ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
(1988/08)
山本 七平
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(前回のつづき)
そしてその発想の逆転は、何らかの形の「精神力」対「武器」とか、「民衆のもえたぎるエネルギー」対「武器」といった発想、いわば「不確定要素」対「確定要素」という発想がでてくると生ずる。
そしてひとたびこの発想に転じ、不確定要素が前面に押し出されると、もう一切の分析も計算も討論は不可能になる。
そして大勢はただ、この不確定要素をスローガンにして大声で叫ぶものにひきずられていく、といった結果にならざるを得ない。
何しろ不確定要素だから、「ある」といえばあり、「ない」といえばない。
いわば最初に述べた「資産の水増し評価」に似てくるからである。
従って議論自体が成立せず、一方的な言いまくりにならざるを得ない。
そして言いまかした方がすべてを引きずっていく。
なるほど、叫びたい人間は叫べよい、言いまくりたい人間は言いまくればよい。
くりかえしくりかえし語りたい人間は語るがよい、それですめば別に実害はない。
しかし、その叫びや大声に否応なく規制された人間はどうなるのか、そこに何が起るか。
「精神力」対「武器」という発想で、かつて大声をあげた方々は、そのことを考えたことがあるのか。
それは、人間の能力を極限まで、いや極限以上に、水増し評価し、その評価通りの行為を各人に要求し、強制するという結果になるのだ。
それは、それをされている人間にとっては地獄の責め苦なのである。
「人海作戦」
私は、この言葉を間いただけで、今でも身震いがする――これについては後述するが、「精神力」対「武器」また「民衆のもえたぎるエネルギー」対「武器」という発想の、当然の帰結の一つがこれなのである。
(次回へつづく)
【引用元:ある異常体験者の偏見/ある異常体験者の偏見/P20~】
今回、引用紹介させていただいた箇所は、「人海作戦」を強要された”被害者”としての山本七平のホンネが滲みでていますね。
この「人海作戦」については、「私の中の日本軍」の中でも触れています。
過去記事『「トッツキ」と「イロケ」の世界【その5】~二種類いるトッツキ礼賛者~』でもご紹介済みですが、以下↓一部抜粋して再掲します。
私の中の日本軍 (上) (文春文庫 (306‐1))
(1983/05)
山本 七平
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(~前略)
「人海作戦」
この言葉を耳にしただけで私は寒けがする。
その実態、つまりそれを強行されている人びとの姿はまさに地獄の責苦なのである。
私の言葉を反中国宣伝だと思う人は、野砲弾四発入りの弾匣を背に負って、炎天下を、一日四十キロの割で四日間歩きつづけてから意見を聞かしてほしい。
主義も理想もどこかに消しとんでしまうどころか、ものを考える力もなくなり、一切の刺激に対して全く無感動・無反応になり、声も立てずに機械のように足を動かす亡者の群れになってしまうのである。
そしてこれだけの苦痛を強いても、この輸送力がトラック一台の何百分の一にすぎないかは、各自計算なさればよい。
私もこの計算をやらされたのだから。
この「人海作戦」を高く評価できる人、またこの言葉を無神経に口にできる人は、この経験がなく、この有様を見たこともないに違いない。
(後略~)
【引用元:私の中の日本軍(上)/「トッツキ」と「イロケ」の世界/P113~】
「人海作戦」の実態を知らない人ほど、「精神力」という”不確定要素”を重視する傾向がありそうな気が…。
やはり、現実をよく知らないからでしょうか。
それはそうと、「精神力」をとかく強調する傾向のある人が「人海作戦」に自ら率先して参加するなら、まだ理解できなくもないのですが、そうした人ほど「自他共に同じ基準で律する」ことが出来ないように思います。
要は口先だけの輩なのですね。
そうした人間が、主導権を握ってしまったのが、戦前の大きな過ちだと言えるでしょう。
どこにでも言行不一致の人間は存在します。
これは仕方のないことでしょう。
問題になるのは、なぜそうした人間が主導権を握ってしまったか?
ということでしょう。
それの一因を一つ挙げればアンチ・アントニー(註)の存在を認めなかった日本の言語空間に起因しているからと言えるでしょう。
(註)…異論者。過去記事「アントニーの詐術【その6】~編集の詐術~」参照のこと。
なぜ、日本の言語空間がそうなってしまったか、その原因を突き止め、再び、同じような状態に陥らせないこと。
これこそが、「反省」のはずですが、戦後の日本人が、果たしてこの事をしっかり認識しているかどうか…??
左翼の言動を見る限りでは、非常に疑問に思いますね。
話は若干変わりますが、「精神力」を強調する行為と、「平和主義」とか「憲法9条」とかを強調する行為って似ていると思いませんか。
「憲法9条」という”不確定要素”ばかり強調し、その理念をどのように具現化するのかと問えば、これまた”不確定要素”ばかりで、ロクな中身がありゃしない。
そして、それを指摘すれば、途端に応答拒否したり、逆に反省が足りないだの、軍国主義者などと相手を罵倒しだす輩のなんと多いことか。
コメント承認制を採っている護憲派ブロガーの行為というのは、口では平和だの自由だの唱えつつ、実際にやっていることというのは、アンチ・アントニー(異論者)を認めなかった日本軍の行為に非常に類似しているんですよね。
そうは言っても一方では、彼らがコメント承認制という”防衛”措置を採りたくなる気持ちもわからなくはありません。
何しろ、コメント欄が炎上するというのは、一種、寄ってたかって発言者の口を封じようとすることと同義ですからね。
コメントする側にも、アンチ・アントニー(異論者)を認めない傾向があることは間違いありませんから。
要するに、左翼のみならず他の日本人にも、相手の口を封じようとする傾向が多分にあることは否定できません。
我々日本人一人一人が、「アンチ・アントニー(異論者)の許容が如何に大切であるか」を認識する必要がありますね。
それはさておき、「虜人日記」を書いた小松真一が挙げた「敗因 21ヶ条」の中にも、今回山本七平が指摘した事に関連していると思われる指摘が幾つかありますので以下列挙しておきます。
虜人日記 (ちくま学芸文庫)
(2004/11/11)
小松 真一
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1.精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求される事は、総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた。
3.日本の不合理性、米国の合理性
19.日本は人命を粗末にし、米国は大切にした
21.指導者に生物学的常識がなかった事
上記の指摘も、「不確定要素」対「確定要素」という”発想”が影響しているのは、間違いないところでしょう。
余談になりますが、普天間基地移設問題を巡る議論で出てくる「抑止力」も、ある意味、”不確定要素”ですよね。
海兵隊を追い出したい反対派は、「抑止力を無い」と言い、必要だと考える移設容認派は、「抑止力が有る」と言う。
証明できないだけに、お互いの議論が成立せず、一方的な言いまくりになってしまう恐れが大きい。
この問題を考える際には、こうした「不確定要素」ばかりの議論に終始するのではなく、日米同盟への影響、防衛力の維持、世界情勢等々、複眼的な視点から、この問題を考える必要があるのではないかな…と思う次第です。
さて、次回は、「不確定要素」対「確定要素」という発想が、なぜ日本人の間に根強くあるのかについて書かれた箇所を紹介していく予定です。
ではまた。
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