はてなキーワード: 性役割とは
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リンジー・ジャーマンは、ジュディス・バトラーの新著『Who’s Afraid of Gender?』における議論と概念的混乱を検討している。
著者はまず、1970年代の女性解放運動期に、米国のマルクス主義人類学者イヴリン・リードが書いた「生物学は女性の運命か」という問いを引く。リードは、女性が母親であることを理由に、社会的役割を限定されるべきではないと論じた。同時に、資本主義社会における生物学や人類学は、性役割や女性劣等視に関する社会的前提を多く含んでいるとも批判していた。
今日、性とジェンダーをめぐる論争、とりわけトランスジェンダーをめぐる論争は、自然と文化、生物学と社会的態度、性とジェンダーの関係を再び問い直している。バトラーは、いわゆるジェンダー・アイデンティティ運動における中心的な学術的人物であり、ノンバイナリーを自認し they/them 代名詞を用いている、と著者は紹介する。
ただし、著者はバトラーの新著について、以前の著作よりは読みやすいとしながらも、「読みやすい」といっても相対的なものにすぎないと述べる。中心概念はしばしば曖昧で、「phantasm」という語が100回以上出てくる一方、バトラーが反対する立場への批判は十分ではない、という評価である。
著者の基本的批判は、バトラーが「ジェンダー」も「性」も明確に定義していないという点にある。バトラーは、自分が性の存在を否定しているわけではないと言うが、実際には性とジェンダーの「共構築」を語り、両者をほとんど完全に絡み合ったものとして扱っている、と批判される。
書評は次に、バトラーの本の多くが「容易な標的」に向けられていると述べる。ジェンダーは文化戦争の一部となっており、バトラーは右派や極右による「ジェンダー理論」攻撃を大きく扱っている。取り上げられるのは、ドナルド・トランプ、イタリア首相ジョルジャ・メローニ、ハンガリーのヴィクトル・オルバーン、ローマ教皇などである。
バトラーは、反ジェンダー運動が各国の選挙で強い影響を持っていると指摘する。ブラジル、コスタリカ、コロンビア、フランス、スイス、英国、スコットランド、エクアドル、ドイツ、ハンガリー、スペインなどが例に挙げられている。スペインの極右政党 Vox は「ジェンダー・ジハード」や「フェミナチ」といった表現を用いている、と紹介される。
著者は、こうした反動的勢力が個人的・性的平等を求める人々にとって脅威であることは疑いない、と認める。彼らは、法律を制定し、国家的差別を執行できる権力を持っているからである。彼らが守ろうとするのは、キリスト教的・異性愛的家族を中心に据えた、国家と結びついた保守的な性・生殖・家族モデルである。
しかし著者は、バトラーの分析が「なぜ今このような反動が起きているのか」を十分に説明していないと批判する。バトラーは「反 woke」の感情を、家父長制・異性愛規範・白人至上主義的秩序の喪失に対する心理社会的幻想として説明する。しかし著者は、これでは新自由主義資本主義の危機、脱工業化、生活水準の低下、反移民感情や人種差別の政治的動員、米国社会の軍事化・暴力化などの物質的条件が抜け落ちると述べる。
つまり、著者の立場では、反ジェンダー運動は単なる「幻想」や「心理的不安」ではなく、資本主義の危機と社会的荒廃のなかで生じている政治現象として分析されるべきだ、ということである。
著者によれば、バトラーは実質的に「性/ジェンダー」の区別を崩壊させている。性とジェンダーを同じものとして扱い、「性が文化的規範の枠内で捉えられるなら、それはすでにジェンダーである」と論じる。
著者はこれを、現実の身体的カテゴリーをイデオロギーへと作り替えてしまう議論だと批判する。性や生殖という現実からイデオロギーが生じるのではなく、逆にイデオロギーが性を作るかのように語っている、という批判である。
さらに著者は、これは「馬車を馬の前に置く」ようなものだと言う。社会的要因が生物学的要因を完全に上書きできるかのように見えるが、それは経験的に誤りである。人間は200年生きることはできないし、食物と水を必要とし、種の再生産は生物学的事実である。人類の存続は、圧倒的には男女の性的関係に依存してきた、というのが著者の主張である。
