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はてなキーワード: 存在と無とは

2026-04-13

anond:20260412141232

10代で読んでいないと恥ずかしい必読書

プラトン国家』 

アリストテレスニコマコ倫理学』 

ショーペンハウアー意志と表象としての世界』 

ヘーゲル精神現象学』 

デカルト省察』 

パスカルパンセ』 

ライプニッツ『単子論』 

カント純粋理性批判』 

キェルケゴール死に至る病』 

バークフランス革命省察』 

ジェイムズ『宗教的経験の諸相』 

ニーチェ道徳の系譜』 

ベーコン『ノヴム・オルガヌム』 

フッサールヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』 

メルロ=ポンティ『知覚の現象学』 

ハイデッガー存在と時間』 

アーレント精神生活』 

ヨナス『責任という原理』 

サルトル存在と無』 

ベルグソン時間自由』 

ミンコフスキー『生きられる時間』 

レヴィナス全体性無限』 

フロイト快感原則彼岸』 

ドゥルーズ=ガタリアンチオイディプス』 

フォーダー『精神モジュール形式』 

ヤスパース精神病理学総論』 

エレンベルガー『無意識発見』 

ラカン精神分析の四基本概念』 

フーコー言葉と物』 

ソシュール一般言語学講義』  

ヴェイユ重力と恩寵』 

ディルタイ精神科学序説』 

ブーバー『我と汝・対話』 

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』 

ミンスキー『心の社会』 

ライル『心の概念』 

バタイユエロティシズム』 

アガンベンホモ・サケル』 

ラッセル西洋哲学史

ルソー社会契約論』 

スピノザエチカ』 

ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』  

リップマン世論』 

オルテガ大衆の反逆』 

マンハイム『イデオロギーユートピア』 

フロム自由からの逃走』 

ミルズ『パワーエリート』 

リースマン孤独群衆』 

パーソンズ社会行為構造』 

デュルケム『自殺論』 

イリイチシャドウ・ワーク』 

M・ポランニー『暗黙知次元』 

バレーラマトゥラーナ『知恵の樹』 

ルーマン社会システム理論』 

ブルームアメリカンマインド終焉』 

シオラン歴史ユートピア』 

バーマス『晩期資本主義における正統化の諸問題』 

ロールズ正義論』 

ブルデューディスタンクシオン』 

オング『声の文化文字文化』 

アドルノホルクハイマー啓蒙の弁証法』 

フランシス・フクヤマ歴史の終わり』 

サイードオリエンタリズム』 

ジジェクイデオロギーの崇高な対象』 

アンダーソン『想像の共同体』 

シンガー実践倫理』 

マッキンタイア『美徳なき時代』 

ホイジンガホモ・ルーデンス』 

カイヨワ『遊びと人間』 

フレイザー金枝篇』 

モース『社会学と人類学』 

レヴィ=ストロース悲しき熱帯』 

ギアツ文化解釈学』 

キャンベル『千の顔をもつ英雄』 

ブローデル地中海』 

ウォーラーステイン近代世界システム』 

クラウゼヴィッツ戦争論』 

アダム・スミス国富論』 

ゾンバルト恋愛と贅沢と資本主義』 

ベンタム『道徳立法原理序説』 

ミル自由論』 

マルクス資本論』 

アルチュセール資本論を読む』 

シュンペーター経済発展理論』 

フリードマン資本主義自由』 

ハイエク『法・立法自由』 

ケインズ雇用・利子および貨幣の一般理論』 

ヴェブレン『有閑階級理論』 

ポランニー『大転換』 

ボードリヤール消費社会の神話と構造』 

セン『貧困飢饉』 

ベル資本主義文化矛盾』 

ドラッカー『「経済人」の終わり』 

サイモン経営行動』 

ギデンズ『近代はいかなる時代か』

ホワイトヘッド過程実在』 

クリプキ『名指しと必然性』 

ポパー『推測と反駁』 

クーン科学革命構造』 

ラカトシュ方法擁護』 

デイヴィドソン『真理と解釈』 

パトナム『事実価値二分法の崩壊』 

ベイトソン精神生態学』 

ベンヤミンパサージュ論』 

デリダ『法の力』 

クール時間物語』 

ペンフィールド『脳と心の正体』 

スローターダイクシニカル理性批判』 

シュミット政治神学』 

ダールポリアーキー』 

ヴァイツゼッカーゲシュタルトクライス』 

