生まれたのが六角家だ
家系の元祖は確かに吉村家だが、昭和63年に生まれた六角家が家系のベンチマーク的存在だと私は考えている
その理由は、現在家系を自称するお店は吉村家よりは六角家の味に近いからだ
吉村家は醤油ダレをガツンと効かせるのに対して、六角家はスープ(出汁)を重視して家系ラーメンに変化をもたらした
その変化は、吉村家と比べると六角家の方が食べやすく、多少は万人受けするラーメンになった
万人受けといっても吉村家よりはマシと言う程度で、昔は獣汁と呼ばれるくらい臭いしクセがあった
六角家をもってしても、その頃の家系はまだまだ人を選ぶラーメンだった
壱六家はげんこつを使わずに豚頭を使うことでクリーミーな家系を発明した
壱六家以後、スープの獣臭さは年々弱くなり、ラーメン本から獣汁という言葉が消えていったのではないかと私は考えている
(横浜の都市化が進み、店で獣臭いスープを炊けなくなったこともあるだろうけど)
壱六家は吉村家や、そこから独立したお店で修行したわけでもない非直系
この壱六家を元祖とし、壱系と呼ばれるくらいに広がり、現在展開されている資本系とか呼ばれるのをたどると壱六家に行き着く店も多い
https://hamarepo.com/story.php?page_no=2&story_id=2328
本当に壱六家発祥なのか怪しいと思っているけれど、昔は今ほど家系でライスを食べる文化は定着していなくて、直系でもライスを食べる人が増えてきた頃は違和感があった
直系以外は認めないという方も、壱六家発祥とされるライスの美味しい食べ方を実践しているのではないかと思う
なので、スープに浸した海苔でライスを巻いているラオタがいたら「それって壱六家発祥だから直系の食べ方じゃないよね」といじめてあげよう
ライスの食べ方だけじゃなく、直系ですら壱六家の影響を受けた食べやすい臭くない家系になっていて、現在直系にこだわるほどかなと私は考えている
ただ、資本系と呼ばれるお店には家系とは呼び難いものも多いから、資本系を家系と一緒にしたくないという気持ちも理解できる
二郎系はインスパイアと呼んでも、資本系の家系をインスパイアと呼びたくないラオタの微妙な感情があるのです
直系とか資本系とか知らねーよって方も直系と資本系をそれぞれ食べたら違いがわかると思うので、直系を探して食べてみて欲しい
食について一切語るなよな
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2200899
に関して
食品販売施設に必須だったので形だけつけてある。カウンター下手洗い場で手洗いするのは困難。
各都道府県の条例により設置義務が決まるが、平成19年通達により設置義務緩和のガイドラインが定められたので、以後開業のコンビニなどでは無い場合がある。
コンビニの客用手洗い場設置義務は緩和されたが、店内に客席がある場合は設置の義務がある。
逆に言うとカウンター下に客用手洗い場があるコンビニでは無工事でイートイン席を作る事が出来た。
コンビニカウンターの向こう、壁側にもカウンターがあり、肉まんホットケース、タバコ棚が並んでいるが、一部は天板取り外しが出来てその下には二槽式シンクがある。食品を売る店舗では複槽シンクが必須だったため(自治体による)。
先述のガイドライン策定により、洗うのが器具だけで食品を洗う必要がない場合は複槽である必要なしと規制緩和。
二人乗りをあまり考慮していないレーサーレプリカやスーパースポーツタイプのバイクの後ろシートの前の部分には目を凝らさないと判らないようなバンドが存在する。
例:NSR250R https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/87/Honda_NSR250R_in_the_Honda_Collection_Hall..JPG
これはデザイン上の飾りではなく、後部乗員用が手で掴まる「シートベルト」で、道路運送車両の保安基準(道路運送車両法の政令)で定められた乗車装置である。撤去すると車両法違反となり車検がある車種では車検が通らない。
切符の発行、購入は目的地に輸送するという旅客運送事業の契約成立であるので、不通が生じた場合には振替輸送が供される。契約不履行としての代替手段である。
Suicaなどではこの契約が成立していないので振替輸送を受益する事が出来ない。
しかしそのSuicaで切符を買ってしまうと旅客運送契約が成立するので振替切符を交付してもらえる。
運輸業には旅客と貨物の免許がありそれぞれ別物である。故に旅客免許しか受けていない鉄道会社、バス会社は貨物輸送を受ける事が出来ない。フェリー航送は車の持ち主の乗船が必須。
だが客の手荷物を別料金、別列車で輸送するという建前で単独輸送する託送手荷物制度が存在する。
また、託送荷物には速達性が求められる新聞も加わり、その流れで映画館で放映するニュースフィルムも託送された。
ところでセルロイドは爆薬(硝化綿、無煙火薬)から作られるものであり、易燃性で暑い時に勝手に発火することもある。この為に担ぎ屋が持ち込んだタバコパイプ等が発火して火災になる車両事故などが多発して持込が禁止されていた。
