はてなキーワード: アメリカ風とは
っていうエントリ書いたけど、そういや「ハリウッドなのに日本の描写がちゃんとしててスゴイ!!」なことを一言も書いてなかったことに気づいた。
そんくらい違和感がなさすぎて自分が日本人だからかほぼなんとも思わなかった。
唯一あるとしたら葬式と鳥居の組み合わせを私は現実で見たことがないくらいか。
ストーリーラインの若干のリアル日本ぽくなさとかアメリカ風味は、原作からそういう筋の話なんだろうし。
まず、とある武家屋敷サイズの日本庭園が印象的になんども出てくるのだが、ふつうに美しいしそれっぽい。
岩と苔中心のお庭なんだけど、あれは日本人のセンスだと思う。なんかああいう一個高い岩を持ってくる配置って多分「須弥山」をイメージした枯山水の定番のやつで、「せっかくだから定番いっとこうぜ」という日本人の作り手の配慮があると妄想した。
衣装は海外のデザイナーさんがご自身のセンスで作られたらしく、「だいぶ現代風にアレンジしている」とのご本人談だが、自分みたいな一般日本人がみても違和感に気づけないw
あと茶室が本格的。すくなくとも私の教養程度だとミリも違和感ない。ちゃんとあのなんていうんだっけ狭い入り口…とか、掛け軸とか、お花コーナーとか、所作含めどうみても見たことあるやつ。
あとやたらNTRに耐え忍ぶ男の顔を見せつけられるシーンが多いのだが、ちゃんと日本人っぽい。
片腕で人の首切れる爺さん武将はありえるのか、とか、その場所でそうするのは「え、え、お部屋が汚れるじゃない!」みたいなケレン味は勿論色々あるが、時代劇だし。
あとすごいどうでもいいけどオープニングのミニチュア箱庭感と壮大なBGMが私の大好きなゲースロのオープニングっぽいなと思った。
80年代に「ラッツ&スター」というソウル・ファンクバンドが人気だったのを知ってますか?(憶えてますか?)
7人のメンバーのうち4人のボーカルが顔をアフリカ系アメリカ人風に黒く塗り、白い手袋をして歌うというスタイルのバンドです。
当時小学生くらいだった世代には『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』と
同時期にヒットしてた『め組の人』を歌ってたグループと言った方がはやいかもしれない。
今だったら説明するまでもなく
「顔を黒く塗って、白い手袋して、黒人音楽やるってミンストレルじゃん」
ってなると思いますが、当時はインターネットがなくて、ミンストレルがどういう歴史的意味を持つのか誰も知らかったのと、
欧米コンプレックスがバリバリの現役で、洋楽=エライ、日本の歌謡曲=ダサい(J-POPという言葉もない)
という構図が確固としてたこともあって、洋楽風の「オシャレな音楽」として普通に受け入れられてました。
まぁ、本当にオシャレな人は元ネタの洋楽聴いてたかもしれないけど、日本の歌謡曲にチューニングされた耳でもわかる
昭和大衆向けにアレンジされた「洋楽風」歌謡曲って感じですね。今思えば。
で、鳥山明ですけど、『Dr.スランプ アラレちゃん』というギャグマンガでデビューた当時は、
「アメコミ風」のテイストを取り入れたちょっとオシャレな画風のマンガ家ってイメージがありました。
「アメコミ風」といっても、80年代というまだまだ欧米コンプレックス、特に米国コンプレックスが強かった時代に、
西洋っぽい絵柄を雑に「アメコミ」と括っていただけで、必ずしも「アメコミ」を参照してるわけではないです。
(大友克洋の元ネタがメビウスだと知ってるような人でも、メビウスをアメコミと言ってしまうような時代だったので…)
とにかく、当時の鳥山明の絵は、同時代の、昭和臭のつよい、あか抜けない絵柄のギャグ漫画家の表現とは
一線を画す新しいものとして受け入れられていたのは間違いないと思います。
そういう位置付けの(そぅいう作風の)作家ですから、当時のハリウッド映画やドラマからも、
キャラクター造形に限らず色んなカタチで「進んだアメリカ風の」表象を取り入れていて、
それを見た当時の小学生は「最先端のハリウッドっぽい感じが入っててカッコイイ!」と感じていた筈です。
(都合の悪い部分だけ選択的に記憶喪失になってる人も多いみたいですが…)
そんな風に無邪気なあこがれから輸入したイメージの中には、当時アメリカではすでに問題視されつつあった
黒人ステレオタイプも混じっていて、その具体例がDr.スランプのサンデー・ブラザーズだったり、
ドラゴンボールのブラック補佐だったり、ミスター・ポポだったりするは事実として認めざるを得ないと思います。
