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秦郁彦氏こそが捏造派(否定派)
南京陥落時に日本陸軍が、当時の新聞に「敵の遺棄死体は八、九満」と書かれた、捕虜となった蒋介石軍兵士などの殺害を行ないました。
これが、ポツダム宣言受諾後、問題となり「南京大虐殺」などと呼ばれるようになりました。
秦郁彦氏は「南京」つぶしの旗手である産経新聞の「正論」の論説委員であり、同じく「南京」つぶしの「日本南京学会」の会員です。
このことをご存知の上での、秦郁彦氏のご推挙なら仕方がありませんけど。
史実派は誰でも読んでる
産経新聞、文藝春秋社、PHP社なども捏造派です。
ほとんどの人は、史実派の資料にすら、かすれもしないのです。
私なんか秦郁彦氏の書簡ですら所有していますから。
(将来的には、全て中国に寄贈する予定です。日本の軍事史を保存するために。)
>核心さん
ご指摘ありがとうございます。
ご指摘をうけ、秦郁彦氏の書物だけをこの分野の最高峰として「推挙」していると解釈される書き方をしたことはよくなかったと思います。
そのような秦郁彦氏でさえも南京虐殺の規模を約4万人と推定しているのに、「南京事件はなかった」という河村氏のこの発言はどんなものでしょう、という気持ちです。
私も暇人なので
この方法だと日本側の証言はほとんど無かったため、詳細に検討してゆけば、どんどん「まぼろし化」してゆき、矮小化されます。
史実派は南京陥落時の部隊別捕虜数から、「南京」を問題にして行きます。
「森松俊夫氏の二度目の犯罪」(思考錯誤アーカイブ)でグーグル検索していただくと、私が直接の被害者となった、2006年の父(栗原利一)の資料の破壊事件の詳細が分かります。
ついでに
「南京」に関しては、中国共産党が日本人の言論の自由を守っているみたいで、非常にアジア的です。
日本政府が「八、九満」の捕虜の殺害を認める可能性は全くありません。
森松俊夫氏も田母神俊雄氏も制服組主流派ですから。
もう一つ
武装解除して「八、九満」の捕虜を殺害しておいて、「自衛発砲」も糞もないだろう。
「自衛発砲」と言うことは、正当防衛と言うことだ。
子供でもわかる大嘘です。
森松俊夫氏の経歴
陸士53期 元陸軍少佐 元陸将補
第1幕僚監部(現陸幕)第3部、武器学校教官、幹部学校教官
防衛研修所戦史編纂官などを歴任 昭和48年退官、同戦史部調査員を経て昭和60年3月退職
誰も恐くて、何も書けないんですよ。
「南京」で「八、九満」の捕虜を殺害した人たちに、マッカーサーが自衛隊を作らせたもんだから。
グーグルで画像サーチすると本人が現れます。
さすがの揚子江も真っ赤になった
最近、知ったことですが、なぜ親父が刀を振り下ろす動作だけを繰返していたのか分かりました。
肯定派の人たちは知っていることなのですが、下関(シャーカン)でもどこでも、処分される捕虜は自分で先に処分された死体を片付けてから同じ場所に坐らされたそうです。
だから、死体を片付ける必要がなかったんです。
仕方の無いことではある
一つは、城内での不良行為などで、ジョン・ラーベの本に詳しく書かれています。
二番目は、城外での「八、九満」の捕虜などの大量殺戮です。
(歴史学上は、この「遺棄死体数」説が定説です。
三番目は、城外での戦闘行為中の犠牲者数で肯定派は20万人以上としています。
なんといっても、最重要なのは城外での捕虜の殺害で、これは戦後日本が、今も隠蔽中の事実です。
これを認めていない説は、全て否定説です。
外務省、防衛省などが中心となり、今も一生懸命潰している最中ですから。
「南京」の歴史は、潰すか、残すかなので、はたから見てても見当もつかないんです。
森松俊夫氏の謀略裁判
これは蟹で有名な、間人(タイザ)の東史郎という町議(金鵄勲章も授与された、親父と同じく。)が、森松俊夫氏に起こされた謀略裁判で、「加害と赦し」に詳しく書かれています。
まず、東氏の日記を「京都市の平和のための戦争展」に貸し出させ、後の裁判の証拠となる部分を抜き取り、それから名誉毀損裁判を起こしたものだから、東氏は最高裁まで行っても勝てなかったんです。
これを森松氏と板倉由明氏が行なったのが2001年ころで、私の方は2006年です。
私が「南京」について勉強し始めたのは、森松氏の二度目のほうがキッカケです。
そして東裁判のことを知ったのは2009年です。
誰も恐くて、何も書けないんですよ。
天皇の重石を外す爽快さ
君たちは日本の軍人をいじめてそんなに面白いのか、とも言われました。
法律の勉強をして、「南京」の歴史を勉強すると、「天皇の軍隊」とか「皇軍」は、こんなことしていたんだ、とか、こんなことが出来たんだと知る面白さです。
なんとなく天皇の重石が外れた気分になります。
「南京」のテリトリー
「南京」のつぶす派は膨大なテリトリーを有していて、「中公新書」もその一つです。
ワイマール憲法下でヒットラーが育ったように、国民主権国家なんて彼らからみれば鼻くそ程度のものなんです。
国民を騙すのなんて朝飯前の仕事なんです。
ポツダム宣言受諾
原爆の開発が遅れ、ソビエトを入れていれば、北海道は確実にソビエトに割譲されていたでしょう。
(原爆を二発もくれてありがとう、これで少しは目が覚めました。)
どうも、これが原因でポツダム宣言受諾後に、ソビエトが侵攻してきても文句が言えないようです。