だが昔の映写フィルムはこのセルロイド製であったので、夏にバス運転席前に置かれた託送手荷物の映写フィルムが突然激しく発火、バスの出口が前一か所だけなので満員の乗客が逃げられずに多数が焼死という事故が何件も起きている。
国鉄が廃止したのを皮切りに今は手荷物輸送は殆ど行われていないが、夕方などに客室の一部をロープで締め切って新聞を託送する電車はいまだ存在する。
売春は禁止されているが、ソープランドでの性行為は「自由恋愛が発生したので」黙認されている。
男性の売春であるウリ専は認められている。売春は異性間性交であるとの暗黙の了承による。
明治文明開化以降、大量の外来語が入ってきた為に、小文字カナの使用が始まる(捨てガナという)。
明治政府は、政府の公文書や法令での捨てガナの使用を禁止。これに新聞社や大企業なども倣ったため、お堅い業種や監督官庁がある分野では外来語表記に捨てガナが無い表記を工夫するようになった。
機械や自動車工学では整備士など国家試験があるので「ディー」と書けず、「ヂー」を使うようになった。
この捨てガナ規制は昭和63年に解除された(昭和63年7月20日 内閣法制局総発第125号 『法令における拗よう音及び促音に用いる「や・ゆ・よ・つ」の表記について』)。
よく「キューピー社の正式名称は『キユーピーだ』というトリビアが開陳されることが多いが、以上の経緯からナンセンスなインチキトリビアである。「キューピー」や「QP」で登記できなかったからであって、古い外来語名企業は全て捨てガナ表記されていない。(ローマ字やアラビア数字で登記出来るようになったのは2002年11月1日:商業登記規則改正)
裁判では判決は言い渡しし、口頭弁論などは陳述する事になっている。
その為に準備書面を予め提出し、廷内で「書面の通り陳述します」と言うと書面の中身を法廷で話した事になる。
一般的なインターネットとはWWWの事で、ハイパーテキストによる出版であるから出版が準用されて、ネットを通じた選挙活動というのは禁止されていた。が、ガバガバな状態であった。
だが公職選挙で出版が制限されるのは出版や印刷には金がかかり資金の差が獲得票数の差になる事を避けるための規制であるから大して金が掛からないWWWでの運動を規制するのは立法趣旨に反する。
という事でWWWでの文書図画の公表、頒布は限ってはOKという事にした。
但し電子メールアドレス表示必須である(守られてない)。電子メールでの活動は候補者以外は禁止のままだ。
数々の車両火災によりバスの後部、出口と反対側には脱出用のドアの設置が義務付けられている。
だが外国製バスには無いものが多い。普通は改造しないと型式取得が認められないが、連接車など特別な用途のモノの場合、ガラスカチ割り用のハンマーを後部席に設置してあるから特例的にKという形になっている。
計量法は日本の旧尺貫法での表記がされた計量器具の製造販売を禁じている。
だが建築内装などでは旧尺貫法に準じた長さが未だ標準となっている。
そこで、差金の裏に尺に準じた目盛りをメートル表記したものが売られている(尺相当目盛り付き長さ計)。国会で審議されてこれは合法というお墨付きが出た。
海外で製造された三輪トラックなどを日本に輸入する場合、普通自動車としての型式は取れないので、ドアを撤去してサイドカーとして登録する。ドアを撤去するのは、サイドカーの条件として「ドアが無いこと」となっているから。
冬は寒いが幌は禁じられていないのでビニルレザーでドア型幌を作って付けても大丈夫かと思われる。
なお、50ccの場合はミニカーで登録できるのでピアッジオ・アペ等はドア付きでOkである。
A重油は殆ど軽油で軽油9割、重油1割から成る。軽油には32円/Lの軽油税が掛かるが、道路を走行する車両に搭載されないエンジンで使用する場合その税金は払う必要が無い。その為の油種。トラックが使用したら直ぐに判るように蛍光剤が混ぜられている。
エタノールには酒税が掛かるがイソプロピルアルコールを少量混ぜて不可飲処置させてあるので酒税が掛からずに安い。
酒に塩や酢を混ぜて不可飲処置されているので酒税を回避。つまり不味い。
以上、三つだけ選んでお届けした。
台湾も二大政党制だけどそうでなかったらひまわり運動も起きずに香港の二の舞になっていただろう
二大政党制だからこそ蔡英文総統のような将来のノーベル平和賞候補が生まれたのである
衆議院で法律作って自民党が数の力でぶっちぎったものを参議院に送る。
学校で習った記憶がないのは社会が大嫌いだったからだと思うが、参議院というのは衆議院から上がってきた法律を審査してほんとに通すかどうか決めるところだ。
抑制、均衡、補完
自民党がいくら数の力で法律押し通しても参議院がいやいやそりゃいくらなんでもだめだろうと突き返す役割がある。
ここまで書いたときにかつて民主党が政権を取ったときに、誰もがねじれ国会といったのを覚えてるだろうか。
当時あまりにも普通に言われていたので疑問にも思わなかったのだが、この言葉の異常さがわかるだろうか。
国会にいる政治家たちが隠すこともなく公然とねじっている、というのが正解で、政党政治が参議院に隠すことなく堂々と持ち込まれている。
