fc2ブログ

【WEEKEND PLUS】(567) 話せなくても表現できる…自閉症の高校生・内田博仁さん、考えや思いはキーボードで



20241213 08
タブレット端末を覗き込むようにして、慎重に文字を打ち込んでいく。時折、体を前後に揺らし、大声を上げるが、画面のキーボードで意図した文字を探す瞳は輝いて見える。

神奈川県立あおば支援学校高等部1年の内田博仁さん(16、左画像)は重度の自閉症の為、言葉を口にすることができない。その為、幼少から文字を打つ訓練を重ね、今ではタブレットを使って意思表示できるようになった。更に文章を書くのが好きで、小学生になってからは作文コンクールへの応募を重ね、これまで10以上もの受賞歴がある。

記者(※横見)が初めて博仁さんに会ったのは6月。自宅を訪れると、父の博道さん(53)と母の敦子さん(53)が笑顔で迎えてくれた。一人っ子の博仁さんは居間のソファーに座り、じっと記者を見つめていた。知らない人に会うとパニックになることもあるというが、そこまでの様子はなかった。両親への取材中は落ち着かないのか、動き回って時々大きな声を出していた。

その後、日課という文字の打ち込みや表現力を鍛えるトレーニングの様子を見せてもらった。「博ちゃん。漢詩をやるよ」。敦子さんはそう言って、漢詩の音読を始めた。『麗人行』。律詩を完成させ、中国で“詩聖”と称される杜甫の作だ。

博仁さんは体が動いて文字を目で追えない為、敦子さんが代わりに読む。それを聞いた博仁さんは1文字ずつ丁寧にローマ字入力し、漢字に変換する。入力の際は集中力が高まっているせいか、体の揺れが抑えられる。補助は必要ない。更に、漢詩の内容について想像力を働かせ、感想も綴る。これが作文の格好の訓練になっているという。

9月下旬、記者は再び博仁さんの自宅を訪れた。博道さんと敦子さんと共にテーブルを囲むと、博仁さんもリラックスした様子で加わってくれた。前回は初対面だった為、長時間の取材は控えていた。

博仁さんに自身の自閉症について尋ねると、「伝わらない苦しみは想像を超えている。閉じ込められた世界にいる感覚で生きてきた」と答えた。「今は前向きに捉えられるようになった」といい、こう続けた。「僕はこうやって表現できるようになったが、何かしらの方法が他の人にもあるのではないだろうか」。

息子は同い年の子と違っているのではないか――。夫婦がそう感じ始めたのは、博仁さんが2歳に近づいた頃だった。それまで博仁さんは、声を出したり指を差すしたりして何かを訴えることがなかった。発語がないまま迎えた1歳10ヵ月の健診。インターネットの検索等で自閉症の可能性を疑っていた敦子さんは、思い切って医師に相談した。

「この子は自閉症でしょうか? 話せるようになるんでしょうか?」。医師は「正式な診断は3歳の健診時になるが、この子は――」。言葉を濁しながら、重度の知的障害を伴う自閉症の疑いを強く示唆した。頭が真っ白になったという敦子さん。ショックで涙が止まらなかった。発達障害等を抱える子供達を支援する療育施設に通い始めたが、夫婦は絶望的になっていた。「博ちゃんをどのように育てればよいのか」。

博仁さんが2歳半の時だ。敦子さんが絵本の読み聞かせをしていた時(※右下画像、家族提供)に大きな変化があった。絵本はパトカーや消防車等のサイレン音が鳴るもので、其々のイラストのボタンを押して答える教材だ。「何の音かな?」。パトカーのサイレンの音を鳴らすと、博仁さんは敦子さんの腕を掴み、パトカーの絵のボタンを敦子さんの指で押した。

敦子さんはハッと気づいた。「この子、わかっている」。別の車で何度も試して確信した。「博ちゃんは物事を理解している」。博仁さんは当時をこう振り返る。「『僕は何もわかっていないわけではない』と母に伝えたくて機会を窺っていた。『今こそチャンスだ!』と思った。母の手をがしっと掴み、サイレンの音の後にパトカーのボタンを母の指を使って押した。『正解!』と音が鳴り響いた」。

