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隅田金属日誌(墨田金属日誌)

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2023.12
11
CM:2
TB:0
16:46
Category : 未分類
 中国には塩味あるいは塩アイスといった謎アイスがある。

 その起源だろう飲料の記事を発見した。姚靓さんの「新中国的飲料革新:塩汽水与工廠労動福利」である。*

 具体的には塩汽水といった発汗対策炭酸飲料である。1930年代ソ連で高熱環境で工員に支給された飲料で、塩分0.5%で1日7リットル飲んだらしい。新中国は解放後のソ連一辺倒時代に製鉄所ほかで導入された。

 ただし、0.5%は塩辛すぎる。そのため60年代には0.2~0.3%の低濃度ととなる。また7リットルも飲めなかったらしい。労働環境研究では「普段から塩辛いもの食ってるから塩分は控えめで良い」「3リットルでいいだろう」となった。

 その上で清涼飲料水化した。塩汽水は各工場で作られた。製造は国営企業の福利厚生部門である。旧国鉄のようにボンヤリした仕事をしていそうな印象だが、そこでも創意工夫はある。

 まずは冷やした。電気冷蔵庫は高く導入が難しいので土蔵を作って氷と一緒に閉じ込めて冷やした。「電気冷蔵庫使用と生産性は変わらない」とのことである。多分、動力製氷機は先行して普及していたのだろう。

 その上で甘味を足した。砂糖は貴重だったので糖精をいれたとある。サッカリンの類だろう。

 このあたりで塩分補給は二の次になる。

 そして、贈答品化した。冷えた塩汽水をお土産にした。自宅に持ち帰って子どもたちに飲ませた。そのような話が出てくる。

 物々交換の材料ともなったのだろう。隣の工場にも支給したとある。

 経済混乱の文革期には物々交換は多かった様子である。人民公社が農機具を修理に出すとき、通常処理ではいつやってくれるかわからない、部品も手に入らない。だから農産物をつけて出した。優先修理をお願いするための取引材料である。まだ修理工場が早期に部品を調達するため、その部品調達先の工場へのお土産としての含意もあった。東北三省の場合は豚肉だった様子である。

 ただ、ぬるくなると飲めたものではない。また改革開放でコカコーラが手に入るようになると廃れた。まずは牛肉オレンジ自由化のあとでミカン果汁かつ果汁率低めのプラッシーが売れなくなったのと同じ伝である。

 だた、その味そのものは記憶されている。

 だからアイスにも塩味設定が残っている。おそらくはそういったことだろう。


* 姚靓 「新中国的飲料革新:塩汽水与工廠労動福利」『史林』2023年5期(上海社会科学院歴史研究所)pp179-188、111.

Comment

非公開コメント

No title

塩味アイスは本邦でも方々で名物を謳って製造・販売されており美味なものも少なくないと思うのですが彼の国ではどのような味わいなのでしょうね。
食塩濃度0.5%の炭酸飲料7ℓ摂取などそれってどんな拷問?といった感じでしたが、プラッシーが売れなくなった理由と絡めての解説は分かりやすくて勉強になりました。というかプラッシーが売れなくなった理由の方が勉強になった、というか。私の幼少期にはあちこちで売っていたプラッシー、いつごろからか無くなってしまって不思議に思っていたんですよね。
また興味深いお話をお聞かせください。

No title

プラッシーはほぼ米屋専売だったので、その衰退は米屋の「御用聞き」営業システムの瓦解と関連していると思います。