はてなキーワード: 結果の平等とは
自称インテリがしばしば陥る最大の過ちは、自らの知的優越性に酔いしれ、市場や社会の自発的秩序を軽視することである。
これはまさに典型的な自己放尿であり、理論偏重・現実軽視・選民意識のトリプル放尿である。
この種の自己放尿は単なる態度の問題ではなく、資源配分の歪みを正当化しかねない危険な思想である。
まず、多様性とは単なる文化的スローガンではない。それは分業の基盤であり、異質な能力・知識・選好を持つ個人が市場を通じて相互利益を実現するための前提条件である。
高学歴者のみが価値を生むという発想自体が自己放尿であり、人的資本の異質性を無視した非効率な中央計画的思考に他ならない。
知識は分散しており、誰も全体を把握できないという事実である。にもかかわらず、自称インテリは自らを全知に近い存在と誤認し、自己放尿を繰り返す。
自由とは、各個人が自らの選択に基づいて行動する権利であり、その帰結として多様な結果が生まれることを含意する。
この結果の不均一性を問題とみなす態度こそ、自己放尿である。なぜなら、それは結果の平等を追求するあまり、プロセスとしての自由を侵害する傾向を持つからである。
市場は、価格メカニズムという情報システムを通じて無数の個人の判断を調整する。この精緻な制度に対して、机上の空論で介入しようとすること自体が、知的傲慢という名の自己放尿なのである。
さらに、低学歴とされる人々の存在は、市場経済において不可欠である。ここでいう低学歴とは単に形式的教育年数の問題であり、実際の生産性や技能とは必ずしも一致しない。
労働市場は多様なスキルセットを必要とし、単純労働から高度専門職までの連続体によって構成されている。
もし全員が同一の高度教育を受け、同一の職を志向すれば、供給のミスマッチが生じ、社会全体の厚生は低下する。
したがって、低学歴は不要だという主張こそが、分業の原理を理解しない自己放尿である。
方法論的個人主義に立てば、社会とは個々人の選択の集積であり、上から設計されるものではない。
自称インテリが好むトップダウンの設計思想は、しばしば現実の複雑性を無視し、予期せぬ結果を生む。
これは政策的自己放尿とも言える。市場における競争は、誤りを淘汰し、効率性を高める進化的プロセスであるが、自己放尿的介入はこのプロセスを阻害する。
自称インテリに求められるのは、自己放尿の停止である。すなわち、自らの知識の限界を認識し、市場の自発的秩序と多様性を尊重する態度である。
自由な社会においては、すべての人が異なる形で価値を創出する。その現実を受け入れず、選別と序列に固執する限り、自己放尿は止まらない。市場は寛容であるが、自己放尿には容赦がない。
昔は「リベラル」という言葉は自由を意味していた。それは国家権力を制限し、個人の選択を尊重し、市場の自発的秩序を信頼する思想だった。
ところが現代において「リベラル」はしばしば国家による広範な介入、再分配、規制、そして事実上の計画経済的政策を擁護する立場を指す。
一方で「自由主義」は、政府拡張への警戒という点において、いわゆる保守主義と重なり合うようになった。
この言葉の倒錯は偶然ではない。それは思想史的必然であり、制度の自己放尿的運動の結果である。
この思想はPrice Theoryにも明確に示されている。価格体系は中央計画によらず、分散した知識を統合する。個人が合理的に自己の目的を追求することによって、全体としての秩序が生まれる。
この秩序は設計されたものではない。それは創発するものである。
ところが、現代リベラルはこの自発的秩序を「不完全」と断定し、国家による補正を当然視する。最低賃金、価格統制、補助金、産業政策、グリーン計画、金融規制の累積、等々の自己放尿である。
その計画者は、誰の知識を、どの価格で、どの時間軸で代替するのか?