北海道全体と較べれば、北方四島なんて月とスッポンですから。
いずれにしろ、ポツダム宣言受諾後は「南京大虐殺は無かった。」とはいえなくなりました。
秦郁彦氏は軽蔑すべき似非学者
家永氏側の参考人が洞富雄氏です。
「遺棄死体数説」を最初に唱えた学者です。
政府側の参考人が秦郁彦氏です。
秦氏は根っからの歴史捏造学者で、軽蔑すべき、唾棄すべき人物です。
こんな人の本を読んでいたのでは「南京」は全く分かりません。
南京研究家は誰でも知ってること
知った上で、つぶす派は諸説を採ります、そうすると無にも知らない国民は、思考停止状態になって、南京陥落時の捕虜殺戮の規模に関しては、決定的証拠は無いんだ、と判断するようになるのです。
それこそが、つぶす派の目的なのです。
(その意味では、野田佳彦氏も同じです。「八、九満」説を採ると自衛隊が全く使い物にならなってしまうのです。)
服部卓四郎氏が陸士34期、「日本南京学会」の理事長の瀬島龍三氏が陸士44期、森松俊夫氏が陸士53期などと続きます。
秦郁彦氏は日本南京学会会員
この団体がどういった団体かは、肯定派の誰もがも知っている歴史捏造学会です。
会員名簿を見れば、日本の右翼系のおおよその団体の構成員が網羅されています。
「英霊に応える会」とか。
それ以上のこともいろいろあるのですが。
秦郁彦氏
秦氏側は、「南京」について、しゃべる人間がいると、おなじことについて話す人間を紹介させ、両方とも、戦友会や右翼を通じて、黙らせていきます。
それで、児玉定氏は黙らせられ、東史郎氏は戦友会を退会させられたのです。
「森松俊夫氏の二度目の犯罪」の証拠の一つは、日本の最高裁の判決文です。
「誰に盗られたか、いつ盗られたかも分からない」のでは、となって東史郎氏は敗訴となってしまったのです。
彼らが、どれほど破廉恥な人間達であるか、お判りいただけたと思います。
岸信介氏、笹川良一氏、中曽根康弘氏、石原慎太郎氏などの日本の保守勢力の頂点にいた人で、「南京の真実」を知らない人はいません。
捕虜取扱い報告書
1.南京陥落時の捕虜の処分については、「捕虜取扱い報告書」という軍の正式の書類があったのですが、敗戦直前に旧陸軍により焼却されています。
2.日本には、この捕虜処分を肯定する形での、資料の収集は行なわれていないし、保存する機関もありません。
従って、旧日本軍の軍事行為に関することがらでありながら、中国側の南京大屠殺記念館にしか資料を寄贈する先がないのです(現実に、そうなっています。)。
秦郁彦氏と吉田清治氏
自分で捏造しておきながら、相手を捏造だ、と非難するやりかたです。
捏造派は、わざわざ現地調査と称するものまで行なって、歴史を捏造するんですよ。
あの時代に、従軍慰安婦が無かったら、そのほうが大問題だっただけなんです。
秦郁彦氏が骨の髄まで、歴史捏造者だ、ということがお判りいただけたと思います。
歴史捏造の原点
1981年に、自民党が、歴史教科書攻撃キャンペーンをしました。
攻撃の標的は、南京大虐殺、従軍慰安婦、沖縄戦自決でした。
これを背景にして、
1982年に、日本政府・文部省は、歴史教科書に<記述の修正>の圧力を掛けました。
(と、いうことでした。)
慰安所
スケッチ帳0042に慰安所が記載されています。
部隊本部、大隊本部に隣接されています。
あの当時は慰安所なんて、当然の施設だったのです。
スケッチ帳0007の「12月31日」の最後の行に「奉天では慰安所に1回も行かなかった。」とも書かれています。
満州事変当時から、慰安所は当然の施設としてあったのです。
南京の捕虜処分の公式書類である「捕虜取扱い報告書」が焼却されたことからすると、慰安所や自決命令に関する書類も焼却されている可能性が大です。
それらの事実を知った上で森松俊夫氏等は軍事史を捏造しているのです。
両角大佐手記
両氏は、上記手記をもとに4冊の歴史捏造本を書きます。
65連隊だけでなく、各地でも同様にして歴史捏造本である「郷土部隊戦記」が編纂されます。
こういった非常に大規模な、軍事史の捏造が行なわれた結果、論争の当事者以外には、全く見当がつかなくなってしまったのです。
(時間が出来たら、私が何冊か、史実派からの観点で本を書く予定です。)
遺棄死体数説は踏み絵
私は、遺棄死体数説が歴史学上の定説であることは勿論知っています、でもそれが禁教であることも知っています、だから決して遺棄死体数説は採りませんし、近づきもしません、これからも私を日本の出版界で生活させてください、といった秦郁彦氏や保坂正康氏のような保守系の歴史学者の決意表明のようなものです。
今更、八、九万もの捕虜を殺害したなんて自衛官には勿論、子供達にも教えられません、といったところです。
秦郁彦氏
ほとんどの日本人は、既に、捏造された軍事史にしか接することが出来ません。
文藝春秋社、PHP研究所、中公新書などの出版物は全てその範囲です。
原剛氏も森松俊夫氏と並ぶ、著名な軍事史捏造の大家です。
戦史叢書と南京大屠殺記念館の差
昨夜のNHKの「負けて勝つ」でウィロビーが服部卓四郎に自衛隊(警察予備隊)を作らせた経緯などを演じさせていました。
服部卓四郎氏はガダルカナルで2万人の日本将兵を犠牲にした指揮官だったようです。
存在しなかった南京虐殺
10月3日の産経新聞のコラム「from Editor」の題がこれです。
『日本「南京」学会が解散した。...
