スーパーカー・ブーム
1976年後半から78年春ころまで、熱狂的なスーパーカーブームがありました。
画像は当時発売されていた1/28ダイキャストミニカー、グリップテクニカのランボルギーニ・カウンタックLP500Sとポルシェ930ターボです。
クルマにまったく興味がない私でもブーム時にはそれなりにスーパーカーにはまりました。
上の画像は地元新聞社主催のスーパーカーショーの半券とそのとき撮影した写真、いずれもカウンタックが表紙のアルバムに貼ってあります(^^;
基本的にキャラクタージャンルにしか興味のない子供でもブームにはまったのは、当時スーパーカーは自動車であると同時にきわめてキャラクター的に受容・消費されたからではないかと考えています。
当時のブームについては画像のような雑誌をはじめさまざまな媒体で語られていますが、当ブログでは本来キャラクタージャンルが好きだった立場から見たブームについて書いてみます。
スーパーカーブームのきっかけが少年ジャンプの連載漫画「サーキットの狼」だったことはよく知られています。
1974年末から開始された同作は当初人気が低迷して打ち切りの危機もあったそうですが、数ヶ月で高い支持を獲得して人気漫画になったそうです。
そして「サーキットの狼」の人気が盛り上がってきた75年後半ころから、ランボルギーニミウラやポルシェ911などのプラモデル・ミニカー類の売り上げが上昇するという現象が起こり始めていたようです。
アオシマ関係者のインタビューでは、このころ既に有名外車ディーラーにカメラを持った子供たちが集まっているのを確認していたと語られており、75年の終わりころにはブームのきざしが表れていたと考えられます。
ただし、この時点ではそうした現象の発信源が「サーキットの狼」であると気付いていた関係者は多くはなかったようです。
上の画像はこのころ人気だったプラモデルの一例、オオタキの1/12ポルシェ911ターボ(74年発売)。
翌1976年になると、一連の現象が
「サーキットの狼」登場車を求めてのものだったことに気付いた日東科学が正式版権を取得して6月から「サーキットの狼」プラモデルシリーズを展開します。画像は同シリーズの1/24ランボルギーニ・イオタ。
この段階で人気の焦点は同作に登場するヨーロピアンスポーツカー(のちのスーパーカー)であることが共通認識となりました。
さらに同年10月には日本初のF1グランプリが開催され、6輪車タイレルP34をはじめとするF1マシンの人気も加わってブームが加熱していきます。
ただし、プラモデルや玩具の開発には数ヶ月単位の時間がかかるため、76年の年末商戦にはいわゆるスーパーカー商品はほとんど間に合わなかったようです。
76年後半の玩具・模型界では、ブーム以前に開発・発売されていた商品ラインナップの中でたまたまスーパーカーに含まれる車種があるとそれを前面に出す、という程度の展開がせいぜいだったようです。
画像はニッコーのセミデラコン、タイレルP34。ブームと無関係に開発されていて日本GPよりも早く発売され、CM放映の効果もあって人気となった商品です。
日東の「サーキットの狼」シリーズは、版権を得たキャラクター商品でありながら内実は純粋な自動車プラモデルであるという点がユニークでした。
日東とすれば既に金型を所有している既存の自動車プラモをシリーズにそのまま投入したり、逆に「サーキットの狼」シリーズとして開発した自動車を一般のスケールモデルとして発売することが可能です。
ユーザーの立場では、例えば日東よりもっと大きなサイズのプラモが欲しいとか、もっと精密なプラモが欲しいなどの欲求があれば、他社のスケールプラモがその選択肢に入ることになります。
画像はバンダイ模型の1/16フェラーリ・ディーノ(ディーノ206コンペティツィオーネ)。
もとは今井科学から継承した製品ですが、ブーム時には車体が赤で成型されています。
箱側面の完成見本も赤い車体になっており、あきらかに「サーキットの狼」の主役マシン「フェラーリディノ・レーシングスペシャル」のデラックスプラモという位置づけを狙っていることがわかります。
当時は自動車の商品化にあたっての権利事情はかなりゆるやかでハードルの低いものだったと思われ、1977年には大メーカーから中小メーカーまでがこぞってスーパーカー市場に参入してとんでもない数の商品が市場に溢れました。
キャラクターものであれば商品化権は特定メーカーにしか許諾されませんが、無数のメーカーが競うように商品を発売しまくったことがスーパーカーブームの熱狂度を上昇させていたと思います。
ブーム初期には「サーキットの狼」最初の主役マシンであるロータス・ヨーロッパが人気の中心だったようですが、ブームの拡大とともに情報の周知が進むにつれランボルギーニ・カウンタックがスーパーカーを代表する人気車種となりました。
カウンタックの独特な車体デザインや上に跳ね上がるドア、リトラクタブルライト、公称300Km/hの最高速度などは当時の少年が日常生活で接する乗用車とは大きくかけ離れたものでした。
むしろそれは特撮やアニメに登場する架空のマシンに近く感じられ、それまで自動車に関心のなかった子供も興味を惹かれることになったと思われます。
日常性からの乖離という意味で、カウンタックは当時のスーパーカーの中で最もキャラクター的な存在だったと言えそうです。