当時は自身の指や体を上手くコントロールできなかった為、敦子さんの指を手に取り、答えを示したという。敦子さんからその様子を聞いた博道さんは「信じられない、という気持ちだった」。療育施設では、カードの色合わせや教育用玩具の穴にボールを入れる等の単純な訓練の繰り返し。高度な教育を施す必要はないと考えられていた。博道さんと敦子さんは、こう決意した。「博ちゃんが自分の思いや考えを表現できる方法を見つける」。

20241213 09
博仁さんは言葉を口にすることはできないが、キーボード入力で自身の考えや思いを文字で表現する。しかし、そこに至るまでの道程は平坦ではなかった。博道さんと敦子さんは、息子が言語を理解していると気づく。以降、専門機関での発語訓練やアメリカでの先進的な治療の受診等、試せるものは何でも試してみた。

博仁さんが6歳の時。重度障害児専門の研究者を訪れた。博仁さんを見て、「この子は文字を打てる」とキーボード付きの電子手帳を手渡した。すると、博仁さんは教わってもいないのに“uchidahakuto”とローマ字で名前を打ち込んだ。敦子さんが自宅のパソコンを使う姿を見て、ローマ字の入力を覚えたという。

博仁さんは「その瞬間、僕は生まれて初めて言葉を発した。そこから僕の人生は変わった」と振り返る。それからは毎日、敦子さんが読む俳句や童話を聞き、それを文字化する練習をした。

半年後、博仁さんは初めて自分の気持ちを文字で表現する。敦子さんが「お母さんをどう思う?」と尋ねると、「すき」と打ち込んだ。博仁さんもこの時をよく覚えている。自身の思いを他人に伝えられる喜び。「真っ暗な暗闇に一筋の光が差し込んできた奇跡の瞬間だった」。

小学校に上がり、特別支援学級に通った。しかし、受け取ったのは国語の教科書1冊のみ。他人との関わり方や集団行動の指導はあったが、教科学習は殆どなかった。そこで取り組んだのが詩や作文のコンクールへの応募だ。初めて挑戦したのは、特定NPO法人『現代用語検定協会』主催の『自己表現力コンクール』。7歳の時だ。当時、1日に入力できたのは1文字や1語単位。約1ヵ月かけて『みんなだいすき』というタイトルの詩を書き上げた(※一部抜粋)。

〈いえをでてもあたたかい たいようがあった そとにもあいが あることをしった〉。そして入選を果たし、大きな自信となった。この経験から徐々に長めの文章を打てるようになり、作文を執筆するきっかけになったという。10歳の時に小学校であった“2分の1成人式”。体育館の壇上で1人ずつ将来の夢を発表した。博仁さんはタブレットに入力する姿を事前に撮影して流し、「ゆめはしょうせつか」と明かした。

しかしながら、隣に敦子さんや信頼している担任教諭がいないと落ち着いて文字を打ち込めなかった。また、博仁さんと対面した際に受ける印象と文章力の落差は大きく、敦子さんは「母親が書いていると思われるのが嫌だった」といい、どんなに時間がかかっても入力を手伝わなかった。

博仁さんの能力は特異なものなのか。博仁さんと面会したことのある『明治大学子どものこころクリニック』の山登敬之院長は、「自閉症を持つ人の中でも特別」と説明する。

自閉症は脳の機能障害の一つで、原因は正確には解明されていない。山登院長によると、社会性の発達が遅れている為、上手に人間関係を作れず、独特の強い拘りもあって環境の変化に上手く対応できない等の特徴がある。重い知的障害を伴っているように見える場合も多いという。

会話に大きな支障のない軽度の自閉症とされた『アスペルガー症候群』等も含め、現在は『自閉スペクトラム症』とも称される。自閉症を持つ人は、嘗ては1000人に1人ほどの割合とされたが、近年の研究で自閉スペクトラム症は100人に2~3人ほどという。

自閉症は、発語の有無と言葉の理解の可否で4つに分類される。博仁さんは、言葉を理解できても発語ができない言語失行タイプだ。山登院長は、「このタイプは多くないし、社会的に表に出てくる人も少ない。一般的にあまり知られておらず、見た目との落差から、言葉を理解できないだろうと誤解する人もいる」と説明する。



