はてなキーワード: ありのままとは
誤解されがちだが告白は、関係性の根回しを十分にした上での最終確認とすべき
「聞かなかったことにしてやるからお前も言わなかったことにしろ」
って意味ではなく?
ぎくしゃくするのも嫌だし…だったら、聞いてなかったことにするよってことだったりは…
しないか
そして清潔感がないのに〜のくだり
本当に清潔感がないって分かってるのに告白してるなら失礼だし、そうではなく断られたことへの言い訳的なものだったらダサいからやめなさい
あなたの言うとおり、ありのままを受け入れてもらおうとするのは大分おこがましいことだ。皆、大なり小なり努力しているのに。
そもそも業務上の先輩に告白されるって恐怖だよ。そういう関係性が築けていないのに。少しコミュニケーションの部分を見直せたらいいな
おしゃれや身だしなみに気を使うことに罪悪感を覚えるタイプの自信のない男は、何もせずありのままの姿でいることを誠実さアピールだと思っている
だから清潔感を気にしろというアドバイスは彼らにとっては嘘をつけ、人を騙せと言っているのも同じ
だから「いまどき清潔感を求めるなんて!」「見てくれさえ整ってれば良いのか!」と吹き上がる
社会にはついたほうがいい嘘があるということを彼らはなかなか受け入れられない
写真のことは完全に素人だが、どの写真も「いい…」としか言いようがない。
とりあえずflickrを見てほしい。膨大な枚数が丁寧にソートされており、見やすさからも本人の仕事の几帳面さが窺える。
https://www.flickr.com/people/mikkagashi/
三日画師さんを知ったのは通っていた大学の最寄り駅で大規模な再開発があり、その頃の風景が失われてしまったのがきっかけだった。
当時ガラケーだったのもあり写真が手元に全く無いことに気が付き、せめて気持ちだけでもと検索したところでたまたま三日画師さんのアルバムを見つけた。
しかもまさに自分が通っていた時代の写真が大量にアップされていたのも驚いた。
その後flickrにアップされている写真はほぼ閲覧した。どの写真も凝りに凝った一枚というよりも、そこに住んでいる人の目に入っているであろう風景がありのまま撮影されている。三日画師さんとは生活エリアが近いようで、いくらでも見たことがある光景が出てくる(そしてもう見れない。ほとんど何かしらの再開発が入っているから)。
残念ながら三日画師さんのアカウントは長らく更新がない。twitterのアカウントも検査入院の報告で止まっている。それでもこの誰かの心象風景ときっと重なるであろう貴重な写真がインターネットに埋もれていってしまうのが惜しいので、ひっそりとここにアップしておきたい。
・ありのままでいることが大切!
→不潔由来の異臭を放つ人とか、一方的にしつこくしてくる人とかあれはありのままの人。自分のありのままは誰かにとって普通に迷惑だったりする。
・自分のありのままを受けいれてくれる人間関係が素晴らしいしそれ以外いらない
→仲良くなるための行動を自分から取らないとそういう人たちとも仲良くなれないし、あと人に迷惑になるような事もしないように気をつけないと普通に悪口言われまくる
・無駄話や馴れ合いなんてくだらない。仕事とか勉強とかやることやってればそれでいい
普通に孤立したりそれ以上に悪意ある嫌がらせされたりするから馴れ合い大切
・人に合わせるのダサい!疲れる!めんどう!