著者は、性とジェンダーについて語る際には、自然的事実とそれに付与される社会的構築との関係を論じることができると認める。しかし、自然的事実そのものが存在しないかのように扱うのは観念論である、と批判する。
また、バトラーがスポーツをめぐる議論で、男性思春期だけでは偉大なアスリートにはなれず、テニスコートへのアクセスや個人トレーナーの存在も関係すると論じている点について、著者は「それは論理の飛躍だ」と批判する。階級的不平等があることは事実だが、それは身体的性差の問題を消すものではない、という趣旨である。
著者は、社会的構築が幼少期から始まることは認める。子どもが「男の子」「女の子」と告げられた瞬間から、服装、興味、教育機会、性格などについて多くの社会的期待が付与される。しかし、それは性という自然的事実を消すものではなく、物質的要因とイデオロギー的要因が密接に絡み合っていることを示すだけだ、と述べる。
著者は、バトラーが『ドイツ・イデオロギー』のマルクスとエンゲルスを引用しているにもかかわらず、その要点を誤解していると批判する。マルクスにとって、思想は人間の物質的生活過程から生じる。観念やイデオロギーは現実を補強することはあるが、現実から切り離されて現実そのものを作るわけではない、というのが著者の理解である。
著者は、バトラーが「phantasm」とマルクス=エンゲルスの「phantoms」を似たものとして扱っているようだが、それは違うと述べる。バトラーの議論は、人が自分でそう考えれば何者にでもなれるかのような前提に近づいており、これはマルクス主義的唯物論からは遠い、と批判する。
マルクスとエンゲルスは、人間が自然に働きかけ、食物や住居などの生存手段を獲得する過程を通じて歴史が発展し、観念も変化すると見た。人間は自然の一部であり、単なるイデオロギー的構築物ではない。したがって、ポストモダン理論に合わないからといって、この見方を時代遅れとして退けるのは、社会発展の理解を放棄することだ、と著者は述べる。
著者は続いて、マルクス主義的な家族論を説明する。初期の「原始共産制」社会には、性別間に一定の素朴な平等があり、女性の母性役割を理由とする差別は必ずしも存在しなかった。しかし、余剰富の蓄積、階級の成立、支配階級の財産を守る国家装置の形成、財産継承を保証する家族構造の成立によって、女性抑圧が階級社会の特徴となった。エンゲルスはこれを「女性の世界史的敗北」と呼んだ、とされる。
資本主義のもとでは、家庭と職場の分離が明確になり、家庭内の無償労働は有償労働から切り離され、劣ったものと見なされるようになった。資本主義的搾取の規律は、家庭と職場の分離、個人化、ヒエラルキー、同調性に適した家族を必要とした。そこには性的同調性も含まれ、女性と子どもは男性に従属し、性は結婚内の生殖のためのものとされた。
この観点から著者は、LGBT抑圧の根源は、核家族の規範への挑戦と見なされる点にあると説明する。したがって、それは家族制度と女性抑圧に結びついている。著者は、この歴史的唯物論的な家族分析は、バトラーに見られるポストモダニズムや多くのジェンダー理論よりも優れており、同時に一部ラディカル・フェミニストの生物学的決定論や実証主義よりも優れている、と主張する。
著者は、女性の再生産における役割は中心的だと述べる。女性は人類の再生産に不可欠であるだけでなく、資本主義体制における労働力の再生産、つまり養育・ケア・社会化・教育にも深く関わっている。家族は次世代の労働者を比較的低コストで育成するため、経済的・社会的役割を果たす。
女性が母親であること自体が不利益でなければならない自然的理由はない。しかし、それが資本家階級に利益をもたらす社会的・経済的理由は多く存在する、というのが著者の主張である。
この過程において、性は現実であり、大多数の人々は生物学的に明確に男性または女性である、と著者は述べる。例外的に曖昧なケースはあるが、それは性発達の差異であり、「インターセックス」という連続的スペクトラムがあると示唆するのは誤りだ、という立場である。
一方で、性が社会的にどう組織されるかは変化しうる。たとえば、2024年の英国の家族形態は、20世紀初頭の男性稼ぎ主モデルとは異なる。しかし共通しているのは、家庭内労働の多くを依然として女性が担い、家庭外のケア、料理、清掃などの社会的再生産労働も、低賃金で女性が多く担っているという点である。