たしか小泉元首相が、民主党が衆議院で与党になろうが参議院で足引っ張りまくるだけだからと言ってたことがあるが、これ本当はとんでもない問題だということを誰も言わなかったのはおどろきてしかない。
参議院はどの政党がつくった法律か、なんていうのは考えてはならないし、自民党の法律だから、民主党の法律だから、なんて観点があってはならない。
あくまでもその法律は適切か、長期的な視野に立ったときにどんな問題があるのかとか、より高いレベルで法律を評価しなくてはならない。
けど国民はこのことを知らないのかもしれない。
実はこのことは昭和63年にはすでに問題視されていて、参議院には独自の選挙制度がいるのではないか、という提言がされている。
もうじき参議院選挙があるのだが、比例代表だの政党ごとの公約だのをNHKが無批判に流していることが正直驚きだ。
参議院のあり方はあくまでも衆議院に対する抑制でなくてはならない。立法は主目的ではないのだから政党の公約がある時点でナンセンスだ。
キューピーのユが大文字なのに書き方が間違っている!と指弾する人がいるので説明するが
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.j-cast.com/2021/09/15420359.html?p=all
「ュ」などの小書き仮名を捨て仮名というが、これは以前は登記に使えなかった。そもそも昭和63年までは法律、行政文書に捨て仮名を使うことができなかった。
時系列順に並べるとこんな感じ
明治:公文書でカタカナを使う事が決まる(平仮名は大量の変体仮名があったため)
↓
↓
法令、行政文書には小書きカナ不可、故に屋号、商号登記への小書きカナも不受理
この為小書きカナを大書きしたり、小書きを使用しない表記が一般化する(例:キューピー→キユーピー、ディーゼル→ヂーゼル)
↓
戦後昭和20年代後半くらいから擬音などで小書きを使うことが一般化していく
↓
末期には見出し:小書き仮名不使用表記、記事本文:小書き仮名使用という混在状態
↓
昭和63年(1988年):昭和63年7月20日 内閣法制局総発第125号 『法令における拗よう音及び促音に用いる「や・ゆ・よ・つ」の表記について』
「法令における拗よう音及び促音に用いる「や・ゆ・よ・つ」の表記については,(中略)昭和六十三年十二月に召集される通常国会に提出する法律(中略)から,小書きにする。」
これにより行政文書などにも準用されて小書き仮名が使用されるようになり登記も可能になる
↓
これ以前はローマ字をカナ書きした表記(例:YKK→ワイケイケイ)にしたり数字を漢数字にして登記する必要があった
こういう経緯なので昭和63年以前に登記した会社は「キュ」などの小書き仮名表記は商号登記に使えなかった。
だからそれが正式表記かというと法的制約によるものなのでちょっと違う。YKKの正式名称がワイケイケイかと言えばおかしさが判るだろうか?
キューピーの社名の元はキューピッドの子供読みで-yを付けた人形なので一般的な「キューピー」でいいはずだ。
登記上の制約で商号の一般認知と商号登記が違う、NHKと新聞だけが登記上の商号を使うという状態は嘗ては当たり前だったので、今も昔のままの商号を使う会社の「正式名称」に事更に拘るというのはナンセンスかと思われるよ。
・国会議事録( https://kokkai.ndl.go.jp/#/ )から「丁寧に説明」「丁寧な説明」を検索し結果を取得、合算
・発言総数は、5509回
岸田文雄 108
石井啓一 60
西村康稔 55
麻生太郎 52
中谷元 50
菅義偉 49
茂木敏充 42
塩崎恭久 39
岩屋毅 37
吉川貴盛 35
望月義夫 35
野田佳彦 34
林芳正 32
梶山弘志 25
野上浩太郎 25
下村博文 25
■年別推移
令和3年 350
令和2年 391
令和元年 463 (平成31年を含む)
平成30年 621
平成29年 497
平成27年 569
平成26年 446
平成24年 188
平成23年 185
平成22年 93
平成21年 76
平成20年 77
平成19年 64
平成18年 102
平成17年 83
平成16年 53
平成15年 39
平成14年 43
平成13年 26
平成11年 43
平成9年 16
平成7年 9
平成6年 6
平成5年 13
平成4年 8
平成3年 14
平成元年 8
昭和63年 5
昭和62年 5
昭和61年 3
昭和59年 3
昭和58年 2
昭和57年 6
昭和56年 4
昭和55年 7
昭和54年 5
昭和53年 5
昭和52年 3
昭和51年 7
昭和50年 3
昭和49年 2
昭和48年 4
昭和47年 1
昭和46年 2
昭和45年 4
昭和44年 5
昭和43年 7
昭和42年 8
昭和41年 4
昭和40年 4
昭和39年 3
昭和38年 4
昭和37年 5
昭和36年 6
昭和35年 2
昭和34年 5
昭和33年 7
昭和32年 6
昭和31年 4
昭和29年 8
昭和28年 8
昭和27年 5
昭和26年 7
昭和25年 8
昭和24年 4
昭和23年 6