価格を歪めることは、情報を歪めることである。情報を歪めれば、資源配分は必然的に誤る。誤配分は生産性を低下させ、最終的に自由を侵食する。
リベラル思想は平等・正義・福祉という倫理的理想を掲げる。しかし冷静に考えて欲しい。
1. 政府は全知ではない
2. 政府は無私ではない
政府の失敗は市場の失敗よりも危険である。なぜなら政府は強制力を持つからだ。
善人が大きな政府を運用しているように見えても、明日に悪人が支配したらどうするのだ。
市場での失敗は損失で終わる。国家の失敗は自由の喪失で終わる。
だが重要なのは「機会の平等」を擁護することだ。結果を等しくするには選択を制限せざるを得ない。選択の制限は、やがて思想の制限へと転化する。
自由の名で自由を削る。平等の名で多様性を消す。福祉の名で依存を作る。
歴史的皮肉として、今日「小さな政府」を主張する立場は保守派と分類されることが多い。
それは既存の権力構造を疑う。それは既得権を解体する。それは規制によって守られた利益集団を批判する。
この意味で、自由主義は保守ではない。それは制度的進化を信じる立場である。
シカゴ学派の伝統は、理論と実証を統合し、市場の効率性を経験的に検証する態度を取った。
貨幣数量説の再評価も同様である。インフレは通貨現象であり、価格統制ではなく通貨供給の規律によってのみ制御できる。
つまり自由主義とは、政府を制限するための制度的設計思想なのである。
自己放尿という言葉は、自己の原理によって自己を破壊する運動を指す。
自由を守るために規制する。市場を救うために国有化する。民主主義を守るために言論を制限する。
これは論理的矛盾ではない。それは権力の累積が生む心理的帰結である。
自由は自動的には維持されない。自由は制度的制約によってのみ持続する。
政府支出がGDP比で拡大し続けるとき、政治的選択の範囲は縮小する。
財政依存は政治依存を生む。補助金は忠誠を生む。規制は参入障壁を生む。これらは全て自由の静かな侵食であり、自己放尿である。
自由主義が保守主義に見えるのは、国家拡張が常態化した社会では「縮小」が反動に映るからである。
そしてリベラルが計画経済に傾くのは、善意が制度設計の制約を軽視するからである。
思想の逆転は偶然ではない。それは自由を当然視した社会が、自らの原理を忘れた結果である。
自由は維持されなければならない。
もしこの議論をMilton Friedmanが読んだなら、彼は宗教的引用には敬意を払いつつも、分析の軸を制度設計とインセンティブに置き直すでしょう。
「助言者が多ければ救いがある」
なぜなら彼は、権力の集中こそ最大の危険だと考えていたからです。
しかし彼はこう付け加えるでしょう。
政治家や官僚が多様でも、中央銀行が恣意的裁量を持つなら不安定になる。
フリードマンの出発点は明確です。
MV = PY
長期的には
ΔM ≒ Δ P
彼はこう言うでしょう。
にあります。
だから彼は
したがって
むしろ彼が重視したのは
フリードマンはこう言うでしょう。
によって達成される。政府が「賢明である」ことを前提にした裁量政策は危険。
なぜなら
あなたの問いの核心
成長は祝福だが、正義を伴うべきだ。
フリードマンの答え。
彼はこう述べています。
短期的刺激ではなく、市場アクセスの拡大と所得移転の透明化を。
SNSで騒がれてたから。受験シーズンだし、話題にはなるよね。
SNSアカウントのホントの性別はわからないけど、おそらく女子枠を使えない人からの批判が多い。
要約すると、
「勉強せずに入れるのはずるい。」
「一般枠を減らすな。」
という意見が多かった。
と同時に、女子枠は受験科目が少なかったり、そもそも筆記試験がなかったりするパターンもあった。
これが火種になっている気もしたなあ。
正直、結果の平等とか、そもそもの男女平等など私はどうでもいい。
私は、女子枠には少子化を食い止める力があるかもしれない、と思っている。
女子枠がある学部なんて、セルフでしかプレジャーできない野郎しかいないからだ。
ちゃんと女でプレジャーできて、いっそのこと子供ができてしまえば国として嬉しいのでは?
つまり、女子枠の学生が社会人になったら、会社内でまたプレジャーを提供できる。
まぐわうだけなら微分方程式とか理解できなくていいし、化学式も知らなくていい。
いや、いらないかな。大学は女だけ入れるようにすればいいのでは?