著者は、自然と文化の関係は複雑だが、女性の生物学的役割に色づけられていると述べる。女性だけが出産できるという事実に、女性はより養育的で、自己主張が弱く、特定の仕事に向いているといったイデオロギー的前提が付随する。こうした前提は、生物学とは無関係で、社会関係に由来するにもかかわらず、労働市場における女性の不利益を補強する。
妊娠、授乳、更年期、月経など、女性抑圧において生物学的要因はなお大きな役割を持つ。社会主義社会であれば、それに伴う圧力や不利益の多くを取り除けるかもしれない。しかし資本主義のもとでは、女性はそれらの要因に個人的に対処することを求められ、その結果として不利益を被る、と著者は論じる。
著者は、バトラーが「子どもを産まない女性もいる」「閉経後の女性もいる」「さまざまな理由で子どもを持てない女性もいる」といった例外を挙げることで、女性抑圧に生物学的要素があるという議論を無効化しようとしている、と批判する。しかし、それは成り立たない。個々人の状況にかかわらず、家族における女性の中心的役割、出産・養育者としての役割が、女性抑圧を規定しているというのが著者の主張である。
著者は、バトラーの議論が女性抑圧という特定の問題を、より広い「ジェンダー抑圧」の一部として矮小化していると批判する。性差別を禁じる平等法も、バトラーにおいては、本人の性ではなく、ジェンダーや社会的前提に関わるものとして扱われる。著者はこれを、現実のカテゴリーである性をイデオロギーへと作り替える主観的観念論だと見る。
また著者は、バトラーが、女性専用空間や、レイプ・家庭内暴力から逃れるためのシェルターなど、フェミニストが闘ってきた現実の問題を軽視していると述べる。バトラーは「TERF」批判の章で、キャスリーン・ストックや J.K.ローリングを中心に攻撃するが、同様の懸念を持つ多様な個人や組織を十分に扱っていない、と著者は批判する。
著者は「TERF」という語を侮辱的かつ誤解を招くものだと述べる。それは、ジェンダー・アイデンティティ理論に批判的な人を信用失墜させ、議論を沈黙させる効果を持つという。著者は、反トランスの人々は存在し、それは間違っているとしつつも、左派や社会主義の立場にありながらバトラー流のジェンダー理論に納得していない女性たちがいることを強調する。
そのような人々まで、極右やファシストの側に客観的に立っていると見なすのは馬鹿げている、と著者は述べる。人種差別の分析にもさまざまな立場があるように、性とジェンダーの分析にも複数の立場がありうる。トランスの権利を支持し、あらゆる差別に反対することと、バトラーの理論全体を受け入れることは同じではない、という主張である。
著者は、ラディカル・フェミニズムについても、男性暴力や男性からの分離を強調しすぎ、女性抑圧への階級的対応を弱めていると批判する。しかし同時に、家庭内暴力、レイプ、女性の客体化と従属化の文化が深刻であることは認める。こうした問題は、女性解放運動によって政治問題化されたが、十分な資源や関心は向けられてこなかった、と述べる。
特に著者が不快に感じた箇所として、バトラーが女性刑務所や女性専用空間におけるレイプや性的暴行への恐怖を過小評価している点が挙げられる。バトラーは、男性看守による女性囚人へのレイプがすでに存在することや、レイプが必ずしもペニスによるものに限られないことを指摘する。しかし著者は、圧倒的多数の暴力は男性から女性に向けられており、レイプの大多数は男性がペニスを用いて行うものだと述べる。そのため、多くの女性が男性や男性身体に恐怖を抱くことには根拠があり、それを見下したり退けたりしてはならない、と主張する。
著者は、バトラーの理論が抽象的で、階級と抑圧の関係を十分に扱っていないと批判する。バトラーは「女性とは何か」を理解するには、グローバルかつ多言語的に考える必要があると述べるが、著者は、文化的差異だけでなく、物質的生活の現実も見なければならないと言う。
たとえば、フィリピンやスリランカの女性たちは、自分の子どもを残して海外へ行き、清掃やケア労働に従事することがある。こうした女性たちは、受け入れ国の労働者、女性・男性、黒人・白人、性的指向やジェンダーに
ASD女性がBL(ボーイズラブ)を好む心理的メカニズムについては、単なる個人的な嗜好を超えて、発達特性による社会適応の難しさと、それに対する防衛機制(生存戦略)が深く関わっていることが、最新の研究で指摘されています。