似たような例として、FFVII Remake の開発主要メンバー(野村哲也だったと記憶している)が
「バレットのキャラクター造形(見た目に限らず)には、80年代に見てたハリウッド映画の影響を受けた
黒人ステレオタイプが多分に入っていて、アップデートが必要な部分が多かったが、
古参のファンから日和った、ポリコレだ、と言われるのも嫌なのでバランスに苦労した」
つまり何が言いたいかというと、80年代から90年代前半くらいには欧米への憧れとか、
昭和的な貧乏臭さを回避するための手法として、無邪気に海外メディアから表面的な「イメージ」を
頂いてくることがよくあって、そうやって大量に輸入された表象の中には、
ネットが普及して、リアルタイムに(微妙な文脈やニュアンス込みで)情報が入ってくる今なら
決して肯定的な引用をしないようなものが混じってることがあるよ、ということです。
「無知ゆえにウッカリやっちまいました。でも、アメリカとか黒人音楽への憧れが大きかったことを分かってください」
みたいな感じで間違いを認められるのに、アニメ・漫画の事となると
「ポリコレによって表現の自由が侵害されている!」と噴き上がってしまうのは何でなんだろうか?という疑問…
1960-70年代は景気は良かったが
ヤーの子がよく暴れ、テレビでは洋画放映、読売ジャイアンツが強く、沖縄米軍系のフィンガーファイブ、野球チームジャニーズのフォーリーブス、スーパーカーブーム、ドリフターズ、スポコン、魔法使いアニメなどとわりとお伽噺な文化
大臣が佐藤栄作と田中角栄だしたぶんアメリカ風の政策だったんだろう
しかし70年代にはガンダムやタモリのようなマニアっぽいコンテンツが現れ、パソコンも現れ、いわゆるオタク文化が栄えていく(やや官僚ぽい文化だ)
60−70は今思えば景気が良かったのになんで荒れた?と思うと公害問題など分かりやすい大きな不正問題のスピンだな
一方、現代は円安だが社会問題が見えにくく敵がよく分からなくされている
LGBTや同性婚や夫婦別姓、SDGSなんぞ小集団問題が話題にされ、大きな不正はメディアに出ない
でもまあいうなら、現代の公害は派遣会社と節税商品(保険不動産)だろうな
バブル崩壊もそのせいだ
かつては大学生だった。今から約20年前のことだ。地元の公立高校で必死に勉強して、勉強して、勉強して、青春のすべてを犠牲にして京都大学法学部に合格した。一浪だった。いわゆるイカ京みたいな京大生がたくさんいる中で、自分もその1人から脱出しようと頑張ってみたが、結局だめだった。
40歳が間近になった今では、没落というか、いや元々高い位置にはいなかったのだが……今は、普通に非正規労働者をやっている。契約社員みたいな仕事に就くこともあるが、あまり続かない。1年くらいで辞めることが多い。結局、学歴って大したことはないんだよなぁ、と実社会で働くようになった今では感じる。
これから、大学時代の話をさせてほしい。暗い話になる。みんなジメジメした話は嫌いだろう。だから、すぐに終わらすよ。頑張って五千字以内に収める。リアル一人称が僕なので、以降は僕でいくことにする。
入学式を終えて大学生になった僕は、どこかのマンガで見たようなサークル勧誘活動を眺めることになった。どういう風に勧誘があったか、さすがにまったく覚えていないが笑
でも、僕にはあまり声がかからなかった。ルックスはいまいちで、特にスポーツ系からは全く声がかからなかった。浪人生活がたたって不健康に見えたのだろうな。
文科系からは何度か勧誘された。漫画研究会とか、小説を書く倶楽部とか、山登りの会とかも見学に行ったっけ。結局、どこにも入らなかった。高校時代はバリボーをやっていたが、大学の部活はいわゆるガチめのところが多い。通用しないとわかっていた。
それで、大学1年生(※正しくは1回生)の時は、ごく普通に講義に出て、帰りに図書館に寄って、たまに帰り道にラーメン店を巡っていた。実家は美山町の貧しい農家だったが、親が優しかったので仕送りをたくさんくれていた。月に8万ほど自由に使えるお金があった。
アルバイトを始めたのは、かなり後になってからだ。大学2年生の春だった気がする。退屈に負けて繁華街にあるマクドに応募したんだっけ。
そんな時だった。1年生の秋頃、学内であるチラシを見かけた。『みやこ音楽祭』なるものの開催案内だった。京都の学生有志で集まる大学間サークルで、くるりとかの有名バンドを呼んで京都の音楽を発信しよう、みたいな団体だった。