→普通に孤立してる方がかっこ悪いし望まない嫌がらせされる可能性高くなって余計疲れるしめんどくさくなる
(…)要するに〝カウンター〟勢が総メンヘラ化しているためだと私には思われる。社会性というものがなく、自身の言動が社会的にどういう効果を持ってしまうのか分からないし、考えもしないし、そもそもおそらく興味がない。メンヘラどもはただひたすら自分の感情をぶちまけたいだけで、(…)
未熟な子供をビシバシ鍛え上げて、社会性を身につけた一人前の大人へと矯正していくための有史以来の人類の普遍的営為を〝ハラスメント〟呼ばわりし、〝みんな違ってみんないい〟的に甘やかすポリコレの風潮が、治るメンヘラも不治の病へと悪化させまくってきた。というか、メンヘラどもに病気を治す努力を放棄させ、〝ありのままの自分でいい〟と開き直らせてきた。
こんなツイートを目にした。
https://x.com/yasufuminagawa/status/1981977854423540174
読んで、ああ、と思った。
私も同じことを感じていた。でもそれを言葉にできずにいた。
このツイートをきっかけに、自分が何に苦しんでいるのか、整理してみようと思う。
TRPGを遊ぶとき、周りの人たちはビジュアル情報をすごく重視している。少なくとも、私のいるコミュニティでは、そうだ。
立ち絵やイラストを用意する。「どんな表情をしてる?」「どんな服を着てる?」と視覚的な詳細を求める。KPが善意でコマ絵を用意してくれる。ビジュアルで彩られたセッションが、当たり前のように存在している。
「絵を描かなくてもいい」と明示的に言われることもある。しかし実際には、ほとんどの人が絵を用意してくる。用意してこなかった人は「立ち絵ないんですよ」と、謝るように断りを入れている。暗黙の規範として、ビジュアル情報を提供することがデフォルトになっている。
「立ち絵合わせしよう」と誘われ、断ったときには遠回しな不機嫌さ――パッシブ・アグレッション――に直面することもある。明確な攻撃ではないが、確実に心は削られる。
一方、私にとって、ビジュアル情報は「どうでもいい」わけではない。マップや配置図など、実用的なビジュアルは役に立つ。しかしキャラクターの立ち絵や表情、服装といった演出的なビジュアルは、文字だけで十分だ。認知特性として、文字の方が処理しやすい。結果として、想像の余地がある方が楽しめる。
周りの人たちは、ビジュアル情報に価値を置いている。この価値観のギャップが、根本にある。
孤独だ。周りの空気を気にせず遊べたらいいのに、気にしてしまう。
「気にしなければいい」「描きたくなければ描かなければいい」と言われても、それができない。気にしないでいたら、実際にパッシブ・アグレッションを受ける。傷つけられる。建前では「自由にしていい」と言われているのに、実態として自由を感じられない。
KPが善意でコマ絵を用意してくれることも、侵襲されているように感じる。自分のイメージしていたキャラクターが勝手に視覚化される。善意だから、断れない。
「どんな表情してる?」という自然な質問も、重荷だ。視覚情報を求められること自体が、プレッシャーになる。
「ビジュアル重視」という価値観が主流のコミュニティで、「文字だけで十分」という認知特性を持つ自分が、常に多数派に合わせることを求められ続けている。
外部からの要請や期待に応え続けている。「立ち絵を描く約束」があると描く。描きたいときもあるが、基本的には外部からの要請で動いている。
私は立ち絵が描ける。描けるからこそ、「描いてよ」という要請が来る。描けるから、描くのが楽しいと思われている。しかし、描けることと描きたいかは別だ。描けるからこそ、「描かない」選択がさらに説明しづらくなる。描けない人なら「描けないので」で終わる話が、描ける人だと「じゃあ描いてよ」「描けるのになんで描かないの?」という圧力になる。
自分のペースを決められない。TRPGだけではない。常に、叶えないと文句を言ってくる人がいる環境で、自分を調整し続けている。いつも我慢してしまう。
この苦しみが「コミュニティの問題」なのか「私の問題」なのか、境界線が分からなかった。
整理してみると、苦しみには二つの層があるように思う。
パッシブ・アグレッションは証明しづらい。だから「私の気にしすぎかも」と自分を疑ってしまう。それでも、実際にダメージを受けている。
ビジュアル情報がないと想像できない人にとっては、ビジュアルがないことが苦しみなのだと理解している。相手にとっては、ビジュアルがあることが楽しみでもある。それを理解しているから、「ビジュアルなしでもいい世界を」と主張することに、ためらいがある。相手の楽しみを奪うようで、罪悪感すら感じる。
だから、自分の願いを主張しづらい。誠実であろうとすればするほど、自分が傷つきやすくなる。
多様性を認めてほしい。
具体的には、安全に断れる環境と「ビジュアル重視」だけが正解ではない世界がほしい。
文字だけで楽しむ人も、ビジュアルで楽しむ人も、どちらも「普通」として認められる世界。本来は、これはトレードオフではないはずだ。ビジュアルを使いたい人は使えばいい。ビジュアルなしでいい人は使わなくてもいい。両立できるはずだ。