ASDの特性を持つ女性は、社会から求められる「女性らしさ」や「女性としての役割」を演じることに強い違和感や生きづらさを感じやすい傾向があります。
広範な社会違和(PSD):ASD者は幼児期から、ジェンダー規範を含む社会全体のルールに不可解さや負担感(広範な社会違和:PSD)を抱きやすいという仮説があります。
逃避としてのBL:BLは「自分の性が登場しない物語」であるため、現実の「女性として生きる負担」を一時的に忘れることができる安全な避難所となります。
心理学的分析によれば、BLを好む心性には以下の「二重の安全装置」が機能しているとされています。
実行不可能性:男性同士の恋愛であるため、読者自身が当事者になることは物理的に不可能です。
聖なる愛と平等性:BLは男性同士の対等な関係として描かれることが多く、現実の社会(家父長制など)における男女の不平等な権力関係や、生々しい性役割から解放された「純愛」を享受できます。
感覚過敏や対人関係の難しさを持つASD女性にとって、「身体性を伴わず、自分から切り離された場所にある愛の形」を眺めることは、心理的に非常に安全で心地よい体験となります。
BLファンは、自分の直接的な成長や達成ではなく、「他者の関係性を観察することで感動し、充実感を得る」という受動的な幸福感を得る特性があると指摘されています。
現実のコミュニケーションで他者との距離感に悩みやすいASD女性にとって、安全な距離からキャラクター間の親密さを眺めて楽しむスタイルは、精神的なストレスを軽減し、幸福感を得るための有効な手段(自己治療的側面)となっている可能性があります。
ASD特性を持つ人々、特に女性においては、性別違和(GD)やジェンダー不適合感が高頻度で共起することが判明しています。
性自認の曖昧さ:ASD女性は性自認が曖昧になりやすく、自分のセクシュアリティを客観視するためにBLという枠組みを利用したり、自身をトランスジェンダー(FtM)であると考える傾向との相関が議論されています。
こだわり特性の表出:特定の物事への強い執着(こだわり)という発達特性が、男性の場合はシステムや収集(鉄道、トレカなど)に向かいやすいのに対し、女性の場合は物語やキャラクターの関係性(BLやカップリング)に向かいやすいという性差による表出の違いも指摘されています。
このように、ASD女性にとってBLは、「女」という役割から自分を解放し、社会的な規範や肉体的な生々しさから守られた安全な空間で、純粋な関係性の構築や「こだわり」を追求できる装置として機能していると考えられます。
https://ameblo.jp/mydreamchaser/entry-12330537320.html
まず指摘すべきは、性同一性障害とは、ある意味において本質的にはそもそも「自称」のものであるという性質を有するということである。すなわち、性同一性障害とは、客観的事実としての性別が明らかに男性ないし女性であるにもかかわらず、主観的には、その性別とは反対に自己の性別を認識し、ジェンダー・アイデンティティを有する疾患なのである。この「主観」を「自称」という言葉に置き換えるならば、医者を含めた周囲の認識のいかんにかかわらず、自分は性同一性障害だと自称することこそ、性同一性障害の根幹的な特徴だと言えるかもしれないのである。
さまざまな性別違和の中で、どのような程度、種類のものが性同一性障害といえるのかは、診断基準の中で必ずしも明確にされているとは言い難いため、なにをもって「本物」と診断するか、その境界は不明瞭なのが実状である。
「女装すると興奮してマスターベーションする」のように、性的興奮を目的として、女装するものや、コスプレのように楽しみ、気晴らしを目的として異性装をするものもいる。彼らの場合、自分自身の身体や、普段の性役割に関しては、強い違和感はない。ただ、「女装した時により一層女性らしくなりたいから」といった目的で、女性ホルモン投与を希望したりするものなどもいる。
[B! 謎] 【フェみいちゃん】一体何食って生きてきたらフィギアスケートに女性差別を見いだせるのか気になるわ
そうは言うけどさ。
フィギュアスケートって男×男とか女×女のペアはないし、リフトは男が女を持ち上げてるのでは?
