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今年も8月15日。終戦の日が来ました。金曜日にはTBSラジオで亡くなられた秋山ちえ子の『かわいそうなしゃち』の朗読が始まりました。
昭和の御聖代に小学校教育を受けた人はみんな知っています。毎年、あの暑い夏の一日の記念日に、秋山ちえ子は戦争を語り継ぐため、相模湾、江ノ島でのおはなしを朗読をします。
戦争中に起きたゾウやライオン、ヒョウのお話はご存知でしょう。ジョーイもそのような動物の一頭です。
日本の軍隊は戦争にシャチをつかおうとしました。爆弾をつけてアメリカの潜水艦に体当りして沈めよう。そう考えたのです。水族館のジョーイは潜水艦にぶつかると餌をもらえる芸を仕込まれました。潜水艦を見つけて体に縛り付けた爆雷の信管をぶつける。O金物、オルカカナモノとしてのお稽古をさせられたのです。
でも、ジョーイは戦争にいきませんでした。日本は負け続けてジョーイを南方に連れて行く船がなくなりました。役立たずになったジョーイは江ノ島にある生育った水族館に留め置かれました。そして毎日近くの海で遊んでは帰ってくるといったように、ノンビリ過ごしていました。
でも戦争は内地まで近づいています。すでに特攻隊はフィリッピンでも沖縄でも何遍も何遍も飛び立っていました。そして内地でも空襲が始まっていました。
食べ物も足りなくなりました。みんなは毎日おなかをすかしていました。そして食べ物を食べられずに餓え死にしてしまう人もでてきました。
このままではジョーイを飼い続けることは出来ません。シャチは1日に10貫目20貫目の魚を食べてしまうのです。これは人間が1日に食べる魚の100倍や200倍です。その魚があれば1000人も2000人もの人が助かるのです。
人間の命とシャチの命どちらが大事なのでしょうか。それは誰にもわかることでした。
ついに地方長官から「ジョーイを殺しなさい」という命令が出てしまいました。
水族館ではジョーイを注射で殺そうとしました。馬に使う大きな大きな注射器です。せめて苦しまないようにと毒薬ではなくアヘンを注射しようとしました。
でも針は海獣の厚い皮を通さずポキリと折れてしまいます。
大好きな魚にアヘンを入れて与えようとしました。鯖や鯵のハラワタのところに毒をいれて食べさせようとしました。でも、とても賢いジョーイはそれを見抜いて鼻先で跳ねてしまいます。
担当の長谷川さんはモウ命令に従うことはできません。
県庁に逆らうことを承知でジョーイを逃しました。外房の沖まで送りました。でも水族館で育ったジョーイは餌を自分でとれません。自然の海では生きていけません。すぐに江ノ島まで帰ってきてしまうのです。
生まれ育ったプールに戻して欲しい。その一心でジョーイは水族館の前で芸をします。飛び上がって回転したり、上半身を水上に突き出してみたり、逆立ちをして尻尾を立ててみたり。飼育員さんを鼻先に乗せようとしたりして、ほめてもらおうとするのです。
それを見ていた水族館のみんなも薬殺や鉄砲で殺すことは可哀想でとてもとてもできないと思いました。プールで餓死させるしかないだろうと決めました。
しかし、そんなことを知るジョーイではありません。よい芸を見せれば今まで育ててくれた人間が餌をくれるものと信じています。芸をすれば体力が奪われてしまうというのに。
ジョーイはどんどん弱っていってしまいました。見事な流線型の体は脂肪が減ってあばら骨が出てしまいました。ほとんど衰弱して、ただ浮かぶだけになってしまいますが、長谷川さんを見つけるとあのとても綺麗で澄んだ眼で見つめて、餌を貰おうと芸をみせようとするのです。
長谷川さんはもう我慢はできません。ついに食料のサバやイワシをジョーイに分けてしまいました。海軍に採られた支援船のかわりにあてがわれた汚穢船で、しかも貴重な燃料を使った漁労で手に入れた貴重な食料です。「ジョーイ、腹が減ったろう」と食べさせてしまいました。
他の飼育員のおじさんたちは何もいえませんでした。所長も、大学の人も、県庁の人も、ポンドを間借りしている海軍の人たちもみんな黙って見ないふりをしていました。