チラシには第1回の文字はなかったけど、結局第8回まで行われることになった。僕の時は、西部講堂という古めかしい場所があるのだが、そこでライブをやっていた。
いろんな大学の学生が集まる、しかもライブイベントのスタッフなんて、こんな体験は二度とできないと思った。小学校も中学も高校も、文化祭でリーダーをやるタイプではなかった。下働きだった。
数年前のアニメだと、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』で、高校生だけでアメリカ風のプロムをやろうみたいな場面があって、ゆきのんが実行委員長で、八幡が陰の立役者で、いろはすが現場リーダーだったと思うんだが、僕はその現場の下働きだった。
それで、みやこ音楽産業みたいな名前の団体があって、そこに電話をかけて参加申し込みをした。もうほとんど覚えてないが、西部講堂付近のカフェで面接があったのかな、その場で誓約書みたいなやつを書いてスタッフとして登録した。
若い人達がやってるんだろうなぁ、と思っていたら、みやこ音楽祭を立ち上げたのは20代半ばの人達だった。とっくに卒業年齢だったのだが、京大にはあえて留年をして大学の看板を使っている人もいる。ハタチくらいの有志が集まって~みたいな団体ではなかった。
まあ、そうじゃないと、第1回目からくるりや向井秀徳や矢野顕子は呼べないはずだ。伝手があるのだろうなと察したのを覚えている。
もう想像できると思うけど、ここでも下働きだった。現場で机とか、椅子とかを運んだり、他大学へのチラシ配りとか、やはり音響機材を運んだりとか、ライブ中の警備とか、掃除とか、そういう下働きをしていた。
いろんな学生が集まるサークルなだけあって、多様性に富んでいた。僕は4年分すべて参加したけど、僕のような中核ではない臨時スタッフまで入れると軽く50名を超えていた。なんだかんだでマーケティング活動は抜群だった。もし、経営の才能がある大学生がここで活動したなら、きっといい経験になったと思う。
思えば僕は、アニメや漫画でいうところのモブキャラだった。その団体の中核メンバーはほとんど京大生だったけど、中には同志社とか、立命館とか、京都産業とか、龍谷とか、いろんな人が揃っていた。
僕は京大生だったけど、4年間活動してもずっと臨時スタッフだった。そういうところには潜り込めなかった。かと思えば、才覚のある大学1年生(仏みたいな名前の大学の女子だった)が入ると、次の年からは中核メンバーとしてスカウトされていた。
そういう光景を目にして、つくづく自分が嫌になった。自分は臨時スタッフなので、次の年も参加したいと思えば、またチラシを見つけて応募する必要があった。
それで、イベント初回の時は、その1ヶ月後には打ち上げ会があった。その会では、今の自分から見ても相当気持ちが悪い光景が繰り広げられていた。京大の近くにある居酒屋での開催で、和室の座席を貸し切っていた。席の配置は自由だったけど、大体男女が別々に固まる。40人ほどだった。
ただし、主催者の方で誘導して、男女がある程度向かい合わせになるようにする。それで、京都大学の学生のうち、女子と向かいになった人達が、飲み会が盛り上がっている半ばでこういうアピールを始める。※京都の方言は標準語に直している。
「俺、浪人して経済(学部)に行こうと思ってたけど、総合人間でもまあいっかと思って」
「高校の頃の模試は全国で二番だった。医学科行きたかったけど、キツそうだからやめて看護(保健学科)にした」
「お前らまだ若いからいいじゃん。俺こないだのTOEIC220点だったぞ。大学入ってから頭が悪くなっていく一方だよ」
(3/21追記)コメントを受けて。以上は飲み屋での会話だから、卑屈な謙遜がかなり混ざっていると思う。会話自体は確かにこのとおりだ。
こんなノリで会話を始めて、自分の財布から京都大学の学生証を取り出して、目の前の女子に見せびらかす。こんなことを彼らは四年間ずっと続けていた。見ていて情けなかったけど、かくいう自分も、隣の人に振られる格好で一度だけやったことがある。
「え、え、自分京大なん? リッツ(立命館大学)かと思ってた」
「法学部なんですね!! すごーい」
「機材を運んでる時、気遣いがすごかったですね。警備中もずっとお客さんの方を見てた。ほかの人はサボってライブ見てたのに」
今思えば、女子は気を遣ってくれていた。こんなに恥ずかしいことを、当時は若かったとはいえ、自尊心に負けてこんなアホみたいな、つまらない、人間として三級品にも等しい、救いようのない子どもじみたことをしていた。トイレの手洗器に張り付いたタンカスの方がまだ魅力的だった。
