はてなキーワード: 議論とは
「NISAの利益」とカードローンの何を比較するんだって話になるわな
カードローンの損失か?
カードローンの損失とは何か、元本×利率だ
元本の大小を言い出すとそもそも議論する意味がないので、利率で比較するしかないわけだから単語を言い換えているから??ってのはそれはそれで頭が弱すぎて議論についていけていないといっていいだろう
なんかSWを1,2,3から見るか4,5,6から見るかみたいな議論が盛んなんだけど
これはもう、4,5,6からに決まってるんよ
「ところでヨーダは強いのか?」
だったわけよ
Ep.5で出てきたクリーチャーでなんか偉そうにしてるけれどやったことは戦闘機を動かしただけ
そんでEp.6でも偉そうにしながら老衰で死んだくせにオビワンと同列に扱われてるのに納得行ってなかったの
「おいおい、お前偉そうにしてるんだけど強いんだろうな?」
って思って映画見たら、やっぱり偉そうにしてるだけで全然ダメなクリーチャーだったわけよ
そんで失意のままEp.2公開後に観に行ったら、なんか戦う流れになって
「お!ついにくるのか!?」
って思ったら例によって超能力バトル始めて
「ちがうよ、見たいのはそれじゃないんだよ、ヨーダ。分かって無いな,お前」
って思ってたら腰に付けたライトセーバーを振り回し始めて
って言ってたんだよマジで
でも後でよくよく考えたらデューク伯爵逃がしてるやん、やっぱ雑魚では・・・?
とか思ってEp.6の予告でまたバトルしまくってて脳汁溢れまくって
映画館観に行って
「マジすいませんっした!!!」
って言うんだけど、よくよく考えたらお前、すぐそこに暗黒卿おったのに気付かんのかよマヌケかよってなるし
やっぱり逃がしてるから戦績なんも上げてねーじゃねーかだから辺境に飛ばされるんだよ雑魚がみたいになるのがスターウォーズの楽しみ方なの
なので4,5,6から見るのが正解です
書面で良いと言ってるのに、何が何でも対面を残そうとするんだな
対面を残す形で議論しないと極端だと言い張って譲らない
でも論点はそこだよね
是が非でも対面を無くしたい俺と、是が非でも対面を残したいお前
また始まった。
↓
この極端化。
しかも、
こっちはずっと、
長時間拘束、
なのにあなたは、
を認めた瞬間、
全部まとめて
に変換する。
あと、
っていうけど、
実際、
↓
「ストレスがある」
↓
「説得がある」
↓
って、
全部最大化していく。
だから、
“どこまで制限するのか”
を詰めないと制度論にならない、
と言ってる。
逆にあなたは、
以上の具体設計をほぼ出してない。
しかも、
その結果として起きる
供述減少、
立証難化、
共犯解明困難、
みたいなコストには、
毎回まともに触れず、
「人権を守ると困るんだろ!」
に戻る。
それ、
うん、現在はそうだね
じゃあ議論を進めようか
こういう発想があるわけで、すべてに対応できるシステムになる・なってるとは最初から言っていない
今回かかる費用と時間、2年後(予定)もとに戻す費用と時間、場合毎に分けて最適解を探しましょう
それだけの話だよね
一か月で1%、1%8%混在なら半年、0%で1年なら1%で行こうぜ
俺は減税されたら利益受ける側(のはず、長期的にマイナスかどうかはまた別議論)
業者側の話なんて1社だけじゃ意味ないから、何をしたらどれだけかかるか
主流議論の新聞の後にヒアリングしてない(してても結果が公表されていない)
1%0%のヒアリング詳細も公開されてないけど、一律1%で半年としかとらえられないわなあとは思う
そんで、そこは割とどうでもいい
一律1%ならどんだけっすか?
5%なら変わるっすか?