チョムスキー文法理論の諸相』 

ヴィゴツキー思考言語』 

パノフスキー『イコノロジー研究』 

ソンタグ『反解釈』 

ウィルソン生命多様性』 

ドーキンス利己的な遺伝子』 

ギブソン生態学視覚論』 

ケストラー機械の中の幽霊』 

ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』 

イーザー行為としての読書』 

イーグルトン『文学とは何か』 

ホフスタッター『ゲーデルエッシャーバッハ』 

ド・マンロマン主義レトリック』 

ブランショ文学空間』 

ガダマー『真理と方法』 

ローティ哲学自然の鏡』 

セラーズ経験論と心の哲学』 

レイコフ『認知意味論』 

ダマシオ『生存する脳』 

クワイン『ことばと対象』 

ウエルバッハ『ミメーシス』 

ミード西洋近代思想史』 

ネグリ構成権力』 

クリステヴァ『詩的言語革命』 

ランシエール不和あるいは了解なき了解

クリシュナムルティ『生と覚醒コメンタリー』 

バルトエクリチュールの零度』 

マクルーハンメディア論

ボルツ『グーテンベルク銀河系終焉』 

キットラー『グラモフォン・フィルムタイプライター』

2026-02-05

### 画像テキストの逐一ダメ出し

画像テキストは、ある本のページから抜粋で、サルトル哲学引用解釈したものと思われます。以下では、画像内のテキスト自然な文単位で分解し、各部分について「どこが間違っているのか」と「本当はサルトルはどういう話をしているのか」を対応させて指摘します。指摘は画像テキスト順に沿って進めますサルトルの主な参照元は『存在と無』(L'Être et leant, 1943年) で、不安(angoisse, anguish)と自由関係議論した箇所です。画像テキストサルトルアイデアを大まかに借用していますが、用語の置き換え、文脈の歪曲、偽の引用が目立ち、全体として自己啓発的な解釈に強引に当てはめている点が問題です。

#### 1. 「と、こんな風に考えてしまう人もいるかもしれません。でも、他人人生凝視している間は、自分人生を生きていないということになります。」

#### 2. 「フランス哲学ジャン=ポール・サルトルは、こう言っています。」

#### 3. 「『憂鬱とは、他人人生凝視しすぎた結果である解決策は、他人人生凝視しないことだ。』」

#### 4. 「彼は、人生崖っぷちに例えています。」

#### 5. 「崖っぷちで下を覗き込むと、めまいが起きる。」

  • **どこが間違っているのか**: この部分はほぼ正しいですが、「下を覗き込む」(gazer en bas)とサルトルが述べているのは事実です。ただし、画像ではこれを「他人人生凝視」に繋げるための布石として使われており、文脈が歪曲されています
  • **本当はサルトルはどういう話をしているのか**: サルトルは「めまい」(vertige)が起きるのは、崖の縁で下を凝視した時だと述べます。これは物理的な恐怖ではなく、心理的なものです。原文では「Je suis sur un sentier étroit, sans garde-fou, qui longe un précipice.」(狭い道で、ガードレールなしに絶壁に沿って歩く)という状況です。

#### 6. 「それは、落ちる恐怖からではなく、自分飛び降り自由を持っていることを認識たからだ。」

#### 7. 「つまり他人人生凝視しすぎると、自分自由直視できなくなり、憂鬱になる。」

#### 8. 「だから他人人生凝視せず、自分人生を生きろ、というわけです。」

#### 9. 「本当の成功者たちは、そんな他人人生なんて気にしない。自分人生を全力で生きている。だから憂鬱になる暇なんてないんです。あなたも、そんな人になりませんか?」

全体として、このテキストサルトルの絶壁の例を借用しつつ、「憂鬱」「他人凝視」という独自解釈を加えており、原典から大きく逸脱していますサルトル本質は、自由の重みを直視し、欺瞞なく生きることです。もし本の文脈自己啓発なら、正確な引用ではなくインスピレーションとして扱うべきですが、ここでは誤解を招く表現です。

2024-09-14

にんげんのかんがえかたっていっぱいあってたのしいね

1. 古代哲学宗教
2. 中世近代哲学
3. 近代現代哲学思想
4. 科学技術の発展
5. 心理学自己啓発
6. 芸術文化
7. 人類学コミュニティ
8. 倫理学道徳哲学
9. 政治哲学社会思想
10. 科学哲学認識論