「虐殺」は当時の国民党政府のプロパガンダであることがはっきりした。所期の目的を達したので解散したのである。...』と。
産経新聞の発行部数がいくらかは知らないが、国民党政府のプロパガンダである、というのは昭和13年当時からの日本陸軍のプロパガンダです。
昭和13年の新聞なんて、現在の読者には確かめるのが困難であることを承知で、このような赤記事を書くのでしょう。
(日本の政治的混乱はいくら続いても世界的には全く影響がありません。なんていっても極東ですから。)
南京陥落時10万捕虜殺戮事件
多少の捕虜がいても最終的に殺害されれば、遺棄死体数がその分増えます。
「栗原利一」で画像検索しても表示されます。
南京市街図
正確で参考になります。
この地図でわかるように、南京城というのは鎌倉市、小平市などと同じ広さで、日本の城などと違って、一言でいうと、とてつもなく広いです。
その城外で、10万弱の捕虜を、部隊別に殺戮(処分)しても城内の西洋人や一般人は全く知ることなど不可能だったのです。
国民党軍が、銃弾の補充がきかなくて投降した、という父の証言がもっとも妥当だと思います。
週刊金曜日1993.12.10
基本的に大虐殺肯定派は「残す」派なのですが、すべての重要な情報が本になっているとは言えません。
その一つが小野賢健二氏と吉田裕氏の「週刊金曜日1993.12.10」と「週刊金曜日1994.2.4」の論文です。
この情報は私の友人の中でも最左翼の友人からのメールで付随的な情報として入手できたものです。
記事は「週刊金曜日」からコピーで入手できます。
この中に魚雷営が65連隊であったことやそれが試験的な殺戮であったことがが記載されています。
服部文書
「潰す」派の言い分は、「ポツダム宣言」は受諾したが、「東京裁判」はポツダム宣言の趣旨に違背しているので、受け入れなくてもいいそうです。
東京裁判の時に、旧日本軍関係の重要書類は服部卓四郎氏のご実家のあった山形のほうに隠されていて、戦史部ができてからはこちらに保蔵されています。
機密書類として誰もアクセスできないので公刊戦史書である「戦史叢書」と矛盾するような公式書類は永久に日の目をみないことになっています。
これが捏造派の強気の根拠にもなっています。
といったわけで、南京論争は永久に続くのでしょう。
南京陥落時10万弱捕虜殺戮事件
南京事件は軍隊として特別なことをしたわけではありません。
南京攻略戦では日本軍が大勝利して、10万弱の捕虜を得る結果となってしまいました。
それで対応に困り、ほぼ全員を計画的に殺害した、といったところです。
むしろそれからがこの事件のややこしいところで、敗戦により公式書類は焼却され、無実の5人の軍人が死刑になり、900人前後の被疑者が解放され、事実が知られることのないまま軍事史が捏造され、そしてついには自民党による歴史教科書攻撃キャンペーンが始まった、といった具合です。
「週刊金曜日」の記事はそれぞれ8頁、6頁の長い論文で極めて重要です。
「週刊金曜日」に連絡して入手されることをお勧めします。
「週刊金曜日1993.12.10 兵士たちの陣中日記ー小野賢二さんの仕事 吉田 裕」より
・・・敗戦直後の時期に、・・・陸海軍を中心に重要資料の組織的・計画的焼却が行われている・・・いわば国家の手によって証拠の隠滅が大規模に行われているのである。・・・
といったことからもわかるように、捏造派と論争をすること自体もあまり意味がないのです。
だから田母神俊雄氏や河村たかし氏が「南京虐殺がなっかた。」という度に、失笑を買ってしまのでしょう。
防衛研究所戦史部
防衛研究所<戦史室>の源流
...この<史料整理部>の前身は<史実調査部>、さらには<史実部>であるが、
一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の<服部卓四郎>だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、
周辺に<旧日本軍の幕僚将校を集め>て「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
一方、「服部グループ」は、<史料整理部>を中心にして、「大東亜戦史」の編纂にも、
大きな力を注いだ。
この点について、二代目の<戦史室>長をつとめた<島貫武治>は、次のように書いている。
<史料整理部>の陣容は俊秀をもって当てられ、服部卓四郎、...各大佐、
...三少佐等で、
わが国においても<政府による正統の大東亜戦争史を編さんすべき>であるとの願望を抱き、
史料の収集整理に努めるとともに、昭和二十八年には『大東亜戦争全史』四巻を世に発表した。
...著者は服部卓四郎となっているが、「実際は各戦域の作戦参謀級の幕僚が、分担執筆し、
<稲葉正夫>(四二期、終戦時陸軍省軍務局軍事課員、中佐)がまとめたもの」であり、
服部周辺の<旧幕僚将校による合作>だった。
そして、「後にこの整理部から多くの人が、貴重な史料とともに戦史室に転用され」、
<戦史室の中心>を、これらの<旧幕僚将校が占める>ようになったのである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、
<旧軍の立場を代弁する><弁明史観的><性格>を色濃く持たざるを得なかった...
(この戦史部OBで終戦時少佐のM.T氏が2006年に父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作
を行なって失敗した事は以前にお話しした通りです。)
スケッチ1(スケッチ帳NO27上段)の注記
鳥龍山、幕府山砲台
白旗を翻し投稿する支那兵、1個分隊で46名か捕りょを降して連れて来た。
この時は敵が1人として抵抗するものがなく、
実に従順なものであった。が□し戦友が沢山戦死負傷させたのはこの敵と思うと
たた敵かい心にもいるのみであった。でも投稿者はすなをに受け入れて取り扱った。
スケッチ帳NO27下段
スケッチ2(スケッチ帳NO27下段)の注記
(左上)
第1大隊兵長以下135名であった。(田山大隊)
その部隊に1万3,000名余捕りょを降して
右に集めた敵の武装解除した兵器弾薬の山
我分隊は最後尾に終り右武器を石油をかけて
もして使用不能にした。
(左上2段落目)
50mおきに兵をつけて南京兵舎に向けて連行するところ。
兵隊が皆で135名丈けだった。田山大隊長。
(右下、山の絵脇)
兵器の山
(右下)
これは13、500余名の武器弾薬の山である。
栗原はこの処理を命ぜられて最後尾にて
部下と四方から一斉に火をつけてもして了った。
天をついて居った。