しかし実際には、「みんなで合わせる」という暗黙の前提があるため、両立できていない。誰かが立ち絵を用意しないと、全体の統一感が崩れるように感じられる。この「合わせなきゃいけない」という前提が、問題なのだと思う。
ビジュアル情報を提供しないことが「例外」ではなく、一つの選択肢として当たり前に存在する世界。
断ったときに、パッシブ・アグレッションを受けない世界。冷たくされたり、遠回しに批判されたりしない世界。
「どんな表情してる?」と聞かれたときに、「そこは想像に任せたい」と答えても、受け入れられる世界。
KPが善意でコマ絵を用意してくれることは理解している。しかし、断ったときの相手の反応や、普段からのビジュアル重視の姿勢を見ていると、本当の意味で「断ってもいい」とは思えない。断っても、それが尊重される世界がほしい。
「立ち絵ないんですよ」と謝らなくていい世界。自分のやり方で楽しむことが、言い訳や説明なしに、否定されない世界。
でも、これは願いだ。
今いるコミュニティが、本当にそうなるかは分からない。もしかしたら、私が去るか、自分が変わるか、どちらかを選ぶしかないのかもしれない。それは、私自身が決めることだ。
「ビジュアル重視」という流れが主流になっている今、ビジュアル重視でないTRPGの楽しみを、改めて考え直してもいいのではないだろうか。
視覚情報が少ないからこそ、想像の余地が広がる。「絶世の美人」が、人によって違う顔をする。各自が思い描くイメージの自由がある。
それは、TRPGが本来持っていた豊かさの一つではないだろうか。
ただし、それは簡単なことではない。
「ビジュアルで楽しむ」方法は、立ち絵、セッションの部屋素材、カットインなど、具体的なノウハウが共有され、洗練されてきた。一方で、「文字だけで楽しむ」方法は、まだ十分に言語化されていない。「想像を膨らませる」「余白を楽しむ」と言うのは簡単だが、それを実践する具体的な方法論は、手薄だ。
どちらが正しいわけでもない。どちらも、それぞれの楽しみ方だ。
あ…ありのまま、今、起こった事を話すぜ!
ブルーベリー風味のヨーグルト買ったら原材料にブルーベリーが入ってなかった…
な…何を言ってるのか、わからねーと思うがおれも何をされたのかわからなかった…
頭がどうにかなりそうだった…
いつもの極左から見て極右極右とカジュアルに大合唱してるだけなんじゃないの?
極右ってどんなのか知ってて言ってる?
お前らが勝手に極右と評して、それが海外にも反映されて極右扱いされたもんだから、引っ込みつかなくて益々極右と言うことにしなきゃ気が済まないってなってるだけなんじゃないの?
なんなら海外でも極右って言われてるから極右だ!みたいな逆輸入してるだけなのにエコチャンの中で勘違いしてるアホも居たりして全く愚かしいわ。
高市的には総裁になってまだ何の仕事も始められておらず、実際の政治手腕としてはどこまで右かどうかも評せない所だろう。
それからすれば、なんやかんや情勢見ながら妥協もして無難にまとめて行く総理になるんじゃないか?
メディアによる「支持率落としてやる」発言への対処として、記者を特定せず報道社に罰も与えず、ただありのままに一次ソースの動画付き全文書き起こしは痛快な対処だな。
https://togetter.com/li/2616249
これまで世論誘導を牛耳ってきたメディアに何が最も有効か、的確な対応だと思う。まあこれが高市の仕事かどうかはわからんが、極右なら激怒して表立って報道権取り上げるなり、全ての報道機関に自党に不利な報道を禁じるよな。
俺がエピソードトークを話しても全くウケない。ほぼウケた事がない。
なので、どんなに長い話でも30秒以内にギュっと収めるようにした。
オチは先に言う、どう感じたかを大げさに伝えるなど、意識して話すとちょこちょこウケるようにはなった。
もっと話したいトコがあっても「あー」とか「はー」とかで流されるから、
なんだかスッキリしない。本当は全部聴いてほしい気持ちがあった。
そんなある日、ちょっとした事件があって凄くムカムカしていた。
誰かに話したくて仕方がなかった。そうでもしないと、この怒りは収まらない。
そうだ、今こそこの怒りを全部、友達に聞いてもらおう。
俺は次の日友達と会い、このエピソードを全てありのまま話した。
俺がどれだけ嫌な思いをしたか、怒っているか。それを知って欲しかった。
しかし友人は、まず「し~」っと言って静かにするようにジェスチャーした。
ただの「茶化し」である。
誰もいない夜の通り。そんな響き渡るほど声は出していない。
いきなり出鼻をくじかれたが、これに負けずエピソードを話し続けた。
ただ聞いて欲しいだけだった。
しかし友達は、「ああ」「どの店入る?」「すげえな」「へえ」と適当な相槌を打つばかり。
俺は確信した。
こいつは俺の話に興味がない。
短く事実だけをまとめて、面白いかもというポイントだけを凝縮し、30秒以内にまとめる。
そうする事でしか、こいつは俺の話をまともに聞いてくれないのだ。
ウケなんてどうでもいい。そういう感情の発露を受け止めてほしかったのだ。
本気で話したからこそ、分かった。
こいつは人の話を聞くのがヘタクソだ。
というか、俺に何の興味もないんだ。