中には涙を流している人もいました。ジョーイが長谷川さんの実の子供と同じと知っていたからです。長谷川さんの幼い息子が亡くなったその日に、ジョーイのお母さんもお産で死にました。その赤ちゃんシャチを自分の子供のように育てたのを知っているからです。
みんなその晩に話し合いをしました。「ジョーイを殺すことなんかできない」「心を鬼にしてプールからジョーイを追い出そう。銛でついてもいい、音でいじめてもいい、普通のシャチとは違う体になってしまったけれども、外に出れば、お腹が空けばいつかは魚を食べるだろう。」
でも、海軍の人は申し訳なさそうに口を開きました。「ジョーイが三浦半島に住み着いてしまったら、特攻隊の若い人を殺してしまうかもしれません」
戦争は過酷でした。特攻隊は東京のすぐそばにまで準備されていました。相模湾の近くにある三浦半島でアメリカの軍艦に体当りする訓練をしていたのです。
特攻隊の人たちは小さな潜水艦に乗っていました。二人乗りや五人乗りの魚雷のような潜水艦です。あまりに小さいのでジョーイがぶつかるだけでひっくり返ってしまいます。そして一度倒れると二度と浮かび上がらなくなってしまうかもしれないのです。
飼育員のみんなも黙ってしまいました。実は戦争がどうなっているか、軍隊の方針がどうであるのかということは誰の頭にもありませんでした。でも、みんなは特攻隊の自分の子供のような年齢の兵隊さんの身の上を思うとなんともいえませんでした。兵隊さんたちは水族館の近くの横須賀や辻堂に住んでいます。そして上陸日には鎌倉や江ノ島に遊びにきていました。ジョーイの芸を楽しみに見に来ていたくらいですからなおさらです。
予備学生のなかには学生時代の研究で水族館に通っていた人もいました。分隊士になって帰ってきた学生さんは予科練の、しかも繰り上げの、まだニキビの残る下士官や特年兵を連れて遊びに来ました。そして彼らジョーイの鼻先に乗せてやれるように懇願しました。下士官も軍服を着ながらジョーイの鼻や背に乗って無邪気に喜んで、貴重品になった特別配給のお菓子をジョーイに食べさせようとしたりしているのも見ていました。
その兵隊さんが乗る潜水艇はあぶない乗り物でした。ちょっと事故を起こせば沈んだままになってしまうのです。そのまま殉職してしまうことも知っていました。みんなは、もう若い人が、訓練で死ぬのはやりきれないです。
長谷川さんが口を開きました。「もう、ジョーイには何の餌もやらない」みんなは、下をうつむいて何も離しませんでした。ただただ、長谷川さんを囲んで味のしない理研酒をまわし飲むだけでした。
それから10幾日たった暑い日の午前中にジョーイは死にました。ブールの隅に体をよりかけてバンザイの芸をしながら死にました。せめて綺麗な体で埋めてあげようと、一端引き上げて爆雷取付具や安全尖外しを取り除き、ガスが堪って膨れたお腹を開いたとき、本当は風呂桶のように大きなジョーイの胃袋は湯たんぽの大きさまでしぼんでいました。なかには水一滴残っていなかったそうです。
その日は8月15日でした。
いまでもジョーイの命日には鎌倉建長寺で慰霊祭が行われるそうです。
『かわいそうなしゃち』でした。
それではみなさん、ごきげんよう。
2009年夏『瀛報』(ようほう)29号のまえがきから、毎年書き足しと修正。
参 考
谷甲州「ジョーイ・オルカ」『星の墓標』(東京,早川書房,1987)
秋山ちえ子 朗読 土家由岐雄「かわいそうなぞう」『金曜ワイドラジオTOKYOえんがわ』2024年8月9日(TBSラジオ)16時07分ころから
昭和の御聖代に小学校教育を受けた人はみんな知っています。毎年、あの暑い夏の一日の記念日に、秋山ちえ子は戦争を語り継ぐため、相模湾、江ノ島でのおはなしを朗読をします。
戦争中に起きたゾウやライオン、ヒョウのお話はご存知でしょう。ジョーイもそのような動物の一頭です。
日本の軍隊は戦争にシャチをつかおうとしました。爆弾をつけてアメリカの潜水艦に体当りして沈めよう。そう考えたのです。水族館のジョーイは潜水艦にぶつかると餌をもらえる芸を仕込まれました。潜水艦を見つけて体に縛り付けた爆雷の信管をぶつける。O金物、オルカカナモノとしてのお稽古をさせられたのです。