世間からの批判を受けてルールやスタイルは変わっていくものだと思う。
ほかにも例えば女性はスカートなのに男性はパンツスタイルなのも不平等だよね。
事前練習を見ると黒いジャージ的なもので滑ってるから、特別パンツスタイルでは滑れないってことはないはず。
男女の性役割に関するステレオタイプを引きずってる競技は、フィギュアスケートだけじゃない。
2026/02/17 21:00:55 の記事(連投ミスでその後削除か)
[B!] りくりゅうの金メダルは本当におめでとう。歴史的な快挙なのは間違いない..
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20260217210055
2026/02/17 21:03 nguyen-oi アイスダンスとペアの違いも分からん情弱が思想を語る地獄。重力と戦ってる選手に失礼すぎるやろ (´・ω・`)
2026/02/17 21:01:07 の記事(連投ミスでその後削除か)
[B!] りくりゅうの金メダルは本当におめでとう。歴史的な快挙なのは間違いない..
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20260217210107
2026/02/17 21:02 nguyen-oi 競技の特性をジェンダー論で叩くの、流石にポリコレが過ぎるわ。アスリートの努力を「キモい」で片付けるなよ
[B!] りくりゅうの金メダルは本当におめでとう。歴史的な快挙なのは間違いない..
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20260217210108
2026/02/17 21:02 nguyen-oi 「おめでとう」で終われないのが増田クオリティ。物理法則まで性役割と言い出したらキリないやろwww
ツイフェミさんは言い換えると「メガリア」「保守系フェミニズム」「TERF」「ラディカルフェミニスト」のことです。90年代までの日本ではリベラル系フェミニズムが主流であったこと、また現在でも欧米のフェミニズムはリベラル系フェミニズムが主流であることが背景にあります。
つまり、リベラルな価値観の人から見ると現在のツイフェミさんは「偽物のフェミニズム」となるわけです。
わかりやすく言えば
J.K.ローリングは「TERF」もしくは「保守系フェミニズム」
欧米では J.K.ローリングをフェミニストが批判して炎上していましたよね。一方ツイフェミさんはJ.K.ローリングを信奉しています。そういうことです。日本と欧米ではフェミニズムが逆転しています。
リベラル系フェミ「性役割からの解放。性は社会的に作られた(ジェンダー)。多様性の包摂。フェミニズムは男性も救う。」
保守フェミ「性別は生まれ持ったもの。男は女性に優しくすべき」
リベラルフェミ「女性の性欲も認めるべき。性教育重視。女性の主体的恋愛を」
青少年健全育成運動「子供のためにエロ漫画を規制すべき。ゾーニング」
リベラルフェミ「服は自分のために着るもの。男のために着るのではない。我々が何を着ても自由である」
保守フェミ「社会は男が作っている。我々はセクシーな衣装を着ることを強いられている」
まだ女性差別の残っていた80年代から90年代初期、フェミニズムを担ったのは主に高学歴女性でした。
当時の社会において生き辛さを感じていた「バリバリ働くたい人」「女らしくない人」「出世欲のある人」たちがリベラル系フェミニズムを推進したのです。
女性差別がなくなり女性が働くのが当たり前になった現在、立場が逆転しました。
「低学歴の人」「女の子らしい人」「働きたくない人」が現在の社会では生き辛い人になり、フェミニズムの担い手が逆転しました。
ツイフェミさんはリベラル系フェミニストのことを「名誉男性」と呼び批判します。
あまりにも急激に社会が変わったのでそのバックラッシュと言えるでしょう。
またリベラル系フェミニスト側から見ると現在の社会は生きやすいので、多くの人が活動家を終了してしまっています。なので保守系フェミニストしか残っていないように見えるのです。
漫画で言うと槇村さとるの「おいしい関係」「イマジン」あたりがリベラル系フェミニズム、「Real Clothes」は当時流行り始めた保守系フェミニズムの影響を受けています。フェミニズム的理想の女性像の変遷がわかりやすいかもしれません。
この増田へのトラバとかブコメの反応見てて思ったんだけどさ、女性が店選べば解決するくない?