2024-06-09

数学構造としての外的実在可能

最初の仮説を否定する人たちは、主に独我論者(自分の心だけが実在するという観念論)だろう。

そして量子力学においても、コペンハーゲン解釈を支持する人は「観測者がいなければ実在存在しない」と言うかもしれない。

物理理論目的は、実在の完全な記述発見することである

実在人間存在無関係であるなら、その記述が完全であるためには、異星人やコンピュータなどの人間概念理解しない存在にとっても整合性がなければならない。

その記述は、「粒子」「観測」などの人間特有言葉概念(Max Tegmarkはこれをバゲッジと呼んでいる)を含まないようにする必要がある。

2022-08-31

ガーシ当選で感じる空気感の変化

ガーシーが受かるぐらいになったならこれからだんだん過激な考えもった人間も受かるようになるかもしれないと思った。

極端な話「警察をなくす」なんて議員も出てきて本当にそうなるかもしれない(そういう民意であるということ)。

そういえば警察ってなんで存在するんだろう?民意無関係に出来たものな気がする。

警察予備隊だか憲兵隊だか警察歴史みたいなものは忘れたけど、とにかくそれは民意要請に応じたものじゃなくて本来的には為政者勝手に設置したものに過ぎない気がするね。

警察というものを作ります」という議員過去にいたなんてこと私は寡聞にして知らない。

まあそこらへんは置いといて私が期待してるのは刑法175条の改正だ。

ガーシーみたいなあん当選ときながら議会に出ないような厚顔無恥当選させる民意が成立するような空気感ができてきてるならさ。

いままではわいせつ関連の法にメスを入れるなどそのきっかけとして口火を切ることすら並みの議員には憚れることだったんだろうけどさ。

わいせつ自由になろう」と堂々と言う候補者がでてきてもおかしくない気がするよ。そしてそれを臆面もなく当選につなげる有権者たちもでてきてもおかしくないと思える。

話逸れるが「警察」や「わいせつ法」っていうのはOSみたいなもんに思える。

ひとたび国にインストールされてしまうと、もうそれが存在するという前提の中でしか動けない。

それそのものがその存在正当化するとでもいったらいいかな。

そういうわけで「警察無くせ」とか「わいせつ罪無くせ」とか言うのは非国民みたいな扱いを受けるわけだ。

テレビで深夜2時に裸で公園をうろついてた女が警察に見つかり検挙されてたというのをやってた。

こういう誰に迷惑かけてるわけでもなさそうなのをどうして見逃さないのかね。そして「見逃す」という言葉を使わざるを得ないような今のわいせつ関連の法の中身に不合理に厳しすぎるものを感じるよ。

いくらこれは被害者存在無関係公序良俗云々みたいな建前垂らしてもまあそれにしたってこれも被害者ってのを念頭に入れた法律だとは思うのよ。(痴漢が通学路をうろつくとか)

「女が」「深夜に」「裸」で、誰が被害者に高い可能性でなりうるというんだい?極小のリスクを考えてもしゃーない。

女にとって女の性器わいせつか?(そういう性的指向の人は除くよ?)

どちらかといえばその印象はわいせつとかそういう次元じゃなく単にグロテスクものという認識が近いと思う。

そういう意味での害の可能性を考えてもそれはもはやわいせつ性に関する法律で取り締まるのは理念的に不適当だよね。

公然不潔罪」ってのがあればいいんだけど、それならなんKKOは取り締まらんのダブスタじゃんってなっちゃいそうだからなのか知らんがそんなものはない。

まあこんなことで逮捕される事例を無意識的にいろんなところからメディアを通して聞かされる環境に身を置いてれば、今よりもおとやかであれあらねばって考えが脳の深部にでも刷り込まれるんだと思うよ。

痴漢にぎゃーぎゃー騒ぐ女の一部はその反映だろうねと見積もってる。

そのおしとやかさというものを、関係のない男に触られたら嫌という感情が生まれなければならないというもの無意識的に変換され人格が再形成されてるんだろうね。

わいせつ罪がいまほど厳しくなかったら痴漢痴漢冤罪も今ほど多くなかろう。

わいせつ罪がそういう貞操観念を生み、貞操観念わいせつ罪を維持強化するというサイクルができてる。こりゃOSというよりウイルスか癌の類と言った方がいいかもしれない。

こんな不合理な法が根を張る日本にガーシーみたいな奴が風穴あけてくれればいいと思ってるよ。

 
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