でも、ジョーイは戦争にいきませんでした。日本は負け続けてジョーイを南方に連れて行く船がなくなりました。役立たずになったジョーイは江ノ島にある生育った水族館に留め置かれました。そして毎日近くの海で遊んでは帰ってくるといったように、ノンビリ過ごしていました。
でも戦争は内地まで近づいています。すでに特攻隊はフィリッピンでも沖縄でも何遍も何遍も飛び立っていました。そして内地でも空襲が始まっていました。
食べ物も足りなくなりました。みんなは毎日おなかをすかしていました。そして食べ物を食べられずに餓え死にしてしまう人もでてきました。
このままではジョーイを飼い続けることは出来ません。シャチは1日に10貫目20貫目の魚を食べてしまうのです。これは人間が1日に食べる魚の100倍や200倍です。その魚があれば1000人も2000人もの人が助かるのです。
人間の命とシャチの命どちらが大事なのでしょうか。それは誰にもわかることでした。
ついに地方長官から「ジョーイを殺しなさい」という命令が出てしまいました。
水族館ではジョーイを注射で殺そうとしました。馬に使う大きな大きな注射器です。せめて苦しまないようにと毒薬ではなくアヘンを注射しようとしました。
でも針は海獣の厚い皮を通さずポキリと折れてしまいます。
大好きな魚にアヘンを入れて与えようとしました。鯖や鯵のハラワタのところに毒をいれて食べさせようとしました。でも、とても賢いジョーイはそれを見抜いて鼻先で跳ねてしまいます。
担当の長谷川さんはモウ命令に従うことはできません。
県庁に逆らうことを承知でジョーイを逃しました。外房の沖まで送りました。でも水族館で育ったジョーイは餌を自分でとれません。自然の海では生きていけません。すぐに江ノ島まで帰ってきてしまうのです。
生まれ育ったプールに戻して欲しい。その一心でジョーイは水族館の前で芸をします。飛び上がって回転したり、上半身を水上に突き出してみたり、逆立ちをして尻尾を立ててみたり。飼育員さんを鼻先に乗せようとしたりして、ほめてもらおうとするのです。
それを見ていた水族館のみんなも薬殺や鉄砲で殺すことは可哀想でとてもとてもできないと思いました。プールで餓死させるしかないだろうと決めました。
しかし、そんなことを知るジョーイではありません。よい芸を見せれば今まで育ててくれた人間が餌をくれるものと信じています。芸をすれば体力が奪われてしまうというのに。
ジョーイはどんどん弱っていってしまいました。見事な流線型の体は脂肪が減ってあばら骨が出てしまいました。ほとんど衰弱して、ただ浮かぶだけになってしまいますが、長谷川さんを見つけるとあのとても綺麗で澄んだ眼で見つめて、餌を貰おうと芸をみせようとするのです。
長谷川さんはもう我慢はできません。ついに食料のサバやイワシをジョーイに分けてしまいました。海軍に採られた支援船のかわりにあてがわれた汚穢船で、しかも貴重な燃料を使った漁労で手に入れた貴重な食料です。「ジョーイ、腹が減ったろう」と食べさせてしまいました。
他の飼育員のおじさんたちは何もいえませんでした。所長も、大学の人も、県庁の人も、ポンドを間借りしている海軍の人たちもみんな黙って見ないふりをしていました。
中には涙を流している人もいました。ジョーイが長谷川さんの実の子供と同じと知っていたからです。長谷川さんの幼い息子が亡くなったその日に、ジョーイのお母さんもお産で死にました。その赤ちゃんシャチを自分の子供のように育てたのを知っているからです。
みんなその晩に話し合いをしました。「ジョーイを殺すことなんかできない」「心を鬼にしてプールからジョーイを追い出そう。銛でついてもいい、音でいじめてもいい、普通のシャチとは違う体になってしまったけれども、外に出れば、お腹が空けばいつかは魚を食べるだろう。」
でも、海軍の人は申し訳なさそうに口を開きました。「ジョーイが三浦半島に住み着いてしまったら、特攻隊の若い人を殺してしまうかもしれません」
戦争は過酷でした。特攻隊は東京のすぐそばにまで準備されていました。相模湾の近くにある三浦半島でアメリカの軍艦に体当りする訓練をしていたのです。