で、そんなことをしていると、向こうから中核メンバーが乾杯にやってきた。すると僕の周りにいた京大生は、借りてきた猫みたいに大人しくなる。それで、女子は彼らの方を眩しい視線で見つめるのだ。目のキラキラ感が違う。
……でも、当時の僕は受け入れていた。これが正しい形なんだって思っていた。強い人間がモテて、強い人間がいろいろ持っていくのは当然だと思っていた。僕だって、京都大学に合格した時は、中学校や高校の先生や後輩から神扱いだったし、親族からもすごく褒められたし、母親は泣いていた。
でも、違うのだ。大学が保証する個人の能力というのは、実社会で必要な力のせいぜい20〜30%だ。ほかの能力面がダメだと社会では通用しない。
結局、在学中に目立つことはできなかった。自信が持てるような体験はなかった。学業成績は中の中ほど、アルバイト先は今は亡きマクドナルド河原町三条店で、そこでは全スキルをほどほどに鍛えた。就職活動はコツコツとやって、結果は京都銀行に内定した。しかし、自分という存在に確信がもてないまま、あっという間に四年間が終わっていた。
銀行でのことは話したくない。嫌な思い出だし、気が付けばすごい文章量になっている。増田でこんなに書いたのは初めてだ。
掻い摘んで話すと、社会人一年目から地獄だった。地方支店からキャリアが始まったのだが、預金口座とか、金融商品の営業がまったくできなかった。
営業としての適性がなかった。ぜんぜんだめだった。当時の成績はゼロに近かった。ほかの同期は、月にひとつ以上は契約を取ってくる。高卒で入った男の子や女の子ですらそうだった。
同期に馬鹿にされて、上司には激詰めされて、居場所がなくなって、しかしクビにはならない。いっそクビにしてほしかった。京都の山間部に住んでいる親には「うまくやってる」と嘘をついていた。
三年目のある冬に、メンタルが完全にダメになって仕事中に交通事故を起こした。運転中に手が震えて、ハンドル操作ができなくなった。それで免許停止になってしまって、人事との面談では……もう雇い続けることは難しい、次やったら本当にだめだ、みたいなことを言われた。クビにはならなかった。
まだ次があるのかと思った。上司からは、「お前は京大だからな!! 地銀に入る京大なんか珍しいからな!! できる!! なんとかしてみろ」と何度も言われた。
結局、次の交通事故を起こす前に辞めた。退職手続きはあっさりだった。相応のレベルの会社らしく、有給消化や退職その他の手続きは出社しなくても全部やってくれた。今でも感謝している。
それからは坂道を転がるみたいだった。どの仕事でも2年以上続かなかった。期待していた仕事でも、やってみるとぜんぜんダメだった。先日は、市役所の会計年度任用職員をクビになった。現業の仕事をするポジション(剪定、伐木、廃棄物処分)で募集があったので応募した。
書類選考が通って、市役所の役職者が面接をしてくれた時に、「え……京大なんですか……?」と愕然としていた。自分以外に応募者が10人以上いたけど、現場仕事未経験の自分でも内定を取ることができた。
もうわかっていると思うが、結果は散々だった。口頭での指示を理解できず、とんちんかんな行動を繰り返して、何度も怒られて、1ヶ月も経つ頃には役職の人に呼ばれて三行半を付きつけられた。
「すんません……こないな自分が言うのもなんですけど、事務職やったら……」
「事務職はもうパートさんがおるさかい。あんたには任せれへん」
「すんません」
会計年度任用職員の試用期間は1ヶ月だった。こういうわけで、先日見事にクビを切られた。情けない限りだ。いや、もう僕はこういう状態に慣れてしまった。これでいいのかもしれない。
これからも、アルバイトで日銭を稼いで、スーパーで閉店近くに八割引きになっている惣菜を買って、コンビニでストロング無糖ドライを買って、二級品の梅干しを入れて、ウィルキンソンで割って飲み続けるんだと思う。
最後に知っておいてほしい。学歴は仕事の結果には関係がない。最近読んだ『科学的な適職』という本で、アメリカの研究で学歴と仕事の結果の相関係数が0.1とあった、との記述を見た。つまり、ほとんど関係ないのだ。マイナス相関でないところは皮肉に感じる。
そろそろ仕舞いにしよう。こんなおっさんの愚痴を聞いてくれてありがとう。適度なところで死ぬようにする。いつも布団に入る時に思う、「目が覚めた時に死んでいればいいのに」って、本当にそう思う。
――ああ! 誰かがあの肉體からあの魂を取除いてくれないかなあ!――「造物主」が何かのはずみで手違ひをしたとしか思へませんからね!