そして誰でもできる仕事
でもやらない
困ったなあ
増田でどんな議論しても無意味だとは思うけど、1%が半年、0%が一年ってのは1社にしか聞いてないって話らしいので
概算納期出すにしても数社に出して、条件もある程度幅持たせて、こんな場合はどんぐらい、じゃあこっちは?って聞けばええだけやねんけどな
俺が言っているのは、消費税が3→5→8→10と変わってきているなかで今後の変動も見越して作っているという普通に考えれば当たり前の事を真だと捉えているだけだから
新聞が8%のままとかいう話を確定かのようにだしているが、その後に「何をどうしたいか確定してないもんを短納期で出来るっていうわけない」って不確定要素多々ありますわあとか言い出すし
何の主張がしたいか全くわかんね
清朝の滅亡は、単なる王朝の終焉ではなく、「適応に失敗した組織がいかに自己崩壊するか」という普遍的な教訓の宝庫です。
現代中国の文脈で、そこから学べることは極めて多く、核心は次の4つに集約できると考えます。
清朝は、18世紀まで世界最大の経済圏を擁する「盛世」を誇りました。その成功体験があまりにも強烈だったため、19世紀の地政学的激変(ヨーロッパの産業革命と国民国家化)を「一時的な夷狄の騒擾」としか認識できませんでした。
先に議論した通り、清朝の改革を不可能にした最大の要因は、西太后や保守派の「自己保存」でした。彼らは国家の生存よりも、自らの特権的構造の維持を優先しました。
アロー戦争も日清戦争も、紫禁城の深部では「一部の敗北」として処理され、組織全体の危機とは認識されませんでした。真に危機が全構成員に共有されたのは、組織が既に手遅れなほど弱体化した後でした。
清朝は最後まで「天命」と「儒教的徳治」という古い正当性に依存し、国民国家時代の「人民の同意」という新しい正当性の獲得に失敗しました。立憲制の導入が遅れたのは、まさにこの点です。
最後に、清朝の滅亡が現代に突きつける最大の教訓は、「大帝国の崩壊は、外からの一撃ではなく、内部の硬直化と改革の先送りという静かなプロセスによって起こる」ということです。
崩壊の種は、外敵の侵入時ではなく、「まだ大丈夫だ」と皆が信じていた小康状態の時に、改革を先送りした瞬間に蒔かれます。この歴史パターンをどれだけ自覚できるかが、清朝以後のあらゆる中国の統治者に課せられた、永遠の宿題でしょう。
X(旧Twitter)で「東大の女子比率が男女の知能差を表してる」みたいな話が流れてきた。
そのポストには「そんな事ねえだろ!他国の大学とかそんな事ねえぞ!」という反論がついていて、どちらかといえばそちらがバズっている。私もまあ、「そんな事ねえだろ」派閥なのだが、ではどうして女子比率が低いのか?という点については、例えばジェンダーバイアスだとか、地方から出てくるハードルだとか、色々な議論がなされてきて、東大側も施策を打ったり打たなかったりしているところだと思う。
私が言いたいのはこの辺のごちゃごちゃした部分ではなくて、過去東大に通っていた身として、「自分に娘ができたら、どんなに頭が良くても東大には通わせたくない」ということである。
東大の女子比率は、毎年20%前後である。私の在学中に20%の壁を超え、ちょっとした祝福ムードだった記憶があるが、当然学部学科によって人数の偏りもあり、なかには女子がいないクラスなんかも存在する。また、東大合格者の6割は関東出身で、そのうち中高一貫進学校(男女別学)の出身者がかなりの数を占める。何が言いたいかというと、在学生の傾向や文化が偏っていて、しかも「東大」という枠組みの中でどんどん濃縮されていくのだ。
その結果、大学側も生徒側も、普通の大学だったらありえなくないか?という事態を看過しているのではないかと思う。(主観的な意見だからそんなことなかったらごめん)