特攻隊の人たちは小さな潜水艦に乗っていました。二人乗りや五人乗りの魚雷のような潜水艦です。あまりに小さいのでジョーイがぶつかるだけでひっくり返ってしまいます。そして一度倒れると二度と浮かび上がらなくなってしまうかもしれないのです。
飼育員のみんなも黙ってしまいました。実は戦争がどうなっているか、軍隊の方針がどうであるのかということは誰の頭にもありませんでした。でも、みんなは特攻隊の自分の子供のような年齢の兵隊さんの身の上を思うとなんともいえませんでした。兵隊さんたちは水族館の近くの横須賀や辻堂に住んでいます。そして上陸日には鎌倉や江ノ島に遊びにきていました。ジョーイの芸を楽しみに見に来ていたくらいですからなおさらです。
予備学生のなかには学生時代の研究で水族館に通っていた人もいました。分隊士になって帰ってきた学生さんは予科練の、しかも繰り上げの、まだニキビの残る下士官や特年兵を連れて遊びに来ました。そして彼らジョーイの鼻先に乗せてやれるように懇願しました。下士官も軍服を着ながらジョーイの鼻や背に乗って無邪気に喜んで、貴重品になった特別配給のお菓子をジョーイに食べさせようとしたりしているのも見ていました。
その兵隊さんが乗る潜水艇はあぶない乗り物でした。ちょっと事故を起こせば沈んだままになってしまうのです。そのまま殉職してしまうことも知っていました。みんなは、もう若い人が、訓練で死ぬのはやりきれないです。
長谷川さんが口を開きました。「もう、ジョーイには何の餌もやらない」みんなは、下をうつむいて何も離しませんでした。ただただ、長谷川さんを囲んで味のしない理研酒をまわし飲むだけでした。
それから10幾日たった暑い日の午前中にジョーイは死にました。ブールの隅に体をよりかけてバンザイの芸をしながら死にました。せめて綺麗な体で埋めてあげようと、一端引き上げて爆雷取付具や安全尖外しを取り除き、ガスが堪って膨れたお腹を開いたとき、本当は風呂桶のように大きなジョーイの胃袋は湯たんぽの大きさまでしぼんでいました。なかには水一滴残っていなかったそうです。
その日は8月15日でした。
いまでもジョーイの命日には鎌倉建長寺で慰霊祭が行われるそうです。
『かわいそうなしゃち』でした。
それではみなさん、ごきげんよう。
2009年夏『瀛報』(ようほう)29号のまえがきから、毎年書き足しと修正。
参 考
谷甲州「ジョーイ・オルカ」『星の墓標』(東京,早川書房,1987)
秋山ちえ子 朗読 土家由岐雄「かわいそうなぞう」『金曜ワイドラジオTOKYOえんがわ』2024年8月9日(TBSラジオ)16時07分ころから
Category : 未分類
とりあえずメロンと、とらで通販している分です。実書店は来週にでも置いてもらえるか相談に行ってきます。
・ 本誌 「イージス艦の迎撃距離は短くなるか」
メロン https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=2504123
トラ https://ec.toranoana.jp/tora_r/ec/item/040031178129/
・ パンフ 「中国の迫撃砲」
メロン https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=2517325
トラ https://ec.toranoana.jp/tora_r/ec/item/040031178947/
・ 突発本 「どちらにも勝ちはないウクライナ戦争」
メロン https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=2517325
トラ https://ec.toranoana.jp/tora_r/ec/item/040031179385/
予約投稿の「かわいそうなシャチ」が上になるよう投稿時間はいじってます。
昨日から荒天準備で大変です。最悪コースは外れるようですが、それでも平均100ktと聞くとねえ、ガスト120kt行くのではないかと。