スケッチ帳NO28上段
スケッチ3(スケッチ帳NO28上段)の注記
下の廠舎で我が部隊において13,500名を3日間飼った。
食糧は鳥龍山砲台から馬で運搬して毎日カユ2食を食べさせた。
13,500と言ふ莫大な兵を飼うには一方ならぬものであった。
水さい与えることは出来ず、兵は自分でやった小便をのむものも居た。
(以下画中の文字)
揚子江
鳥龍山至
池
藁屋根の捕りょ収容所
スケッチ帳NO28下段
スケッチ4(スケッチ帳NO28下段)の注記
揚子江
ここの中央の島に1時にやるためと言って
船を川の中ほどにおいて集めて、船は遠ざけて
4方から一斉に攻撃して処理したのである。
この時撃たれまいと人から人へと登り集るさま。
即ち人柱は丈余になってはくづれ、なってはくづれした。
(島流し)
その夜は片はしから突き殺して夜明けまで
その処に石油をかけてもやし
柳の枝をかぎにして1人1人ひきじって
川の流れに流したのである。
我部隊は13,500であったが
他部隊合わせて70,000余と
言って居られてた。
全く今考えて想像も出来ないことである。
歴史教科書攻撃キャンペーン
第二次教科書攻撃(1980~82)
・80年衆参同日選挙の自民党の圧勝ー政府、自民党、財界一体となった攻撃(75年「総合安全保障戦略」78年、日米防衛協力のための指針ーガイドライン決定・中曽根の「日米運命共同体」「日本浮沈空母」)
・80年1月「自由新報」が「いま教科書は」のキャンペーン開始。奥野法相、田中文相 教科書攻撃、自民党文教部会「教科書問題小委員会」設置。民社党教科書偏向攻 撃。80年、閣議決定「教科書で北方領土、民族国家意識の高揚の必要」。自民党役員会「偏向教科書」攻撃キャンペーン実施を決定。
・こうして、80年検定はほぼ全分野での検閲。侵略、南京大虐殺、強制連行、安保、九条、自衛隊、公害など。各紙全面的にとりあげる。アジアに知らされる。
長島昭久氏
日本の民主党にアメリカのスパイがいるとは。
ウィキペディアでこの人を調べていて愕然としました。
自国の政治家が、自国の民主主義を潰しているなんて。
ま、日本の民主主義なんてこの程度のものなんでしょう。
中国共産党に日本人の言論の自由を保障してもらおうとは夢にも考えませんでした。
ちかごろ家の塀に民主党のポスターが張られない理由がわかりました。
(もちろん、共産党や社民党には走りませんから。)
秦郁彦氏の陰謀論
メル・ギブソンの主人公がたまたま国家的陰謀を知ったしまった、というストーリーなのですが、ジュリア・ロバーツが「どうしたら陰謀がわかるのか?」と質問したところ、主人公役のメル・ギブソンが「絶対にわからない。ただ、彼らがドジしたときだけ、それがわかるのだ。」と言ってました。
「南京」については、まさに「森松俊夫氏の二度目の犯罪」がそれに当たるのです。
それで「陰謀論」で調べたところ、秦郁彦氏の「陰謀論」を知りました。
秦氏は、軍事史の陰謀にいろいろ加担していますが、「陰謀」さえも自分たちの範疇で決めよう、という考えのようです。
ここいらを知って、産経新聞を購読すると面白いですが、彼らが部数を伸ばすのも嫌なのでお勧めはしません。
工藤美代子氏
新しい歴史教科書を作る会の副会長である工藤氏が2009年に書いたのが、関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実、という例のごとくの歴史捏造本です。
たまたま、朝鮮人虐殺は5千人が定説だったな、と考えサーチしたら、この本を知りました。
日本のメディアがどれほど腐っているか、馬鹿な国民は知ることができないんですよ、私が以前から言ってる「自民党の愚民化政策」の成果なんでしょう。
こんなことは韓国政府や中国政府も承知のことです。
従軍慰安婦はそれだけの問題ではないということです。
森松俊夫氏の一度目の犯罪
森松俊夫氏の一度目の犯罪が東史郎裁判です。
この裁判が謀略裁判であることの証拠が1998年の東京高裁の控訴審判決です。
以下はその「事実及び理由」の一部(「加害と赦し」より転載)です。
...控訴人東は、昭和62年ころ、「平和のための京都の戦争展」(以下「京都の戦争展」という。)に資料として貸し出した際に紛失したかのような供述(原審)をするが、その供述自体極めてあいまい、不明瞭なものであり、他に右原資料が紛失したことをうかがわせる証拠は全く存在しない(原資料というべき貴重な陣中メモが関係者によって紛失されることは、到底考えられない。
京都の戦争展の実行委員会の代表者によれば、当初から、右の原資料はなかったという...陣中メモの一部のみ(しかも相当部分)が廃棄されたとは認められない。
...陣中メモは、元々作成されていなかったものと認めるほかない。
これを「森松俊夫氏の二度目の犯罪 思考錯誤」(グーグル検索)と比べると、驚くほどの相似が認められる、という結果になります。
日本の法曹もなめられたものですね。
靖国とアーリントンは同じ
制服組主流派の大ボスである森松氏のこれまでの大活躍を知ると、A級戦犯合祀にも氏の活躍が想像されるのですが、時期としてはあってますね。
1978年(昭和53年) 昭和受難者としてA級戦犯を合祀。
1979年(昭和54年) 朝日新聞が報道。
1980年(昭和55年)~1982年(昭和57年) 自民党と財界で歴史教科書攻撃キャンペーンを開始、歴史教科書の内容に干渉。
1984年(昭和59年) 毎日、朝日ジャーナルが栗原利一証言を掲載。
2001年(平成13年) 東史郎謀略裁判決着(森松俊夫氏の一度目の犯罪)。
2006年(平成18年) 栗原利一スケッチ帳破壊工作事件(森松俊夫氏の二度目の犯罪)。
私が「南京」の勉強を始めたキッカケです。
2009年ころには大体のいきさつがわかりました。
表題は7月26日の産経新聞の、ヴァンダービルト大学、日米研究協力センター所長、ジェームス・E・アワー氏の「正論」の中見出しです。
靖国とアーリントンでは主権者が違う、というのは憲法学上の常識でしょう。
「正論9月号」のジョージタウン大学教授、ケヴィン・ドーク氏の記事の見出しが「憲法改正と靖国参拝で民主主義国家たれ」というものです。
軍事史の捏造はアメリカ右派の後押しもあるわけです。
オリバー・ストーンの「原爆投下」
先日、NHKでオリバー・ストーン監督の「原爆投下」を放映していました。
これも、知ってることなのでお伝えしておきますが、オリバー・ストーンはアメリカの右翼保守の代弁者です。
彼の主張は以下のとおりです。
1.日本は原爆投下をしなくても降伏した。
(これは、日本の右翼保守が数十年前から主張していることです。)
2.アメリカの軍人は原爆投下は不要だと考えていた。