上の画像はアオシマの1/20カウンタックLP400。カウンタックとしては初めての本格的な立体商品であり、76年12月発売時のオレンジ車体の初版はまたたく間に売り切れ状態になったそうです。
画像の現物は箱絵と成型色を変更した普及品。当時は車体を塗装しないライトユーザーが多かったので成型色には大きな意味がありました。
F1マシンのタイレルP34も、通常4輪であるべきタイヤが6輪あるという特徴が非日常性を感じさせ、キャラクター的な魅力となって人気を集めていました。
画像はグリップテクニカの1/20モデル。
ブームを受けて制作されたアニメ作品に登場するF1マシンがいずれも6輪や8輪になっていることが、タイレルP34のキャラクター的な人気の高さを示しています。
もともと自動車に興味のない立場からすると、スーパーカーの魅力は普通の乗用車とはかけ離れた非日常性にあり、実質的にキャラクタージャンルの架空のマシンに近いものでした。
キャラクターに近い存在であるなら、商品展開も通常の自動車の範囲にとどまらずキャラクターに倣ったものになります。
結果として、ブーム時にはあらゆるジャンルの製品がスーパーカー商品になりました。
玩具や模型はもちろん、駄菓子屋ではカードやブロマイド、消しゴムをはじめさまざまな駄玩具が。
スーパーや食料品店では菓子・飲料メーカーがスーパーカーを使ったキャンペーンを展開。
雑貨店にはスーパーカーのついたコップや食器、ごみ箱などの日用品が。
文具店ではノート、下敷き、筆箱から鉛筆までがスーパーカー商品になっています。
レコード店にはエンジン音を収めたレコードやアイドルの歌うスーパーカーソングが並びました。
前述の通り、通常のキャラクターと違って版権の制約がないために膨大なメーカーが参入して空前絶後の商品供給となりました。
書店には若者向けのグラフ誌から少年向けの図鑑、幼児向けの絵本などのスーパーカー書籍や特集雑誌が大量に並びました。
画像はケイブンシャのムックと二見書房のカード図鑑。
こうした中で、テレビマガジン、テレビランドなどのキャラクター雑誌や学年誌でもスーパーカーが掲載されるようになります。
1976年ころから実写ヒーローやアニメは大半が幼年向けに特化してしまい、玩具メーカーとのつながりが強化される一方でユーザーの総数は減少して、ジャンル全体の人気が沈降していきました。
変身ブームのころには小学5、6年生でも普通にライダースナックを買っていたことを考えれば、4~5年のうちにキャラクター作品のファン層がかなり縮小していたことがわかります。
例えばテレビマガジンでは76年後半からは柱となるキャラクターが不在で毎号のように表紙のメインキャラクターが変更され、77年前半には画像のように特定のキャラクターで表紙を構成することすら出来なくなっています。
キャラクター全体が弱体化していたこの時期に、それを補う勢力として玩具発キャラクターのミクロマンとともにスーパーカーが誌面をにぎわすことになります。
本来は仮面ライダーやマジンガーが飾っていたテレマガの表紙にメインで掲載されているカウンタックは、やはり自動車というよりキャラクターとして扱われているように思えます。
そして
カウンタック=キャラクターを決定的に体現しているのがこちら、
なんとカウンタックのお面です(^^ライトとドアを上げた状態のカウンタックを正面からとらえて顔に見立てているのでしょうか。
車体下部とバンパー(一部破損あり)がのぞき穴になっていて、メガネのように装着するようです。
他のヒーローお面と並べてみると、いわゆるスーパーカーショーはヒーローのアトラクションショーと等質なものだったという見方もできそうです。
このように、実在の自動車でありながらまるで空想上のキャラクターのように受容・消費されていたことが当時のスーパーカーブームの特徴であり、空前の規模と広がりを見せることになった要因のひとつだったと思います。
その後スーパーカーブームは78年春ころを境に急速に終息します。
初夏ころにカウンタックのニューモデルが発表されましたが、その時点では世間的な反応はきわめて静かなものだったと記憶しています。
もともとスーパーカーブームは、
・自動車(実在のメカ)のファン ・カメラで撮影するのが好きなファン ・プラモデルファン ・ミニカーファン
・ラジコンファン ・キャラクタージャンルのファン ・流行に乗っただけのライトファン
などのように多様なファン層が集合して形成していたものです。
それぞれのファンが自分本来の領域へと回帰することで、ブームは自然消滅したのではないかと思います。
個人的には、77年夏の宇宙戦艦ヤマト劇場公開をきっかけにキャラクタージャンルが中高生以上でも嗜好するものとして再認知されたこと、特にロマンアルバム(徳間書店)やファンタスティックコレクション(朝日ソノラマ)などで作品の基礎資料が出版されるようになったこと、を受けてアニメ・特撮というキャラクタージャンルに興味の中心が移っていき、スーパーカーからは自然にフェードアウトしました。
自分のクルマに対する知識や興味はスーパーカーブーム時のものがすべてで、それ以前もそれ以降もまったくわかりません。
今回の記事に間違いなどあればご指摘ください(^^