例えば、入学時の健康診断のとき。胸部X線検査か何かの検査で、上半身の衣服(下着等も含む)を全て脱ぎ、検査着のような薄い服を羽織って待つ必要があった。もちろん裸ではないが、不特定多数に見られるには心許ない格好だし、女性なら分かってくれると思うが、ブラジャー無しで薄い服を着て外を出歩くのはなかなか抵抗があるものだ。しかし、その格好で待たされたのが、普通に人が往来している外通路だった。もちろん男性もたくさん通る。こんなに配慮されないことってあるんだ、と入学早々驚いた。Xで工学部の女子トイレの状態がひどい、と投稿している方がいたが、なんというか、学校側の認識が杜撰なんだと思う。
不審者とかも全然いる。というか学内の人間が不審者になることもある。例えば、これは私の先輩(女性)の話だが、研究の合間に所属学部の研究室で休んでいたところ、たびたび研究室に来て徘徊する男がいたらしい。明らかに1人でいるときを狙って入ってくるし、研究の性質上夜に研究室に篭もることもある。このままでは危ないのではないかと怖くなり、教授に掛け合ったところ、他研究室の院生だと発覚した。しかし、結局のところお咎めなしだったらしい。こういう話は、在学中たびたび聞いた。
私個人としては、セクハラ(というか性暴力)もかなりこたえた。男性が8割を占めるうえ、前期課程は高校のようなクラス制で、否が応でも男性と関わらなくてはならない。しかし、それがきっかけでLINEのしつこいメッセージが来たり、あることないこと噂を流されたり、果てにはホテルに連れ込まれそうになったり、詳述はしないが体を触られたり、本当に嫌な目にあった。告発しようと思ったこともあるが、男性ばかりの環境ではあまり取り合ってもらえず、結局なるべくクラスに顔を出さないようにした。
書いたら嫌な気持ちになってきたが、こういう話は私や、私の周りの女性が実際に体験した話である。あくまで個人の話だし、たまたま悪い経験を引き当ててしまっただけなのかもしれない。しかし、男女比率の偏り、あるいはそれを解決できないでいる大学側の姿勢が、このような問題の一因であると個人的には思う。もし今が女性を増やしていくための過渡期で、私の経験がその礎となる犠牲、みたいなものだったのだとしても、少なくとも自分の娘には同じ思いをさせたくない。
最後に、誰もがあくまで追求したい学問や目指す進路のために大学の門を叩くはずであり、それを阻む障壁は取り去られてしかるべきである。何も女子生徒だけを優遇しろ、と言っているのではなく、誰にとっても過ごしやすい環境を実現するために、社会や制度がもっと良い方向に変わっていくことを願う。
日本は中世まで衰退したから人権なんて守ってる場合じゃないというのが貴方の立場だと理解しています
こちらが制限を強くしろと言うと「全て制限するのは極端だ!非現実的!議論しろ!」の3点しか言わないが、要するに議論の体を装って相手の論を否定をするだけ
きのこたけのこ戦争。この、我が国の精神的土壌を深く、あまりにも深く分断してきた歴史的課題に対し、私は今、言葉を尽くさねばならないという、ある種の烈々たる使命感に突き動かされています。
まず、私たちが直視しなければならないのは、この問題が単なる菓子の嗜好の相違に留まっていないという、その「構造的深刻さ」であります。
この二者択一を迫るという行為そのものが、現代社会が抱える「寛容さの欠如」という病理を、図らずも、しかし残酷なまでに浮き彫りにしているのではないでしょうか。私は、この分断を固定化させてきたこれまでの議論の在り方、その「地平」そのものを、根本から、抜本的に、地殻変動を起こすかの如く、変えていかなければならないと考えています。
一方が勝てば一方が敗れる。一方が立てば一方が伏す。こうした「ゼロサム・ゲーム」の論理、あるいは「勝ち負けの政治」を、私たちはいつまで、どこまで、一体どのような覚悟を持って続けていくのか。この問いに答えを出さない限り、私たちの未来に、真の意味での「共生」は訪れない。私はそう確信しています。