(マンハッタン計画はアメリカの国家的軍事行為です。)
3.日本の降伏はソビエトの参戦がキッカケだ。
(原爆投下があって、その上でソビエト参戦があったので降伏したのです。原爆の投下がなかったら、そうはことが運ばなかったでしょう。)
4.すべての責任はトルーマンにある。
(トルーマンは朝鮮戦争で、マッカーサーから中国への原爆投下を要求され、それを断って彼を解任したのです。)
私からするとオリバー・ストーンを使ってまで、軍人を擁護したい、というふうにしか見えません。
A級戦犯合祀の事情
私は立場上、産経新聞を購読し、BSフジのプライム・ニュースも時々見るようにしています。
桜井よしこ氏ヘのインタビューのような中身のないものは別として、時々は参考になるものもあります。
昨日のプライム・ニュースでは秦郁彦氏がA級戦犯合祀の事情を説明されていました。
氏のことだから全てが事実かは疑わしいのだけれど、以下のような説明をされてました。
A級戦犯合祀を行ったのは松平春獄の孫の松平永芳氏で、彼は天皇側、遺族会への相談もなく、宮司になってからたった二か月で、確信犯的に合祀を行ったそうです。
A級戦犯7人のうち、5人は陸軍大将で一人は陸軍中将です。
残り一人はいうまでもなく広田弘毅氏です。
合祀は、東条英機氏の遺言だったそうです。
松平氏は皇国史観で有名な平泉澄氏の弟子で、終戦時海軍少佐、陸上自衛隊、防衛研修所戦史室勤務のなどの経歴です。
秦氏によれば、靖国神社は民間施設だから合祀に関しては、公的には何も干渉できないそうです。
ポツダム宣言第10条
これも同じ番組で日暮吉延氏が言っていたことです。
ポツダム宣言第10条で「...我々の国の捕虜を虐待した者を含む戦争犯罪人に対しては厳重に処罰する。...」とあるのだから、東京裁判には法的正当性の根拠がある、また、サンフランシスコ平和条約第11条で「...諸処罰を受け入れる。...」とあるのだから東京裁判の結果を日本政府は受け入れる法的義務がある、といった内容です。
つまりポツダム宣言を受け入れ、サンフランシスコ平和条約を締結した結果、A級戦犯の処罰に法的正当性が生じたのだから、いまさらいちゃもん付けても始まらないでしょう、といったところです。
また、ポツダム宣言の共同声明の国はアメリカ、イギリス、中華民国なのですが、否定派(捏造派)はここでもソ連が含まれていない理由を「ソ連は日本と中立条約を結び、まだ、対日戦には参加していなかったので」と捏造し、会談の途中で原爆の実験成功の報がトルーマンにもたらされ、それでソ連から中華民国に国名が変えられたことには言及しません。
一言でいうと、軍事史の捏造は旧日本軍派の抵抗運動みたいなものです。
原爆投下不要論
これが出所です。超有名な傾向出版社、平たく言えば右翼出版社の草思社の2006年の出版です。
話は全くの捏造、出鱈目でも一冊の本の中では整合性が取れている、といういつもの手です。
私は右翼保守系の機関紙から、数十年前から知ってます。
ついでに秦氏は、次のようなことも言ってました。
「陛下が本土決戦に反対されるなら、まず阿南陸相が陛下の前で腹を切り、それでも反対されるなら次々に、陛下が賛成されるまで腹を切り続ければいい。」とのちの宮城事件の陸軍将校たちは言っていたそうです。
そんな状態では、とても原爆投下なしにご聖断にまで持ち込むことはできなかったでしょう。
国家基本問題研究所
先日の麻生発言で、一緒に桜井よしこ氏と西村慎吾氏が映っていたので調べてみたらわかりました。
「国家基本問題研究所」という右翼のシンクタンクまがいのものがあって、両外人はその関係者でした。
正論11月号 瀬島龍三はソ連の「協力者(スリーパー)」だった
これは納得の行く話です。
第2のゾルゲ事件ですね。
瀬島氏が日本「南京」学会の会長だったことは周知で、防衛省のOBたちも少なからず会員でした。
秦郁彦氏、森松俊夫氏、原剛氏も一員です。
この学会は私が歴史捏造学会と呼んでいたものですが、日中関係が悪化して喜ぶのはソビエト、ロシアだけです。
アメリカからはブッシュが名指しで「中国と日本が仲が悪くて困るのはアメリカだ。」と言われていたのですから。
なんたる制服組主流派の愚策、野田佳彦の愚策。
瀬島氏に騙されていた制服組主流派と右翼言論人
瀬島龍三氏がソ連のスリーパーであったことは有名だったようです。
佐々氏の本でも鎌倉警視総監が「知らないほうがおかしいんで、みんな知ってますよ」と言ってたことになってます。
私が小平警察署の公安課のT氏に相談した時に「南京は違法行為には出ない」と言われたのも、彼らの実態を知っていた上でのことなのでしょう。
日本「南京」学会のメンバーがだれかは周知のことで、自分たちのあほさ加減を世間に公表しているようなものです。
誰も、まさかそれで政治が動くとは考えてはいなかったのでしょう。
インテリジェンスのない国家は亡びる
佐々氏は「インテリジェンスのない国家は亡びる」という本の中で「南京事件」についても言及しているので一言。
いろいろ否定派(捏造派)の基本的な誤情報が述べられているのは仕方のないことですが「軍を挙げて大規模な作戦を実行しないと、まったく不可能である。」と書かれてます。
これは、そのとおりで「全貌昭和60年3月号」の中の森松俊夫氏監修、阿羅健一氏(筆名、畠中秀夫氏)作成の栗原証言捏造記事でも「あれは作戦だった」と書かれています。
たった3日間で10万弱の捕虜を殺戮するのですから、軍を挙げての作戦が必要だったのでしょう。
65連隊だけでも約2万人の捕虜の殺戮(処分)なのですから。
銃弾の補充が利かなかった
私の父(栗原利一)の証言で重要なものの一つが、なぜ全体で10万弱、65連隊で約2万もの捕虜(大部分は投降兵)が生じたのかの理由を聞いたときの答えです。
「銃弾の補充が利かなかった。」、つまり蒋介石軍は南京城外、近郊に大規模な防御陣地を展開していたのですが、銃弾の補給路を断たれ、仕方なく投降したようです。
ここいらは「郷土部隊戦記」にも(銃弾が尽きて)「戦意を喪失し、武器を地面にたたきつける者などもいて」投降した、と書かれています。
これは大量の捕虜の出たもっとも納得のいく理由なのですが、否定派はこの「銃弾が尽きて」ということは一言も書いていません。
また、肯定派も「大量の捕虜の殺戮なのだから大虐殺だ」としか書いてません。
銃弾の補充が出来なくて敵兵の投降を許していたのでは戦闘は遂行できません。
これ以降は日本軍は、投降を許さず、捕虜を作らずに殺戮する作戦に変更します。
また、太平洋戦争ではアメリカ軍にまったく同じことをされ、降伏したくとも降伏できないまま殺戮されたそうです。
タリバン兵が銃弾が尽きても投降は許されないでしょうし、シリア内戦でも反乱軍兵士が銃弾が尽きても投降は許されないでしょう。