未來のイヴ ヴィリエ・ド・リラダン (著), 齋藤 磯雄 (翻訳) P.99
3/21追記 この本の引用が上の言葉の元です。こんなところまで自分の言葉じゃなくて申し訳ありません。
もし若い人がこの日記を読んでいるのだとすれば、学歴と仕事能力は関係ないって、それだけでも心に刻み付けてほしい。そうすれば、僕のような人間を少しは減らせるかもしれない。
ある日、テキサス州の田舎に住む老夫婦が川で洗濯をしていました。川は清らかで冷たくて、そこには魚やカエルやカモなどが泳いでいました。老夫婦は仲良く手をつないで歩いていました。彼らは子供がいなかったので、お互いが唯一の家族でした。
すると、川に大きな桃が流れてきました。桃は真っ赤でふっくらとしており、甘い香りがしました。老夫婦は驚いて、桃を拾い上げました。「こんな大きな桃は見たことがないわ」と老婆は言いました。「今晩はこれを食べよう」と老公は言いました。
家に帰って、桃を切ろうとしたとき、中から元気な男の子が飛び出してきました。「こんにちは!僕はジョニーだよ」と男の子は言いました。彼は金髪に青眼で小さくて可愛らしい姿をしており、笑顔が素敵でした。老夫婦はさらに驚きましたが、喜んでジョニーを自分の子供として育てることにしました。
時がたち、ジョニーはすくすくと育ちました。彼は強くて勇敢で賢くて優しい少年になりました。彼は老夫婦の手伝いをしたり、友達と遊んだりして楽しく暮らしていました。彼は学校で成績も良くてスポーツも得意で、みんなに慕われていました。彼は特にサッカーが好きで、チームのキャプテンを務めていました。
ある日、ニュースで悪い鬼たちがワシントンD.C.を襲って大騒ぎになっていることを知りました。鬼たちは人々や動物や財産を奪って暴れまわっていました。彼らは白宮や国会議事堂やリンカーン記念堂などの有名な建物を占拠しており、大統領や議員や裁判官などの要人を人質にしていました。彼らは世界征服すると宣言しており、他の国からも脅迫していました。
ジョニーはこれを見て怒りました。「これは許せない!僕が行って鬼たちをやっつけてやる!」と言って、老夫婦に別れを告げて旅立ちました。
途中で、ジョニーは犬と猿とキジと出会いました。彼らも鬼退治に協力することにしました。彼らは仲良くなって一緒に旅を続けました。
ジョニーと仲間たちはワシントンD.C.に到着しました。そこは鬼たちによって荒らされており、煙や火や悲鳴があちこちから聞こえてきました。ジョニーと仲間たちは勇気を出して鬼たちに立ち向かいました。ジョニーはライフルを持って戦いました。犬と猿とキジは牙や爪やくちばしで戦いました。
ジョニーと仲間たちは鬼たちと激しく戦いました。ジョニーは鬼の頭目に挑みました。鬼の頭目は大きくて強くて恐ろしい姿をしており、巨大な斧を持っていました。
鬼の頭目はジョニーに向かって大声で叫びました。「お前なんかに負けるものか!俺は世界征服するんだ!」と言って、巨大な斧を振り下ろしました。
ジョニーは素早く斧を避けて、自分の持っていたライフルを鬼の頭目に向けて撃ちました。しかし、鬼の頭目は弾丸を跳ね返してしまいました。「ふん!そんなものじゃ俺には効かないぞ!」と言って、再び斧でジョニーを襲いました。
ジョニーは危うく斧から逃れることができましたが、バランスを崩して倒れてしまいました。鬼の頭目はこれを見て笑いました。「これで終わりだ!さようなら!」と言って、最後の一撃を与えようとしました。ジョニーは必死になってライフルを持ち上げて、鬼の頭目の心臓に向かって引き金を引きました。
ジョニーの撃った弾丸は鬼の頭目の心臓に命中しました。鬼の頭目は大きく倒れて動かなくなりました。彼は死んでしまいました。
ジョニーと仲間たちは鬼の頭目を倒したことに喜びました。「やったぞ!鬼の頭目をやっつけたぞ!」と言って、ハイタッチしました。
そのとき、他の鬼たちが騒ぎ声に気づいてやってきました。彼らは自分たちのボスが倒れているのを見て驚きました。「ええええ!?ボスが死んだ!?どういうことだ!?」と言って、パニックに陥りました。