数字を見てみましょう。世論調査(国民総選挙)の結果を見れば、なるほど、ある時期には「たけのこ」が圧倒的な勢力を誇り、またある時期には「きのこの山」がその独創性をもって猛追する。しかし、こうした「数」の論理だけで物事を決定していくことが、果たして「民主主義の成熟」と言えるのでしょうか。
たけのこ派が享受する、あのサクサクとした食感の快楽。一方で、きのこ派が愛でる、クラッカーとチョコの峻別された美学。これらは、どちらが優れているかという「評価」の対象ではなく、どちらも尊いという「存在」の肯定から出発すべきなのです。
私は、きのこ派の皆さんの、あの少し孤独で、しかし凛とした佇まいに、ある種の哲学を感じます。同時に、たけのこ派の皆さんの、大衆を包み込むような、あの柔らかな包容力にも、深い敬意を表さざるを得ません。
では、解決策はどこにあるのか。
私は、ここに「第三の道」を提示したい。それは、単なる妥協でもなければ、安易な折衷案でもありません。
それは、「きのこの山」の独立性と、「たけのこの里」の融和性を、一つの皿の上で、あるいは一つのパッケージの中で、高次元に止揚(アウフヘーベン)させることです。
まず、両陣営が互いの「チョコの口溶け」の差異を認め合うための、恒久的な対話の場を創設します。
単に混ぜるのではない。互いの個性が、互いの存在をより輝かせるような、ダイナミックな共鳴を促す「新時代の共生パッケージ」の構築。
形や食感という「表層の差異」に惑わされるのではなく、私たちが等しく享受している「甘み」という、その根源的な幸福感において、一つに結ばれること。
私は、この問題に対して、中途半端な姿勢を取るつもりはありません。
私自身、かつては「どちらか」を選ばなければならないという強迫観念に囚われていた時期もありました。しかし、今の私は違います。
この「矛盾」を抱え続けることこそが、成熟した大人の、そして未来を担う政治の、あるべき姿ではないでしょうか。
「きのこ」が「きのこ」として、「たけのこ」が「たけのこ」として、誇りを持って咲き誇り、かつ、それらが同じテーブルの上で調和を奏でる。そのような「お菓子社会」の実現に向けて、私は、この身を、この情熱を、最後の一滴まで注ぎ込む覚悟であります。
この、分断の歴史に終止符を打ち、寛容と調和の、新しい地平へ。
そこはもう、
つまりあなたは、
から、
と言ってる。
でもだったら、
当然セットで発生する。
そこを指摘されるたびに、
「人権軽視だ!」
に変換するのは違うでしょ。
あと、
って、
人権保障を強めれば、
でも社会として、
「どこまで制限するか」
「どこまでのコストを受け入れるか」
なんだよ。
なのにあなたは、
そこを全部飛ばして、
を、
そこまで単純じゃない。
嘘が無い「素顔」のコミュニケーションを、善だとみなした哲学者はルーマンで、
こいつは要するに、都市労働に絶望して"都会の大人は嘘ばかりだ……! 田舎で素朴な暮らしを人間はするべきなんだ……!"とヘラってた人間。
ルーマンは70~80年代にクソ流行ったので、いまでも増田のように、素直さ、を美徳だと考えたがる風潮は残っている。
まあ、田舎の人間がウソついてないわけないよな。体面とか利益とかバチバチにあるっての。
いまでは、ヒトとはどういう嘘をつくのか、どういう風にコミュニケーションをするべきなのか、という議論がなされているよ。ペルソナ(仮面)の話とか、有名だよな。
あなたが感じている怒りや矛盾感は、「外では日本文化を誇示するのに、国内では外国人や少数派への排除や偏見が存在する」という二重性への反発だと思います。
特に、埼玉県川口周辺のクルド人への敵視やSNS上の過激な言説を見ていると、「共生を語る資格があるのか」と感じる人は実際にいます。
ただ、いくつか整理したほうがいい点があります。
まず、日本社会に外国人差別や民族的偏見が存在するのは事実です。
特に:
同調圧力が強い
一方で、「日本人全体が差別主義者」「日本文化イベントをやる資格がない」とまで一般化すると、今度は別の集団への一括断罪になってしまう。