これらは戦争の裏側、戦争の真実だと思います。
アサヒグラフ昭和13年1月5日号
これはアサヒグラフ昭和13年1月5日号の写真です。
左下の大きな写真が幕府山の捕虜の一部の写真で、収容施設で第一日目に小火があり一時、一部の捕虜を外に出したときの写真です。
右下の写真は、幕府山の捕虜を武装解除して、収容施設に連行しているときの写真です。
右下の解説にあるように「敵の遺棄死体は八、九万」というのが大虐殺肯定派の遺棄死体数説の根拠です。
この記事等は1992年(平成4年)に発行された「南京大虐殺の研究」(執筆者、藤原彰氏、吉田裕氏、本多勝一氏、小野賢二氏、洞富雄氏、笠原十九司氏など、晩聲社)に記載されています。
私がこの本を読了したのは2007年(平成19年)6月4日です。
私が南京の勉強を始めたのは2006年(平成18年)に森松俊夫氏による資料破壊工作を受けたのが契機です。
「森松俊夫氏の二度目の犯罪 思考錯誤」にその顛末が書いてあります。
これはネットで肯定派の方にもお話したことですが、私の父が「南京」について話さなくなった理由の一つが、藤原彰氏のグループに話した時に「侵掠」に書かれている下関(シャーカン)での二千人斬首の話に接したからです。
私の父が収容所での小火や火災について全く知らなかったのは、一日目の二千人斬首に駆り出されていたからです。
南京陥落時の10万捕虜殺戮
父(栗原利一)のスケッチ帳の説明など
1.スケッチ帳の書かれた時期など
栗原利一資料集サイト(以降は「資料集サイト」と称します)の軍隊手帳に記載のあるように、父は昭和13年9月10日の史河々畔の戦闘で右大腿部を盲貫銃創で負傷しています。
その後、第13師団第一野戦病院、広島陸軍病院、仙台陸軍病院と翌昭和14年2月22日に退院するまで約5カ月余りの入院生活を送っています。
ttp://www.kuriharariichi.com/gun_techo/techo3.html
当初のスケッチなどの資料はこの時期に書かれたものと思われます。
資料集サイトのスケッチ帳は、スケッチ帳0003の上部に書かれているように、昭和36年4月10日ごろ飯田橋の警察病院で、盲貫銃創の弾の摘出手術を受ける際に清書したものなどです。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0020/0003.html
スケッチ帳0021の下部に「(召されて24年前を記す、右大腿部盲貫銃創弾を取る病院にて)、軽き身を重き任務の過去なれどつたなきペンで後に残さん、利一作」と自署で書かれたことが記されています。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0021.html
2.全体の捕虜数と65連隊の捕虜数
南京陥落時の全体の捕虜数は「郷土部隊戦記(1)」(昭和47年、福島民友新聞社、編集委員、阿部輝郎氏など)の102頁の項題に「…十万の投降兵」と書かれています。
また、「現代のドキュメント 侵掠」(1982年9月、小俣行男著、徳間書店)の「南京大虐殺」の項の20頁には「捕虜も全部で十万くらいいるらしい。」と書かれています。
以上のことからすると当時の日本兵にとっては10万弱の捕虜(大半は投降兵)がいたことは周知のことだったようです。
65連隊全体の捕虜数は「支那事変 郷土部隊写真史」(昭和13年6月、福島民報社)の八頁に、
「…幕府山砲台を占領し、残敵約2万の捕虜を得た。」と書かれています。
3.65連隊の捕虜殺戮現場
65連隊の捕虜殺戮現場は「週刊金曜日1993.12.10号」と「週刊金曜日1994.2.4号」の小野賢二氏の論文に詳しく書かれています。
一か所は魚雷営であり、15日に近くの下関シャーカン)という大桟橋で二千人が斬首されています。
この斬首については「現代のドキュメント 侵掠」(1982年9月、小俣行男著、徳間書店)の20頁に書かれています。
16日、17日の二日間、魚雷営で5千人を殺戮しています。
もう一か所は幕府山の捕虜13500人を大湾子(小野賢二氏による)で殺戮しています。
合計で約2万人となり、「郷土部隊写真史」の記述とも一致します。
幕府山の捕虜殺戮に関しては、資料集サイトのスケッチ帳0028の上部に「下の廠舎で我が部隊において13500人を三日間飼った」とあります。
同頁の下部の説明に「我が部隊は13500であったが…」とあります。
また、同頁の下部の図の中央にも「13500」と書かれています。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0028.html
父は幕府山の捕虜は13500人と考えていたようです。
4.アサヒグラフ1938年1月5日号
南京陥落時の捕虜殺戮数の全体はスケッチ帳0074の下部の説明に「南京攻略にあたり敵の遺棄死体は八、九萬…」と書かれています。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0078/0074_b.html
同一の写真がスケッチ帳0072、スケッチ帳0076にもあります。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0078/0072.html
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0078/0076.html
この写真がアサヒグラフ1938年1月5日号の写真であることは1992年(平成4年)に発行された「南京大虐殺の研究」(執筆者、藤原彰氏、吉田裕氏、本多勝一氏、小野賢二氏、洞富雄氏、笠原十九司氏など、晩聲社)の137頁上部に同一の写真が掲載されていることから分かります。
同写真の説明には「両角部隊が捕虜にした…中国兵の一部」と書かれています。
洞富雄氏の「決定版【南京大虐殺】(1982年、徳間書店」にも同じ写真が掲載されています。
この写真は幕府山の捕虜を収容した施設で15日に小火があり、その時に捕虜の一部を外に出した際に撮られたものです。
スケッチ帳0028上部の右下に「藁屋根の捕りょ収容所」と書かれています。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0028.html
投降兵「10万」、スケッチ帳0028の下部の説明「…他部隊合わせて70000余…」、スケッチ帳0074の「…敵の遺棄死体は八、九萬…」の数字は前述の「決定版【南京大虐殺】」に同じ意味合いで何度も記載されています。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0028.html