ジョニーは彼らに向かって叫びました。「聞け!お前たちはもう負けたんだ!お前たちはもう悪さをすることができないんだ!お前たちはもう世界征服することができないんだ!」と言って、ライフルを構えました。
犬と猿とキジも彼に続いて叫びました。「そうだ!お前たちはもう負けたんだ!お前たちはもう悪さをすることができないんだ!お前たちはもう世界征服することができないんだ!」と言って、牙や爪やくちばしを見せつけました。
鬼たちはこれに怯えて逃げ出しました。彼らは白宮や国会議事堂やリンカーン記念堂から出て行きました。彼らは人々や動物や財産を返して謝りました。彼らは二度と戻ってこないことを誓いました。
ジョニーと仲間たちは鬼たちを追い払ったことに喜びました。「やったぞ!鬼退治に成功したぞ!」と言って、抱き合いました。
そのとき、人質にされていた大統領や議員や裁判官などの要人が現れました。彼らはジョニーと仲間たちに感謝しました。「ありがとう!君たちは我々の英雄だ!君たちは我々の救世主だ!」と言って、拍手しました。
ジョニーは彼らに微笑みました。「どういたしまして。僕はただ正義の味方をしたかっただけです」と言いました。彼は犬と猿とキジを紹介しました。「これが僕の仲間です。彼らも一緒に戦ってくれました」と言いました。
要人たちは彼らにも感謝しました。「ありがとう!君たちも素晴らしい仲間だ!君たちも我々の英雄だ!君たちも我々の救世主だ!」と言って、拍手しました。
そして、ジョニーと仲間たちはワシントンD.C.で大歓迎されました。彼らはパレードやパーティーや表彰式などで祝われました。彼らは名誉や賞品や贈り物などを受け取りました。彼らは幸せで満足で充実していました。
そして、ジョニーは老夫婦の元に帰りました。老夫婦はジョニーが無事であることに安心しました。「おかえりなさい!お疲れ様でした!」と言って、抱きしめました。ジョニーは老夫婦に感謝しました。「ありがとう!あなた方が僕を育ててくれたからこそ、僕は今日のことができたんです」と言いました。
内容はおもに、(1)武器装備の再検討(2)警護計画書の再検討って感じです。
今回浮き彫りになったのは、「銃を想定した訓練をしていない」ということだった。
銃を想定してないのに、スーツケースをもったSP?おかしいだろ・・・
この動画のように、ペラっちいスーツケースは意味あるのか?とも思う。
https://www.youtube.com/watch?v=hYFglqYa0rM
実際今回の事件では、慣れておらずケースを開いて防御できなかったと聞く。
このような形だけの訓練ではなく、「本当に相手を封じ込められるか」を重視した訓練をすべきである。
ただしこの動画で唯一良いと思ったのは、「一糸乱れぬ集団の動き」が実践されていた点である。
これはグループとして・兵隊として動いたときの強さを証明している。自衛隊の強さに通じると思う。
アメリカのSPのような「個別判断」は弱いかもしれないが、グループとして調練されていれば、
やはり日本における暴徒の武器はナイフ。包丁のたぐいが多いと思う。
そのためにはもちろん槍と盾がベストなのだが、誤使用などの危険性も伴う。
さすまたと盾を持った人間が要人の左右に2人いるだけで、相当な抑止効果があると思う。
これは近接戦を目的にしておらず、「相手との距離をとる」ための防御である。
今回の犯人が岡山での犯行をあきらめたように、「実行させない」ための抑止力が最も重要だと思う。
押し込むことでさすまたの両端から刃が出るようなギミックもいいかもしれない。
これなら誤使用を防げて、強く押し込むような緊急事態には、犯人を畏怖させられる。
https://www.youtube.com/watch?v=ibytBZIpN9I
毎日銃で100人亡くなっているレベルのアメリカでは、さすがに効率が重視されている。
これは銃と違い殺傷力がないようだ。