日本国内でも、クルド人へのヘイトに反対している人、外国人支援をしている人、多文化共生を進めようとしている自治体や市民もいます。
ニューヨークの阿波踊りも、参加している人全員が排外主義者というわけではありません。
むしろ海外の日系イベントは、現地の非日本人参加者がかなり多く、「日本文化を共有する場」として機能している面もあります。
「外国では“日本文化すごい”をやるのに、国内では外国人を排除する」
特に欧米では、「多様性を享受したいが、国内では移民を嫌うのか?」という視線は存在します。
また、あなたが触れている「親日国かどうかを気にする日本人が多い」という点も、日本の安全志向や承認欲求と結びついている部分があります。
批判されることに慣れていない
こういう傾向はあると思います。
「白人への憧れ」についても、日本の戦後メディア・広告・英語教育・経済力の歴史的影響は大きいです。
欧米、とくに白人文化が「先進的・洗練・国際的」として長く消費されてきた。
逆に黒人や中東系、南アジア系などには否定的ステレオタイプが残りやすかった。
その結果として:
見た目による判断
ただし、日本だけが特異というより、多くの国で「内集団びいき」と「外見による偏見」は存在します。
違いは、各国でそれをどこまで制度的・社会的に抑制できているかです。
日本は:
「空気」で処理しがち
また極端化してる。
↓
↓
って、毎回その飛躍。
でもあなたは、
と
を意図的に全部混ぜて、
一括で
扱いしてる。
だから話が噛み合わない。
あと、
じゃなくて、
そこに影響が出るのは当たり前。
そこを全部
「被害妄想」
みたいに処理して、
マジレスすると、そこは別に矛盾してない。見ている「左翼」のレイヤーが違う。
たぶん彼らが嗤っていた「左翼」は、政党・労組・学生運動・共産党・社民系みたいな、昭和型の組織左翼。
これは実際、議席・動員力・社会的威信の面ではかなり弱体化した。
一方で、彼らがいま「左翼が世界を動かしている」と言うときの「左翼」は、政党としての左翼ではなく、大学・メディア・人権団体・国際機関・企業広報・教育・SNS規範・ポリコレ・DEI・ジェンダー論・反差別言説みたいな、文化的・制度的なリベラル規範のことを指している。
要するに、「選挙には弱いが、空気やルールづくりでは強い」という認識になっている。
実際、左派政党の退潮と、文化・価値観領域でのリベラル規範の影響力は、同時に起こりうる。
左派の衰退を分析する議論でも、単に得票や政党支持だけでなく、イデオロギーや公共政策への影響力という別軸で見る必要があるとされている。
「共産党は弱い」
みたいに、途中で主語がすり替わる。ここが変。
本来は、
「旧来型左翼組織は弱体化したが、リベラルな文化規範・反差別規範・アイデンティティ政治的な言説は、一部の制度や企業・メディアでは強い影響を持つようになった」
くらいに言うべきところを、雑に「左翼が世界を支配している」に圧縮するから、話が急にオカルトになる。
さらに言うと、「文化マルクス主義」みたいな言い方は、その典型で、フランクフルト学派や進歩派運動を現代のポリコレやアイデンティティ政治の黒幕扱いする陰謀論として説明されることが多い。
つまり、現象として「制度内リベラルの影響力」はあるとしても、それを「左翼の世界支配」に変換するのは、かなり粗い。
彼らにとって左翼は、殴るときは“弱くて惨めな負け犬”で、怯えるときは“社会を裏から支配する巨大権力”になる。
これは論理というより、敵像の使い分け。
勝利感を得たいときは「左翼は終わった」と言い、被害者意識を語りたいときは「左翼に支配されている」と言う。
ただ、完全に無内容な妄想とも言い切れない。
旧来の共産党や労働左翼は弱くなった一方で、企業・大学・メディア・国際機関では、人権・多様性・反差別・ジェンダー平等のような価値観が標準語になっている場面はある。
要するに、