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0078/0074.html
すなわち投降兵(捕虜)全体は10万であり、幕府山の捕虜と同じように殺戮されたのは7万であり、
陸軍の遺棄死体数の公表は8、9万であったと言うことです。
5.65連隊の二か所の捕虜殺戮と父(栗原利一)の体験
資料集サイトの軍隊手帳に「(昭和12年)十二月十五日ヨリ十二月十九日?南京附近ノ警備」と書かれてます。
南京陥落直後の10万弱の捕虜殺戮はこの期間に行われています。
15日から17日までの3日間に殺戮が行われ、18日、19日はその死体処理に費やされたそうです。
ttp://www.kuriharariichi.com/gun_techo/techo2.html
父は65連隊の二か所の捕虜殺戮に直接かかわっていたようです。
一か所目は下関(シャーカン)での二千人斬首で、私が小学校3年生の5月下旬に関東管区警察学校4号官舎の8畳間で最初に聞かされた話です。
父が15日の小火について一切知らなかったのは、下関(シャーカン)での二千人斬首に駆り出されていたからです。
二か所目は小野氏は大湾子と論じていて、幕府山の捕虜13500人が殺戮された場所です。
父はこの捕虜の護送に駆り出されています。
6.近年の父の証言
イ.中国兵が大量に投降した理由は「銃弾の補充が利かなかった」からだそうです。
これは秦郁彦氏の「南京事件」などに書いてあるように、蒋介石軍は南京城外に大規模な防衛陣地を築いていて、日本軍がその補給路を分断したために銃弾が尽きて仕方なく投降して来たようです。
(銃弾が尽きて)投降した中国兵の様子は「郷土部隊戦記(1)」に詳しく書かれています。
スケッチ帳0027の上部の図の説明にも「(銃弾が尽きて)白旗を掲げて投降する支那兵」と書かれています。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0027.html
ロ.幕府山の捕虜の殺戮現場は幕府山のふもとの100m四方の凹地だそうです。
(一方は揚子江に面しています。スケッチ帳0028の下部の図が、その見取り図です)
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0028.html
まわりに鉄条網はありません(父によると「そんなことしてあったら捕虜の感づかれてしまう」とのことでした)。
「昼前に、事前に探しておいた場所」だそうです。
(これは2007年にテレビの取材で小野賢二氏が来られたときの説明や、「週刊金曜日」の同氏の論文の記述とも重なりあいます。
100m四方の凹地の一方が揚子江で、その両端から信号弾を打ち上げ、それを掃射角として三方の傾斜地から重機関銃8台で機銃掃射が行われたようです。)
ハ.加害意思に関しては「なにかあったら一斉に射撃しろ」との命令は事前に出ていたようです。
父は機関銃隊ではないので(65連隊、第二中隊)銃は撃っていません。
ニ.スケッチ帳0028の下図の説明の「柳のえだをかぎにして」の意味は、父に確認したところ、柳の枝の幹に近い太い部分の小枝を一定程度残し、トの字を下に伸ばした形状にして、の意味のようです。
木の枝をこのようにして作業することは馬小屋の藁を掻い出したりするのによく行われたそうです。
このような形状の枝を二人で一本づつ持ち、枝を死体の脇の下にいれ二人一組で引きずって河に投入したそうです。
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0028.html
ホ.本多氏に対する証言では女性や子供は殺害してないようなことでしたが、実際には幕府山の捕虜には家族持ちの捕虜が200人ほどいたため死体に中にはそういった遺体もあったようです。
(実際の戦闘では日本軍の進軍に合わせて一般の中国人、特に老人や婦女子は日本軍の進路から外れた山中などに避難していたようです。
これはアサヒグラフの写真からも推測されることです。)
ttp://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0078/0076.html
NNNドキュメント(南京事件)
65連隊の1万8千人殺戮などについての内容です。
幕府山の捕虜1万3千5百人について長年、調査をされてきた小野賢二氏の活動が中心です。
日本のメディアで流せるのはこれが限界でしょう。
全体では10万の捕虜の殺害があったのですが、日本政府がこの事実を認めることは永久にできないでしょう。
(たった7日間で憲法を作ったのも占領軍なら、10万人の捕虜殺戮を行った旧日本軍を使って自衛隊を作ったのも占領軍なので、この間の矛盾は当分解消されないでしょう)
ただ、10万捕虜殺戮を中国政府が愛国教育に使っても日本政府は文句を言える立場にはないでしょう。
芸能人、局アナ、すぽーす選手…言葉は悪いですが「〇ホ」の一つ覚え…でもジミンだけで津木野宇佐儀個人経営の餃子屋さんへの堀江貴文による誹謗中傷に法の裁きを。強きを助け弱きを叩くジミン支配下ニッポソなら>工作員zさん
>返済できずに破産かもしれないネ
ホリエ某は、ジミンpowwwwwwwwered by 財界& assssssssssisted by 電通 がいる限り、そうはならないでしょうね(憤怒)
ass津木野宇佐儀全国民のための正しい政治を求めることは「共産主義的な物言い」だとする石原伸晃の発言が、「政治は自民のもの」という自民党の基本姿勢をよく示していた。補足です。 インドネシアにおける共産党員虐殺の主体には,イスラム法学者もいました。必ずしも共産党員及びそのシンパが犠牲になっただけでなく,中国人も犠牲になりました。軍が武Takeshi欧日間の経済連携協定で、欧州連合が人権後進国日本に「人権条項」を要求するのは当然である。天賦人権論最近の記事のコメント欄では脈絡がないので、村野瀬玲奈と天賦人権論を検索ワードにして出てきた記事にコメントします。
「こどもには権利も義務もない」と言っている地方kuroneko個人経営の餃子屋さんへの堀江貴文による誹謗中傷に法の裁きを。この方は、大阪万博の特別顧問だそう。ライブドアceo時に証券取引法違反で逮捕された前科。ロケット打ち上げ失敗の融資先はたぶん政府系金融機関でしょう?返済できずに破工作員z「まるで中国、北朝鮮」と言うのではなく、「まるで大日本帝国」と言おう。北朝鮮への帰還事業から65年 北朝鮮への帰還事業は1959年12月14日に新潟港から出発したのが第一陣で,2024年12月14日には65年を迎えました。当時朝鮮人は日本社会において貧困と差別に苦しみ,「地上Takeshi政治を知らないスポーツ選手や有名人の自民党からの選挙出馬が悲しいNo title来年は確か統一地方選挙もあるので、「地獄逝こう」と立憲で有名人を候補に擁立する猟官運動の類が頻発しますね。
