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隅田金属日誌(墨田金属日誌)

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2020.08
15
CM:2
TB:0
15:09
Category : 未分類
 今年も8月15日。終戦の日が来ます。土曜日にはTBSラジオで亡くなられた秋山ちえ子の『かわいそうなしゃち』の朗読が始まりました。

 昭和の御聖代に小学校教育を受けた人はみんな知っています。毎年、あの暑い夏の一日の記念日に、秋山ちえ子は戦争を語り継ぐため、相模湾、江ノ島での悲劇を朗読をします。

 戦争中に起きたぞうやライオンやヒョウのお話はご存知でしょう。ジョージもそのような動物の一匹です。

 軍隊は戦争にシャチをつかおうとしました。アメリカの潜水艦に体当りして沈めよう。そう考えたのです。動物園のジョーイは秘匿名称オルカ金物とされました。生物爆雷として潜水艦に体当たりするように条件付けをされたのです。

 ただ、ジョーイは戦争にいきませんでした。負け続けた日本にはシャチを南方まで連れて行く船がなくなったのです。役立たずになったジョーイは江ノ島にある生育った水族館に留め置かれました。そして毎日近くの海で遊んでは帰ってくるといったように、ノンビリ過ごしていました。

 でも戦争は内地まで近づいてしまいました。すでに特攻隊は何遍も何遍も飛び立っていました。そして内地でも空襲が始まっていました。 

 食べ物も足りなくなっていました。みんなは毎日おなかをすかしていました。そして食べ物を食べられずに餓え死にしてしまう人もでてきました。

 このままではジョーイを飼い続けることは出来ません。シャチは1日に10貫目20貫目の魚を食べてしまうのです。これは人間一人がが1日に食べる魚の100倍や200倍です。その魚がアレば100人も200人もの人が助かるのです。

 ついに県知事から「ジョーイを殺しなさい」という命令が出てしまったのです。

 水族館ではジョーイに毒薬を注射しようとします。

 でも針は海獣の厚い皮を通さずポキリと折れてしまいます。

 大好きな魚に毒の入れて与えようとしました。でも知能の高いジョーイはそれを見抜いてしまいます。

 シャチ使いの長谷川さんは命令に逆らうことを承知でジョーイを逃しました。外房の沖まで送りました。でも水族館で育ったジョーイは餌を自分でとれません。自然の海では生きていけません。そしてとても賢い動物なので江ノ島まで帰ってきてしまうのです。

 生まれ育ったプールに戻して欲しいジョーイは水族館の前で芸をします。飛び上がって回転したり、上半身を水上に突き出してみたり、逆立ちをして尻尾を立ててみたり。飼育員さんを鼻先に乗せようとしたりして、ほめてもらおうとするのです。

 それを見ていたみんなは銃殺や干上げて殺すことはとてもできない。プールで餓死させるしかないだろうと決めました。

 しかし、そんなことを知るジョーイではありません。よい芸を見せれば今まで育ててくれた人間が餌をくれるものと信じています。芸をすれば体力が奪われてしまうというのに。

 そして、ジョーイはどんどん弱っていってしまいました。見事な流線型の体は脂肪が減ってあばら骨が出てしまいました。ほとんど衰弱して、ただ浮かぶだけになってしまいますが、長谷川さんを見つけるとあの綺麗で澄んだ眼で見つめて、餌を貰おうと芸をみせようとするのです。

 長谷川さんはもう我慢はできません。ついに食料のサバやイワシをジョーイに分けてしまいました。貴重な燃料を使って、しかも漁船も逼迫したので汚穢船を転用した支援船で手に入れた貴重な食料です。「ジョーイ、腹が減ったろう、おいしいか、おいしいか」と食べさせてしまいました。

 他の飼育員のおじさんたちは何もいえませんでした。所長も、大学の人も、ポンドを間借りしている海軍の人たちもみんな黙って見ないふりをしていました。

 中には涙を流している人もいました。みんなが長谷川さんの実の子供と同じと知っていたからです。長谷川さんの幼い息子が亡くなったその日に、ジョーイのお母さんシャチがお産で死にました。それを自分の子供のように育てたのを知っているからです。

