デマや流言蜚語に簡単に引っかからない為にも、その該当部分を紹介していきたいと思います。
ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
(1988/08)
山本 七平
商品詳細を見る
(~前略)
簡単にいえば、われわれは「社会的通念」というものを信じていれば、それで生きていける社会にいるわけである。
従って「世の中なぞ絶対に信じない」という人は本当には存在しないわけである。
なぜなら、そういう言葉をロにする人は、その言葉が相手に通ずることを、絶対に疑っていないし、この言葉には、みなが信じている「世の中」すなわち社会的通念が確固として存在していることを前提にしているからである。
ところが「戦場という『世の中』」は、何一つこういうものはない。
特に分断され寸断されてジャングルにこもった小集団などには、基準とすべき通念などは全くなくなっている。
こうならなくとも、戦場では、「社会的通念」がないから通常の社会で使われている言葉が、使えなくなってしまうのである。
世の中が信じられないとは、本当はこういうことであろう。
簡単にいうと、われわれは「女の人が来た」という。
これに対して、「いやその言葉は正しくない。君が見たのは一つの形象であり、『女の人』というのは君の判断にすぎない。相手は女装した男性かも知れぬ。君がどう判断しようと相手の実体はそれと関係なく存在する。
また『来た』というのは君の推定であって、そう思った瞬間、相手は回れ右をして行ってしまうかも知れぬ。従って、そういう不正確な言葉は使うべきでない」などといえば、全く閑人の無意味な屁理屈である。
しかし戦場では否応なしに、そういう言い方にならざるを得ないので、ここに本当に「世の中が信じられない」状態の言葉が発生するのである。
先日Aさんが遊びに来た。彼は時々戦争映画を見たり、戦争小説を読んだりして憤慨する。
憤慨するぐらいなら見たり読んだりしなければよいのだが、彼の場合は、憤慨するのが一種の道楽になっているような面もある。もっともこういう道楽の人は案外多い。
何でも彼が見た映画(だったと思う)では「敵が来た」と報告する場面があったのだそうである。
「バカにしてやがる、そんな報告するわけネージャネーカ」といつものように彼は憤慨した。
確かにその通りで、こういう場合は「敵影らしきもの発見、当地へ向けて進撃中の模様」という。
確かに彼が見たのは一つの形象であり、彼はその形象を一応「敵影」らしいと判断し、こちらへ来ると推定したにすぎないわけである。
そして対象はこの判断とは関係がないから、味方かも知れないし、別方向へ行くのかも知れない。
しかし、だからといって一般の社会で、「女の人が来た」といわずに「女影らしきもの発見、当方へむけて歩行中と判断さる」などといえば、それは、逆に頭がおかしいと判断されることになろう。
そしてそのことは逆に「事実」と「判断」とを峻別しなければ生きて行けない世界とはどんな世界なのか、さらに現実にその世界に生きるとは、一体どういう状態なのかが、今の人には全く理解できなくなったことを示しているといえよう。
しかし少なくとも外国で何かを判断する場合、また外国を判断する場合は、この心構えが必要であろう。
(後略~)
【引用元:ある異常体験者の偏見/鉄格子と自動小銃/P177~】
今まで信じられてきた社会体制が崩れて、価値観が乱れて混乱した社会においてデマや流言蜚語が飛び交うのは、やはりこの「社会的通念」がなくなってしまうからなのでしょう。
そういう意味では、今の現状はかなり憂慮すべき危うい状態ではないかと思います。
山本七平は「外国を判断する場合はこの心構えが必要」と説いていますが、いまや日本国内の事象を判断する場合も必要とされるのではないでしょうか?
そう思えてならない今日この頃なのです。
【関連記事】
◆「事実の認定」を政治的立場で歪める人たちがもたらす「害悪」とは?
◆日本的思考の欠点【番外】~日本陸軍の特徴と「虚報」作成の一例紹介~
◆日本的思考の欠点【その4】~「可能・不可能」の探究と「是・非」の議論とが区別できない日本人~
FC2ブログランキングにコソーリと参加中!
「ポチっとな」プリーズ!
- 関連記事
-
- 「原発低濃度汚染水飲マシ」と「日本軍内務班の私的制裁/便器ナメ」に共通する「悪魔の論理」 (2011/11/06)
- 「事実」と「判断」とを峻別しなければ生きて行けない世界、になりつつある日本 (2011/10/04)
- 「事実の認定」を政治的立場で歪める人たちがもたらす「害悪」とは? (2011/09/19)
- 補給低能の『日本列島改造論』的作戦要綱&「長沼判決式民衆蜂起・竹槍戦術」的発想が日本によみがえる (2011/07/21)