20241213 10
自閉症の人の中には多動や衝動性の為、意思通りに体を動かせない場合もある。その為、多数の絵から正解を指し示す等の知能検査で知性を測ることができない。博仁さんも回答できず、重い知的障害を伴うと見られていた。博仁さんは当時をこう表現する。「僕はこの検査が苦手だった。『車はどれ?』と聞かれ、『そんなのわかるに決まっている』って思っているのに、体が動かないのだ。頭と体を繋ぐ重要なコードが切れてしまっているような感覚」。

「結局、僕は車を指すことができない。『ああ、わからないのね』と判断されてしまう。車がわからないわけないじゃないか! 間違った判断をされたことに動揺し落胆し、どんどん集中力をなくし、より体と心の制御がなくなる」。

山登院長は、「博仁さんのような能力を持った自閉症の人が、適切な教育や支援を受けられずに埋もれてしまっている可能性がある」と指摘する。博仁さんのサインを見逃さなかった両親の“気づき”の力は大きい。博仁さんは、「お母さんとは二人三脚。お父さんは大黒柱」と表現する。

平日は仕事で忙しい博道さんは、休日になると博仁さんと2人で外出する。「妻を休ませるのが第一」だが、博仁さんに様々な経験をしてほしいとの思いも強い。幼少期から続ける公園でのサイクリングは、今では補助輪なしで乗れる。パニックになると、博道さんの腕を血が滲むほど掴んだり、突然走り出したりする。そんな時は「博ちゃん、大丈夫よ」と声を掛けながら、落ち着くまで体を擦る。

ある時、博道さんは2人っきりの車内で博仁さんに話しかけた。「有名な作家は取材旅行に行っている。人前は苦手だと思うけど、色んな景色を見てほしいんだ」。返事はなかったが、思いは伝わっていた。実際、博仁さんは中学生になり、取材旅行を経験して大作に挑戦した。

昨秋、北九州市等が主催する『第15回子どもノンフィクション文学賞』に応募した。追いかけたのは、太平洋戦争初期の飛行戦隊『加藤隼戦闘隊』の隊員で、26歳で戦死した和田春人さん。博仁さんの大伯父だ。博仁さんがロシアのウクライナ侵攻をきっかけに戦争について勉強していたところ、祖母から大伯父の話を聞き、調べようと思い立った。

参考書籍には戦争の難しい専門用語が並び、下調べは困難を極めた。10冊ほどの関連書籍を同時に読み進め、学校から帰宅後に2時間、夏休みには1日5時間の作業に取り組んだという。「戦争は無意味だ。そんな自分の思いばかりが先だって、中々進まなかった」。

そんな頃、家族で取材旅行に出かけた。戦時中の戦闘機や軍服等が展示されている埼玉や山梨の資料館に足を運ぶと、大伯父の存在をリアルに感じられるようになった。「やはり読むだけではだめだと思った。自分が見たその事実や感覚を言葉にした時に、どんどん書けるようになった」。

8ヵ月かけて書き上げたのは原稿用紙47枚に上った。タイトルは『隼は征く雲の果て~おじさんの人生を探して~』。今年3月、中学生の部で次点にあたる優秀賞に輝いた。博仁さんは、「戦争という歴史の先に今の僕がいるんだと感じた。大伯父に時空を超えて会いに行くような思いで執筆し、かけがえのない日々になった」と振り返る。

現在は特別支援学校に通う高校生。タブレットを使って授業を受けている。これまでは敦子さんが隣にいないと文字を打てなかったが、秋からは先生の問い掛けに自力で回答できるようになった。

博仁さんに改めて“夢”を尋ねた。「障害がある人にも学ぶ充実感を得たり、表現する喜びを知ったりしてほしい。そして、いつか沢山の人と共に学びたい」。その為に人前に出ることも厭わず、文章を綴っているという。そして、こう打ち込んだ。「目標に向けてスタートしたばかり。努力の過程こそ学べる喜び。僕は今の幸せに感謝している」。 (取材・文/横浜支局 横見知佳) (撮影/幾島健太郎)


キャプチャ  2024年12月1日付掲載

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体

轮廓

George Clooney

Author:George Clooney

最新文章
档案
分类
计数器
排名

FC2Blog Ranking

广告
搜索
RSS链接
链接