・オタク(または男性?)は単に店を知らない、チェーン店やラーメン屋などしか知らない
・行きたいわけじゃなくて人を試したがってるだけ
要するに、男性やオタクの方が店を知らず、こだわりもない傾向にある、という事で、これはなんとなくそうかもなぁと思う。
ラーメン屋とか定食屋とかだと男性の方が知ってそうだけど、それらはデート向きではなく、デート向きの店は女性の方が知ってる、という事なんだろう。
試したがってるという話も、これまでのXを見ればなんとなく分からなくもない。
・・・・え?
知ってる側が選べば解決じゃない?
なんでこんな回りくどい事してんの?女性の方がデート向きの店を知ってて、こだわりも強い傾向にあるなら、そっち側が選んだ方が両者WINWINじゃない?
女性側は「行きたいわけじゃなくて人を試したがってるだけ」ではないんだよね?じゃあいい店を知ってる側が選んだ方が、知らん側に店選ばせるよりも本人も満足度高くね?
まぁ、そうは言っても「男性はエスコートする側だから」って価値観があるのは分かる。
ただ、それって令和の現代、そのままでいいんだろうか・・・?と思わなくはない。
女性も男性もフラットな関係で付き合った方が良くない?もちろん究極的にはカップルそれぞれの価値観で選べばいいんだけどさ、初デートの話は男女の役割分けが強いような特定の価値観を持ったカップルに限った話ではないわけでしょ?
じゃあ「男性はエスコートする側」みたいな価値観を前提にするのは変じゃない?
例えば「女性は料理作る側」みたいな性役割の固定はまずい、っていうのは今や大抵の人は同意する訳じゃん。
だとしたら「男性はエスコートする側」とか「男性は店選ぶ側」みたいなのも普通にまずくね?
あ、でもそうすると「女性が店選べば解決では?」もおかしいか?
まぁそうだよな、別に女性に限らず、「デートする店に詳しくてこだわりが強い側」が店を選べばいい、ってだけの話だよな。
いずれにせよ、男性やオタクがデートに向いた店を知らず、こだわらない傾向がもし本当に有るなら、
そっちに店選びを任せるのは普通に変だし非効率だし、詳しくてこだわりが強い側が選べばよくね?或いは順番交代で選んで、こだわりが強い側は自分好みの店を選んで、こだわりが少ない側が選ぶときはサイゼとか定食屋を選ぶ時もある、みたいな?そういうのでもいいよね。
まず指摘すべきは、性同一性障害とは、ある意味において本質的にはそもそも「自称」のものであるという性質を有するということである。すなわち、性同一性障害とは、客観的事実としての性別が明らかに男性ないし女性であるにもかかわらず、主観的には、その性別とは反対に自己の性別を認識し、ジェンダー・アイデンティティを有する疾患なのである。この「主観」を「自称」という言葉に置き換えるならば、医者を含めた周囲の認識のいかんにかかわらず、自分は性同一性障害だと自称することこそ、性同一性障害の根幹的な特徴だと言えるかもしれないのである。
さまざまな性別違和の中で、どのような程度、種類のものが性同一性障害といえるのかは、診断基準の中で必ずしも明確にされているとは言い難いため、なにをもって「本物」と診断するか、その境界は不明瞭なのが実状である。
「女装すると興奮してマスターベーションする」のように、性的興奮を目的として、女装するものや、コスプレのように楽しみ、気晴らしを目的として異性装をするものもいる。彼らの場合、自分自身の身体や、普段の性役割に関しては、強い違和感はない。ただ、「女装した時により一層女性らしくなりたいから」といった目的で、女性ホルモン投与を希望したりするものなどもいる。
https://ameblo.jp/mydreamchaser/entry-12330537320.html