https://www.youtube.com/watch?v=i-iHksu9ePU
また、ボディカメラは徐々に採用されているようだが、全SPにつけてもらいたい。
このような、新規技術を取り入れ、Webや報道で告知することで、テロリストを抑止できるだろうと思う。
今回の小型銃の開発は、いわば技術をもった犯罪者が、警察のテクノロジーを上回ったともいえる。
ようは技術に投資してますよ、という姿勢で、犯罪者にナメられないということである。
検索したらこのような、古い紙ベースのものだった・・・20年前の技術のままである。
https://www.sp-keigo.com/post/%E8%AD%A6%E8%AD%B7%E8%A8%88%E7%94%BB%E6%9B%B8
今回は、急遽奈良に変更されたということで、夜に計画書を作り、朝に本部長が承認したという。
もし一夜明けて、現場の状況が一変していたらどうだろう。完全にムダな労働である。
日本人の悪いところに、ドキュメンテーションに時間をかけすぎるという点がある。
文書はあくまで机上の論理であって、実践はまた別の次元である。
ましてや一瞬の物理防御が求められる警護の現場ではなおさらである。
文書に書き出した時点で、それを読者が脳内で「翻訳」する必要があり、時間がかかる。
以前も書いたが、今回の敗戦は、布陣の時点で問題があったことは間違いない。
https://anond.hatelabo.jp/20220710094249
もし警護計画書を重視して、現場検証がおろそかになったのであれば、悔やみきれない結果だと思う。
まずは現場を確認し、タブレットによる動画や写真などを駆使して、
「紙に起こす」という作業のムダを省いてもらいたい。あくまで紙に書くというのは脳内の作業である。
ANDPADといったツールによってドキュメントワークが軽量化されて、効率化が図られている。
https://www.youtube.com/watch?v=Rd83X6_1-8U
余談になるが、
IT業界では多重中抜きビジネスが横行している。その中核となるのはドキュメンテーションの水増しである。
つまり、提出書類を無駄に作成して、人件費を多く請求する、というのがメインのビジネスである。
これが積み重なると、総合的な日本の国力低下につながると思う。
「決まっていることに対して疑念をもたない」という国民性ともいえ、強味でもあるが、病理でもある。
奈良県警の、無規律でのろい素人の動きは、まさにそのような「ムダ・無意味」なことを重視した結果の、
本来優秀な人材のSPですらそうなのだから、日本全体の問題だと強く思う。
現場では、自己判断でとっさに動けるような、マニュアルを押し付けない教育が求められる。
ITツールによって「計画・作成・共有」が統一され、即時に行えるような改善は、
無駄を省き、スピードを上げ、人材の知性を向上させる。すべての業界に歓迎されるべきだと強く思う。
ITがどの業界においても業務の仕組みを一変させ、人材を成長させ、日本を進展させるのである。
というか、おじさん(おじいさん?)としては、「リュック」という言葉が堂々と使われているのがあらためて小さな驚きだなぁ、、と言ったら大袈裟かもだけど、、
僕が若い頃には「リュック」なんて言うとダサいと笑われた覚えがある。それじゃあ小学生が遠足の時に使うキャラクター商品みたいだってね。😅
まあ、「リュック」なんて元は多分ドイツ語由来の言葉だろうから、そういうのってどんどん英語風の言い方に置き換わって行ったんだよね。英語風の中でもアメリカ風の言い方にね。「リュック」はよくぞ復活を果たしたよなぁ。まあ、こっちの方が紛らわしくなくて実用的には良いことだと思うよ。
他にも、バイトやカルテやヨットやアイゼンやあれやこれや、ドイツ語由来の言葉が生き残ってることもついでに思い出しちゃった次第です。山とかスキーとか医学とかの関係が多いかな。ペーハーやインシュリンは消えかかってるけど。