「頭数にしかならんだろ」と冷めた目で見ています。今井アンドリュー・バルトフェルド政治を知らないスポーツ選手や有名人の自民党からの選挙出馬が悲しい体育会系芸能人はともかく、スポーツ選手つまり体育会系エリートは、割と自民党に近い思想を持っていると思います。
体育会系は軍隊であり、そこに民主主義などありませんから。怒りの日政治を知らないスポーツ選手や有名人の自民党からの選挙出馬が悲しい打越さくらvs中村真衣か オリンピックでのメダル受賞者の自民党議員となると,堀井学や橋本聖子のようにかんばしくない人を思い出します。中村真衣さんは早くから自民党の参議院議員になりたいとTakeshi全国民のための正しい政治を求めることは「共産主義的な物言い」だとする石原伸晃の発言が、「政治は自民のもの」という自民党の基本姿勢をよく示していた。インドネシアにおける共産党員大虐殺インドネシアは17500の島から成り,人口は2億3500万人。300の民族から成り,365の言語が話されています。留学生のリクルートのためにジャカルタに出張したとき,インドネシTakeshiハン・ガンさんのノーベル文学賞授賞講演のテキスト (メモ)No titleトピズレすみません
山口放送制作のNNNドキュメント「アボジが眠る海」は必見です
山口県宇部市の長生炭鉱の惨事は、恥ずかしながら、知りませんでした津木野宇佐儀ハン・ガンさんのノーベル文学賞授賞講演のテキスト (メモ)ハン・ガンさんの小説が尹錫悦大統領の弾丸を求めるデモに参加した若者曰く「今までデモに参加したことはなかった。でもハン・ガンさんの小説を読み光州事件のことを知り民主主義の危機を感じたの閉口ハン・ガンさんのノーベル文学賞授賞講演のテキスト (メモ)民主主義の勝利ハン・ガンさんの韓国でクーデターを起こして失敗した尹錫悦大統領への弾劾訴追案が一昨日(14日)可決されました。
心より歓迎したいと思います。
これは民主主義の勝利その閉口島根原発再稼働。大事故が起こったら日本政府も自民党も電力会社も誰も責任を取らないのに。そもそも原発は多くの欧米列強は脱炭素を悪用し原発を推進しようとしています。
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なり閉口修学支援新制度において、成績要件によって機械的に支援を打ち切ることは低所得家庭の学生の学びと人生を危機にさらす偏った富を吐かせるもちろん、無償化は「学費」だけでなく、教育全般の無償化です
「GDP」では中国に続き、さらにドイツに抜かれましたが
まだまだ経済「大国」日本にはそれくらいの富はある津木野宇佐儀玉木雄一郎ドヤ顔の公約「手取りを増やす」は「玉木を衒いて石を売る」行為ではないか (国民民主党への強い疑問 (3)) #国民民主党に騙されるな #玉木雄一郎に騙されるな予想。給与所得控除55万円はいじれない。特定扶養控除での調整か年少扶養控除の復活かでしょう。柿ノ木扇蔵ハン・ガンさんのノーベル文学賞授賞講演のテキスト (メモ)疑問:M上青樹にどんな演説ができるのか??…∞またまたトピズレ、すみません
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それより、生前に谷川俊太郎さんが受賞されてい津木野宇佐儀「原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたい」 (被団協、田中熙巳(てるみ)代表委員、2024年ノーベル平和賞授賞式で)No title 田中熙巳さんが日本政府が原爆被害者への国家補償をかたくなに拒んでいることを批判したことについて、ネットでは「補償ならアメリカに求めろ」とか「結局は金か」と罵倒クテシフォン島根原発再稼働。大事故が起こったら日本政府も自民党も電力会社も誰も責任を取らないのに。鼻先の馬は必死、目先のジジイ・オヤジは「一代主義」の「お主も悪よのう」福島原発事故でまき散らされた放射能はしばらくしてドイツでも観測されたそうですし、海洋汚染もアメリカに到達しています。
推進派はともかく、世界からはニッポソの核お津木野宇佐儀大日本帝国のおかしたたくさんの過ちの一つ、太平洋戦争の開戦。(1941年12月8日、真珠湾爆撃)No titleそして、南京と・だけでない「蝗軍」の蛮行…
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大阪空港騒音公害訴訟上Takeshi婚外女性を玉木の輿に乗せて、自分に都合が悪くなったら切り捨てた #玉木雄一郎に騙されるな #玉木代表の議員辞職を要求する #国民民主党に騙されるな橋下徹のずれた発言橋下徹が小泉みゆき嬢を国民生活党で職員として雇うことを提案したそうです。いくら不倫を擁護するにせよ、橋下徹の発言はやはりずれています。Takeshi玉を衒いて維新を売る立憲民主党の誤り @edanoyukio0531 @izmkenta @okada_katsuya @nagatsumaakira @tsujimotokiyomi @OogushiHiroshi @junyaog @kikuta_official @s_mizuoka @shigetoku2 @hirofumi_ryu @sokuno2 @masayo_tanabu @saito_yoshitakaNo title 野田代表の政治センスの無さは相変わらずのようです。一応リベラルな政党という事になっている立憲民主党がバリバリ保守の維新の会と組めば政党の理念が死んでしまいますクテシフォン新型コロナウィルス感染症は終わっていません。不織布マスク着用による最大限の予防を。 #感染症から子どもを守れ #学校園は流行期の対策をNo titleさらに「リンゴ病」も流行っているそうですね。
本当に油断できません。
以前購入したN95マスクとゴーグル、一度、最寄りの政令指定都市に行ったときに使ったきりですが、津木野宇佐儀新型コロナウィルス感染症は終わっていません。不織布マスク着用による最大限の予防を。 #感染症から子どもを守れ #学校園は流行期の対策をNo title「コロナはまだ終わってない」と吐き捨てたくなるときがあります。
それに「インフルエンザ」と「マイコプラズマ肺炎」が終息するどころか「これからじゃないか」と間違いアンドリュー・バルトフェルド