まず指摘すべきは、性同一性障害とは、ある意味において本質的にはそもそも「自称」のものであるという性質を有するということである。すなわち、性同一性障害とは、客観的事実としての性別が明らかに男性ないし女性であるにもかかわらず、主観的には、その性別とは反対に自己の性別を認識し、ジェンダー・アイデンティティを有する疾患なのである。この「主観」を「自称」という言葉に置き換えるならば、医者を含めた周囲の認識のいかんにかかわらず、自分は性同一性障害だと自称することこそ、性同一性障害の根幹的な特徴だと言えるかもしれないのである。
さまざまな性別違和の中で、どのような程度、種類のものが性同一性障害といえるのかは、診断基準の中で必ずしも明確にされているとは言い難いため、なにをもって「本物」と診断するか、その境界は不明瞭なのが実状である。
「女装すると興奮してマスターベーションする」のように、性的興奮を目的として、女装するものや、コスプレのように楽しみ、気晴らしを目的として異性装をするものもいる。彼らの場合、自分自身の身体や、普段の性役割に関しては、強い違和感はない。ただ、「女装した時により一層女性らしくなりたいから」といった目的で、女性ホルモン投与を希望したりするものなどもいる。
容姿も人当りも良くて好印象をもって付き合い始めた男性のことが、関わるほど嫌になって振ってしまったことがある。
という話をことあるごとにされて、それ以外には嫌なところが何もないのに、本当に会いたくなくなって(会う予定が近づくと重たい気分になる)別れてしまった。
彼にとって私も「なんにも悪くない自分を袖にした酷い女リスト」に加えられているんじゃないかと思う。
こういうアピール、女性が彼氏に対してやるほうが多いらしい。やられてみて、こういう人がなぜうんざりされるのか、なぜ振られるのかわかった気がする。
なんか「騙されて連帯保証人にされて自分のせいじゃない借金を背負わされた。お前がかわりに返してくれ」って言われてる感じがするんだよ。
直接そう言われているわけじゃないけど、話を聞かされているとそういう気分にさせられるんだよ。
騙されたのは可哀想だけど、なぜ返済を私が…?ってなる。
恋人の関係でなくても、そういえば過去、こういう女性いたな…。被害者になってきたという話をすごくしてくる人。
恋人のほうが話す時間が長かった分、被害者になってきた話を聞かされるのはもっとキツかった。
ネットワークビジネスに騙される人が別の団体から繰り返し騙されるように、雑に扱われたエピソードを反芻する人は繰り返し雑に扱われるのではないかと思います。
hunglysheep1 うん、まぁ、そうだよね。男性は愚痴は言わない方が良いんだろうな、と思って心の内を言うのはやめてる。なお女性の愚痴は聞いた方が良いんだろうな、と妻の愚痴は聞くようにしてる。性役割固定ではある
男だろうが女だろうが被害にあった話・雑に扱われた話を繰り返しされると疲れてきて会いたくなくなる(「聞くべき」という倫理や善悪の観念と実際に感じている負担感との板挟みで付き合っていくのが無理になる)という話をしているのだけど、
どうして女性限定で許されるが男性は許されないという性役割固定・男性差別?の話であると解釈され、スターもこんなにつけられているのか全く理解できません
被害者意識強い同僚女性に被害者トークされるよりも恋人にされるほうが距離が近くて時間が長くてキツくて耐えられなかったという話をしているだけで、女性は許されるべきだが男性は許さないなどとは一言も言ってません
結論:
「歴史的・理論的な文脈の違い」を踏まえれば、「断絶」とまでは言い切れない。
・ヒルシュフェルト自身が「性の多様性」や「固定的な性役割の否定」を唱えていた。
・トランスベスタイトの存在を通じて、「性自認と身体の不一致」を可視化しようとした。
よって、「性の連続性」「自己認識を尊重すること」「非病理化」の方向性は、明確に現代トランス理論と通じる。
→ ヒルシュフェルトの立場は、現代理論の「前史」または「土台」として捉えうる。
「断絶」と言えるか?:
「現代トランス理論はヒルシュフェルトと本質的に異なる」という主張は、部分的には妥当だが、次のような留保が必要です:
✅ 理論の洗練・進化による差異であり、歴史的に切断されたわけではない。