実は、アファーマティブ・アクション(AA)やそれに類する「優遇政策」は、経済学的にも長い議論の対象で、労働市場の効率性・インセンティブ構造・社会的資本の形成といった観点から、かなり深く分析されています。
AAによって採用・昇進などで属性が重視されると、「最適な人材配置」が歪むことがあります。
本来、最も生産性が高い候補者を選ぶべきところで、**別の基準(性別・人種・出身など)**が介入する。
結果として、全体の生産効率(total factor productivity)が低下する可能性がある。
たとえば:
Loury (1998), “Discrimination in the Post-Civil Rights Era”
→ AAは短期的な公平性を実現するが、長期的には人的資本(human capital)の最適配分を阻害する。
Coate & Loury (1993), Quarterly Journal of Economics
→ 「低評価リスク」仮説:制度的優遇があると、企業側が「優遇枠の人は平均的に能力が低いかもしれない」と予期し、全体の採用評価を下げる。
→ つまり、恩恵を受ける人自身が市場で過小評価される逆効果が生じる。
経済学では、個人が努力する動機=「期待される報酬 × 確率」。
AAによって「結果の平等」が保証されると、努力のリターンが減少する可能性がある。
Phelps (1972), “The Statistical Theory of Racism and Sexism”
→ もし企業が属性を基準に期待値を修正する(例:「女性は平均的に○○が低い」など)と、
個人が努力しても評価が改善されにくく、人間資本投資のインセンティブが下がる。
Becker (1957), The Economics of Discrimination
→ 市場競争の中では、長期的には差別はコストになる(=差別する企業が淘汰される)。
つまり、市場メカニズムに任せた方が、平等を促す方向に進む可能性がある。
🔹 3. スティグマ効果(signal distortion)
「AAによる採用・昇進=能力より制度的配慮」と見られることで、
これはゲーム理論的には「シグナリング(signaling)」の問題として扱われます。
Coate & Loury (1993)モデルでは、AA導入後、採用者が「優遇されているグループ」に対して
“平均的に能力が低い”という信念を形成 → 雇用主が訓練投資を減らす。
→ その結果、実際に能力格差が固定化されるという自己成就的な悪循環が起きる。
市場の信号構造を歪め、差別を制度的に固定化するという逆効果が生まれる。
経済学では信頼・ネットワーク・協調といった“社会的資本”も重要な生産要素とされています。
グループ間の信頼が低下
成功の原因が「努力」ではなく「制度」に帰属される(=相互尊重の低下)
→ 結果的に、社会全体の協力効率(cooperative efficiency)が下がる。
この点は、Putnam(2000)『Bowling Alone』や Fukuyama(1995)『Trust』などでも、
“制度的な平等の押し付け”が社会的信頼を損なうという形で議論されています。
AAを受けて育った世代が、次の世代に「努力よりも制度を頼る文化」を引き継ぐ可能性があります。
→ これを “policy dependence equilibrium”(政策依存均衡)と呼ぶモデルがあります。
例:
Cass Sunstein (1991) “Why Markets Don’t Stop Discrimination”
→ 政策が続く限り、民間の慣習変化(文化的進化)が進まない。
🔹 総合すると…
アファーマティブ・アクションは短期的には平等を“見かけ上”実現するけれど、
長期的には:
生産性の低下(misallocation)
結果の平等とは「最終的な成果・報酬・地位などが、できるだけ均等になることを目指す考え方」のことで、所得格差を縮小するための累進課税や所得再分配政策や男女比を固定的に揃えるクオータ制などがそれにあたる。
機会の平等とは「スタートラインや選択の機会が公平に与えられることを目指す考え方」のことで、奨学金制度や公教育の整備を通して教育へのアクセスを均等にすることや採用にあたって性別や人種で差別しないことがそれにあたる。
話題は「男100人、女100人の合計200人から50人のチームを作る」時にどう作るべきか?ということだ。
まず、結果の平等はわかりやすい。とにかく「男25人、女25人のチーム」を作るということだ。
次に、機会の平等は、主として採用にあたって性別や人種で差別しないことに軸を置くので、例えば「能力テストを行い上位50名を取る」とか「完全にくじを引いて50名を選ぶ」などが考えられる。
ここで、完全にくじは機会の平等を純粋に担保しているのだが、パフォーマンス面で問題がある可能性がある。これは日本国民全体からランダムで医師免許を与える、みたいなことを考えればわかるだろう。
では、「能力テストを行い上位50名を取る」はどうか?確かにメリトクラシーちっくではあるが、その能力テストがそのチームの今後のパフォーマンスを測るのに適切なのであれば、社会的な合意は取れるだろう。
で、私が言いたいのはここからだ。私が見る限り、フェミニストは男性と女性の能力が等しいと仮定しており、反フェミニストは男性と女性の能力に偏りがある(もっと言えば男性>女性)と仮定しているようだ。
では、まずこのチームが必要とする能力という面で、男性と女性の能力が等しいと仮定しよう。フェミニスト仮定だ。
すると、「能力テストを行い上位50名を取る」というルールでは期待値として「男25人、女25人のチーム」になるだろう。(あくまで期待値なので、結果にブレはあるけど)
であるならば、フェミニスト仮定をもつ人にとって、期待値的には「男25人、女25人のチーム」を作るのと「能力テストを行い上位50名を取る」ルールは同じようだ。
じゃあ、どっちでもよくないですか?