 みんなその晩に話し合いをしました。「ジョーイを殺すことなんかできない」「心を鬼にしてプールからジョーイを追い出そう。銛でついてもいい、音でいじめてもいい、普通のシャチとは違う体になってしまったけれども、外に出れば、お腹が空けばいつかは魚を食べるだろう。」

 でも、海軍の人は申し訳なさそうに口を開きました。「ジョーイが三浦半島に住み着いてしまったら、特攻隊の若い人を殺してしまうかもしれません」

 戦争は過酷でした。特攻隊は東京のすぐそばまできていました。相模湾の近くにある三浦半島でまで用意されていたのです。そして、毎日、アメリカの軍艦に体当りする訓練をしていたのです。

 特攻隊の人たちはとてもとても小さな潜水艇に乗っていました。条件づけされたジョーイがぶつかるだけでひっくり返ってしまううような金物です。そして一度倒れると二度と浮かび上がらなくなってしまうかもしれないのです。

 飼育員のみんなも黙ってしまいました。実は戦争がどうなっているか、軍隊の方針がどうであるのかということは誰の頭にもありませんでした。でも、みんなは特攻隊の自分の子供のような年齢の兵隊さんの身の上を思うとなんともいえませんでした。兵隊さんたちは水族館の近くの横須賀や辻堂に住んでいます。そして上陸日には鎌倉や江ノ島に遊びにきていました。ジョーイの芸を楽しみに見に来ていたくらいですからなおさらです。

 予備学生のなかには学生時代の研究で水族館に通っていた人もいました。分隊士になって帰ってきた学生さんは予科練繰り上げの、まだニキビが残る下士官を連れて遊びに来ました。そして彼らジョーイの鼻先に乗せてやれるように懇願しました。下士官も軍服を着ながらジョーイの鼻や背に乗って無邪気に喜んで、貴重品になった特別配給のお菓子をジョーイに食べさせようとしたりしているのも見ていました。

 その兵隊さんが乗る潜水艇はあぶない乗り物でした。ちょっと事故を起こせば沈んだままになってしまうのです。そのまま殉職してしまうことも知っていました。みんなは、もう若い人が、訓練で死ぬのはやりきれないです。

 長谷川さんが口を開きました。「もう、ジョーイには何の餌もやらない」みんなは、下をうつむいて何も離しませんでした。ただただ、長谷川さんを囲んで味のしない理研酒をまわし飲むだけでした。

 それから10幾日たった暑い日の午前中にジョーイは死にました。ブールの隅に体をよりかけてバンザイの芸をしながら死にました。せめて綺麗な体で埋めてあげようと、一端引き上げて爆雷取付具や安全尖外しを取り除き、ガスが堪って膨れたお腹を開いたとき、本当は風呂桶のように大きなジョーイの胃袋は湯たんぽの大きさまでしぼんでいたそうです。

 その日は8月15日でした。

 いまでもジョーイの命日では鎌倉建長寺で慰霊祭が行われるそうです。

 『かわいそうなしゃち』でした。

 それではみなさん、ごきげんよう。



2009年夏『瀛報』(ようほう)29号のまえがきから、一部修正。

参考
谷甲州「ジョーイ・オルカ」『星の墓標』(東京,早川書房,1987)
秋山ちえ子 朗読 土家由岐雄「かわいそうなぞう」『大沢悠里のゆうゆうワイド土曜日版』2020年8月15日(TBSラジオ)15時09分ころから

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そんなん言ってないで、ALS患者の介助へでも行ったら?

No title

<独自>輸送機C2、UAE輸出へ未舗装離着陸テスト 10月実施

http://www.sankei.com/smp/politics/news/200822/plt2008220016-s1.html

頑張ってくださいとよしか...。そりゃ売れれば、嬉しいですけど、装備庁も川重も...ねぇ。