まずは波板の打ち付け。ウチの場合は2週間位前のゲリラ豪雨で倉庫というか、バラックの番屋の屋根の波板が2枚吹っ飛びました。とりあえずサンドレッドでロープ飛ばして、貨物用シートで覆ったのですが、100ktの台風と聞くとねえ。そこだけ新規の波板にしました。
どうみても強度上から屋根には乗れないので中央部傘釘がない部分がでてしまう。そこは下から穴を開けて紫外線に強い木綿のΦ6mm?位の紐で縛りました。あとは下からコーキング。完全防水は無理で、いずれは水は落ちてくるでしょうけど、暇をみて棒にグルーつけて伸ばして上から穴を塞ごうとね。その前にはさらに波板の溝も木綿の紐6条分で固縛しました。
家の周りもね。父の家は久しぶりに雨戸で包みました。敷地に無造作に置いてあるシートほかは集めて、上に重石やH鋼で抑えておきました。空のドラム缶はくるくる回して番屋の中です。
今まで文句を行っても「明日片付ける」で15年ほど放置した父の後始末の最終段階というわけです。本人は冷房効いて三食ついて関節動かすだけでも職員さんが褒めてくれる環境でマンザラでもない面しやがっているのが業腹でねえ。
まあ、台風は東にそれて川越在だとCPA50マイルはありそうなので、そこまでしなくても良かったのかもしれませんが、西に逸れたらエライことになっていたでしょうからねえ。今年の能登や5年くらい前の房総みたいに今の政府はなにもしないでしょうし。
・ 本誌 「イージス艦の迎撃距離は短くなるか」
メロン https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=2504123
トラ https://ec.toranoana.jp/tora_r/ec/item/040031178129/
・ パンフ 「中国の迫撃砲」
メロン https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=2517325
トラ https://ec.toranoana.jp/tora_r/ec/item/040031178947/
・ 突発本 「どちらにも勝ちはないウクライナ戦争」
メロン https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=2517325
トラ https://ec.toranoana.jp/tora_r/ec/item/040031179385/
予約投稿の「かわいそうなシャチ」が上になるよう投稿時間はいじってます。
昨日から荒天準備で大変です。最悪コースは外れるようですが、それでも平均100ktと聞くとねえ、ガスト120kt行くのではないかと。
まずは波板の打ち付け。ウチの場合は2週間位前のゲリラ豪雨で倉庫というか、バラックの番屋の屋根の波板が2枚吹っ飛びました。とりあえずサンドレッドでロープ飛ばして、貨物用シートで覆ったのですが、100ktの台風と聞くとねえ。そこだけ新規の波板にしました。
どうみても強度上から屋根には乗れないので中央部傘釘がない部分がでてしまう。そこは下から穴を開けて紫外線に強い木綿のΦ6mm?位の紐で縛りました。あとは下からコーキング。完全防水は無理で、いずれは水は落ちてくるでしょうけど、暇をみて棒にグルーつけて伸ばして上から穴を塞ごうとね。その前にはさらに波板の溝も木綿の紐6条分で固縛しました。
家の周りもね。父の家は久しぶりに雨戸で包みました。敷地に無造作に置いてあるシートほかは集めて、上に重石やH鋼で抑えておきました。空のドラム缶はくるくる回して番屋の中です。
今まで文句を行っても「明日片付ける」で15年ほど放置した父の後始末の最終段階というわけです。本人は冷房効いて三食ついて関節動かすだけでも職員さんが褒めてくれる環境でマンザラでもない面しやがっているのが業腹でねえ。
まあ、台風は東にそれて川越在だとCPA50マイルはありそうなので、そこまでしなくても良かったのかもしれませんが、西に逸れたらエライことになっていたでしょうからねえ。今年の能登や5年くらい前の房総みたいに今の政府はなにもしないでしょうし。