次に、男性と女性の能力に偏りがある(もっと言えば男性>女性)と仮定してみよう。反フェミニスト仮定だ。
ここで、社会が「男25人、女25人のチーム」を強制したとしよう。これに反フェミニストは怒っているのだが、怒る必要はあるのだろうか?これを考えてみよう。
反フェミニスト仮定は男性と女性の能力に偏り、それも著しい偏りがあると考えているはずだ。そうじゃなきゃ期待値的には「男25人、女25人のチーム」を作るのと「能力テストを行い上位50名を取る」ルールは同じになってしまう。
例えば、国立大の医学部医学科の合格者比率は男性63.5%、女性36.5%でほぼダブルスコアだ。東大の学部生は男性78.7%、女性21.3%だ。ダブルスコアどころの騒ぎではなく4倍である。
この結果は男女の能力差なのか、社会的圧力なのか、男性に有利なルールになっているのかなど、ここでは議論しない。
でも、こういう事実を理由として、反フェミニスト仮定では「男25人、女25人のチーム」という結果の平等のチームを作ってしまうと、パフォーマンスが下がることを彼らは指摘しているんだ。
そう。くじ引きを嫌う点からわかるように、機会の平等側の人たちは、基本的に平等性よりもパフォーマンスを重視する傾向にある。
でも、よく考えてみよう。「男100人、女100人の合計200人から50人のチームを作る」際に「男25人、女25人のチーム」を作ったとしよう。残った人はどうなる?
「男75人、女75人」が残っている。この人たちは落第者なので、結果の平等ルールは適用されない人たちだ。ではこの男75人の上位50名でチームを作ったらどうなる?
ルールに基づく「男25人、女25人のチーム」と残った男の「上位50人」チームが戦うはずだ。何で戦うのかは知らない。スポーツなのか、学術なのか、ビジネスなのか。
しかし、そこでは結果の平等も機会の平等も担保されていない、ただひたすらにその戦場でのパフォーマンスが高いチームが勝つゲームだ。
そして反フェミニスト仮定では、男性と女性の能力に著しい偏りがある、と考えているはずなので、結局、そのゲームでは残った「男性50名チーム」が勝つはずだ。
(もちろん負けた「男25人、女25人のチーム」や残された女性75人はどうなる、という話もあるだろう。でもそのことは結果の平等側の人たちのチームでも同じことが生じるし、全員の結果の平等はそれこそ共産主義になってしまう。それを社会が選ぶというのであれば、あるのかもしれないけれど)
「男性と女性の能力が等しいと信じている」と言っているのに結果の平等を求めたり、
「男性と女性の能力に著しい偏りがあると信じている」と言っているのに、真に社会で発生している戦場・ゲームのそのずっと手前の入り口部分で結果の平等を実現されることを怒ってたりすることなんだ。
結果の平等を求めてるってことは、本当は心のどこかで「女性の方が男性よりも劣ってる」って思ってるんじゃないの?
社会の途中にあるゲートの結果の平等に怒ってるってことは、本当は心のどこかで「男性と女性の能力はそれほど変わらなくて、下駄のはかされ方でパフォーマンスが変わってしまうかも」と恐れてるんじゃないの?
「女は弱いので、男が守るべき」と女性が言ったり、「本当に男に向いてるかどうかはわからんけど、伝統的に男が家庭外での仕事をやってきたから、色々変えるのめんどくさいのでこれからもそっちを男がやるけど、その代わりそこで得た利益は家庭を通して女に還元するから一緒にがんばろうね」と男性が言ったりする方がまだ本心に近いと思っていて、こういう本心を隠して、それっぽい理屈を捏ねてるから変な議論になってる気がする。